著者
寺沢 拓敬
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.12, pp.91-107, 2014

本稿の目的は、英語以外の異言語に対する「日本人」の態度を計量的に明らかにすることで、日本社会の多言語化に関する議論の基礎資料とすることである。主たる分析対象は、「日本版総合的社会調査」2006年版の「関心のある英語以外の言語」設問である。同調査の標本は、無作為抽出で採られているため、結果を「日本人」全体に一般化することが可能である。分析の結果、明らかになった点は、(1)調査時点で、「日本人」の約8割が英語以外の異言語の学習に何らかの関心を示したが、その関心は、日本社会の多言語化状況を必ずしも反映していない、(2)ジェンダー・年齢・教育レベルによって関心のある異言語が大きく異なった、(3)生活場面における外国人との接触機会は、異言語への関心を生んだが、頻繁な接触はむしろ異言語への関心を低めた、(4)英語力を持っていること自体は、英語以外の異言語学習に対する関心にはつながらないが、英語の使用・学習意欲は関心を高めた、という点である。以上の結果をもとに、「日本人」の異言語に対する態度の特徴について議論した。
著者
森田 俊吾
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.193-210, 2015-03-01

La poésie d'Henri Meschonnic est inséparable de la théorie qu'il a construite. Les recherches qui précèdent mettent donc en évidence certains concepts de la théorie de Meschonnic, par exemple, l'« identification de soi et des autres » ou la « poétique de la vie », dans son dernier recueil de poèmes L'obscur travaille (2012). Nous abordons pour notre part d'autres aspects dans ces poèmes. Tout d'abord nous analysons la relation entre l'obscurité et la lumière, car Meschonnic y emploie maintes fois le mot « lumière ». Le concept de « lumière » qui vient de l'essai sur Pierre Soulages est analogue à celui du « rythme » meschonicien. Meschonnic tente-t-il par là de décrire la lumière comme rythme par l'intermédiaire de la pensée héraclitéenne ? Ou développe-t-il cette pensée en passant par celle de Émile Benveniste, pour conclure que la relation entre « lumière » et « obscur » est réversible, en citant les termes de Victor Hugo ? Dans cet article, en analysant le flux dans l'identification entre soi et l'autre, nous montrons que c'est la mort qui l'immobilise, et que ce qui suggère cette mort n'est que la date ou le fait biographique.
著者
鳥居 万由実
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.14, pp.207-223, 2016

「智恵子抄」や「道程」という愛とヒューマニズムの詩で知られる高村光太郎は、他者との隔絶感や了解不可能性に悩み続けた詩人でもあった。本稿は、高村光太郎の内面における自己と他者の相克をたどりながら、彼の動物表象に新たな光を当てることを目指す。光太郎の作品には相容れない他者を前にして、自己をより高潔な存在として称揚しようとする傾向が度々出現する。その傾向を呼んだきっかけの一つは彼が留学中に了解不可能な他者としての西洋に直面したこと、また「孤高」の芸術家を理解しない「俗世間」との葛藤に悩まされたことである。他者の問題は智恵子との内密な結婚生活により棚上げされたが、その生活が維持できなくなった時、再び浮上した。光太郎はその際、動物を扱った詩の中で、再度、他者と自己の問題に取り組む。そこで彼は二つの姿勢を取る。一つは自己を神聖化し相容れない他者を排除する姿勢、もう一方は、自己と他者の相克の場に踏みとどまり、隔絶を見つめる姿勢である。時局が戦争へと向かうと、最終的には前者が優勢となり、彼は敵/味方の二分法に基づく戦意高揚詩を量産した。しかし後者には、他性と向き合う、もう一つの高村光太郎の可能性が存在していた。
著者
坂口 周輔
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.11, pp.205-221, 2013

Comment le poète, Stéphane Mallarmé, crée-t-il une fiction ? De quelle façon adapte-t-il une chose de la réalité à sa propre poétique ? La réponse est à chercher dans trois textes d'« Offices » des Divagations dans lesquels l'Office catholique apparaît comme une des sources de sa Poésie. Lisant ces textes, on s'aperçoit d'un contraste entre musique et office. Bien qu'ils aient tous les deux le mystère, la première manque d'une fonction esthétique : l'usage de la langue. Or cette dernière est, pour Mallarmé, une base de la fiction car elle nous éveille à la faculté du signe. La communion, office catholique, réside d'ailleurs dans cette faculté, comme le font remarquer les logiciens de Port-Royal. Mallarmé s'appuie donc sur cette tradition du signe du sacré et l'adapte à sa fête poétique pour que l'assistance y pratique la lecture des signes au travers des lettres. Il s'agit donc ici de mettre en lumière la manière dont cette assistance saisit la présence de l'Idée à travers les signes, un axe majeur de la poétique mallarméenne.
著者
逆井 聡人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.85-102, 2015-03-01

