著者
吉田 京子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.423-444, 2004-09-30 (Released:2017-07-14)

イスラーム世界全般に見られる(聖者)廟参詣は、これまで専ら文化人類学的研究の対象とされてきた。それらは、廟参詣を「公的」イスラームとは異なるものとして捉え、一般信者による「民衆的」行為として語ることが多い。しかしながら、イスラームには廟参詣を教義的イスラームと深く関わるものとして捉える事例も存在している。その一例として本論が採りあげるのが、十二イマーム・シーア派のイマーム廟参詣理論である。同派のイマーム廟参詣は、単なる墓参りではなく、「原初的過去からの伝統の継承」であり、「イマーム性の原理の確認行為」であり、そこから得られる報酬は、シーア派信者としての義務を果たした結果得られる正当な権利と理解されている。同派のイマーム廟参詣は、民衆による自発的実践行為であると同時に、「イマーム」に関わる点において、知識人側からも綿密な理論化を受けたものであり、正式なイスラームの信仰行為として展開されているものである。
著者
田中 雅一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.55-80, 2016

<p>本稿の目的は、侵犯的な宗教性について理解することである。ここで取り上げる供犠は、おおきく聖化と脱聖化の儀礼に分かれる。前者は神に近づき、聖なる力を獲得する道を提示するのに対し、後者は罪や不浄を取り除く。聖化では、神の力が充溢している供物の残滓を分配し、消費する。脱聖化では、残滓に罪や不浄が吸収され、家屋や寺院の外に放置される。しかし、儀礼の目的が脱聖化かどうか不明だが、残滓が摂取されない場合がある。それはヴェーダの神々や、憤怒の相を表す下級の神々を鎮めるための儀礼である。シヴァ神については、残滓はニルマーリヤと言い、これを受け取るのはチャンダとかチャンデーシュヴァラと呼ばれる聖人だけである。彼はシヴァの聖者の一人である。本来忌避すべきニルマーリヤを受け取るのは、侵犯的な信愛(バクティ)の表れの一つと言える。本稿では、供犠の残滓に注目することで規範の侵犯に認められる宗教的性格について考察する。</p>
著者
スザ ドミンゴス
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.1-24, 2005-06-30

キリスト教の啓示には異なる領域に属する二つの側面、すなわち歴史的真理と宗教的真理が含まれる。この二つの比較し得ない領域から、信仰と歴史の問題が生じてくる。すなわち神は歴史的現実として現れたが、それは直接的に知られるものではないし、歴史的知識から証明できない。では、いかに歴史的事実に基づいて宗教的真理に達し得るのか。本稿は、この根本問題に関するキェルケゴールの見解を考察する。キェルケゴールによれば、神が特定の時に人間の姿として現れたという出来事は、単純な歴史的出来事ではなく、絶対的事実である。すなわち、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいる。イエスという人物が存在したことは歴史的探究によって証明されるが、歴史的探究からは、イエスが神であるという結論は導き出せない。この点に関する歴史的不確実性は、信仰によってのみ乗り越えられる。しかし、信仰によって得られた確実性は主体的なものであり、客観的なものではない。個人がこの事実を信ずることを決意するとき、それが誤謬であるかもしれない危険を冒す。キェルケゴールにとって信仰とは、まさに危険を冒しながら、しかも信じることである。
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
関根 清三
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.479-501, 2009-09-30

現代は宗教と倫理の相剋の時代である。しかしこの相剋は必ずしも現代固有の現象ではなく、宗教の側からは古代のイサク献供物語、倫理の側からはアリストテレスの倫理学以来、繰り返し指摘されて来た。後者についてはカント、和辻らの批判があり、特に和辻は空の哲学から倫理の宗教的基礎について語った。しかし和辻自身はその構想を貫徹したとは言えない。また前者については、キルケゴール、レヴィナス、西田幾多郎らの解釈が注目される。特に西田の絶対矛盾的自己同一的神理解は、この物語の新たな読解のために示唆を与える。これらを踏まえ、あわせティリッヒの思索を顧みる時、我々は「宗教」「倫理」両概念ともに再解釈することを迫られる。その結果、宗教とは主観客観図式を超えた無制約的なものと関わることであり、倫理とは人格の統合を促す形で他者との共生を指示する理路であると再定義される。こう理解し直す時、両者相剋の克服の方途もまた、見えて来るに違いない。
著者
森 和也
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.733-754, 2010

