ゲンロン形而上学クラブ (@superflat_2)

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自由連想法で得られたデータをコンピュータで処理する際に行われる誤記・誤字のクリーニング作業で整理された語について分析する研究がある。 https://t.co/VyfnJuJkFA https://t.co/QZCZY0j8BN
そして次に、生命論と人生論の類似と相似について。 https://t.co/MqpgnmNjZc
現在のSNSは友人関係を「固定的」にとらえている。ITにまつわる現代の問題は案外そこに大きく絡んでいるのかもしれないと会長は言う。 https://t.co/lns1k1H4Cy
議論の前提を確認しておきたい。 デリダによれば、 パロール(声)は自由な意識的主体と本質的に不可分であり、主体の意図を忠実に再現しうる。対してエクリチュール(文字)は、その主体と切り離され、 従って主体の意図に背く可能性がある。これがフッサールの前提である。 https://t.co/r6iSpZ2B4c
会長が再び椅子から立ち上がるのが見えるが当然である。なぜなら、 超越論的な言語は、常に内世界的な語彙を必要とするために、その誤解(超越論的仮象)を払拭できないからである── https://t.co/JQtfCKa1zm https://t.co/ikwOSiuAmi

2 0 0 0 OA 顔と顔貌性

しかし斎藤環は、象徴界においては空虚な中心でしかない点に、顔=固有名を置くことによって、その裏面にラカン理論では語り得ない現実界の側での論理への経路を見出そうとする── https://t.co/xQWA4IbbiM
マティスの赤のハーモニーが、しかし元は赤ではなかった理由はなんだろう。ウィトゲンシュタインは言っている。 たとえば二つの色が視野の同じ場所に同時に存在することは論理的に不可能である── https://t.co/CXCrZgtJ8m https://t.co/f2o4lbrz5g
言語行為論における認知症患者の発話・作話の研究 https://t.co/z4WEGFOFNU
ルーマン(ユージーン・スタジオ)は「パラドクスの暴露」で満足するのではなく、さらに「パラドクスはいかにして(盲点としての別の区別の導入によって)脱パラドクス化され不可視化され無害化され、何らかの意味が構築されるのか」まで解明する必要があると考える── https://t.co/EE1flWQj18
夏目漱石『夢十夜』の「第一夜」においては、女の死による「見ること」の失墜を経て、「自分」は再び「聞くこと」に優位を置くようになる。 https://t.co/NPVn02NRcG
@misaRX 実際、死の欲動と資本主義は、そのハイな超越論性において同じ構造をもっている。それゆえ、たとえば消費社会のなかのバックパッカーの存在はパラドキシカルなものである。 https://t.co/sHHWNopX4h
「差延」と並ぶ、二つの「痕跡」の交差について。 https://t.co/NbBv1xHCLQ https://t.co/udWZj66FhI
「riot in lagos」も一字違いで「ラゴスの暴動」から「ロゴスの転倒」へとタイトルを換える。それはデリダがグラマトロジー以前の「暴力と形而上学」で初めて問題にしたことであった。 https://t.co/cGXekJ2QwY
差延は、デリダの初期の理論的段階、中期の文学的段階、後期の政治・倫理的段階の、その表面的な変化にとらわれず、一貫して把握されるモチーフである。 https://t.co/vkJDSYDqBT
デジタルネイティブとマタギドライブの「関係性の美学」をアルチュセールの「出会いの唯物論の地下水脈」から捉えること──「重層的な意思決定」に始まり「出会いの唯物論」に終わるその思想を貫いているのは、歴史における不確定性=偶然性contingence、まさにそれである。 https://t.co/0jk13nN5Wx
ベンヤミンは「歴史家」を「後ろ向きの予言者」とも呼んでいる── https://t.co/UVKYvflTy1
マティスの回顧展までに私たちが探究したいこと。ジャック・ブーヴレスの『ウィトゲンシュタインからフロイトへ』の最終章のタイトルを借りて言えば、それは〝夢の「メッセージ」〟である。 https://t.co/DoZkhjfgqS https://t.co/13tHpWDp6D
再び淡谷のり子の「星降る港のブルース」https://t.co/BIIRCjvsb2 命名儀式の瞬間、まさにその瞬間に存在するものとして、記述の束に還元不可能なトークン的対象が確保される 。一つの固有名を使うことは、 一つの時間的な様相分岐図を指すことだ──https://t.co/4GvmsJzxbi