本稿は、アジア太平洋戦争直後の東京における戦災復興を考察する。本稿が対象とするのは、都市計画そのものや政府の政策等ではなく、戦災復興期の東京を描いた二本の映画である。一つは『20 年後の東京』という東京都都市計画課が作成したPR 映画であり、もう一つは黒澤明が監督した『野良犬』である。東京の戦災復興計画を宣伝する『20 年後の東京』がその計画の思想を伝える際に用いるレトリックを分析し、その背後にある植民地都市経営の経験とそれを「民主的」という言葉で覆い隠し、計画の正当性を偽装する態度を読み取る。また計画の障害として語られる闇市を取り上げ、その復興期における役割を評価した上で映画の言説との齟齬を明らかにする。そして、その闇市を映画の主要な空間として取り込んだ『野良犬』が、その空間にいかなる役割を担わせているかを主人公の復員兵・村上を通して考察する。本稿は都市を語る上で帝国主義の過去を忘却しようとする言説に対して、抗う拠点としての闇市という空間を位置付けることを目的とする。
著者
柾木 貴之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.151-167, 2011-03-01

これまでの研究によると、「国語教育と英語教育の連携」に関する初のまとまった研究は、西尾実・石橋幸太郎監修(1967)『言語教育学叢書』第一期・全6巻(文化評論出版)であった。これは当時の国語教育・英語教育の第一人者による共著であり、「相補的関係における国語教育と外国語教育」を理念として打ち出した重要な書である。にも関わらず、同書刊行の背景に関する考察はほとんどなされてこなかった。今回、その背景として第一に、「国際時代」の到来が意識される中、「話しことば」の問題が存在したことがわかった。また第二に、「教科教育学」の問題が関係していることも判明した。特に、英語教育学の樹立に関する論文で同書はくり返し言及されている。そこから、同書は「すでに成立していた国語教育学との『相補的関係』を謳うことで、英語教育の学としての立場を保障しようとした書」と位置づけることができる。それは事実上、英文学・英語学からの「学的独立宣言」であった。
著者
金 ヨンロン
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.139-151, 2016-03-01

本稿では、研究史においてプロレタリア文学との対立が強調されてきた井伏鱒二文学を読み直し、むしろ両者が共有していた問題意識を浮き彫りにする。そのことを通して、井伏鱒二文学の表現方法の特徴を突き止め、その批評性を同時代において明らかにする。扱うテクストは、1929 年に発表された井伏鱒二の『谷間』と中野重治の『鉄の話』である。井伏鱒二の『谷間』をプロレタリア文学の代表作である中野重治の『鉄の話』と比較し、両作を取り巻く当時の治安体制の状況を概観し、『谷間』で選ばれた方法とその可能性を問う。とりわけ注目するのは、『谷間』における作中人物であると同時に書き手である「私」の設定である。『鉄の話』と『谷間』は、同じく治安体制の暴力に晒されている作中人物を描いているが、前者がそれを描いたが故に伏字という暴力に再び直面したのに対し、後者は二重の「私」を設定することで作中人物のみならず書き手をも統御する暴力そのものをテクスト上に現象させることができた。本稿では、このような『谷間』の方法が如何に治安体制の暴力的構造を暴き出して見せたのかを検討する。
著者
鳥居 万由実
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.207-223, 2016-03-01

「智恵子抄」や「道程」という愛とヒューマニズムの詩で知られる高村光太郎は、他者との隔絶感や了解不可能性に悩み続けた詩人でもあった。本稿は、高村光太郎の内面における自己と他者の相克をたどりながら、彼の動物表象に新たな光を当てることを目指す。光太郎の作品には相容れない他者を前にして、自己をより高潔な存在として称揚しようとする傾向が度々出現する。その傾向を呼んだきっかけの一つは彼が留学中に了解不可能な他者としての西洋に直面したこと、また「孤高」の芸術家を理解しない「俗世間」との葛藤に悩まされたことである。他者の問題は智恵子との内密な結婚生活により棚上げされたが、その生活が維持できなくなった時、再び浮上した。光太郎はその際、動物を扱った詩の中で、再度、他者と自己の問題に取り組む。そこで彼は二つの姿勢を取る。一つは自己を神聖化し相容れない他者を排除する姿勢、もう一方は、自己と他者の相克の場に踏みとどまり、隔絶を見つめる姿勢である。時局が戦争へと向かうと、最終的には前者が優勢となり、彼は敵/味方の二分法に基づく戦意高揚詩を量産した。しかし後者には、他性と向き合う、もう一つの高村光太郎の可能性が存在していた。
著者
柾木 貴之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.71-87, 2016-03-01

本研究は戦後から1960年代までを対象に、「国語教育と英語教育の連携」をめぐる状況について明らかにすることを目的とする。2000年以降、「連携」に関する議論が高まり、各分野から研究が進んでいるが、ほとんど研究が進んでいないのが歴史的研究である。とくに戦後から1960 年代にかけてどの程度、「連携」が行われていたかについては明らかになっていない。このような状況の下、文献調査を行った結果、「連携」が行われたことを示す資料は発見できなかったが、戦前にはほとんど見られなかった特徴として、(1)国語教育と外国語教育を合わせて「言語教育」と捉える動きがあったこと、(2)その「言語教育」という概念のもとで、国語教育と英語教育の共通点が模索されたこと、(3)しかし一方で、主に文学教材を通した人間形成を重視する国語教育と、コミュニケーション能力の育成を目指す英語教育とでは、全く異なったことをやっているという意識が存在したこと、の三点が明らかになった。このような意識が、戦後から1960年代にかけて、「連携」という発想が広く共有されなかった一因と考えられる。
著者
田中 洋
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.237-250, 2009-03-01

