著者
遠藤 孝夫 ENDO Takao
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-16, 2009

本稿は、ナチズム崩壊後ドイツ最初の憲法であるヴユルテンベルク・バーデン州憲法 (1946年) を素材として、学校教育を含むドイツ社会の再建に果たす教会とキリスト教倫理の積極的な位置づけという事態の背景とその意味に迫ろうとするものである。この研究意図は以下のような関連する三つの課題意識 (思い) に基づいている。 第一には、ドイツの公教育の基本的特質の理解には、第二次世界大戦後のドイツの憲法が「神」との関係から国家の再建理念を基礎づけ、公教育の必須要素として宗教教育を明確に位置づけているのは何故か、この論点の州憲法段階での論議を含めた歴史的解明が欠かせないとの思いである。周知のように、ドイツ連邦共和国の憲法である基本法 (1949年) は、その前文において、この憲法が「神および人間に対する責任を自覚して」制定されたことを明記し、宗教教育を公立学校における「正規の教科」と位置づけ(第7条)、さらに教会等の宗教団体には「公法上の団体」の資格と租税徴収権も保障されることを規定している (第140条) 。この基本法第7条および第140条は、確かに文言上はワイマール憲法 (1919年) の当該条項を縮減しつつほぼ踏襲したものであったことも関係して、その意味内容に関する学問的関心は我が国はもとよりドイツにおいても高いとは言えない。 だが、ここで注目すべきは、基本法に先だってドイツ各地で制定されたた州憲法である。そこには、「教会は、人間生活の宗教的・道徳的基礎の確保と強化のために認可された組織」、「公立の国民学校はキリスト教的学校である」といった規定に象徴されるように、ワイマール憲法には見られない規定として、ドイツ社会と国民生活の再建において教会やキリスト教倫理を積極的に位置づける考え方が溢れている事実を確認できるからである。つまり、敗戦間もない1946年から順次制定された各州憲法とそこでの論議からは、多数の州憲法の最大公約数として制定せざるを得なかった基本法以上に、それぞれの州内のドイツ住民が憲法の諸規定に託した直接的な理念を知ることができ、また基本法の諸規定の意味内容は、こうした州憲法と関係づけることによって初めて正確に読み解くことができると言えるだろう。 第二には、州憲法とそこでのキリスト教倫理の復権の局面を、戦後ドイツ最大の課題ともいうべき「過去の克服」 (Vergangenheitsbewaltigung)とMaier, 1889-1971、1930年から33年までヴユルテンベルク州経済相) が、文部大臣と次官には、テオドア・ホイス (Theodor Heuss、後の初代大統領)とテオドア・ポイエレがそれぞれ任命された。当初マイア-は、文相にはカルロ・シュミットを推薦していたが、アメリカ軍政府は、後述のようにフランスを占領するドイツ国防軍に勤務していた経歴が反ナチ化指令 (7月7日付) に抵触することを根拠に、シュミットの文相就任に難色を示した。ただ、これは表向きの理由であって、フランスと対立関係にあったアメリカ軍政府としては、母親がフランス人であったことから「フランス的人物」 (MannderFranzosen) と目されたカルロ・シュミットの起用には同意できなかったのである。そこでマイア-首相は、9月19日付で、カルロ・シュミットを「州政府顧問」 (Staatsratim Staatsministerium) に任命した。このことによりシュミットは、ヴユルテンベルク・バーデン州の閣議に出席する資格を与えられ、後述のように、同州の憲法草案の起草にも従事することになる。 なお、カルロ・シュミットは、10月16日付で、フランス軍占領地区に設置されたヴユルテンベルク・ホ-エンツオルレン州の「政務局」(Staatssekretariat, 事実上の州政府) の局長 (Vorsitzender, 事実上の首相)および教育担当と司法担当の部長(Landesdirektor、事実上の文部大臣と司法大臣) にも任命されている。こうして、カルロ・シュミットは、ヴユルテンベルク・バーデン州とヴユルテンベルク・ホーエンツオルレン州という、南西ドイツの2州の戟後の復興過程で大きな役割を果たすことになった。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.8, pp.37-66, 2009

