著者
田中 祥子
出版者
東京大学大学院教育学研究科学校開発政策コース
雑誌
東京大学大学院教育学研究科教育行政学論叢 (ISSN:13421980)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.125-152, 2007-03-30

&lt;共同論文:分権改革下の教員給与法制改編に伴う自治体教員給与・人事政策の課題と国際比較研究&gt;<Collaborative Research : Ⅰntemationaland Domestic Compamtive Studies on Local Govemments'Teacher Salary and Personal Affairs Policy with the Changing of the Legislation of Teacher Salary under Decentralization>
著者
鎌田 正利
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻
巻号頁・発行日
2011-03-24

報告番号: 甲26963 ; 学位授与年月日: 2011-03-24 ; 学位の種別: 課程博士 ; 学位の種類: 博士(獣医学) ; 学位記番号: 博農第3716号 ; 研究科・専攻: 農学生命科学研究科獣医学専攻
著者
沖津 由紀
出版者
東京大学教育学部
雑誌
東京大学教育学部紀要 (ISSN:04957849)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.105-115, 1991-03-30

The Japanese people show remarkable adherance to their academic achievement, though it does not have so strong influence on their socio-economic status as in other societies. This paper attempts to explain why academic achievement has such symbolic and mental prestige in Japan. This prestige is not only seen in the educational system, but also in various scenes outside the educational sphere. Therefore it is possible to regard the prestige of academic achievement in Japan as one of the linkage-patterns of the educational system to its environment. I show an alternative theoretical framework after examining how the possibility of education-outer linkage has been explained by pre- dominant theories. I contend that the highly symbolic and mental prestige of academic achievement in Japanese society derives from that function as a medium linking the educational system to its environment. Unlike Euro-American societies, the Japanese educational system links to its outer society almost only through the academic achievement as a symbolic medium.
著者
森 重雄
出版者
東京大学教育学部
雑誌
東京大学教育学部紀要 (ISSN:04957849)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.75-101, 1989-03-30

This paper presents a history of sociology of education. However, following discourse is not a textual one, because it is written from author's particular standpoint named "schoolization theory". The object of this historical review of sociology of education is to delineate the significance of schoolization as one of the themes in this discipline. So we engage to connect the development of sociological object-identification for education which is summarized in three stages, that is pre-sociology of education, orthodox sociology of education, current sociology of education, with the concept of schoolization. In this respect, following discourse is not merely an academic history of sociology of education, but lays an underplot to demonstrate the importance and possibilities of "schoolization theory" in sociology of education.
著者
大石 豪
巻号頁・発行日
2005-03

報告番号: ; 学位授与年月日: 2005-03- ; 学位の種別: 修士 ; 学位の種類: 修士() ; 学位記番号: ; 研究科・専攻: 新領域創成科学研究科基盤情報学専攻
著者
相馬 隆
巻号頁・発行日
1989