国学者伴林光平(文化一〇年生-文久四年歿)は、もとは周永の名を持つ浄土真宗の僧侶であった。光平は、その生涯において二度の還俗を行ったが、その還俗に至る思想的転換の過程をその著作からたどることができる。『難解機能重荷』(安政五年)では、仏教に対してキリスト教の布教およびその背後にある欧米列強の侵掠に対する防壁の役割を期待していた。これは当時一般的な護法論の主張の範囲内である。しかし、『園の池水』(安政六年)を経て、第二回目の還俗後の著作である『於母比伝草』(文久二年)になると、仏教の社会的な役割としてのキリスト教に対する防壁の役割はそのままでも、社会的に存在し得る条件は著しく制限され、国体を毀損しない限りにおいて神道の下位に位置づけられる存在とされるようになった。これは仏教を日本社会にとって有用か無用かという規準から、機能論的にとらえたものであり、その後の近代宗教史を予見させる点において注目すべき思想である。
著者
碧海 寿広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.117-141, 2007-06-30

近年、仏教研究において「生活」の再評価が進んでいる。ゆえに、日本人の「生活」の歴史と仏教との関係をよく考えてきた仏教民俗学、特に五来重によるそれの思想的な意義を再検討する必要が出てきた。五来は彼の同時代の仏教をめぐる学問や実践のあり方に対して非常に批判的だった。特に仏教を哲学的なものとして理解する想定に疑問を抱き、代わりに仏教を受容する普通の人々の現実生活に即した彼の日本仏教観を提示した。その五来の仏教思想は、実践すなわち身体的・行為的な次元の仏教に主な焦点を当てた。彼の思想からは、人々の実践の中に存在するあらゆる形態の仏教を、その洗練度を問わず等しく認識し評価し反省するための視座を学ぶことができる。五来の思想には、「庶民信仰」に関する過度に理念化された論理の展開など問題もある。が、私たちが特定の学問枠組みから自由になって仏教をめぐる思考を深めようとする際、五来の思想から得られる知見はいまだに多大である。
著者
茂木 謙之介
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.49-74, 2014-06-30

本稿の目的は、天皇神格化言説の高揚する昭和戦前戦中期における皇族表象の様相とともに、天皇崇敬に関する宮内省のスタンスを明らかにすることにある。先行論では崇敬対象の天皇と崇敬主体の国民という構造が展開され、抽象的な議論になりがちであるが、本稿では具体性を以て表象される皇族に注目する。本稿では旧宮内省文書から考察を試み、統括官庁の方針を確認するとともに、文書に織り込まれた人びとの声を回復し、それらの経年変化を探る。結果、一九二六〜三七年まででは皇族表象を価値目的的に利用しようとする地域社会のスタンスと、それを規制していく宮内省のスタンスが、一九三七〜四一年前後では〈利用〉と共に皇族を崇敬対象とみなす地域社会の声とともに、その傾向を事実上黙認する宮内省の立場が、そして一九四一〜四五年では軍部の要請と相俟って、崇敬される天皇とそれを崇敬する国民という構造へ収斂させていく宮内省の在り様が看取された。
著者
岡本 亮輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.23-45, 2007-06-30

本稿では、現代宗教論の重要テーマの一つである宗教と個人について、より一般性の高い議論を行うために私事化論を再構築する。従来のルックマン流の理論では、私事化は宗教の拡散化と私的領域への撤退を招くとされた。だが世俗化論修正派の論著では、当該地域の社会文化的文脈との交渉も含めた私事化が論じられる。つまり、私事化とは個人が意味調達のために支配的文脈と駆け引きする中で生起する過程だと言える。本稿は、これを従来の私事化の個人主義モデルに対する文脈依存モデルとして提示した。両モデルの本質的差異は意味の問題にある。個人主義モデルは近代世界における意味の問題を捨象し、そこから私事化による宗教の細分化の議論を導いた。一方、文脈依存モデルの観点からは、私事化した宗教も、よりマクロな次元との連関の下に捉えられ、宗教と個人の関係性をめぐる問いも、より大きな問題系の中に定位される。