日本人はいったいいつ頃から大声をあげて突くことを慎むようになってきたのであろうか。 現代日本の葬儀において,たとえば「働芙」といった言葉からイメージされるような大仰に声を挙げる突きを見聞きすることはあまりない。一方中国人や韓国人の悲哀の表現には依然として声を張り上げた「突き」が存する。こうした差異は,短絡的に情緒面の民族的差異へと還元されがちである。しかし儒教社会における葬儀で「突き」は必須の儀礼的アイテムであり,それは単に感情的に悲しいから自然と号泣するというレベルではなく,「突」すなわち意識的に大声を発することが必要となる。それは単に声を出すだけに留まらない。『礼記』檀弓篇下に「騨踊,哀之至也」とあるように,胸を叩く「騨」や足踏みをする「踊」は,葬儀における最も深い哀悼の意の表現とされた。しかし,それに続けて「有算,為之節文也」とあるように,その表現の度合いは必ず適切に調節されねばならない。母が死んだため子供のように泣く者を見ての孔子の言「哀別哀臭,而難馬纏也。夫薩,為可博也,為可継也,故実踊有節」(『礼記』檀弓篇上)からもわかるように,巽も踊もあくまでも後々まで伝えられるべき礼であるため節度が必要とされた。しかし日本においては,節度ある(あるいはコントロールされた)「突き」は却ってわざとらしいものとしてネガティヴに捉えられる。それはあくまでも表出されることを慎まれる,つまりは音声として公に発せられない方が節度があると見倣されるのである。 民俗学者柳田囲男は,昭和15年8月7日「国民学術協会公開講座」での講演をもとに昭和16年8月に上梓されたエッセイ「沸泣史談」で,日本人が近年大人も子供もめったに泣かなくなったことに着目し,その原因について考察している。柳田によれば,言語を唯一の表現手段と考えがちな「学問の化石状態」下にあって,「泣く」という行為が言葉を用いるより簡明かつ適切な自己表現手段であったことが忘れられ,このような思考は「新たに国の進路を決しなければならぬ当代に於ては,殊に深く反省して見るべき惰性又は因習」(1)である。この国で少なくとも人前でおおっぴらに泣くことが悪徳であるかのように言われ始めた時期を柳田は中世以降と推察し,こうした行為が社会から排斥されるようになったのは,江戸時代の義太夫等に聴かれる働笑の声のように,泣くことが表現方法として非常に有効であり「乱用の弊」があったからとも考えられるとした。そもそも「男は泣くものではない」といった教訓は逆に「女ならば大人でも泣くべし」という理解が人口に胎灸していたからだというのである。大人による表現としての泣きの用途として柳田が挙げているのは,「デモンストレエション(demonstration)」と「ラメンテエション(lamentation)」である。前者は,夫婦喧嘩の際等で,大きな声を立てることによって周囲の注意を喚起し,第三者の公平な判断を味方につけようとする用途であり,後者は神や霊を送る時の方式で,いわゆる儀礼的泣きである。たとえば三月の節句での雛送り(流し雛),盆の十五日の魂送り,あるいは葬式における「泣き女」といった風習からも看取されるように,泣きは,行事に欠かせない慣習的約束事であった。盆や葬式においては,死者との別れといった感傷を伴うため,実感がこもった心からの泣きとの区別がしにくいわけだが,柳田によれば,そこに言語的混同が生じた原因がある。つまり,忍び泣きと呼ばれるナク(「涙をこぼす」「悲しむ」「哀れがる」等)と,表現手段としてのナクとは単語が同じでも全く別種のものであるとされる。
著者
佐々木 全 加藤 義男 SASAKI Zen KATOU Yoshio
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.8, pp.263-274, 2009

