著者
舛田 弘子 工藤 与志文
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.93, pp.1-16, 2013-02

説明的文章の読解を通じて学習を行う場合,不適切な読解のあり方の一つとして,当該の文章には記述のない道徳的な価値を読み取る傾向が見いだされてきている。本研究では,このような誤読を生じさせる読者側の要因として「論理操作水準」を取り上げ,文章の読解表象の様相と論理操作水準との関連を検討することを主たる目的として行われた。学習者は大学2~4年生であり,材料文を読んだ後に,文章に関する課題および論理操作水準に関する課題に回答してもらった。その結果,読解については,望ましい結論の読み取りは3割程度で,不適切な結論の読み取りの方が多かった。また論理操作課題に対する正答率も全体的に低く,対象者の論理操作水準が安定性を欠き,操作すべき命題の内容によって大きく変動する可能性があることが示唆された。更に,論理操作水準と読解の関係では,論理操作水準は読解表象よりもテキストベースでの理解に対して影響する可能性が示された。論文
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.99, pp.77-110, 2016-02-01

ハイデガーが第二次世界大戦後に公刊した『ヒューマニズム書簡』は,小著でありながらきわめて重要な意味をもつ著作である。この書のなかで初めて彼自身の前期から後期への思想の「転回」が語られ,その後の後期思想のアウトラインが示されているからである。そして,これまでの西洋の伝統的な思想とその基調であったヒューマニズムを批判して,反ヒューマニズムの立場を公言する彼の議論は,彼がナチに所属していた時代との関わりにおいてもさまざまな議論を呼んでいるからである。本稿では,この小著が内包するさまざまな問題群のうちから,彼のヒューマニズム論に焦点を絞り,ハイデガーのヒューマニズム批判が意図するところを解明すると共に,1930年代からこの小著に至るまでの過程で彼の反ヒューマニズム的な立場がどのように進展してきたかを解明する。その結論として,彼の思想の展開過程のなかでは,存在,存在と人間との関わり,存在への接近の仕方などの点で思想の「転回」を示しているにも拘わらず,反ヒューマニズム論的な立場にはほとんど変化がないこと,彼が第二次世界大戦の結果としてのナチズムに対する歴史的審判の後にも強固に反ヒューマニズムの立場を維持し続けたこと,そしてこれらのことと彼のナチズムへの関与とが内的に深く,また強く通底していることが示されるであろう。
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-25, 2014-10

本稿では,イングランドとスコットランドの同君連合後のイングランドにおいてのジェイムズ1世の内政および外交政策の遂行で議会との対立・闘争を通じて如何に自身の政策を実行したのかをみる。特に,王家の財政収入の調達と,スペイン戦争の遂行のための資金調達で彼と議会との対立を概観する。また,彼の宗教政策では,エリザベス1世の宗教政策を継承したことを説明する。さらに,彼の枯渇する国庫を救済するための勅許会社の拡張と植民政策の推進を概観する。後者の植民政策の成功例としてのジェイムズ・タウンを取り上げる。本稿の構成は,第1節でジェイムズ1世とイングランド議会:王の国庫窮状の打開をめぐる闘い,第2節で,ジェイムズ1世の外交政策,第3節で,ジェイムズ1世の宗教政策,第4節で,ジェイムズ1世の植民政策,ジェイムズ1世の即位以前の勅許会社,ジェイムズ1世の勅許会社と植民政策について説明する。特に,ヴァージニア会社の設立,植民地ジェイムズ・タウンとその窮乏化,そしてジェイムズ・タウンの放棄とその救済,そして,植民地の払い下げとその成長について説明する。論文Article
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.8, pp.41-67, 2014-10