ドゥルーズの『シネマ』における結晶的体制と非時系列的な時間性のようなものがある。 https://t.co/cOuz5pXPHR https://t.co/JX5jqYX1zR
『シネマ』のドゥルーズは言う。映画には投錨の中心がないというまさにその理由で、中心なき事物の状態へと遡り、それに接近することができる、と。 https://t.co/gCDcg5Zh6x
調子(リズム)に乗ることは、デリダの思想においては、生き延びる(survivreする)ための条件となっている。 https://t.co/4Ca3JFoeU7
なんか見えてきた。 固有名とフィクション─ジャック・デリダの 『耳伝』について https://t.co/UC3FyzkTrA
〝セイレーンの誘いは「過ぎ去ったものの中へ自失することへの誘い」であり、誘いに乗ると、文明と啓蒙からの反動的な自暴自棄的な逃亡となる。そこで文明と啓蒙は「恐るべき自然の復讐」に遭遇する〟 https://t.co/vLgvBqLOS7 エグルストンは、この写真で何を撮ったのか? https://t.co/3d7QPfUK4c https://t.co/4WqvOpvlid
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で、「世界が私の世界であることは、この言語(それのみを私が理解するところの言語)の限界が、私の世界の限界を意味することのうちに示されている」と言い、「思考し、表象する主体などない」と続ける。 https://t.co/R7suoHYLzC
BOOKCONでゲンロンの二人がすでに先回りして仕掛けていたように、ウィトゲンシュタインは色の論理を規定しているのは言語ゲームであると主張し、その規則の恣意性を強調したのである。 https://t.co/MG0tzamb0n https://t.co/IZRKwjVfgG
ギリシア哲学では、魂のもっとも主要な部分は統括的部分であり、それによって表象や衝動が生じ、そこから言葉が発される。まさにその統括的部分は心臓の中にあるとされた。 https://t.co/NyGW5ZDwTQ
カワイイ概念には不気味な要素が含まれている── https://t.co/AhAz6XHShG
前スレッドで注目したニーチェ討論会でのデリダとドゥルーズの意見の相違は、デリダの〈原‐痕跡〉の思想とドゥルーズの〈シミュラークル〉の思想の相違として見ることができる。 https://t.co/w68GXmnjRW https://t.co/zxuhiXfRtN
ごめん、ちょっと何言ってるか分からない。実際のところ、福田美蘭のゼレンスキーは、リオタールの崇高論のパロディなのでは。リオタールはニューマンの絵画「英雄的にして崇高なる人」と『崇高はいま』という著作を取りあげ、彼の〈いま (now)〉概念について分析を試みた。 https://t.co/JUsIDIKnJo https://t.co/uKqfM0fpMs https://t.co/NTFWTg4bSM
ジャン=クレ・マルタンは言う。デリダにとって、差延〔différance〕 は言語学に無縁な竪坑や穴の諸形態に倣っていると。 https://t.co/w68GXmnjRW https://t.co/LnUC3OTCsI
社会学においては、一般に行為は目標達成によって定義されるが、言語行為論の場合、行為遂行を定義するのは、その不発(misfire)と不運(infelicities)を通じてのみである。 https://t.co/wEFh9MiOE3 https://t.co/HyEPqAfYo9
ところでこの議論にも関係する昔話として、かつて荒木優太は会長の『弱いつながり』が確率論者の書いた偶然論であることが分からなかった。ゆえにそこで偶然はラプラスの『確率の哲学的試論』と同じく、自分の無知に帰されるだけであったのである。 https://t.co/OrcGKY8O1t https://t.co/VyvnTSpfqG
メルロ=ポンティの後期哲学は、遺稿「絡み合い─キアスム(交叉配列)」で展開されている「肉」の概念と、そのあり方としての「可逆性」によって説明される。しかし何故「動物」ではなく「肉」なのか? おそらく「動物」だとハイデガーと同じ哲学上の問題が生じるからだ。 https://t.co/NvgZJTF6BR
デリダは「テクストの外部というものは無い」と言った。言語起源論(神が「光あれ」と言われた、すると光があった)のアポリアは、言語の外に出ることができずに、言語を捉えようとするところにある。 https://t.co/aYWPs3w1D7 https://t.co/y73waGnZXP
実際、スクイグル・ゲームを意図して説明したりマニュアル化することは、意味を持たないばかりか害にもなりうる。言語化や意味づけに迫られていないのが芸術療法自体の長所でもあるからだ。 https://t.co/bHZXL6Egwp
