著者
高木 久史
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.74, no.5, pp.469-485, 2009-01-25 (Released:2017-07-22)

日本中世における債権・債務・信用一般に関する実証分析は少ない。本稿では信用の中でも商業上の信用の問題,具体的には掛取引について論じる。方法としては,非経済的側面との関係(例えば政治史)に触れながら,中世後期とくに15世紀から17世紀初頭にかけての掛取引の事例検出,とくに16世紀前半を中心とした事例検出を行い,時代的特徴を示す。とくに中世後期については徳政に関する事例とそれ以外とに分けて論じる。結果,徳政にかかる売掛金の扱いに関する商人慣習法の存在と幕府徳政令によるその追認,一方での各徳政令における売掛債権破棄志向(戦争等を契機とする債務者救済の特別措置によるもの)等を示す。実態面では,高額・長距離掛取引の実施,支払期日観念ならびに期日超過に伴う利子支払特約の存在,売掛債権の文書化,年市的性格をもつ京都馬市での掛取引の実施,当事者相互の売掛金の持ち合い,国質・所質名目での売掛金取立の実施(とそれを拒否する動向),等について示す。全体としては,概して遅くとも15世紀後半以後における掛取引の広範な実施,ならびに近世初頭までの継続的な実施を示す。
著者
岩橋 勝
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.481-503, 2012

近年の近世日本貨幣史研究は,かつての制度史的ないし貨幣改鋳史的研究手法を超えて,貨幣流通の実態を踏まえた検討が進められている。その際,貨幣を通して経済発展を検討しようとする「貨幣の経済史」が求められている。本稿で検討する熊本藩は,いわゆる銀遣い経済圏の中にある。しかし,領内では経済発展により農民や町人の日常的決済の場では銭遣いが進展し,藩府は銀銭標準相場を示して銀建ての領主経済や領外取引とのリンクを確保した。このため銀建ての藩札流通が阻害される結果となった。銭貨供給は全国的に不十分であったので,領内では民間で「銭預り」という銭匁札が18世紀中期から自然発生的に出回り始めた。藩府も18世紀末より同様の銭預り発行を開始し,藩府は実質的に藩札化しか銭預りの過剰発行に留意したので,札価はほぼ維持され,明治初年まで流通した。小額貨幣を基本とする藩の貨幣政策が成功する例は熊本藩のみではなく,西日本のいわゆる「銭遣い経済圏」と見られる地域で少なからず観察できる。
著者
松沢 裕作
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.565-584, 2013-02-25 (Released:2017-06-10)

本稿の課題は,1872年から73年にかけて発行されたいわゆる「壬申地券」のうち,農村部における地券(郡村地券)の発行の意義を,貢租徴収との関連で考察することにある。地租改正本体(「改正地券」交付)に先立って実施された壬申地券交付事業については,近代的所有権の導入がなされたという評価が通説的地位を占めているが,村請制の存続という事実を考慮に入れるならば再検討の余地があると考える。本稿では,まず政策過程の分析から,廃藩置県以前の大蔵省が検地の回避と検見の実施を基本方針としていたこと,それが民部省の批判と廃藩置県後の状況によって破綻し,すでに1869年に神田孝平が提起していた沽券税法が一挙に採用される経緯を明らかにした。次いで,実際に壬申地券の発行がなされた武蔵国比企郡宮前村の事例を分析し,村請制と旧貢租の存続という条件のもとでは,測量の結果がそのまま地券に直結することは不可能であり,地券記載の土地面積は,村内土地所有者相互の相対的な比率を表示するものにとどまることを示した。
著者
井内 智子
出版者
社会経済史学会
雑誌
社會經濟史學 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.99-118, 2010-05-25

