著者
楊 華 ヨウ カ YANG Hua
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.145-160, 2017-02

松本清張は明治四十二年に北九州市小倉で生まれ,昭和二十六年,処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選,第二十五回直木賞候補となった。昭和二十七年,『ある「小倉日記」伝』を発表し,第二十八回芥川賞を受賞した。昭和三十二年『点と線』,『眼の壁』の発表によって,日本では爆発的な「清張ブーム」が起こった。この頃,松本清張は社会派推理小説家としての地位が確立された。「清張以後」という言葉があるように,松本清張の文壇登場以来,日本の推理小説の作風は大きく変わった。従来の探偵小説のトリック一辺倒に対して,松本清張は犯行の動機を重視し,それを取り巻く社会問題を追及している。清張以外,水上勉,森村誠一,黒岩重吾,有馬頼義などの作家たちも,「社会派推理小説」の作品を多数発表している。松本清張は昭和二十六年文壇に登場する頃から,平成四年に亡くなるまで四十年間の作家生活において,ミステリー,ノンフィクション,評伝,現代史,古代史など幅広い分野において,1000篇を超える作品を出している。松本清張の初期作品の代表作『点と線』は昭和三十二年に発表された。戦後の昭和三十年代のはじめという時代は,高度成長のとば口にかかってきたころである。組織の力が大きくなり,その中で個人が次第に歯車化していく。清張はこういう権力悪という社会問題を自分の作品に取り込んだ。『点と線』において,清張は小官僚の課長補佐佐山という人物を設定し,彼の死亡をめぐり,ストーリーを展開した。このような戦後の組織の中の官僚にまつわる作品は,ほかに『ある小官僚の抹殺』(昭和三十三年),『危険な斜面』(三十四年),『三峡の章』(三十五年~三十六年),『現代官僚論』(三十八年),『中央流沙』(四十年)などが挙げられる。『点と線』は「社会派推理小説の記念碑的な作品」と従来から高く評価されているが,権力悪の暴露という面において,後の作品ほど十分ではないと考えられる。『点と線』の不徹底から後の作品における徹底的な暴露に発展していく過程に,昭和三十三年二月に発表された『ある小官僚の抹殺』が重要な役割を果たしている。『点と線』,『ある小官僚の抹殺』,両作品とも汚職事件の渦中にある小官僚の死に関する社会問題を扱う作品だが,それぞれのテクストから現れる「権力悪」への追及の程度が違う。したがって,本稿は,タイトル,構成,ジャンル,「社会悪」の暴露などにおいて,『点と線』から『ある小官僚の抹殺』への発展をめぐり,検討していきたいと思う。
著者
崔 宗煥 ジョンホァン チェ JONG-HWAN CHOI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学経済学論集 (ISSN:02863294)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.1-20, 2016-09

2015年7月21日,韓国の朴大統領は,「公共」,「労働」,「金融」および「教育」などの4大部門における改革を2015年下半期の国政運営の核心的課題として宣言し,同年8月20日,国民向けの談話を発表した。この政府の方針を巡っては,当初から多くの批判や指摘が絶えず,今に至るまでに具体的な成果はみられていないといえる。とりわけ,労働部門改革に注目すれば,すでに,「通常賃金・勤労時間の短縮・定年延長」などの3大原案を巡り,いわゆる大統領直属の経済社会発展労使政委員会(経済社会発展労使政委員会法(法律第8852号)により設立された大統領所属の諮問委員会であり,1998年1月15日,第1期労使政委員会が開かれ,主に,労働政策とこれと関連する経済・社会政策などを協議することを目的とし,大統領に対する政策諮問の役割をも遂行する)では,経済界と労働界の意見の隔たりがあまりにも大きく,政界でも野党からの強力な反発が続き,課題解決への展望は決して明るくない。朴大統領は,「労働市場,雇用市場の構造改善のために推進している定年延長と賃金ピーク制など賃金体系の改変をいち早く終えなければならず,労働改革は,つまり働く場の維持及び新しい仕事の創出,とりわけ青年の働く場の創出にとって要となるから…」とした。本稿では,戦後の韓国経済の成長に伴って変化してきた労働市場における環境変化を振り返りながら,とりわけ,現状における労働市場の最大の課題といえる若者の失業率問題に焦点を当て,その実態把握と,問題発生の背景にどのような要因があるのかについて分析することを目的とする。
