著者
古川 隆久
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.6, pp.1-35, 2019 (Released:2021-09-02)

立憲政友会の有力者であった前田米蔵は、5・15事件(1932年)後における政党政治批判の高まりに対し、いち早く1933年に「日本独特の立憲政治」論を主張した。日本の議会は天皇が設けたことを強調し、天皇の権威の下に議会政治、政党政治の正当化をはかったのである。 さらに前田は、貴族院議長近衛文麿を党首とする立憲政友会と立憲民政党の合同(保守合同)による近衛新党構想を進めた。近衛は議会外諸勢力の支持を得て首相候補と目されていた。前田は、二大政党による政権交代ではなく、近衛新党という、議会外の勢力とも連携する形による政党内閣の復活をはかったのである。 しかし、近衛新党が実現しないうちに1937年に第一次近衛内閣が成立し、日中戦争が勃発した。日中戦争の収拾に苦慮した近衛は、1940年6月、戦勝に向けた強力な挙国一致体制の実現のため新体制運動を開始し、7月に第二次近衛内閣を組織した。 近衛は挙国一致強化のため、新党ではなく、議会を含む各勢力の協調体制の確立をめざしていた。しかし、近衛の側近たちは全体主義的な政治変革をめざし、前田ら衆議院の主流派(旧政友会・旧民政党)は、議会勢力中心の近衛新党の実現をめざした。「日本独特の立憲政治」論によれば、挙国一致の中心はあくまで議会だったからである。 1940年10月に発足した大政翼賛会は全体主義的な色彩が強かった。前田は、近衛との信頼関係と難題処理の実績を評価されて大政翼賛会議会局長に起用された。しかし、前田をはじめ議会の大勢は翼賛会の全体主義的色彩に不満を抱いており、議会は大政翼賛会の改組や、議会弱体化政策の阻止に成功し、前田は衆議院勢力の指導的立場を保つことができた。近衛新党は実現しなかったが、政府の割拠性が続く限り、議会新党による政府の統合力回復という衆議院勢力の主張の正当性が失われることはないからであった。
著者
岡本 託
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.4, pp.1-33, 2019 (Released:2021-08-26)

本稿では、アン県およびドローム県をケース・スタディーとして、近代フランスの行政制度が複雑化と拡大化を経験した、第二帝政期の地方幹部候補行政官である県参事会員の登用を分析し、専門職化の実態解明を試みた。 まず、数値的分析から、第二帝政期県参事会員の性質変化をみてみると、年齢では時代が進むごとに若年化が進み、出身県ではあらゆる地方出身の若者が両県に赴任したことが明らかとなった。また、経歴面では、第二帝政期の県参事会員は短期間に多くの県と公職で職歴を積み、地方幹部候補行政官として養成されていったのである。 次に、叙述史料の分析から、以下のことが明らかとなった。第一に、請願書における候補者の属性に関する記述は、第二帝政期になると、前任者や父親からの公職継承は衰退することとなり、七月王政期に比べて属性的要素は減少したといえる。第二に、請願書における候補者本人の能力に関する記述は、七月王政期と第二帝政期ともに、性格に関する主観的な評価、教育からもたらされた行政知識に関する評価、そして公職の現場での経験に対する評価という三つの評価基準が中心に記述されていたが、第二帝政期の県参事会員の性質変化により、候補者本人の能力がより詳細に記述されるようになった。また、第二帝政期から、多くの県参事会員登用者が知事官房に関わる職を経験することにより、行政的能力を磨いていった。 最後に、C・シャルルは、支配的原理としての属性主義の原理がまだ優位であった1830年代から1880年代にかけて、能力主義の原理が徐々に浸透していったとし、その転換点は第三共和政期初頭であると指摘した。この見解を地方幹部候補行政官に当てはめてみると、第三共和政期初頭の転換の準備は第二帝政期に既に整えられていたのである。
著者
付 晨晨
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.2, pp.1-35, 2019 (Released:2021-08-26)

類書は、魏晋南朝時代に新たに出現した書籍であり、経史子集の各文献から網羅的に集めて抄撮配列し、テーマごとに纏めた、百科全書のような資料集である。本稿では、知識の資料庫という役割を担った類書の発展経緯を考察することで、初期類書がもつ意味、編纂される契機と背景を検討し、漢唐間の知識の整理と受容のあり方を考察する。 目録に収録された類書を見ると、唐代までの類書の範囲は限られており、『皇覧』を強く意識した一連の書籍を指している。この理解から類書の発展を見ると、曹魏の初期に編纂された『皇覧』は、後代類書の規範ともなった南北朝末期の梁・北斉編纂の『華林遍略』『修文殿御覧』との間に、二五〇年ほどの開きがある。この空白期間は『皇覧』と斉梁類書の内容と歴史背景の差異を示す。 唐代では、内容を選別せずに政治に無益な見聞を幅広く収録する初期類書の性格が批判された。初期類書と直接に書承関係を持つ『藝文類聚』の引用書の分析から、かかる類書には魏晋以後の雑伝·地理書を大量に収録する特徴があることがわかる。これは唐代が批判した「政治に無益な見聞」にあたる内容である。曹魏初期に編纂された『皇覧』がこれらの書籍を収録することは不可能なため、『皇覧』と梁代類書との間に大きな差が認められる。帝王に必要な知識を纏める類書の発展には、斉梁代を境に、経書を中心とする『皇覧』の通行する時期と、魏晋以降の史書を多く収録する新型類書の通行する時期という、二つの段階が認められる。 類書が、漢代以前の知識を主とする『皇覧』から、魏晋知識を「典故化」した斉梁類書へと変化した背景には、知識の整理と体系化における当時の王朝の需要と、文化を経由して政治的地位の上昇を求める下級士族の動きがあった。
著者
莊 卓燐
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.2, pp.36-59, 2019 (Released:2021-08-26)