1929年に設立された陸軍被服協会は,被服資源を確保して総力戦体制へ備えるため,国産毛織物の普及及び軍用被服と民間被服の規格統一を目指して活動した。同協会は,具体的には洋装化の推進を呼びかけ,学生服をはじめとする各種制服を統一して,軍服と同じカーキ色の毛織物にする「被服統一運動」を行い,軍需被服産業と毛織物産業を中心とする諸企業の支持を得た。第一次大戦後の軍縮の中で,軍需関係の企業は軍需から民需への転換を図っていた。また,毛織物の集散地だった大阪の財界を中心に,軍需以外の諸企業も不況の中で消費が減少することを防ぐ目的で被服協会を支援した。今回本稿がとりあげる1929年から1934年にかけては,一般の反軍感情が強く,陸軍の望むカーキ色生地普及はこの色が軍隊のイメージと強く結びついていたため挫折する。また,毛織物の制服では綿に比べて高価になることから,毛織物普及にも限界があった。しかし,被服協会は府県単位での男子中等学校制服の統一を進め,統一したことで制服の価格は下がっていった。
著者
杉山 伸也
出版者
社会経済史学会
雑誌
社會經濟史學 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.297-313, 2014-11-25

本稿は,『東京市統計年表』,および東京市役所,日本銀行,東京質屋組合等による質屋に関する調査を利用して,1906〜38年における東京市の質屋業者数と経営規模,貸出・受戻・流質額および口数,貸出金額別内訳,市区別の経営状況などの主要指標について考察したものである。質屋業は徳川時代に確立していた業種で,幕末・維新期の混乱で減少したあと増加し,ピーク時の1918年には1,334店に達したが,1923年の関東大震災で約3分の1に激減した。質屋は,動産を担保に庶民向けの短期の小口金融をおこなう地域住民密着型の金融機関で,運転資本規模は2〜3万円の小規模ビジネスであり,大半が個人・家族経営であった。質屋の主要業務は質物の鑑定評価と入質による利子の取得で,利率は質屋取締法で30〜48%に決められていた。質屋の経営は1922年までは順調であったが,23年の震災で大打撃をうけた。その後若干回復をみたものの,1930年代初めの不況を機に経営の小規模化と質物の小口化がすすみ,資本回転率は1920年代の年3回転から30年代には2回転に減少して利益率は低下し,質屋経営は悪化した。
著者
川北 稔
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.59, no.1, pp.49-70,200-201, 1993-05-25 (Released:2017-07-01)

For over a decade, social history has been enjoying a vogue in both Britain and Japan. In Japan in particular, it has penetrated almost every corner of historical research. There seems to be no other category of history which appeals to younger historians. The background to the popularity of social history in each country has been different. This may be the reason behind the different attitudes of British and Japanese historians to the boom: unreserved enthusiasm in the one and a degree of circumspection in the other. In Britain, befor World War II, socio-economic history was regarded primarily as a tool of social policy. For that reason, much signiflcance was attached to the history of everday life. After the war, socio-economic history entered its golden age. The latter half of the present century saw the introduction of the quantitative approach to socio-economic history. In other words, socio-economic history became polarized into quantitative economic history and the 'new' social history. Thus in Britain, even the 'new' social history can be regarded as part of the established tradition of socio-economic history. In Japan, socio-iconomic history also experienced a golden age, which lasted until about 1960. Based mainly on Marxist and Weberian theories, it enjoyed overwhelming influence and popularity. That was one of the reasons why Japanese academics did not initially accept the quantitative approach to economic history and the 'new' social history. Still dreaming of the paradise of post-war socio-economic history, they were oblibious to the structural changes in society and altered historical circumstances. Then, in the 1980s, they suddenly woke up. Instead of Marxist and Weberian interpretaions of history, 'new' social history became all the rage. A clear distinction was made between the 'new' social history and more traditional types of history. It is this difference in pre-conditions which has led to the differing attitudes of British and Japanese historians to the 'new' social history. Unfortunately, the claims of the 'new' social history to be self-sufficient cannot be substantiated. It is therefore crucial for historians in Japan to bridge the gap separating it from more traditional categories of history.
著者
黒崎 周一
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.75, no.5, pp.517-539, 2010-01-25 (Released:2017-05-24)