著者
片山 寛 カタヤマ ヒロシ KATAYAMA HIROSHI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.29-40, 2016-03

1933年から1945年までのいわゆるナチズムの時代のドイツのキリスト教会について,以前は,告白教会を善玉とし,ドイツ的キリスト者を悪玉とする単純な対立図式だけで論ずる傾向が強かった。しかし近年はむしろ,この時代を生きたもっと多様な教会像を検討する論考が多く見られるようになった。たとえば,Philipp Thull (Hrsg.), Christen im Dritten Reich)においては,これまでにもよく見られた,DEK(ドイツ福音主義教会)内部の上記の闘争と,カトリック教会内の諸問題の検討の他に,いくつかの教派Neuapostolische Kirche,Mennoniten, Pfingstbewegung, alt-katholische Kirche におけるナチズム時代が,それぞれの著者によって論じられている。そしてその最後に,Karl Heinz Voigt)は,「自由教会」と総称で呼ばれる15の小教派(上記とも重なるが,メノナイト,バプテスト,バプテスト系の兄弟団,エリム教会,メソジスト,福音主義共同体,ヘルンフート兄弟団,自由福音教会,セブンスデイ・アドヴェンティスト,古ルター派教会,古カトリック教会,救世軍,ミュールハイム連盟,神の教会,(ペンテコステ系の)フォルクスミッシオン)について,それらがDEKの告白教会運動から疎外された状況を論じている。自由教会はナチズムと闘うことができなかったことを批判されることが多く,自由教会自身がそれについて苦い後味を抱いているのであるが,それは彼らのせいだけではなかったというのである。この発表で特に取り上げたいのは,ドイツのバプテスト同盟Bund der Baptistengemeinden(1942年にいくつかの小教派を統合して,福音主義自由教会同盟Bund Evangelisch-Freikirchlicher Gemeindenに改称した。現代もバプテストはこの名称を使用している)がナチズムの時代をどのように生きのびたのかについてである。それを私は,Günter Balders の論文「ドイツ・バプテスト小史」の第5章「第三帝国と第二次世界大戦の時代(1933-1945)」)にもとづいて紹介したい。その上で,自由教会としてのバプテストが,どのようなものであり,どのような点で優れ,またどのような点で限界を持っていたかを考察したいと思う。
著者
後藤 新治
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.93-115, 2014-09-02

「私の性格のいけないところは,私が決して自分に満足しないこと, 自分の仕上げ具合を本当に心から喜ばないことで,常に心のうちで, またこの目のうちにもう一つ進歩を求めようとすることです。」-ルオーのシュアレス宛て書簡 1193年11月1日
著者
川上 具美
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学人間科学論集 (ISSN:18803830)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.121-134, 2019-02

日本におけるテスト政策もアメリカ同様に学校現場の教員に影響を持ち始めている。2018 年8 月2 日付けの日本経済新聞には次のような記事が掲載された。大阪市の吉村洋文市長は、2019 年度から学力テストの結果しだいで、校長や教員のボーナスに当たる「勤勉手当」を増減させたり、校長の裁量で使える予算を変動させたりなど、教員評価として活用すること検討すると明言したというのである。テストの結果を、教員評価や学校予算の裁定に利用することによって、米国の公立学校は民営化に追い込まれていることを考えると、今後日本の教育が向かう先が米国のようになるのではないかと危惧されるところである。