本稿では,初めに,5世紀から7世紀前半のブリトン人のアルト・カルト王国の成立・勃興からその衰退までを概観する。次に,本稿では,8世紀後半には,アルト・カルト王国はピクト王国の属領になり,また,ヴァイキングの侵攻後の10世紀初めに建国されたストラスクライド王国とその衰退を概観する。その侵攻後に,周辺国のピクト王国は,アルバ王国とその国土を拡張させ,その侵攻の衝撃を発展的に解消し,またウェセックス王国は,ブリテン島で覇権を掌握し,10世紀後半には全イングランドを統一した。その中で,強力な王権を持たないストラスクライド王国は,ヴァイキング侵攻で荒廃し,その侵攻後に強力な王のもとで統治されたピクト王国の属国とされ,11世紀にはピクト王国に併合されていたと推測される。本稿の最後に,アルト・カルト王国とストラスクライド王国におけるキリスト教の働きを一瞥する。本稿の第1節の第1項では,古代カレドニア地域の民族や7つのピクト国と伝説上のヘン・オグレット(Hen Ogledd)そして,ストラスクライド地域のブリトン人のアルト・カルト王国の勃興を概観する。5世紀頃まで,4民族がそれぞれの部族王国を形成し,現在のスコットランドを割拠していたと考えられる。アルト・カルト王国は,ストラスクライド地域のケルト系ブリトン人によって形成された王国であった。5世紀から6世紀かけて,現在のスコットランドの南西部(ダンバートンシャー,グラスゴー,レンフルシャー,スターリング,フォルクカーク,エイシャー,ラナークシャー)のストラスクライド地域にブリトン人がアルト・カルト王国(Kingdom of Alt Clut)を形成し,その中心地をダンバートンの高台(Dumbarton Rock;Alt Clut)に置いたと思われるが,しかし,このことに関する明確な記録は発見されていない。本稿の第1節の第2項の前半では,アルト・カルト王国の発生とその展開を概観する。5世紀から7世紀の前半までは,その王国の西側にScottiのダル・リアダ王国,その北側にピクト人のピクト王国,その東側にアングル人のベルニシア(ノーザンブリア)王国,その南側に他のブリテン人の王国(グウィネッズ王国,レゲット王国,あるいはエルメ王国などの王国)が活動していたと考えられる。アルト・カルト王国の第9代目エウゲン1世(在位不詳;7世紀中頃))までの国王は,その在位期間が確定しない王であり,伝説上の,あるいは,半歴史上の人物であると考えられる。特に,その関係がその王系図からブリテン人のアルト・カルト王国とダル・リアダ王国の関係,同時に,そのピクト王国との入り込んだ関係からぼんやりと見えてくるにすぎない。例えば,ダリ・リアダ王国のアイダーン王の西方への侵略を反映してアルト・カルト王国の王系図にダル・リアダの血が流れて来たと考えられる。本稿の第1節の第2項の後半では,アルト・カルト王国がピクト王国の属領にされ,それに併合される過程を概観する。アルト・カルト王国は,8世紀中頃ごろまではその勢力を保ったと思われるが,しかし,8世紀後半には,その勢力が削がれることとなった。『Annals of Ulster』には,780年に〝アルト・カルトが燃える" と記録されている。また,『Symeon of Durham』によると,ピクト王国の王オエンガス1世(在位732年-761年)がノーザンブリアの王エズバートと連合し,アルト・カルトを包囲し,攻撃した(756年8月1日)と考えられる。ストラスクライド王国はピクト王国に臣従礼をした。アルト・カルト王国がピクト王国の属国であったことは資料からも推測される。その第17代目エウゲン2世(在位不詳;8世紀後半)ならびに第18代目リデルホ(在位不詳;9世紀初め)の在位期間が不定で,2人の活躍を知らせる直接的な資料も見つかっていないこと,さらに,その第19代目ドゥムナグゥアル4世(在位不詳)が王であったことは『Harleian genealogies』のみで伝えられ他の資料にはないこと,また,『Chronicle of the King of Alba』には849年にブリトン人によってダンブレーン(Dunblane)が燃やされたことの記録から,アルト・カルト王国が1世紀以上の間にわたってピクト王国の属領であったこと考えられる。その第20代目アルトガル・マック・ドゥムナグゥアル(在位不詳;872年没)は,捕虜としてヴァイキングによってダブリンに連行され,872年にピクト王コンスタンティン1世(コンスタンティン・マック・キナエダ)(在位862年-877年)の扇動あるいは同意によってその地で殺害された。アルト・カルト王国は,確かに,870年にノルウェイ人でダブリン王国の指導者(王)のアヴラブ・コング(875年没)とイヴァール(873年没)に包囲され,掠奪されていた。『Annals of Ulster』では,第20代王アルトガル・マック・ドゥムナグゥアルの資格としてストラスクライド王を用い,〝rex Britanorum, Strata Claude(ストラスクライドのブリテン王)"と記録されている。彼は,ストラスクライド王と呼ばれた最初の王であった。国名が変更されていること,また政治の中心がダンバートンからゴーヴァンに移されていることから,ストラスクライド王国もピクト王国の属国になったと考えられる。本稿の第2節の前半では,ストラスクライド王国がアルバ王国を従属されることを概観する。『Chronicle of the Kings of Alba』によると,ストラスクライド王国の初代王ディフンヴァル1世あるいはドムナル1世(在位不詳;908年から916年の間に没)がアルバ王国の王コンスタンティン2世(在位900年-943年)の治世下で死んだという報告から,ストラスクライド王国はコンスタンティヌス2世の治世下でもアルバ王国に従属していたと推測される。その第4代目王ディフンヴァル3世あるいはドムナル・マック・オーゲン(在位941年-973年)は,『Annals of Ulster』では,〝Domnall m.Eogain,ri Bretan(オーゲンの息子ドムナル,ブリテンの王)" と呼ばれ,975年のローマへの巡礼の途上で死亡したと記録されている。『Anglo-Saxon Chronicle』には,945年にイングランドの国王エドモンド1世(在位939年-946年)が全カンブリアを占領し,それをアルバ王国のマルコム1世(在位943年-954年)に両国の陸海軍での連帯を条件として貸し与えると記録され,945年にカンブリア王国はイングランドの領土で,スコット王(多分,アルバ王マルコム1世)に貸し与えられたと理解される。しかし,ドムナル・マック・オーゲンが最後の王であると決めることはできない。というのは,その第5代目マエル・コルム1世(在位973年-997年)がアルバ王国の王と共にイングランド王エドガー(在位959年-975年)と会った8人の王に中の1人であったことから,ストラスクライド王国は,独立した国であったと理解することができる。その第6代目はオーエン2世あるいはオーガン2世(在位不詳;11世紀初めに活動)であった。第2節の第2項の末では,ストラスクライド王国がアルバ王国への併合を概観する。『Symeon Durham』によると,オーエン2世あるいはオーガン2世は1018年のカラム(あるいはコールズストリーム)の戦い(Battle of Carham(Coldstream))に参加した。ウェールズの年代記には,彼は1018年に死亡したと記録され,この戦いで彼が死んだかどうかは明らかではないが,しかし,1018年には,独立国としてのストラスクライド王国は彼の代で消滅したと考えられる。ストラスクライド王国は,スコットランド王ディヴィド1世(在位1124年-1153年)の治世まで存続したと考えられる。彼の治世時に,ストラスクライド王国がアルバ王国の属領であったか,あるいは,独立した国であったかどうかは不明であるが,多分,アルバ王国の属領で併合されていたと推測される。第3節では,アルト・カルトならびにストラスクライド両王国におけるキリスト教について概観する。本稿で取り上げるアルト・カルト王国ならびにストラスクライド王国は,その地理的立地からも推察されるように,その周辺王国の侵攻に悩まされたと考えられる。これが,その王権の伸張を阻害した大きな要因であったと推測される。また,その他の要因として,この王国にはダル・リアダ王国のアイダーン王(在位574年?-609年),ノーザンブリア王国のアシルフリス(在位593年-616年),エドウィン(在位616年-633年)ならびにオズワルド王(在位634年-642年)などの王,あるいはピクト王国のオエンガス1世などのような強い統率力のある国王(支配者)が出現しなかったこともあげられる。このこともアルト・カルト王国およびストラスクライド王国が早い段階で歴史から消える要因であったと思われる。それでも,この王国は,同様の地理的条件にあったと思われるレゲット王国やエルメト王国などのブリテンの王国よりも他の王国による支配下に入るのは遅かった。その要因はよく分からない。それは,現時点では,ミッシング・リンクである。研究ノートNote
著者
玉山 和夫
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経営論集 (ISSN:18841589)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-41, 2015-02

