著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.89-101, 1996-12-10

川端康成には本人が処女作と規定している作品が、「十六歳の日記」・「ちよ」・「招魂祭一景」の三つある。それぞれの特徴や作品相互の関係、さらには、<処女作群>としての存在意義を考察していきたいのだが、本稿では、純粋な創作活動の上で最も早い時期に書かれていて、表出(表現)行為における川端康成の問題意識が顕著に表われた、「十六歳の日記」を取り上げて、"日記"や"小説"という表現形態や作品構成の問題、その延長線上にある、《作品》概念の問題などを論じていくことによって、人間が自己の体験した様々な出来事を書いていくという行為自体を考察したものである。特に、焦点を絞って分析したことは、印象深い体験を作品化したにもかかわらず、まったく記憶に残らないということが、どういうことを意味しているのかを、表現主体である<私>という存在の内部世界において繰り広げられる、対象物の受容と定着、描出に関する基本的なメカニズムの問題である。
著者
斎藤 信平
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.70-60, 1998-12-10

本研究は、まず、十七世紀ロンドンにおけるコヴェント・ガーデン・ピアッツァの成立過程を考察し、その後ピアッツァの形式が継承されない理由を、清教徒革命に絡む美意識の変化として捕える。次に、ブルームズベリー・スクエアーの開発を、庭園史の中における「芝」の持つ意味と関係づけ、「スクエアー」開発における方位の問題を考察する。
著者
鈴木 武晴
出版者
山梨英和大学
雑誌
日本文芸論集 (ISSN:02874679)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.32-62, 1988-09-30
著者
深津 容伸
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.A-1-A-8, 2011

日本に初めてキリスト教がもたらされたのは、1549 年にフランシスコ・ザビエルが来日してからであった。以後、多くの宣教師たちによって日本伝道がなされてきたが、カトリックのイエズス会による伝道には現地への適応主義という特徴があった。日本研究や日本人が信じる仏教研究を重視し、日本人に合わせたキリスト教伝道を行った。それはすなわち、ヨーロッパのキリスト教を持ち込むことを避けたということである。日本人に受け入れ易いキリスト教の内容やあり方を目指し、外来の宗教であるキリスト教が日本人の感性と働突しないように努めた。後に、明治期に入るとプロテスタントによる伝道が開始するのであるが、宣教師たちはキリスト教原理を重んじ、それに日本人を適応させようとした。本稿では、この両者の違いが日本人に何をもたらしたか、日本人はキリスト教にいかなる印象を抱くに至ったかを論じていく。
著者
杉山 崇
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.A9-A16, 2004-12

This research examined perceived-being-accepted and perceived-being-rejected in depressive processes. There are two hypotheses and one assumes perceived-being-accepted and perceived-being-rejected as causes participating in depression. Another presupposes that they are the phenomena as results which accompany to depressive process. Then, the author, adjusting the influence of the depression to precede (time 1), examined the influence which perceived-being-accepted and perceived-being-rejected (time 2) have on later depression (time 3). 260 undergraduates participated in three times research. In the result of partial correlation analysis, adjusting the influence of the depression to precede perceived-being-accepted and perceived-being-rejected predicted later depression. It suggested that perceived-being-accepted and perceived-being-rejected would be the causes of depression.
著者
三上 謙一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.17-32, 2005-12

Stern(1985)はその代表的著書「乳児の対人世界」において、成人の精神分析の中で再構成された「臨床乳児」と発達心理学の中で直接観察された「被観察乳児」との対話を提唱した。その後、Sternの研究は親-乳幼児心理療法の統合的モデルを提唱し、さらに近年は「心理療法において変化はどのようにして生じるのか」という心理療法過程の研究に取り組んでいる。このSternの研究の展開の背景には精神分析におけるパラダイムのシフト、心理療法実証研究の発展と証拠に基づく心理療法の要請、心理療法の統合や折衷を模索する動き、という3つの主要な流れがあると思われる。その点でSternの研究は単に従来の精神分析理論を最新の発達的知見でアップデートしたものというよりも、むしろ精神分析の基盤を揺るがし、精神分析の枠を超え出るような仕事であるように思われる。本研究ではまず母子相互作用研究が心理療法過程の理解にどのような貢献をしているのかを論ずる。次にSternらの研究を中心に、心理療法過程を扱っているいくつかの研究を取り上げ、今後研究を発展させていくために何が必要とされるのかを考察してみたい。
著者
木村 寛子
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.A83-A94, 2011