筆者らは,「高機能広汎性発達障害児・者を考える会(通称,エブリの会)」を立ち上げ,高機能広汎性発達障害児者とその保護者の支援を行っている(佐々木・加藤・田代:2004).高機能広汎性発達障害とは,知的障害を有さない広汎性発達障害である.これには,「自閉性障害のうちの高機能群(高機能自閉症)」,「アスベルガー障害」,「特定不能の広汎性発達障害のうちの高機能群」が内包される. さて,エブリの会の中核的活動となっているのが,小学生を対象として開催している「エブリ教室」である.そして,エブリ教室を「卒業」した(エブリ教室の対象年齢を越えたという意味).中学生以上の年齢,すなわち青年期(思春期を含む)の彼らを対象として,筆者らは2003年3月から「エブリクラブ」を開催している(佐々木,加藤,2003). 現在,高機能広汎性発達障害を含む,いわゆる発達障害児者の青年期が注目を集めている.例えば,大学を含む,高等教育機関における支援(佐藤,徳永,2006 ; 山口,2006 ; 西村,2006 ; 日本LD学会研究委員会研究プロジェクトチーム,2008),就労(近藤,光真坊,2006 ; 清水,加賀,山本,内藤他,2006),さらには触法や矯正教育(梅下節瑠,2004 ; 松浦,岩坂,藤島,橋本他),など様々な切り口からの報告がある.青年期が注目される理由には,二つあるのではないかと推察する.一つ目に,1990年前後から学童期のいわゆる発達障害児が,青年期を迎え,当時想定していた「彼らの将来」が現在となり,現実となったことがある.例えば,筆者らの身近では,エブリ教室の第一期生であった当時の小学校4年生は,現在二十歳となった. そして,二つ目に,青年期を迎えた彼らの多くが示す不適応的な姿がある.それは,例えば,中学校や高等学校での適応上の困難さであり,就労や進学などの進路選択や,日常的な対人関係や生活習慣などに関わる困難さである.それらは,支援状況の不備不足との表裏であることは言うまでもない.その支援状況に関してはそれぞれのシーンで,理解と対応の度合いの「温度差」や「地域格差」を有しながら多様であり,整備途上であると思われる. そこで,本稿では,青年期支援の一環として位置づけられるエブリクラブの実践を報告し,その意義を検討したい.
著者
山本 裕之 小寺 香奈
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.67-80, 2009-03

1920年代にC.アイヴズ、A.ハーバらによって実践された4分音などの微分音は、その後のヨーロッパ音楽において現代的奏法の中でも重要項目として扱われてきた。彼らが微分音に挑戦した当時のヨーロッパは平均律(12等分平均律)の概念が席巻して既に久しい。かつてのヨーロッパで長期にわたって繰り広げられてきた音律論争において、それぞれの音律の間に存在した非常に小さなどツチ(音高)の差は、19世紀という様々な調性を用いた時代の要請に応えて12等分平均律という画期的な妥協案に収れんした。西洋音楽文化の外にある各民族音楽の音律を除外して考えれば、微分音とはいったん世界標準として目盛りが敷かれた平均律からあらためて外れたピッチ、または音程のことを指す。 とはいえ、オルガンのように一度調律したらそうたやすくは調律が崩れないような楽器はわずかであり、それどころか多くの楽器では奏者がその場で随時楽器のピッチをコントロールしながら演奏する。19世紀に作られたキーをたくさん持つ木管楽器や、H.シュトルツェルなどが発明したヴアルヴをもつ金管楽器群は、それ以前の楽器に比べて格段に多くのピッチを安定させながら自在に鳴らせるように設計されている。が、その中で奏者はさらに楽器の精度と共に自らの耳と発音テクニックによって出来るだけ「正しい」ピッチを作り出そうと技術を磨いた。しかし実際の演奏では厳格に正しく、19世紀以降の「半音階の分かりやすい知的モデル」である平均律に即した音律で演奏されるわけではない。音楽のイントネーションに合わせて、あるいは奏者や楽器自体のコンディションに即して、平均律から大きく外れないピッチを作りながら演奏されるのが常である。したがって、例えばある音が僅かに数セントの単位で平均律からずれたからといってもそれは「ある音」の範囲を越えず、微分音の概念で語られるわけではない。 つまりこれらのような木・金管楽器は、音楽的内容に即して随時平均律から逸脱して演奏されることを前提としながらも、平均律を原則として作られている。したがって、そのような楽器であえて微分音を作り出すことは矛盾であるが、楽器の構造上は不可能ではない。すなわち、楽器はそのように作られてはいないが不可能ではないのである。 20世紀後半になって微分音が作品の中で頻繁に使われ始めると、各楽器の現代奏法を解説する書物には必ずといってよいほど微分音の運指表が掲載されるようになった。特に木管楽器の書物では多くのキーの組み合わせによって膨大な微分音の可能性が提示されている。金管楽器においては、楽器の機構上木管楽器のように膨大な微分音が作り出せるわけではないが、それでも実用的な量は作り出せる。しかしそのための資料が木管楽器ほど多いわけではない。そこで本稿では、金管楽器の中でも特に現代奏法に関する資料がほとんど書かれていないユーフォニアムにおいて、これまで存在しなかったこの楽器のための汎用的な微分音スケールを提示することを目的とした。
著者
安井 萠
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.29-40, 2013-03-31