Bis zu seinem Roman Narziß und Goldmund (1930) figuriert das Mütterliche als zentrales Thema Hermann Hesses (1877-1962). „Das Mütterliche" ist ein kollektives Symbol der Mutter und „die blonde strahlende Frau" eine konkrete Gestalt „des Mütterlichen". Für Narziß und Goldmund war zuerst der Titel Goldmunds Weg zur Mutter vorgesehen, woraus erhellt, dass die Geschichte um das verlorenen Bild von Goldmunds Mutter kreist und dann in das Thema „des Mütterlichen" übergeht. Zu Muttergestalten in Hesses mittleren und späten Werken liegen Arbeiten von Benett (1972) und Minkus (1997) vor. Am Leitfaden der Psychoanalyse Jungs vergleiche ich die Abhandlungen von Baumann (1997, 1999) und Ozawa (1982). Da die Psychoanalyse einen Schlüssel zum mittleren und späten Hesse liefert, orientiert sich die Interpretation in der vorliegenden Arbeit hauptsächlich an der Jungschen Archetypenlehre. Vergleicht man Hesses mittlere und späte Romane, etwa Demian mit Narziß und Goldmund, dann lassen sich bestimmte Bedeutungsveränderungen „des Mütterlichen" beobachten. Um sie zu analysieren, wird auch die Offenbarung des Johannes aus dem Neuen Testament herangezogen, da sie einige wörtliche Anspielungen auf den behandelten Komplex „des Mütterlichen" enthält.
著者
中原 雅人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.139-156, 2015-03-01

Although a number of researchers have interpreted what J. Lacan had said about vision, most of their interpretations seem to be insufficient to grasp the essence of the Gaze (regard). This paper explains Lacan’s concept of the Gaze through four steps: First of all, accounting for the function of “Lure” using an ethological study of Nicolas Tinbergen. Second, relating some examples of the Gaze referring to Sartre and Merleau-Ponty in the aspect of self-awareness. Third, distinguishing the Picture (tableau) from Painting (peinture), the Gaze from the eye by relating to the mimicry which is advocated by Roger Caillois. Finally, this paper integrates the arguments above and explains the painting contest of Zeuxis and Parrhasios. Therefore it reveals the meaning of “a triumph of the Gaze over the eye” and the object a. We find a relationship between the Gaze and the Idea designated by Plato.
著者
山田 彬尭
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.12, pp.37-53, 2014

本稿の目的は、「条件節の分析として欠落説と移動説とを比較するならば、移動説の方が高い説明能力を持っているため優れている」という主張をすることにある。Haegeman(2003, 2006, 2009, 2010a, 2010b, 2013)は、条件節に対して、これまで、二つの異なる分析を唱えてきた。一つ目は、条件節における諸現象を機能範疇の欠如として説明する欠落説であり、二つ目は、オペレーターの移動と局所性から条件節の諸現象を説明する移動説である。彼女は、前者の枠組みから後者の枠組みへ説を乗り換えてきた。しかし、彼女の説の転換とは裏腹に、両者の説明能力は、むしろ拮抗しており、先行研究で挙げられたデータからだけでは、後者が前者に対して圧倒的優位に立っているとはいいがたい。これに対し、本稿では、日本語の条件節において「もし」と疑問語が生起できないという事実に注目する。そして、欠落説では捉えられないこの現象が、移動説の下では説明できることを指摘する。この説明能力の相対的な広さを根拠に、条件節の分析として欠落説と移動説を比較するならば、移動説の方が優れている、という主張を展開する。
著者
邊 姫京
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
巻号頁・発行日
2012-11-22

報告番号: 乙17750 ; 学位授与年月日: 2012-11-22 ; 学位の種別: 論文博士 ; 学位の種類: 博士(学術) ; 学位記番号: 第17750号 ; 研究科・専攻: 総合文化研究科言語情報科学専攻
著者
井上 博之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.183-199, 2010-03-01

This paper aims to examine the relationship between the state of exile and Mexican representation in Cormac McCarthy's All the Pretty Horses (1992), which is the story of a modern Texan young man who loses his home and crosses the border south to Mexico in search of a "paradise" for cowboys. The protagonist, John Grady Cole, projects his own vision onto Mexico and then gets "betrayed" by the violent reality of Mexico. It is true that Mexico appears here as "the Infernal Paradise," but the country is also "another country," where foreigners can only know of the Otherness of Mexico, and at the same time functions as a "mirror" which reflects the reality of the U. S. John Grady loses his Mexican "paradise" and returns to Texas, where there is no place for home; he comes to be a cowboy on the border, who cannot belong to the U. S. nor to Mexico. This homelessness seems to join him to some Mexican-Americans who appear in the story, such as Luisa, Arturo, Abuela and a "Mexican" who has never been to Mexico. Thus, his "failed" crossing, paradoxically, makes him into a true border-crosser.