著者
山吉 智久
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.95, no.2, pp.145-170, 2021-09-30 (Released:2021-12-30)

旧約聖書において、疫病は自然現象としてではなく、専ら神ヤハウェと結び付けられて、神から人間や動物にもたらされるものとして描かれている。神の力の表れとしての疫病は、古代イスラエルの人々にとって災いの中で最も深刻な出来事の一つであり、戦争、飢饉と並んで、災いの典型と見なされるようになる。ヤハウェを唯一の神とする一神教の展開に伴って、災いとしての疫病も、それを被った人間自身が犯した罪の結果として捉えられるようになった。それは専ら、神ヤハウェの律法を忠実に守らなかったことに対する処罰とされた。それと同時に、この因果応報が持つ根本的な問題についても、旧約聖書は無自覚ではなかった。疫病がわれわれ人間の限界を思い知らせる存在であり続ける中で、疫病の蔓延によって社会的な弱者がより苦しめられるのは無視すべからざる現実である。この社会的な不平等は、それを生み出している人間自身の力で解決されなければならない。
著者
伊藤 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.385-409, 2007-09-30 (Released:2017-07-14)

神仏習合の現象は、平安時代に至り本地垂迹説の成立を見るが、それが中世においてどのように変容していったかを跡づけようとするものである。中世における本地垂迹説の浸透によって、神観念はさまざまに変化したが、そのなかでも神が人間の心に内在すると考えられるようになったのが、最も大きい変化だった。即ち、本地垂迹とは、仏が内なる神=心として顕現することであり、しかも煩悩にまみれたわれわれの本源的姿たる蛇身としてあらわれると見なされたのだった。そこには、中世神道が罪業と救済の信仰を指向するものだったことを示す。ところが、中世後期以降、人間の内なる「悪」へのまなざしは薄れ、吉田神道にみられるように、楽天的・肯定的な観念へと変貌してしまう。そしてそれが、近世神道の基盤を形作ることになるのである。
著者
ブッシイ アンヌ 福島 勲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.259-282, 2007-09-30 (Released:2017-07-14)

現在も生き生きとした神仏習合的な信仰と実践が続けられていることは民俗学と民族学を研究する者に多くの問いを投げかけている。本論の出発点もそうした問いの一つである。現代の宗教世界にこうした信仰と祭祀形態が必要とされる理由は何だろうか。明治の専横的な「神仏分離」は、「日本固有」とされたものから「外来宗教」とみられた要素を排除するだけでなく、日本社会に根づいている信仰生活と祭祀を切り離すことを狙うものだったが、この断絶を横断して、神仏習合的な信仰を継承させた力学とは一体どんなものだったのだろうか。修験道と巫覡、巫者、行者たちに関する実地調査は、継承のいくつかを可能にした回避、隠蔽、交渉の戦略を明らかにしている。しかも、神仏の信仰対象が入り混じり、まとめて「カミ」と呼ばれている複合的な信仰は、個人や集団を社会の中に記載する記憶装置として機能していると考えられる。日本社会に限定されたこの研究は、より一般的に、始まったばかりの二十一世紀が抱える一触即発の状況、即ち、一方には専横的な宗教的運動と政策があり、他方には自分たちのアイデンティティを守るために地域住民や個人が取る行動や手段があるという緊張関係、を考察する一助となることを目指している。
著者
伊原木 大祐
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.339-362, 2009-09-30 (Released:2017-07-14)

神義論をめぐる現代的論争は、J・L・マッキーによって提示された「悪の論理的問題」をいかに克服するかという課題から始まった。しかし、そこから出された対案の多くは、「悪の情動的問題」に対する有効な解決法とはなりえていない。本論文は、とくに感情面を重視した応答の一つとして、ジョン・K・ロスによる「抗議の神義論(反-神義論)」に注目する。ロスの(反)神義論は、ヴィーゼルやルーベンスタインと共にアウシュヴィッツ以降の時代状況を強く意識している点で、数あるキリスト教神義論の中でも独自なスタンスを保っている。また、その議論は、悪における「正当化しえないもの」の要素に注目している点で、エマニュエル・レヴィナスらの現代哲学的位相とも深い部分で接している。この点を確認した後、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたイワン・カラマーゾフの「反逆」を分析することで、ロスの議論を宗教哲学的な観点から補完する。
著者
寺戸 淳子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.551-575, 2009

地縁的・職能的結合関係が解体された革命後のフランスでは、貧困層の出現という形で社会問題が発生した。人権に基づく公的扶助や連帯主義による解決を目指す共和派に対し、カトリック世界では労働組合運動を中心とする男性による社会的カトリシズムと、女性が行う伝統的慈善による対処が試みられた。そのような動きを背景に貧困層の社会統合を目指して始まったルルド巡礼の現場では、徐々に社会的カトリシズムがもつ討議的性格と慈善がもつ党派的性格が弱まり、「他者への配慮」を優先する「傷病者の現れの空間」が確立されていった。本稿では、「正義と権利」を重視する男性的倫理的態度のみを評価する道徳理論に対し、「配慮と責任」を重視する女性的倫理的態度の復権を唱えるギリガンの理論を参照しながら、ルルドの傷病者支援活動を通して生まれた「ディスポニーブル」という「他者に主導権を預けた行動規範」の、意義と可能性を考察する。
著者
古賀 万由里
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.143-164, 2007-06-30 (Released:2017-07-14)