本論文は葱嶺(Pamir高原)より地中海,SyriaのAntiochiaまでの隊商による道程即ち,今から約2000年以前〔時あたかも安息国(Parthia),前漢・後漢が殷賑を極めた頃に当たる〕のシルクロード西半分が如何なる形勢事情にあったか,その全体像の解明を目的とし,漢籍に点綴し,秦西古典に僅少ながらも散見する所請「西域」諸国の地名・国名の考証,及び東洋史,考古学,東西美術交渉史上の碩学の研究による残余にして懸案の重要事項の究明をおこなったもので,以下の如き構成より成る。 第一章 白印度,Parthia領東端AlexandropolisよりSyriaのAntiochiaまでの道程(全体を39節に分けるが,節以下は省略した。) 第二章 所請「飛橋」Zeugmaより大秦の都城,烏遅散城(Antiochia)方面に至る道程 第三章 安息東界Antiochia Margiana(Merv.本鹿城)とBactria間の道程 第四章 烏弋山離道(Arachosia Drangiana方面)より,Carmania砂漠を経由,ペルシア湾頭,条支国(Susa Susiana),于羅国(Spasinu Charax)方面に至る路程 第五章 安息国北方路 第六章 阿蛮国(Ecbatana)より,斯賓国(Ctesiphon)を経て,河水によりペルシア湾頭,于羅国(Spasinu Charax)に至る道程 第七章 安息国本土より南,Elymais Persis方面に至る行程 第八章 斯羅国(Seleucia)より安谷城(Orchoi)を経てペルシア湾頭に至る路程 第九章 ペルシア湾頭,于羅国(Spasinu Charax)より,アラブのまちHatraを経由,驢分城(Edessa),Hierapolis-Bambyce方面への道 第十章 Euphrates河上より且蘭国(Palmyra),氾復国(Damascus)方面に至る道程 第十一章 且蘭国(Palmyra),氾復国(Damascus)より海西海北諸国およびペルシア湾頭諸国への路程 第十二章 且蘭国(Palmyra)と海西南道諸国の路程および,『魏略』に見える「于羅国」(Hauran)の位置 第十三章 積石(Hamad),犂[カン]国(Petra)等,いわゆる海西南道諸国の旅程と西南アラビア(全489頁 昭和57年10月25日刊 東京新聞社出版局)莎車(Yarkand)または皮山(Guma)よりTashkurganに至り,懸度の険を越えて,□賓(Gandhara)に達し,更に西して樸桃(Kabul)に進み,此処から南して,西域南路の終極,安息国統治の東端,パルテイア人の「白印度」と呼称し,漢人の烏弋山離国の疆域と見なしたArachosiaのAlexandropolisに到達した東西の商賈は,これよりさき,安息国領内の所請王道を辿る事となるのである。 Arachosia,Drangianaの項では,所請塞族の南遷,烏弋山離国興起の問題を説き,□賓,樸桃,大月氏との位置関係を観じ,気候・地理・風土に加えて,自らに依るパルテイア時代の一大完好遺跡,Kun-i-Khwajaの実査の結果に就いても叙述している。 このあたりから先は,『漢書』西域伝,烏弋山離国の条に「至烏弋山離,南道極矣,転北而東,得安息」とあり,Isidorusの『パルテイア駅亭誌』にも同様に見えるので,AreiaのAlexandria,Antiochia Margiana(Merv,『後漢書』西域伝の木鹿城)あたりまでは,峻険なParopamisusの山塊,渓谷,平原を点綴する北方への道となるのである。著者は,漢使が初めて安息王と会見した安息東界,即ち,Antiochia Margianaが東西の枢要の地であった点に就いて述べ,ついで,Isidorusに依れば,王家の墓があるとされる『漢書』西域伝,安息国の条に記される「番□城」Parthaunisa(古ニサ)の都城の問題,そしてNisaの名称と大宛国,弐師城の天馬(ニサの馬,パルテイアの馬)の問題にまで,言及している。 次に始祖Arsaces(竜の子)の即位の地と,不死の火とナフタ炎,そして,恐らくは其れを使用したと思われる所請幻術の一つ,漢代の人々の目撃したであろう吐火の術,至福の地,Hyrcania,そしてComiseneの安息の夏の都,Hecatompylosの位置の問題,Coarenaの狭い谷,燃える岩と塩水の隘路を抜ける所請Portae Caspiae(カスピの門)の所在に就いて考証する。 ついで,Ragae(今日のテヘランの南)を通過,Mediaの都城Ecbatana(漢籍の阿蛮国)を経由,Concobarの大神祠に至る。此処では実査に基づく同遺跡と主神,Anahita女神とSyriaのSemiramis誕生説話の有機的関係が究明される。