本稿の目的は、予測を外す表現や非常識な発想をおかしみと共に受け入れる方法を明らかにすることである。そこで、予測とのずれ、常識とのずれを含むユーモアエッセイを分析資料とし、資料から読み取ることのできるずれを確認したうえで、理解主体がずれの他に読み取っているものや感じとっていることを、周囲の表現を見ながら明らかにするという手順で分析を行った。分析の結果、ずれを生み出す表現主体の着眼点や、本題とは無関係な理屈、常識的ではない発想の中にある日常性などを、理解主体はずれの他に読み取っていること、そこからさらに表現主体の心理や現状を想像できるようになることが明らかになった。表現主体の発想を理解し、心情を想像することは、理解主体が表現主体に共感したり期待を抱いたりすることにもつながるだろう。このような過程を通して理解主体の中に生まれる共感や期待が、ずれをおかしみと共に受け入れるために重要だと考えられる。
著者
車 勤
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.A95-A108, 2011

普遍的に実効力のある倫理は、現代社会に固有な形態である「貨幣・商品社会システム」を根拠にしなければならない。そのシステムの原型を描いたアダム・スミスに、「構成関係」から社会をとらえたスピノザを重ね合わせ、取りだしたのが「互恵交換」の倫理である。その構成要素は以下の6つ。1.人々の対等性、2.恵みを構成関係者全体で享受する、3.与え返される程度に与える、4.人を騙さず、期限などの約束を守る、5.説明責任、6.離脱する自由。これらを社会形成原理として徹底的に実現すること。それはまた、理性の平和的な使用〜略奪目的でも飼育目的でもない〜になる。
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.31-43, 1993-12-10

『世間胸算用』は元禄五年(一六九二)正月、『日本永代蔵』『甚認記』『世の人心』『万の文反古』等に続いて刊行された。この作品は従来の作品とは異なり、作品中のキーワードによって分類すると金銭に疎外されて生活していかざるを得ない中・下層階級の町人を直視し、如何に生きているか、如何に生きなければならないかを問題にしようとした。西鶴は現実の商業資本主義の社会構造の本質を認識し、その中で悲しい運命を強いられる中・下層町人大衆に対し、その生活を肯定的に捉え、貧しく厳しい現実を生きていく人間の力、人間の可能性を描こうとしている。西鶴の文芸意識は内容面ばかりではなく、その内容を表現する形態面を考えた。如何に書かなければならないかを考え、形象化の方法を熟慮したのである。小説をどのように書くかを考えたのであり、造形的文芸意識である。構成において、全編大晦日という時の設定を初めとして、場所、登場人物等特種的形象化の配慮を行っている。形象性を重視したのである。『世間胸算用』の執筆意図は内容・形式両面における小説創作における文芸意識である。これは近代小説の造型意識であり、『世間胸算用』は近代小説の萌芽といってよいと思う。
著者
渡辺 久寿
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.13-26, 1994-12-10

本来、日記文学は、発想としてー人称を原理としているといえようか。しかし『和泉式部日記』のように、三人称的叙述と言われるものもあり、『和泉式部日記』自体を、他作とする見解もある。いったい、『和泉式部日記』を領導する主体を、和泉式部という一人称的語り手と考えていくべきなのか、三人称的にあるいは物語的に語っている他の主体を考えるべきなのか。そこで本稿では、『和泉式部日記』の「語り手」の存在を特に取り上げ、登場人物の「女」や、「官」との関わりを、その人称構造の様態から考えていき、その結果、この『和泉式部日記』は、一人称とも二人称とも三人称ともつかない、語りの主体の独自なあり様を持つことがわかった。「語り手」の意識が登場人物と重層し融合するという、『和泉式部日記』特有の、しかもきわめて日記文学的な人称構造を有し、それがまたこの『日記』の独自な世界のありようを創り出しているのである。今回はそれを、『和泉式部日記』の始発部分に絞って検討した。
著者
宅間 雅哉
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.113-135, 2005-12