「サンスクリット化」とは、インド出身の文化人類学者のシュリニバスが提示した概念であり、それは、低位カーストは高位カーストの生活を模倣することにより、社会的地位を上昇させる動きである。南インドのケーララ州のテイヤム信仰をみると、その神話は、プラーナ神話と地域神話の二つの型がみられ、結合している場合が多いが、それは必ずしも近年のカースト上昇志向によって生じたのでなく、長い年月の中で融合していったものである。また儀礼では、ブラーマン司祭の関与がみられるが、主な担い手であるパフォーマーは不可触民であり、ブラーマン儀礼は部分的にとりいれられているにすぎない。さらに、パフォーマーで地位が上昇しているものは、上昇志向があってサンスクリット文化を模倣しているわけではない。また、社会的地位向上の手段としては、経済的状況の改善が重要視されている。
著者
小原 克博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.451-474, 2005-09-30 (Released:2017-07-14)

本論文では、最初に日本および西洋における、一神教と多神教をめぐるディスコースの事例を取り上げ、その特徴を描写する。さらに、そのディスコースをオリエンタリズムやオクシデンタリズムの中に位置づけることによって、その文化的な構造を析出させ、さらに「偶像崇拝」を補助線として用いることによって、その宗教的な構造を明らかにする。偶像崇拝の禁止は三つの一神教、すなわち、ユダヤ教・キリスト教・イスラームに共通する信仰の基盤であるが、偶像崇拝は決して物質的な意味に限定されず、むしろ人間の作り出す観念やイメージをも含む「見えざる偶像崇拝」として機能する。また偶像崇拝が、近現代においては代替・拡張・反転というモデルの中で再解釈されていることを指摘する。最後に「見えざる偶像崇拝」は構造的暴力の温床になり得ることを終末論・進化論を交えて考察する。また同時に、一神教と多神教をめぐるディスコースが暴力的なディスコースへと転移しないための要諦を示唆する。
著者
山田 庄太郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.637-659, 2010-12-30 (Released:2017-07-14)

本稿は、四世紀末から五世紀初頭のマニ教教師ファウストゥスの思想の一端を明らかにすることを目的とする。マニ教はアウグスティヌス当時の属州アフリカで隆盛を誇ったが、五世紀以後急速にその教勢を減じていった。須永はその原因をマニ教の折衷主義に求め、過度なキリスト教化がマニ教の教団としての独自性の喪失を招いたのではないかと見ている。我々はこの須永の指摘を念頭に、ファウストゥスのセクト論の内にその萌芽が既に見出せることを論じた。第一に我々はファウストゥスの思想の大枠を概観し、その根底にある彼の特徴的な律法理解を明らかにする。第二に我々はその律法解釈から生じる彼のセクト論について考察を加える。最後に上述二つの議論を基に、ファウストゥスのマニ教理解について論じる。そこから彼のセクト論がキリスト教とマニ教との連続性を強化する一方で、創始者マニの役割を縮小し、マニの地位を後退させていることを明らかにする。
著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961,iii, 2005-03-30 (Released:2017-07-14)

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
富積 厚文
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.157-181, 2013-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿は運命に対する人の態度を軸として、スピノザ(Brauch de Spinoza, 1632-1677)の存在論における必然性の問題について考察するものである。そのためにまず、九鬼周造の学説を手がかりとして「運命」の現れ方を検討し、それが人間精神のうちにその他の考えを容れる余地を与えぬほど容易には逃れえない強烈な「表象」を抱かしめる「原因」であることを示す。次に、ライプニッツの行った対スピノザ批判を考察することを通し、「運命」の二つの顔を明らかにするとともに、人間たちは「運命」を自由に判断することができないとするスピノザの主張を確認する。そして最後に、これまでの成果を踏まえた上で、<運命の受容>に関する問題を検討する。ここでは現実的存在の基礎解析と表象としての時間の解明がなされる。結論として、スピノザの思想にそって「運命」について考えて行くと必然的に神の「恩寵」の問題に逢着することが示される。
著者
山口 瑞穂
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.3, pp.49-71, 2017

<p>本稿は、日本におけるエホバの証人が、その特異な教説と実践をほとんど希釈することなく二十一万人を超える現在の教勢を築いてきた背景を、日本支部設立の過程における世界本部の布教戦略に着目して検討するものである。資料としては教団発行の刊行物を参照した。検討の結果、エホバの証人において重要な位置を占めているのは「神権組織」と称される組織原則であり、この原則における世界本部への忠節さは神への忠節さを意味するため、日本人信者にとっては社会への適応・浸透以上に世界本部への忠節さが課題となっていたことが明らかとなった。遅くとも一九七〇年代半ばには「神権組織」に忠節な日本支部が確立され、数多くの日本人信者たちが本部の方針に従い「開拓」と称される布教活動に参加した。特徴的な教義でもある予言の切迫感が布教意欲を高めたこともあり、布教の成功率が低い社会状況にありながら膨大な時間が宣教に費やされたことが、その後の教勢拡大を促した。</p>