- 著者
-
森山 秀二
- 出版者
- 立正大学
- 雑誌
- 経済学季報 (ISSN:02883457)
- 巻号頁・発行日
- vol.54, no.3, pp.163-179, 2005-03-20
現存の王安石の詩歌には、詩の冒頭二文字を題辭に當てる作品が110首ほどあって、その多くは晩年の半山退去後の作品である。こうした題辭のあり方は『詩經』以来の伝統を受け継いで、近體詩においては杜甫が始めた作詞の手法であり、それは李商穏に継承され、無題とともに晩唐から宗初にかけて、一世を風靡する作風となった。従ってこうした王安石の詩の冒頭に文字を題辭に當てる作品も、恰も杜甫や李商穏の系譜を受け継いだ結果のように見える。しかしながら、王安石の現存の詩文集(『臨川先生文集』・『王文公文集』・李壁注『王荊公詩注』)における収録の状況をみると、異同甚だしいものがあり、題辭の多くが一致していないのである。殊に、最も版刻の古い「龍舒本」に名で知られる『王文公文集』では、その他二集が冒頭二文字を題辭にあてている作品の多くを連作として扱い、題辭自体を與えていないのである。そこで、本論文では、上記三詩文集の版本流伝状況から、より整備された印象のある四部叢本に代表される『臨川先生文集』(臨川本)や『李壁注本』よりも、未整備な印象の強い『龍舒本』に王安石自身の賓態がより多く反映されていることを論じた。つまり、王安石自身が箇々の作詩に際して、冒頭二文字を必ずしも表題としたわけではなく、むしろ後の王安石の詩文集を編集した人々が、杜甫や李商穏の手法を倣って命名したことが、三種の版本の差異に現れたものと思われ、このことは、王安石の半山退去後の、所謂「半山絶句」における文学的深化や成熟を考える上に、興味深い問題点を示唆しているように思われる。なお、本論文は2002年度の在外研修時に、北京大学において執筆・発表したため、中国語で書かれていることを了承されたい。