正規分布ではほとんど発生しないと考えられている激変を,かつてはあり得ないこととして「ブラック・スワン=黒い白鳥」と呼んでいた。しかし今や,株価や為替レートの分布が正規分布よりはるかに裾の広いものであることは,周知の事実と言ってよい。つまりブラック・スワンは,市場のどこにでもいる。本稿では為替市場でのブラック・スワンの動きが,市場の趨勢を左右していることを見る。高安2001はこれをHigh Frequency Dataいわゆるティック・データで解析した。この高安2001を含めて,経済物理学によるティック・データの解析では,相場の動きを精密に観測してその特徴を際立たせることに成功している。一方で,相場の動きの背後になにがしかの経済学的意味づけが可能であるかどうかについては,多くを論じない。たしかに秒刻みの激しい動きは,正規分布の仮定を覆すに十分な観測結果を提供してくれるが,本稿はこれを日次データでも確かめた。そして本稿の特色は,この日次データの動きの経済学的意味付けを考察したことである。結果,日次データ42年分の時系列をたどることで,単位労働コスト購買力平価(ULC PPP)と為替市場の関係を改めて見ることが出来た。すなわち,日次変化率が2標準偏差(σ)以上の変動が為替相場の趨勢を決め,その動きはULC PPPと相関しているのである。踏み込んで言えば,2σ以上の動きはULC PPPをトレースするように動き,それが全体の趨勢を決めているのである。また,EURO導入以前にはドイツ・マルクが域内基軸通貨として域内外の信認を得ていたらしきことが推察される。しかし,EUROはドイツ・マルクほど信任されておらず,そのことが通貨の不安定要因であろう。論文Article
著者
小出 良幸
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.97, pp.43-73, 2015-02-01

地球史において多数の種の絶滅事件は,稀なものではなく,たびたび起こる出来事である。層状チャートは,珪質物質からなる本体部と,境界にhiatus(無堆積期間)として粘土物質が少量挟在する。層状チャートの地質学的位置づけや特徴と現世の堆積環境を比較し,層状チャートの形成過程を復元していく。層状チャートの珪質部や粘土部に記録されている時間が,どのような特性を持っているかを検討していく。
著者
新田 雅子
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 = Journal of the Society of Humanities (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.93, pp.105-125, 2013-02-01