世界史(外国史)の授業は一般に、時代や地域ごとに史実を概説する形で行われる。こうしたやり方に多大な利点があることはなるほど間違いない。だが私見によれば、学習者の思考力を高める上で、時に時代や地域の枠を越えた「大きな絵」を描いてみることも大切ではないかと思われる。本稿では、そのような認識のもと筆者が企画・試行したある授業を、一つの実例として紹介したいと思う。紹介するのは「共和政の歴史的展開」と題する授業である。これは、西洋世界における共和政の理念ならびに共和政国家(共和国)の展開の歴史を古代から近代までたどるという内容のもので、この授業を通じ学習者が西洋史の全体的なつながりを意識するようになることを狙いとしている。筆者はもともとこれを大学の講義用に作成した。しかしその後高校世界史にも応用できるよう手直しし、まず岩手大学教育学部世界史研究室のゼミで試行的に授業を行った。そしてさらに岩手大学世界史研究会の例会で発表し、高校教員の会員から意見を聞いた。以下では、これら二度の試行を踏まえて仕上げた授業の原稿を掲げ、関係者の参考に供することとしたい。(授業の言葉づかいは、冗長を避けるため「である」調とした。本文の見出しと註は今回新たに付したものである。)
著者
安川 洋生
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.125-129, 2016-03-31

ネグレリアフォーレリ(Naegleria fowleri)は温水を好む病原性アメーバで,ヒトの鼻腔から大脳に侵入し大脳組織の軟化や出血を伴う壊死(原発性アメーバ性髄膜脳炎; PAM)を引き起こす。PAMの進行は急速で有効な治療法もなく,約2週間でほとんどの患者が死に至り,臨床では僅かな生存例があるのみである。筆者は,ネグレリアフォーレリの分子生物学的解析を行い本病原体の特性と病原性を理解するとともに迅速簡便な検出法の開発を目的として,本邦で分離された株について次世代シーケンサによる全ゲノム解析を行った。その結果,本株のゲノムサイズは27.61Mb,GC含量は35.7%,遺伝子数は15108であることが分かった。また,青色光受容ドメインを有するタンパク質が2種類コードされていることが分かり,本病原体が青色光に応答する可能性が示唆された。
著者
中村 好則
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.15, pp.69-78, 2016-03-31

平成26年6月24日に閣議決定した世界最先端IT国家創造宣言において「学校の高速ブロードバンド接続,1人1台の情報端末配備,電子黒板や無線LAN環境の整備,デジタル教科書・教材の活用等,初等教育段階から教育環境自体のIT化を進め,児童生徒等の学力の向上と情報の利活用の向上を図る」ことが,さらに「これらの取組により,2010年代中には,全ての小学校,中学校,高等学校,特別支援学校で教育環境のIT化を実現するとともに,学校と家庭がシームレスでつながる教育・学習環境を構築し,家庭での事前学習と連携した授業など指導方法の充実を図る」ことが述べられ,政府主導で教育の情報化が進められている。また,文部科学省では,平成26年度にICTを効果的に活用した教育の推進を図ることを目的に,教育効果の明確化,効果的な指導方法の開発,教員のICT活用指導力の向上方法の確立を図るためにICTを活用した教育の推進に資する実証事業を行い,成果報告書や手引き書を公表している(ICTを活用した教育の推進に資する検証事業,2015)。さらに,総務省でも,平成26年6月から「ICTドリームスクール懇談会」を開催し,教育分野におけるICT活用の推進に取り組み,平成27年4月に中間取りまとめを公表している。これらのことからも,教育の情報化は着実に進展している。しかし,学校現場ではどうだろうか。文部科学省や総務省,県や市などの研究指定校や先進的に研究に取り組んでいる学校だけがICTを活用した実践に取り組み,それ以外は従来からの指導とあまり変わらない現状があるのではないだろうか。特に,数学指導においては,ICT活用よりも,紙と鉛筆による指導こそが重要だという教師の思い込み(固定観念あるいは素朴な考え方)がある(例えば,中村2015a)。中学校においても,電子黒板やパソコン,タブレット等のICT 環境が徐々に整備され(平成26年度学校における教育の情報化の実態等に関する調査結果,文部科学省2015),それらを数学指導においても有効に活用することが求められている。しかし,数学指導において「なぜICTを活用するのか(ICT活用の目的)」,そのために「どのようにICTを活用するのか(ICT活用の方法)」が,学校現場において十分に理解されていない。そこで,本研究では,中学校学習指導要領とその解説及び教科書を基に,数学指導におけるICT活用について検討し,中学校の数学指導におけるICT活用の方向性(目的と方法)を明らかにすることを目的とする。そのために,平成20年版の中学校学習指導要領とその解説におけるICT活用に関する記述内容を調査する(第2章)とともに,中学校数学の平成27年検定済みの教科書におけるICT活用の取り扱いを分析(第3章)し,それらを基に中学校の数学指導におけるICT活用の方向性を考察する(第4章)。最後に,本研究のまとめと課題を述べる(第5章)。
著者
渡瀬 典子
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.169-178, 2016-03-31