海抜3000メートル以上のZagrosの高峻な山々の峡谷を縫い,西南方向に向かい,Bisitun〔Baghistanon Oros(神の山)〕では,Darius大王戦勝記念碑の,紀元前後に於ける東西の旅客の呼称である「Semiramisの柱」について考証し,ついで下方Mithradates二世と四人の大守の図像にふれ,漢の武帝との使節交換とその歴史的意義について論述している。 此処から先は,Mediaの境界,Zagri Porte(ザクロスの門)を越えて, Tigris河右岸,Sitacene(漢籍の思陶国)を経由,東西の枢要の地,マケドニア人の創設にかかる,Seleucia(斯羅国),そしてパルテイア人のCtesiphon(斯賓国)に至るのである。叙上のTigris河畔の都城より離れ,道はやがて王の河を経由して,Euphrates河上のNeaplis方面へと向かい,ローマ東方領,パルテイアの国境(Euphrates河は,安息とローマ東方領の国境線)に戦略上も含めて,数多に渡り点在する宿駅をEuphrates河上に西北方し,東西の旅客の等しく通過した,路程の分岐点たるEdessa(驢分城)方面,そして,Isidorusの『パルテイア駅亭誌』の出発点,安息国の税関たるZeugmaの渡津に至るのである。かくして,著者は,Isidorusの『パルテイア駅亭誌』に準拠し,Arachosis(白印度)のAlexandropolisより,安息国西端のCommageneのZeugmaまでの道程を仔細に復元考証したのち,東西の分岐点のEdessa(驢分城)より,海北国,即ち,Syria Properに至る道程,そして,『魏略』の烏遅散城(白鳥庫吉博士のAntiochia説)の問題をも,博士を支持,論証,解明している。 ついで,内陸部,ことに安息国東界,漢籍の木鹿城(Merv,Antiochia Margiana)と大夏国間の道程に就いて述べ,前述の西域南路の終極,烏弋山離道には今日のイラン南西砂漠を経由して(Carmania)条支国(著者の研究に依れば,Susa,Susiana)におもむき,ペルシア湾頭のEmporiumである于羅国への路程のつらなるものであった事を,藤田豊八博士,白鳥庫吉博士の論戦を機軸に,新文献資料を提出して,証明している。 また,Caucasus,Aramenia方面への所請北方路に就いても解析し,Mediaの首都Ecbatana(阿蛮国)より,Tigris河畔の,前述の斯羅国(Seleucia),斯賓国(Ctesiphon)を経由,著者の考察によるところの,ペルシア湾頭の商販の基地,于羅国(Spasinu Charax)に至る道程の存在に就いても,豊富な資料を駆使して考証している。わけても『後漢書』西域伝,安息国の条及び,『魏略』も共に同名「于羅国」の位置,形勢に就いて叙するが故,その所在は,東洋学上の難問題に一つであった。Hirth,F.博士のNedjef沢北岸のHira説,これを否定される白鳥博士は,Euphrates河上のUra説を揚げられ,『魏略』,『後漢書』共に方位,距離の問題にしても,大いなる誤謬あるものとされておられる。 著者は『後漢書』の「于羅国」は先ず,(1)安息西界の極りと目されていたこと,(2)斯賓(Ctesiphon)より南,九百六十里のあたりに存したこと(後1~3世紀の漢里が,一里,三百歩で414.75メートル,従って九百六十里は,約400キロ),(3)これより南は,海に乗って大秦に通じたもので,これより以南は専ら海路によったものであること,対するに『魏略』の「于羅国」が,(1)氾復(Damascus)の東北あたりに存すること,(2)「于羅」は大秦の属領であったこと,(3)于羅の東北に一河のあったこと等に着目し,疆域の全く異なる二国の存在が彷彿すること,「于羅」を一国の名称とのみ解する時,叙上の二文献の記事は到底,正当に解釈されないであろうことを述べている。従って,『後漢書』の「于羅国」は,斯賓・斯羅あたりから到達が容易で,安息西界の極りに属するペルシア湾の一国,Charax(Spasinu)にひとまず比定している。 Elymais,Persis方面に向かう安息内陸部の略程,Babylon及び要衝安谷城(Orchoi),Arbela,Assur,Hatraの遺跡,且蘭国(Palmyra)を中心に,氾復国方面への路程,及び且蘭国(Paimyra)より海西海北諸国への路程を考察したのち,ついで叙上の『魏略』の「于羅国」については,大秦国(ローマ東方領)の属領であったらしいこと,氾復国(Damascus),且蘭国(Palmyra),賢督国(Jerusalem)あたりに,極めて近接している点,また音韻上の問題からも,氾復の東北,三百四十里,税関があり,東西の旅客の必ず通過せねばならなかったHauran,Aueriaにこれを考定している。また,紅海の表玄関とも目される「海西国」の問題についてもふれ,その見解は極めて気脈に富み,その論証は犂 国の問題に及ぶのである。所請論文後章は,魏略に見られる海西南道諸国,上記の氾復国,于羅国,賢督国,犂[カン]国の道程で,ローマ東方領の路程の復元・考察とも云うことができよう。