本稿は、ここ数年の「孤独死」をめぐる言説的飽和状況がかならずしもその現象特性を踏まえた対策につながっていないという問題意識を動機とする、実践のためのレビューである。「孤独死」は高度経済成長を経た1970年代の日本において「都市の孤独」あるいは「老人問題」として注目され始めた現象である。1990年代以降は貧困との結びつきが問題となる一方で、単身世帯の急増にともなって「人生の閉じ方の一様態」という捉え方も社会的に受容されつつあり、「孤独死」の意味合いはさらに多層化し、「孤立死」という用語も用いられるようになってきた。2000年代後半には社会的排除の結果としての孤独な死が相次いで報道され社会問題化するなか、「孤独死(孤立死)」対策が講じられてきた。現在の「孤独死(孤立死)」対策は、その概念の多義性や現象としての捉えにくさゆえに、コミュニティの活性化による「孤立」の予防に主眼が置かれている。しかしながら現に社会的孤立状態にある人びとが抱える「死に至るほどの困難」に対して、それは有効に作用しえない可能性を指摘した。
著者
玉山 和夫
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経営論集 = Sapporo Gakuin University Review of Business Administration (ISSN:18841589)
巻号頁・発行日
no.5, pp.9-18, 2013-03

本稿は平成バブル期から今日までの家計と企業の資産構成を振り返ることにより,いわゆる土地神話は本当に終焉したのかを検証するものである。結論から言えば,地価上昇を疑いなく信じるという意味での土地神話は崩れたといえる。しかし,不動産の評価価値を基準に家計・企業の資産構成が決定されるという構造で,土地神話は生き続けている。現にバブル崩壊後,家計は金融資産を増加させることで企業は負債を減少させることで土地資産の減少をカバーしようとしている。この健気な行動がデフレ・スパイラルを生み,政府の財政赤字を補ってなお余りある貯蓄過剰をもたらしている。また,土地神話に踊らされたとされる株式市場での土地含み益と株価の関係も改めて見る。結局バブル崩壊後も株価は地価によってその上値が抑えられている。この限りにおいても株式市場での土地神話も終わってはいない。ただし,6大都市の一部に地価反転の兆しはみられる。下げ過ぎた反動だけでも意外に大きいかもしれない。
著者
石坂 信一郎
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経営論集 : Sapporo Gakuin University Review of Business Administration (ISSN:18841589)
巻号頁・発行日
no.6, pp.19-29, 2014-03-05

本稿では明治期から1950年までの非営利法人税制について,その発展の経緯を追い,わが国の非営利法人税制の起源を検討した。非営利法人に対する課税上の措置の始まりは地租におけるものであり,非営利法人に対する法人課税上の措置は1899年の改正所得税法までさかのぼることができる。1950年改正法人税法では,すべての内国法人の所得について法人税を課した上で,公益法人等の所得のうち収益事業以外の所得については法人税を課さないという構成になる。それまでの法人税法では,公共団体,神社等,および公益法人は非課税であった。ここに1950年の税制改正前後の法人税における課税方法の断絶がある。1950年の税制改正以前から継承したものとしては,特別法により一部の法人で行われていた収益事業課税,および旧営業税における課税業種の範囲とその提示方法が挙げられる。この検討が現税制へ示唆するものは,シャウプ勧告が提言した内容の再検討の必要性である。勧告で提言された個別審査方式での免税制は,1950年当時の混乱した社会・経済の状況では導入するべくもなかったが,現代では検討の余地が十分にある。
著者
渡辺 和夫
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経営論集 = Sapporo Gakuin University Review of Business Administration (ISSN:18841589)
巻号頁・発行日
no.7, pp.43-48, 2015-02-20

明治7年に破綻した小野組に対して,第一国立銀行は多額の貸付金を有しており,また明治政府も多額の預け金を有していた。第一国立銀行は渋沢栄一の尽力により損失を最小限に食い止めることができた。他方の明治政府は多額の預け金を十分には回収できなかった。この事件は明治初期における銀行経営の実態ならびに政府資金の管理状況を明らかにした。会計数値はその現実を如実に物語っている。
著者
臼杵 勲 山越 康裕 鶴丸 俊明 D.ツェヴェンドルジ 董新林 佐川 正敏 千田 嘉博
出版者
札幌学院大学総合研究所
巻号頁・発行日
2010-03-31

開催:札幌学院大学総合研究所・モンゴル科学アカデミー考古学研究所 研究協定締結記念 国際シンポジウム 開催日:2009-12-23 開催場所:札幌学院大学G館 SGUホール