衣生活・食生活の外部化が進展する現在,家庭科教育では生活実態との関連から「消費」にかかわる教育内容の開発・実践に関心が集まっている。その一方で,児童・生徒が自ら製作をする技術的側面の育成は授業時間数減などを背景に精選・縮減される傾向にある。この状況は,子どもを取り巻く家庭・社会の変化に加え,家庭科教育の履修形態の変化―男女別学から男女共修―も要因のひとつに挙げられる。家庭科は,小学校5年生から高等学校まで男女必修の教科になって20年以上が経過した。男女必修に至った経緯は各学校段階で様々であるが,本報告では,新学制後に誕生した中学校の「技術・家庭科」に注目したい。「技術・家庭科」の前身は「職業・家庭科」という教科であり,その性格について当時の文部省事務官だった長谷川は「戦後行われた教育制度や教育課程の改革の際に,従来ともかく生活から遊離しがちな教育全般の課程の中で,生活と直接的な関連を保ち,それに必要な技術の習得を目的とし,身体を動かして労働一般の体験を得させることを目的として設置された」と述べ,「職業・家庭科」は「生活技術」を習得する教科,と捉えている(長谷川 1953)。「生活技術」という言葉は,話者・文脈・時代の違いによって,様々な意味づけがされる。例えば,三木(1941) は,「生活技術」を「生活文化を作ってゆくことに関するすべての技術」であり,「生活技術の全体を統轄する技術,技術の技術ともいふべきもの,この理念的技術的なものが叡智にほかならない」として生活を俯瞰し,捉える見方を示した。また,長谷川は「生活技術」を「実生活に役立つ知識・技能」であり,「閉じられた狭い社会,地域社会,更に学校や家庭内における『実生活に役立つ仕事』に含まれる技術」,「実生活に対処して起こる各様の物事をうまく処理し,それを切り抜けていく能力や態度」として「実生活」場面を重要な要素に挙げた。この「生活技術」とは別に「生産技術」という言葉も後の「技術・家庭科」を考えるうえで重要なワードである。長谷川は当時の農村では「生産技術と生活技術とは一体であり,不即不離」で,都市では「『生活技術』はたかだか『生産技術』の部分的な応用の技術であり,それの消費者の技術にすぎない」と捉え,生産が国民生活の発展向上になれば「『生活技術』は『生産技術』の基礎として,生徒の日常の生活の中から選び出され,普通教育の内容として編成できる」と考えた。ここでの長谷川による「生活技術」が示す対象範囲は極めて広義である。1958(昭和33)年の教育課程審議会では中学校の教育課程に必修教科として「技術科」を置くと答申し,技術科は「現行の職業・家庭科(必修)を改め,これと図画工作科において取り扱われてきた生産的技術に関する部分と合わせて技術科を編成」とした。後に家庭科教育関係者からの要望によって,教科名は現在の「技術・家庭科」という名称に落ち着くが,当時の技術科からは,「男子に『生産技術の基礎』を指導し,女子に『生活技術の基礎』を指導しようとするのが学習指導要領の精神であるのが,この二つの分野を技術の観念を以て統一した『技術・家庭科』とするためには『生活技術の基礎』を本来の技術であるように組織替えしなくてはならない」という批判的見解が,また家庭科側からは「家庭科は家庭生活の科学的・技術的・経営的な向上を目標とする教科であるから,寸断された技術の修練によって, その目的を達成することはできない。個々の技術が集ったのが家庭生活であるかのように見るのは誤謬である」との反駁があった(常見 1954)。以上の状況から,技術の学習に対するスタンスが当時の家庭科、技術科双方において異なっていたことがわかる。同様に,当時の家庭科教育関係者は「『技術』を学習すること自体に価値を認めるというよりも,『技術』を学習することにより,さらに上位の何ものかを習得することが大切」で「『技術』は目的に対する手段の位置に置かれていた」と見ていた。これは「( 戦前の家事・裁縫教育とは異なる)『新しい家庭科』を創ろうとする立場」からなされたものであった(朴木 1993)。また,鈴木(2004)は「生活技術」が固定的なものではなく「自らの身辺的自立に処したりする技術にとどまるものではない」と述べている。以上の歴史的経緯を受け,本稿では「手芸」,とくに「編み物」教材に焦点を当てる。寒冷地である東北地方で生活する生徒にとって,編み物や毛糸製品の被服管理は,「技術・家庭科」発足当時から重要な学習内容だった。また,増田(1997)は「編むという手仕事は,人が衣服を体に付け始めたころには発生していたとみられ,長い歴史を持っている」文化的な生活の技術であることを述べている。そこで,本報告は中学校「技術・家庭科」の「手芸」における「編み物」教材で育成しようとした能力観とその課題について明らかにすることを目的とする。
著者
工藤 あい李 吉井 洋二
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.61-68, 2016-03-31