学力テストは、「学力・学習状況調査」であったはずだが、テスト結果が公表されると現場はただの調査では済まされなくなっている。日本の教育におけるテスト重視の傾向は「脱ゆとり」から急速に高まり、学校教育では学習内容、授業時間数や日数も急激に増加の一途をたどっている。しかも、そうした傾向は日本が「脱ゆとり」路線を歩むようになった2003年のOECD のPISA(生徒の学習到達度調査)において、一位をとったフィンランドとは真逆の方向に向かっている。西南学院大学に客員教授として来日されたノルウェーのオークレー教授(Bjorn Magne Aakre)によると、北欧のフィンランドとも同様の歩調をとっているノルウェーでは、1997 年に徹底した学校改革が行われ、教育はテスト重視から学び重視の姿勢へと転換したという。伝統的な一斉授業のスタイルを取る教師も少なからずおり、そうした人々からの批判も寄せられたが、法律によって問題解決学習といったプロジェクト型の授業スタイルを取ることが義務とされ、徐々に浸透していったという。1990 年代末といえば、奇しくも日本でも総合的な学習の時間などが導入される時期でもあった。それから、数十年が経つが、フィンランドを初め北欧からベネルクス三国にいたる国々において、一斉授業のスタイルはほとんど取られていない。しかし、それとは反対にこの数十年で、日本において経験主義的な学び、問題解決学習などは学習内容の増加とともに鳴りを潜め、さらに追い討ちをかけるように、先の学力テスト実施によって小学校でもテスト対策の授業が行われるなど一斉授業のスタイルが低年齢化し、またその時間数も増加しつつある。次々と改訂が進む新しい学習指導要領では、学習内容が増加の一方で思考力の育成などの一見テスト政策とは反対のような指針が示され、新しい大学入学のための共通テストでは、それをテストで測ろうとしている。このような日本の教育の向かう先はどんな未来が待っているのだろうか。ここでは、暗澹たる惨状を晒しているアメリカの教育事情について、そのテスト政策と学校の民営化を浮き彫りにすることによって、日本の教育への警鐘としたい。
著者
藤野 功一
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学英語英文学論集 = Studies in English language and literature (ISSN:02862387)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.67-85, 2016-03

1980 年代にはじまるフランシス・エレン・ワトキンズ・ハーパー(Frances Ellen Watkins Harper, 1825-1911)の『アイオラ・リロイ、または、取り払われた影』(Iola Leroy: or Shadows Uplifted, 1892)の再評価は主にフェミニズムの観点から行われており、最近ではコリーン・T・フィールド(Corinne T. Field)の論文「フランシス・E・W・ハーパーと知的成熟の政治学」("Frances E.W. Harper and the Politics of Intellectual Maturity")が示すように、この小説をアメリカ黒人女性の知的精神史につらなるものとして評価する傾向が高まっているが、ここではハーパーの小説のアメリカの知的系譜への貢献をさらにはっきりさせるために、『アイオラ・リロイ』を、アメリカ独自の哲学であるプラグマティズムの系譜に連なる作品として読んでみたい。2004 年の論文「19世紀後半から公民権運動の黎明期までの黒人女性歴史家たち」("Black Women Historians from the Late 19th Century to the Dawning of the Civil Rights Movement.")で、ペロ・ガグロ・ダグボヴィー(Pero Gaglo Dagbovie)は、ハーパーが「奴隷制時代と彼女の生きている時代を、実際的かつ政治的な目的のために関連づけた」 と論じて、ハーパーが現実への効果を重視する女性知識人の一人であることを示唆していたが、その後、彼女の小説『アイオラ・リロイ』を、プラグマティズムの系譜のなかに位置づけようとした論文は、ほとんど現れなかった。しかし南北戦争以前からすでにアフリカ系アメリカ人女性として奴隷廃止を積極的に論じ、ジャーナリスト、詩人、禁酒活動家として活躍してきた実践的活動家のハーパーが書いた小説は、人間の行動をその社会変革の意思とともに評価するプラグマティズムの立場から読み解くことによって、よりその意図が明確になるだろう。『アイオラ・リロイ』における女性主人公のまじめに社会改革を求める態度を、アメリカのプラグマティズムの系譜につらなるものとして論じることによって、この作品の文学的評価を定めることにしたい。