19世紀イギリスでは,医師たちが権威向上を目指し,医師制度改革を進めていた。彼らの望む権威とは,専門教育や資格制度の整備による専門職化のみに由来するものではなく,地域社会の各種医療サービスを通して得られるパトロネジや,国家との関係に影響を受けながら形成される社会的権威であった。ギルド的自治によって免許制度を運営してきた彼らは,自らと国家との関係が聖職者や法律家に比べ弱いことを懸念し,政府機関として免許制度運営を担う医師審議会を創設することで,国家との関係強化を図った。しかし医師たちは,医師審議会委員の任命権を政府に委ね,当時拡充されていた衛生行政の監督下に置くか,あるいはギルド的自治による免許制度を維持すべく,医師審議会委員を自ら選出するかで対立した。結果的に一部の委員を女王が,残りの委員を医師たちが選出することで彼らは妥協する。つまり医師の社会的権威は,専門職化によって単線的に向上したのではなく,衛生改革などの当時の社会状況の影響を受けながら,医師たちがギルド的自治と国家介入との両立を図る中で形成されていったのである。
著者
竹野 学
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.569-586,601, 2001-01-25 (Released:2017-08-09)

The Agency of Karafuto (South-Sakhalin) thought that there was a gap between their idea of establishing a distinctively Karafuto agriculture and the viewpoint of the Karafuto peasants. The object of this paper is to clarify the actual state of Karafuto agriculture by analyzing not only the Agency but also the peasants themselves. The difference in the attitudes of the two defined the development of Karafuto agriculture. Colonialist scholars and officials insisted that peasants should concentrate on growing their own food instead of growing cash crops. However, peasants resisted this idea because it would cause a decline in their living standards and continued to emphasize the production of cash crops even though this was contrary to the wishes of the Agency. After a boom in cash crop production, peasants began to breed cows, which was in accordance with the goals of the Agency. However, their main objective was still to obtain a cash income. The Agency of Karafuto could not resolve the difference in objectives, and therefore was unable to realize its vision of Karafuto agriculture.
著者
四方田 雅史
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.169-188, 2003-07-25 (Released:2017-06-16)

Prewar Japan exported imitation Panama hats, which were produced mainly in Taiwan and Okinawa. However, there were sharp differences between the institutions organizing economic transactions in each region. This paper analyzes the institutional differences, focusing mainly upon transaction patterns between merchants and producers, trade associations, export inspection systems, and institutions for improving production techniques. The first difference is that while producers in Okinawa were dominated by Japanese merchants with relatively long-term gains in mind, those in Taiwan gradually became independent of Japanese merchants and exported hats through Taiwanese branches in Kobe. Second, while short-term transactions were predominant in Taiwan because of frequent entries and exits by producers and merchants, long-term transactions were predominant in Okinawa. Third, while the short-term transactions in Taiwan led to short-sighted behavior, such as the adulteration of products and the weakening of trade associations, the long-term ones in Okinawa produced hats of improved quality, stronger trade association, and good producing skills. In conclusion, institutions in both Taiwan and Okinawa developed complementary relationships which led to contrasting institutional combinations, causing differences in performance. In addition, the implication is that the institutions adopted in Taiwan and Okinawa reflected different economic traditions in China and Japan respectively.
著者
河村 徳士
出版者
社会経済史学会
雑誌
社會經濟史學 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.76, no.2, pp.179-201, 2010-08-25

本稿は,1920年代前半に指摘された小運送料金問題とその対応を検討し,26年6月に実施される合同政策の背景および業界がこれを受容する条件を考察するものである。この時期,荷主や鉄道省は小運送料金の高さを問題とした。それは,第一次大戦期に指摘された高額請求とは,小運送料金の水準自体の引下げを求めた点て異なるものであった。しかし,何らかの合理化策を施さない限り料金低下を実現することは困難な状況にあった。鉄道省は,料金低下には合同政策が必要であると判断し始めていた。一方,業界では,大戦後の需要減退を契機として競争が激化し,不当な手段に訴えた値下げ競争,違法性の強い取引を利用した荷主獲得競争が展開された。こうした不正な競争への関与を余儀なくされつつあった業界では,何らかの競争抑制策が求められていた。合同を通じた運送店数の減少により競争が抑制される効果を期待できる点て,合同政策を受容する条件が形成されていたのである。