Repeating decimals are taught in elementary, junior high and high school. However, they are usually not taught in university mathematics. We should learn the deep theory and some mystery of repeating decimals, and use them for teaching in several stages. We introduce some interesting examples of repeating decimals, and explain the mathematical background.
著者
鈴木 大地 鎌田 安久 栗林 徹 澤村 省逸 清水 将 SUZUKI Daichi KAMADA Yasuhisa KURIBAYASHI Toru SAWAMURA Shoitsu SHIMIZU Sho
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.14, pp.171-178, 2015

現代サッカーでは、ディフェンスでも主導権を握るため、チーム全員が高いディフェンス意識を持ち、ハードワークを行うことが大切である。前線から杯プレッシャーをかけ、髙い位置でボールを奪う、相手のプレーを限定することが求められるのである。こうして、前からプレッシャーをかけに行けば、相手は手段としてロングボールを蹴ってくることが想定される。そのとき、簡単に裏をとられたり、空中戦に負け、セカンドボールが支配できなければ、当然勝つチャンスは減少する。したがって、ロングボールに対しての空中戦は試合の勝敗を分ける重要なポイントとなり、試合に勝つためには確かなポジショニングから正確なヘディングで競り合う技術が求められる。ここで育成年代のサッカーに目を向けてみると、日本サッカー協会・技術委員会の発行する「2010 U-14 指導指針」の中で、U-14年代において「ヘディング」は技術的な課題の一つとして挙げられている。具体的には、U-14年代では、①ヘディングの競り合いで、しっかり落下点に入れないため、競り合いにならないことが多いこと、②競り合う際に相手を押しのけるために「手」を使ってしまうプレーが多くみられること、③競り合いのヘディングのあと、ボールを失うことが多く、アバウトなロングボールをきっかけに相手チームに攻撃のきっかけを与えていることが課題として挙げられている。そのため、落下地点に入り、正当に競り合い、競り合いの中でも、しっかり味方にパスするようなヘディングの技術を身につけることが大事であると言われている。さらに、2012年に行われたロンドンオリンピックや国内外のユース年代の各大会でも、ロングボールに対する対応、ヘディングの技術は課題として挙げられ、日本全体で取り組まなければならない課題であると言われている。そのため、サッカーの土台の完成期であるU-15年代までに、ヘディングの正しいフォームを身に付け、良いポジショニングから空中戦に競り勝ち、味方にパスをするためのトレーニングを反復して行うことは非常に重要であると考えられる。
著者
渡瀬 典子 長澤 由喜子 菊地 尚子 川越 浩子 羽澤 美紀
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 = The journal of Clinical Research Center for Child Development and Educational Practices (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-8, 2010-02