そこで重要なのは、奈良美智の描く少女が風景をもたない点である。中井久夫が言うように「投影的空間は内的空間の性質を帯びている。それは奥行きや地平あるいはvista を欠いており、その距離は浮動的であって明確に定義しえない」 https://t.co/m2wz3z2M09
中井久夫によって考案された「風景構成法」は、心理臨床において有用な描画法であるにもかかわらず、自殺のリスク評価に焦点を当てた研究等はこれまで見当たらない。 https://t.co/Ss7892CeLo
海上における距離の目測に関する事柄は、古くから関心が持たれていたにもかかわらず、その詳細は今日でもよく分かっていない──https://t.co/z2b8Xt9ZpH
クラスの『Penis Envy』(1981年)のジャケットの表裏を眺めてみる。なるほど、このアルバムが制作された時代には、フェミニズムの理論はベジタリアニズムの倫理によって完成される必要があったわけだ。そこでは女性も動物もモノとして対象化され、搾取の対象とされている。 https://t.co/Zg9cJy6ViR https://t.co/SqZtwWGbCg
大田洋子の原爆体験の記憶は、福島原発事故やコロナ禍を招 いた人災に通底し、その対策も含めて今日への問いかけともなり、二一世紀の世界への警鐘となっていよう── https://t.co/ADRz3X2qDr
ネットでホロコーストの遺骨の写真が出てこない理由として、もうひとつ、死者の眠りを永遠に妨げてはならないとするユダヤの宗教的観点からの規制があるようだ。 https://t.co/T98lkDHws7
しかしハイデガーは、それによって橋の本質は「集約」にあると考えたのであります。 「橋は、それなりの仕方で、大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちを、自らのもとへ集約する」 https://t.co/qWmZxUZRax https://t.co/Xmjdt1B7DJ
近代的な自我が、活版印刷の発明・グーテンベルクの革命によって作られたというのは有名なマーシャル・マクルーハンの説である。自己の内部に文字を介して1対 1で向き合う、この「読む」という行為が、近代特有の「内面」を作り出したのである── https://t.co/rXY8rrXEAd
村上隆の『octopus eats its own leg』については、たとえば、 〝デリダがテクストに虚構的かつ単独的な動物たちを登場させ、虚構的かつ自伝的なテクストを書いたのは、他者性における単独性と普遍性のアポリアを限界まで思考するためであった〟(郷原佳以) https://t.co/osWBcpOlHh https://t.co/g463R5yZ1Z
たとえば、アルトーにとって詩(poème)は通常言語とは違う特異な形式で書かれ、特異な秩序を持っている。そしてこの秩序のなかでは各々の語が、ある種の照応関係(コレスポンダンス)のなかにあり、普段使われる場合の意味とは全く違う意味を持つ。 https://t.co/QeOMoSYp33
西田哲学における「背理」としてのパラドックスは、宗教上の神秘的体験に限らず現代物理学の経験にも見出される。 https://t.co/oUhebTZpnY
会長の言っていた「否定神学」は柄谷行人が『探究Ⅰ』で論じたキルケゴールの文脈から理解されなければならないが、私たちの関心は、そのキルケゴールの思想風土としての「北欧」である。 https://t.co/xnjq0MhtSj
〝痕跡を利用しやすい情報として緻密に外環境にデザインし用意したなら、その世界はささやかではあるが住みやすいものになりはしないだろうか──〟 私たちが家の灯りについて考えているのは、その意味においてである。 https://t.co/KUUVSboMcP
まずは「空の指示」と呼ばれる古典的な言語パズルに触れねばなるまい。これはRussellの確定記述の分析と対でよく知られている。 https://t.co/Hhfis6TSAo https://t.co/2RdRzvUQNC
「直感的操作」「直感的インターフェース」などの言葉は人口に胸灸しているが、その意味や特性についてほとんど明らかになっていない── https://t.co/2UtsIGXEvN
デリダは74年の「マラルメ」と題する短いテクストのなかで、マラルメのテクストの扱いづらさに言及しながら、「批評にとって罠が多ければそれだけ、多くの新たな手続きとカテゴリーを発明しなければならない」と述べている。 https://t.co/m1O8Y2uRrM