著者
青野 太潮 アオノ タシオ Tashio AONO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.25-38, 2006-03

玉井忠純氏は、1938年生まれで、東京大学法学部を卒業後、1998年に退職するまで三井信託銀行に勤務した。宮司の息子でありながら、大学在学中から文語訳聖書に親しんでいたが、福岡勤務中の1980年に、私が協力牧師をしている平尾バプテスト教会でバプテスマを受けた。現在は津田沼バプテスト教会の会員である。著書に『パウロ様への恋文』(文芸社、2000年)があるが、その経歴が示すとおり、玉井氏はギリシア語の専門家ではない。しかし、大いなる熱意をもって古典ギリシア語をまず学び、その上で新約聖書のギリシア語の原典を丹念に読んでいる。毎夏信州伊那谷において私青野が講師として招かれて開催されている新約聖書原典講読塾(主催者はそれを青野聖書塾などと呼んでいるが)の、熱心な参加者でもある。そのような学びの過程で、玉井氏は土岐健治氏の『[改訂新版]新約聖書ギリシア語初歩』(教文館、1999年)からも学び、そこから以下のような批判文を認め、さらに、極めて独自な「原初的ギリシア語動詞に関する推論」をも展開した。玉井氏の文章を私青野が逐一監修したので、文責は私にも等しくあるが、「素人」の玉井氏の述べる内容には傾聴すべきものが多く含まれていると思うので、以下に私の責任で本稿を本『神学論集』に掲載することにした。もちろんこのような批判は、本来、日本語の、そしてまた欧米語の他の多くのギリシア語文法書との折衝の中で比較検討しつつ展開されるべきであることは言うまでもないが(もっとも玉井氏は、すでに大貫隆著『新約聖書ギリシア語入門』〈岩波書店、2004年〉への批判文をも書き上げている)、しかしこれ自体でも大きな意味をもっていると思われる。議論の深化へのきっかけの提供となり得るならば、それはわれわれの喜びとするところである。
著者
須藤 伊知郎
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.199-238, 2014-09-01

親愛なる神学部長の片山さん、親愛なる同僚、学生の皆さん、そしてここにお集りの皆さん、親しくお招きを頂きまして大変有り難うございます。好意的なご紹介を頂き、心から感謝いたします。実は何とおっしゃっているか分からなかったのですけれども(笑)。そしてこの西南学院大学で講演をする機会を頂き、本当に有り難うございます。これは新約聖書神学の中心的なテーマについての講演です。すなわち、史的イエスとケーリュグマの関係、つまり、初期キリスト教のイエス・キリストについてのメッセージおよび史的な研究と信仰の関係がテーマです。キリスト者にとってイエスははるかに単なる人間以上のものです。しかし何がこの〔単なる人間以上の〕「余剰価値」なのでしょうか?どのようにして、最初のキリスト者たちは彼をそれほど〔単なる人間〕より以上のものであると看做すことが可能になったのでしょうか?どのようにして私たちは、史的イエスからケーリュグマ〔宣教〕の神の子への移行を理解することができるでしょうか?これは一つの史的な問いでもあり、また一つの神学的な問いでもあります。すなわち、史的な問いによって私たちは史的現実と触れ合うことを期待し、神学的な問いによって神と触れ合うことを期待するのです。いずれの場合も接近の仕方は、私たちがその問いに〔向かう時に最初から〕持ち込む姿勢に左右されます。私たちは自分たちの資料が、史的方法の助けを借りて読めば、史的現実への道を拓いてくれる、と信じているはずです―― 資料の向こう側に歴史を認識することが果たしてできるのかというポストモダンの懐疑があるにもかかわらず。同じように、私たちは一つの宗教的な姿勢が(たとえ私たちにとってそれが科学的な方法のようには自由にならないとしても)神的な現実との触れ合いを可能にする、と信じているはずです―― 神は人間の想像の産物かもしれないという現代の宗教批判と懐疑があるにもかかわらず。