2005(平成17)年に成立した「食育基本法」では、食育を「様々な経験を通じて『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる」ものとし、国民運動として推進することが明記されている。また、同法の第5,11,20条等では、学校が家庭、地域の諸機関とともに、子どもへの「食育」を推進する役割・責務を負うことが述べられている。学校教育における“食育”は、その呼称は異なるものの、食生活改善をはじめとする様々な実践が積み上げられてきた。その中で、「りんごの皮が適切にむける(注1)児童は28.6%」(文部省 1984)等の基本的な生活技術の定着に関わる課題が高度経済成長期以降、顕著に指摘されるようになった。同じ時期に、東北地区の家庭科教育学会では、家庭科教育において「生活の機械化や社会化をどう受け止めるか」、「子どもの心身発達を支えるための生活技術教育をどう捉えるか」を課題とし(壁谷沢 1985)、1985(昭和60)年に児童・生徒の食生活領域を含む「家庭生活技術の実技調査」が実施された(以後、「 年調査」と記述)。この中で用いられる「生活技術」という用語について、本研究では、「人間が日常生活を主体的に営むために生活環境に働きかける方法、手段であり、総合生活技術、情報による技術、家族関係を調整する技術、精神的な技術など、無形なもの、意思決定にかかわる領域も含む広範なもの」(中間 1987)と捉える。 この「生活技術」について1985年調査当時の『小学校学習指導要領家庭編(1977年改訂)』、現行学習指導要領(1998年改訂)、新学習指導要領(2008年改訂)の食生活に関する記述を見ると、基礎的な「調理技術力」と「献立作成力」が抽出される。具体的には、「食品を組み合わせて取る必要があることを知る」、「1食分の献立(注2)」、「調理に必要な材料の分量がわかり、手順を考えて調理計画を立てる」という「献立作成力」と、「調理に必要な用具及び食器の安全で衛生的な取扱い(並びに燃料(注3))及びこんろの安全な取扱いができること」、「ゆでたり、いためたりする」調理、「米飯、みそ汁の調理」、「盛り付けや配膳」といった「調理技術力」に関わるところであり、これらは一貫して、その「内容」に挙げられてきた。 そこで本研究は、現代の小学生が1食分の献立を整えるために、食材をどのように選び、調理できるかという献立作成力と基礎的な調理技術力に注目し、25年前の「 年調査」と比べ、どの点で技能の定着・応用に課題があるのかを明らかにする。また、ここで得られた示唆をもとに、小学生の「献立作成力」「調理技術力」を高めるための学習課題について検討する。
著者
木村 直弘 KIMURA Naohiro
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.9, pp.9-44, 2010

戦後日本を代表する作曲家・武満徹は,世阿弥能《井筒》についてのエッセイで次のように述べている。「井筒」は,穏やかな構成の中に凛とした品位を具えている。作能上の様様な手段(てだて),例えば綴織のように,地に豊かな陰翳をもたらしている縁語や音韻の懸かりことばの眩くまでの多用は,たんに情景や心理の表面的な修辞に留まってはいない。それらの書かれたことばが音(おん)として顕わすものは,限定された意味世界を超えている。~(中略)~音(おん)の多様さが意味の多義性と相俟って,観衆(聴衆)に異常な力で働きかけてくる。外へ拡散(逸脱)する力と,内へ向かう求心的な力,その相互に反する力が作用する場こそ劇的空間と謂うものであろう。~(中略)~「井筒」は無限の読まれ方(観かた,聴きかた,感じかた)を諾(ゆる)している。(1)「無限の読まれ方」を可能にしている一因は,まさに「縁語や音韻の懸かりことばの眩くまでの多用」であることは言を俟たない。まさに綴織のように,幾重にも張りめぐらされたその糸の複雑なテクスチュアから成るテクストは,いわばハイパーテキストであり,音から音へと進行するにつれて,そのハイパーリンクは膨れあがる。ウェブサイトであれば,そうしたリンクは一対一であるが,ここでは音を共有する語が単純であればあるほど,その多義性は増し,多様な読みを可能にする。能楽師(ワキ方)安田登は,こうした途切れず繋がる音の連鎖,すなわち「掛詞による無限連鎖文章作法」を,総合芸術作品としての「楽劇 Musikdrama」を創始した作曲家リヒャルト・ヴァーグナーの作曲技法「無限旋律」に喩えている2。たとえば,《井筒》の「互に影を水鏡」であれば,「水」の「み」が前の語「影」を目的語として受ける述語「見」と,後の語「鏡」と結合して名詞を形成する「水」の掛詞となる。西洋音楽の用語で喩えれば,掛詞は,転調の軸となる和音=ピヴォット・コードpivot chord として機能しているが,能ではカデンツ的「解決」は先延ばしにされ続ける。さらにヴァーグナーの作曲技法に喩えれば,掛詞の作用は「示導動機 Leitmotiv」的機能をも有しているとも謂えよう。ただしヴァーグナーのライトモティーフは,ハイパーリンクと同様「示導」する対象が一対一であるのに対して,掛詞はリンク多様な広がりの可能性を胚胎している。
著者
名古屋 恒彦 稲邊 宣彦 田淵 健 大嶋 美奈子 NAGOYA Tsunehiko INABE Norihiko TABUCHI Ken OHSHIMA Minako
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.161-171, 2009-03-01