本稿では、第四十四回衆議院議員選挙の結果が、オーストラリア国内の新聞によってどのように報道されたかを比較し、検討する。扱うのは現地時問2005年9月13日付けのAustralian、Australian Financial Review、Daily Telegraph、Sydney Morning Herald四紙で、選挙結果を扱ったそれぞれの記事と社説を対象とする。記事については、選挙結果を総合的に理解する上で重要な7項目を比較の基準として、共通点・相違点等を検討する。また、社説については、それぞれの特徴と主張を概観する。
著者
齋藤 信平
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.75-87, 2005-12

This paper is the introductory part of my whole study on the transition of English aesthetic sense in the eighteenth century. It is a generally accepted that Shaftesbury is the first English aesthetician. But to examine aesthetic sense of Shaftesbery, it is essential to define what heritage Shaftesbury received from seventeenth century thought. To investigate the starting point of aesthetic sense in England, I refer to the two great philosophers, Cassirer and Lovejoy, and try to deal with the question of aesthetic sense from the viewpoint of the changing view of the world. Then, by referring to the genealogy of the Neoplatonists by Cassirer and the idea of 'the great chain of being' by Lovejoy, first of all, I deal with the concept of 'the plastic nature' of the Cambridge Platonists to show clearly that Shaftesbury received the concept of a picture of 'a gradual cosmos' from the Cambridge Platonists.
著者
平川 千宏
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.92-77, 2002-03-01

戦後の日本社会で、1960年代から始まった市民運動、住民運動は、今日ではNPO、NGOの活動とも重なりつつ、社会的に大きな役割を果たしている。これらの運動のなかから膨大な資料が生み出されてきているが、その資料の収集、提供、保存の状況はどうなっているのだろうか。その状況を概観した上で、この分野における公立機関の役割、特に公立図書館、国立図書館の果たすべき役割について論じ、あわせて実践と研究を進めるための関係者のネットワークが必要であることを提起する。
著者
武田 武長
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.69-80, 1992-12-10

ユダヤ人に対する迫害・大量虐殺(ホロコースト)がナチ・第三帝国の犯罪の中でも特別なものとしてまず第一に挙げられなければならない最大の罪であるといって過言でないにもかかわらず、戦後ドイツの「過去の克服」の原点とまで呼ばれて評価されているドイツ福音主義教会常議員会の発表した一九四五年一〇月一九日の『シュトゥットガルト罪責告白』には、そのことについて直接的、明示的な文言は存在していない。ユダヤ人のホロコ-ストに対する戦後ドイツ福音主義教会の罪責認識は、いったいこの『シュトゥットガルト罪責告白』以降どのような歩みをたどって明確に得られるようになったのか、そしてその罪責認識にもとづいて直接的・明示的な罪責告白がなされるようになったのか、資料にもとづいて明らかにする。ユダヤ人に対する罪責認識の新しい局面はようやく一九六〇年代になって開かれ、ユダヤ人のホロコーストに対する教会の沈黙と無為というよりも、むしろユダヤ人について・ユダヤ人に対して教会が語ってきたことと行なってきたこと-伝統的なキリスト教神学的反ユダヤ主義-の中にこそ教会の罪責があるという認識に至った。
著者
飯野 正仁
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和大学紀要 (ISSN:1348575X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.A165-A177, 2010

小論は、浅川伯教(あさかわ・のりたか、1884〜1964年)の朝鮮陶磁器に関する調査・探究の跡をたどり、その過程で培われた芸術思想を把握すること、また朝鮮文化に対するその姿勢が今後の日朝の相互理解にいかなる意味で寄与しうるかを考察する。 日本と朝鮮とのかかわりについて論じるときに、柳宗悦と伯教の弟・巧の二人の名は挙がるが、伯教の名が出て来ることはすくない。「朝鮮陶磁の神様」とまで呼ばれ、その研究に於いては第一人者と自他共に許した人物がなぜ、現時点ではそれにふさわしい声価を得ていないのか。この点も重要な論点として考察する。