現代神学の一つの決定的な問題は疑いなく、現実に対する史的(あるいは経験的)な接近の道から神学的な接近の道への移行です。この移行は私の見るところでは、私たちの姿勢と認知的な枠組みにおける一つの変化にかかっています。しかしそもそも、私たちがイエスを史的に見る場合と彼を神学的に解釈する場合とでは、何が変わるのでしょうか?これが私たちの問題です。史的・批判的な方法論は、一方で私たちが一次資料の助けを借りて答える一連の問いと、他方で〔それらに対して〕可能な答えの〔解釈をする〕ための一連のカテゴリーで構成されています。イエス研究の中では、最近30年の間に一つの方法論の転換が起りました。1950年代に始まった研究は、真正な、イエスに遡る素材を発見する手段として「差異の基準」〔criterion of dissimilarity〕を用いて作業を遂行しました。〔そこで立てられた〕問いは、イエスが一方でユダヤ教と他方で初期キリスト教と違っているのはどの点なのか、どの伝承がユダヤ教においても初期キリスト教においても類を見ないものなのか、というものでした。類例のない伝承は史的〔に真正である〕と判断され、一貫性の基準〔criterion of coherence〕の助けを借りて補われました。この基準は、類例のないイエス伝承と調和している他のすべての伝承を史的であると看做すものでした。その結果〔史的と判断されて残ったもの〕は、比類の無い啓示の主張という観点で解釈されました。この方法によれば、史的な姿勢から神学的な姿勢への移行は問題とはなりませんでした。史的な接近方法〔自体〕がすでに〔史的な類例の有無を問うたわけですから〕、歴史を超越していると思われる伝承に焦点を当てていたのです。しかし時が経つにつれて、差異の基準は史的蓋然性の基準に取って代わられました。イエスは今やユダヤ教の歴史の枠内で、そして初期キリスト教の出発点として解釈されます。私たちが今や問うのは、何がユダヤ教の文脈における個別的な現象として理解できるものなのか(すなわち、文脈上の蓋然性〔contex-tual plausibility〕)、そして何が初期キリスト教の成立と史的イエスについての資料の多様性を説明できるものなのか(すなわち、影響史的蓋然性〔effec-tive plausibility〕)、ということです。私たちがここで探しているのは、初期キリスト教の全般的な傾向に反する孤立したモティーフに加えて、初期キリスト教のイエス伝承の様々な流れに繰り返し現れるモティーフです。史的蓋然性の二つの観点―― 一方でユダヤ教の中での文脈上の蓋然性と、他方で初期キリスト教の中での影響史的蓋然性―― は原則として独立しています。この方法論〔を採用すること〕によって私たちは、初めから人間としてのイエスに史的に接近する道を優先させます。すなわち、ユダヤ教の歴史に合わないものは、真正ではあり得ません。逆に、この〔ユダヤ教の〕歴史に合うものだけが、史的イエスに帰されることができます。イエスはユダヤ教の歴史の産物であり、同時に初期キリスト教の(必ずしも唯一のではないにせよ)一つの起源であるはずなのです。史的イエスから初期キリスト教のケーリュグマへの移行を分析する際、私たちはまず史的な問いに取り組みます。すなわち、何をイエスは自分自身について語ったのか、何を最初のキリスト者たちは彼について語ったのか、なぜ彼(女)らは、イエスが自分自身についてそもそも語ったであろうことよりはるかに多くのことを彼について語っているのか、ということです。私たちはイエスの神性についての発言を理解しようと試みているにもかかわらず、これらは史的な問いであって神学的な問いではありません。しかし、これらの史的な問題と取り組む中で、私たちは繰り返し神学的な問題に出くわすでしょう。それはすなわち、何を他の人々がかつてイエスと神について考えていたかということだけでなく、何が今日イエスと神について妥当するのかということも問う、ということです。講演の終わりに、私はこの史的な接近方法から神学的な接近方法への移行について直接考察するつもりです。私は認知宗教学に基づいて、この移行を進める一つの試みをスケッチするつもりです。これは、宗教に対する非常に世俗的な、そして非宗教的ですらあるアプローチではありますが、私たちが歴史から信仰への移行を理解することを助けてくれるでしょう。