近年、障害のある人たちへの就労支援施策の進展が著しい。2002年に示された「障害者基本計画」において、「雇用・就業は、障害者の自立・社会参加のための重要な柱であり、障害者が能力を最大限発揮し、働くことによって社会に貢献できるよう、その特性を踏まえた条件の整備を図る」とする方針が示され、施策の具体化が方向付けられた。2005年に成立した障害者自立支援法においても「就労移行支援」「就労継続支援」といった様々な形態での就労支援が重要な位置を占めている。 就労支援を特別支援教育で引き受ける場合の中核的な教育活動は職業教育である。職業教育に関して、名古屋らは、知的障害特別支援学校における職業教育に関する実践研究が、高等部段階のものに比べ中学部段階で低調であることを指摘している(名古屋、稲連、田村、田淵、2008)。2008年1月に公にされた中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」においても職業教育に関する記述は高等部段階に関するものである(中央教育審議会、2008)。 名古屋らは、特別支援教育における職業教育への関心が高等部段階を主とするものであることに対して、職業教育が義務教育最終段階である中学部においても重要であるとの認識に立ち、岩手大学教育学部附属特別支援学校(以下、「附属特別支援学校」)中学部における作業学習および働く活動を大きく位置づけた生活単元学習の授業研究を通じて、知的障害特別支援学校における職業教育のあり方を検討した(名古屋、稲連、田村、田淵、2008)。職業教育としてふさわしい作業活動として、現実度が高く、かつ生徒が主体的に取り組めることを重視して授業研究を行った。その結果、現実度の高い作業活動としては、学校が立地する、あるいは生徒が居住する地域での産業基盤との関係重視も十分に考慮されることが必要であることを指摘した。持続可能な材料の入手、作業ノウハウ、販路開拓などでの地域産業との連携の重要性が考えられた。地域産業との関係での材料入手については、附属特別支援学校が立地する地域でのリンゴ栽培で恒常的に生じる奔走材を再利用した製品開発が提案された。このことは環境への配慮としても有用であった(名古屋、稲達、田村、田淵、2008)。 生徒の活動の主体性については、実際の授業計画から場の設定、道具等の工夫、教師の共に活動しながらの支援と様々な場面での支援的対応にょって、実現できることが示唆された(名古屋、稲連、田村、田淵、2008)。 以上の名古屋らの研究を踏まえ、本研究では、附属特別支援学校に新たに設置された中学部作業学習「クラフト班」作業学習および同様の工程の存在する木工を中心とした生活単元学習の授業研究を通して、生徒の主体的取り組みを実現し、かっ地域産業に密着した持続可能な環境教育に資する作業学習の展開方法を明らかにすることを目的とする。とりわけ、地域産業との持続可能な関係構築の中で、現実度の高い作業展開を追究することとする。
著者
阿久津 洋巳 AKUTSU Hiromi
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.13, pp.245-252, 2014

岩手大学教育学部は学期末に授業評価を実施するが,実施された結果を詳細に検討した報告書はまだ公表されていない。筆者は授業評価が測定している構成概念と測定される概念間の関連,および評価が高い授業の特性を調べるために,2013年度前期に集められた実際の評価データー(1680ケース) に多変量解析を適用して分析した。「教員の授業の技量と学生の満足度」「授業に対する学生の興味と意欲」「授業外の活動」「シラバスの評価」の4つの要因が見出された。技量・満足度と興味・関心の間に関連があり,また技量・満足度とシラバス評価の間にも関連があった。評価の高い授業は,話し方が明瞭で聞き取り易く,よく準備されていて,学生の理解に配慮して適度な分量と速さで進むという特性をもっていた。一方測定尺度としての欠陥も見つかった。評価アンケートは回答が特定の値に集中し、分布は偏っていた。尺度の信頼性は検討されていなかった。信頼できる評価尺度の開発が必要である。
著者
阿久津 洋巳 石亀 雅哉 AKUTSU Hiromi ISHIGAME Masaya
出版者
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター
雑誌
岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要 (ISSN:13472216)
巻号頁・発行日
no.11, pp.167-175, 2012-03-31

大学生の共通教育科目の学力は,合理的な手立てとして多くの場合試験によって評価される。受講生の人数が多いため,客観式テストによる学力評価が望ましいが,信頼性のあるテストを作成することは容易なことではない。本研究は,項目反応理論を用いて,適正な評価を行うために必要な試験問題の選び方とその採点の方法について検討した。そのため実際の共通教育試験問題のデータに対して項目反応理論を適用し,不適格な問題項目を見出し,それらの問題項目を取り除いた採点結果と初めの試験問題を使った通常の採点結果とを比較した。項目反応理論を適用する有効性がいくつかの側面で明らかとなった。