漢初において、高祖皇帝劉邦は近臣との関係を保つために、「符を剖かち、世々絶ゆる勿し」の約束を交わしたが、伝世史料には符の正体について明記されていない上、諸家の注にも検証されることがない故、約束の内容は不明確である。従来では、この符を功臣の特権的な地位の永続(封爵之誓)と関連させて考えるが、本稿では西北簡の研究成果を踏まえ、通行証としての符を伝世史料の条文に当てはめて考える。 第一章では、戦国から漢初までの中華世界の地域観念の変遷を考察し、秦の「統一」、楚(項羽)の封建制の復活、漢の郡国制、一連の流れを整理し、戦国~漢初における地域観念の連続性を指摘し、符の通行証としての理解の適用範囲を確認する。 第二章では、漢初における諸侯王との剖符を考察する。楚漢戦争の中で、漢は同盟する諸王国を警戒すべく、符を用いて東西を繋ぐ関所の弛緩を掌握した。その体制は、漢帝国が都を檪陽から長安へ遷しても継承され、関中地域の地理的優勢を活かし続けたと考えられる。 第三章では、漢初における列侯との剖符を考察する。漢初の支配領域の拡大および支配体制の維持に対応すべく、漢は列侯を対象に剖符する措置を施す。その中には、「符を剖かち、世々絶ゆる勿し」の条文が示すように、自由に関中地域を出入りする特権を永続的に所持する特殊な剖符事例が見られる。 第四章では、『里耶秦簡』と『張家山漢簡』を手掛かりに、列侯と徹侯との改称事情を整理し、中国古代社会における流動性の変化を指摘する。 中国古代帝国は、地域と地域との移動が厳しく規制される環境であった。人間の移動を規制する国家意志は、専制権力の形成に影響する。その下で、移動規制を解除する符は、単純に通行証としての機能を果たしたのみではない。信頼関係に基づく通行許可は、人と人の絆を深め、漢皇帝による符の下賜は功臣たちとの人的結合関係を維持する役割を持つと論じる。
著者
内田 康太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.3, pp.40-64, 2019 (Released:2021-08-26)

共和政末期ローマの政治史研究において、国民が政治的な意思決定に対して重要な役割を果たしたことは、今や広く受け入れられている。こうした研究潮流を背景に、近年、コンティオと呼ばれる政治集会で聴衆の示す反応が、法案の成否を左右する要因として度々指摘されてきた。そのなかで、前59年の執政官C・ユリウス・カエサルが提出した農地法案の立法過程は、一見すると、彼がコンティオの利用を主眼に据えた立法戦略に着手し、元老院の意向に反しながらも、法案の可決させた様子を伝えているために、上記の指摘を例証する一例となる。 しかし、カエサルの行動を立法過程全体に渡って詳細に再検討することで、実際のところ、彼は一貫して法案に対する元老院の反対表明を回避するべく尽力していたことが明らかになる。カエサルは、元老院から反対を導出しない法案の起草に努めるとともに、多数の元老院議員たちが反感を議場外に伝えようとするや、直ちに元老院を閉会させる措置に着手した。また、法案の公示後、カエサルとその支持者たちは、コンティオにおる演説によって、自身の法案が元老院の支持を受けていることを喧伝すると同時に、執政官職に付帯する権能、ならびに、暴行の脅迫のみならず実際の暴力行使をも利用して、敵対側から意思表明の機会を剥奪する。カエサルの農地法案は、以上のような立法戦略を成功裡に展開し続けた結果として可決されたのである。 従って、コンティオが立法過程の他の段階と同じ目的を果たすために利用されていることは、立法に際して、この場面に特別の重点が置かれたと解する立場に疑問を投げかける。そればかりか、本稿で見出されたカエサルの立法戦略の焦点に目をむけるならば、法案の帰趨を決定づけた要因は、コンティオで示される聴衆の反応ではなく、元老院による反対表明の有無であったことが指摘できる。
著者
奥 健太郎
出版者
日本選挙学会
雑誌
選挙研究 (ISSN:09123512)
巻号頁・発行日
vol.34, no.2, pp.33-46, 2018 (Released:2021-07-16)

1955年自民党政権は事前審査制という新しいルールを導入した。自民党はいつ頃,どのようにして,この新しいルールに適応したのだろうか。本稿は『衆議院公報』の会議情報を数量的に分析することにより,その適応の時期が1959年であったことを明らかにした。このことは1959年から閣法の事前審査が円滑に進むようになったことから裏づけられた。また事前審査を円滑にした要素として,第一に政調会が1958年の「政策先議」以来,予算編成過程に深く関与するようになったこと,第二に1950年代後半,政調会の部会が増員されるとともに,周辺会議体や下位会議体が大量増設され,政調会の政策決定への参加の機会が拡大されたことを指摘した。