東京オリンピックについて、言っていい? 第一に、意味に対する志向性は、一種の選択の操作として記述できる。選択の操作は、異なる可能性の排除と保存によって特徴づけられる──。 https://t.co/UIsCMdMIQf 滝川クリステルさん帰国「おもてなし」で五輪招致(13/09/10) https://t.co/E7LuiMj0aQ
『存在と時間』によれば、世界とは、現存在の実践的活動一般を可能にする道具的指示関連の全体性に他ならない。 https://t.co/MPJoO9DoFU
論集で良治さんは、ラッセンの絵画はまさに「真空恐怖 horror vacui」の実例だとする。(p179) この真空恐怖という心性、さらに尖端、広場、閉所、不潔、赤面などを恐怖する心性とならべて考察することはできないだろうか。 https://t.co/gFX3F1fYdz https://t.co/4nexiJATGd
間隔化〔espacement〕とは字義的には空間的にも時間的にも間をとること〔becoming space〕である。デリダは、原エクリチュールの効果である間隔化の作用によって時間継起の認識、そしてその形式が可能になるとした。 https://t.co/4Ca3JF65FZ
自己啓発本の世界では、エマソンの箴言を巡って「コピペ」と「拡散」が行われ、そうした「伝言ゲーム」の中で、本来エマソンが書いたものではない文がエマソンのものとして誤って後世に伝わってしまっているという。https://t.co/v37EOh4SRS
そしてデリダは『弔鐘』と同時期に執筆した『絵画における真理』のなかで、カントの論述に即しながら、理性は自己のうちの「無能力」という欠如を意識するがゆえに、恩寵、奇跡、神秘というパレルゴンを必要とするのだと主張する。 https://t.co/u7hDUBEbjM https://t.co/rh2sbZTxYk
お言葉ですが、 意味の単位である「テーマ」の多様な変奏・展開によるテクストの網状組織の読解をめざす「テーマ批評」の方法は、形式主義美学を意味のレベルへ拡張する注目すべき試みとして、今日、再評価が必要であると思われる。 https://t.co/VKkoxXJIil https://t.co/V3hHWlYlVD
バンクシーの新作を分析しよう。まず第一に、 ろうそくの明かり→火事のプロセスに関わる部分の考察こそがフロイトにおいて特異であった。それは、感覚と記憶との間をつなぐミッシングリンクであり、https://t.co/kdCKRXS2ea https://t.co/mYN2qFas2q
失礼します。ギリシア語でアムニージア(記憶の喪失)がアムネスティ(大赦)と語源的に密接な関係があることを指摘させてください。 https://t.co/NoyCXPBvpH https://t.co/u36ziV6sMt
アリストテレスは『魂について』の論考において、殴打から愛撫まで思弁している。https://t.co/wfm9XHUbRj https://t.co/NUVzIRm53c
ビートルズの末期、ポール・マッカートニーは髭を生やしている。https://t.co/VQfXACsnRH 反復は、反復する対象において、何も変化させないが、その反復を観照する精神においては何かを変化させる。https://t.co/UGF5sTrxfo
ハイパーテキストとは、各頂点が文書や情報であるような有向グラフである。しかしフロイトの無意識の力学がそれと呼応しているのだとしたら、それは本当に有向なグラフと言えるのか。 参考文献「ユーザのアクセスコストを最小化するハイパーテキストの構成法」https://t.co/PCbgv9uGhN https://t.co/W6mInadxYP
人類の歴史(世界史) を交換様式の観点から捉え直した柄谷「構造」 論は、「福祉の歴史」を発展史観的に捉える立場、例えば「選別主義から普遍主義へ」 「恩恵から権利へ」といった一般的学説とは異なる視点からの描写を可能とする。 https://t.co/m2fiQEDpwH
アンネシュ・ブレイビクと青葉真司。 ウィトゲンシュタインが色彩の純粋文法を否定するようになった理由のひとつは、色彩の同一性に含まれる根本的な不純さの確認であるとされる。 https://t.co/MG0tzaDe2n https://t.co/u3F3lifJ8V
アンネシュ・ブレイビクはウトヤ島で、警察官になりすまして犯行に及んでいた。この拘束時の写真を見て、デリダなら、後ろの赤い椅子にも目をやりながら、こう言うだろう。 “このような全般的な引用性がなければ、成功したパフォーマティヴでさえ存在しないだろう” https://t.co/FE2WM9f9Di https://t.co/sdDHkQhR0U
手を振る天皇について、グレゴリー・カリーの次の指摘から分析を開始しよう。 「コミュニケーションにおいて虚構を考えるならば、書き手側のフリ行為という仮説は、そのコミュニケーションがどのようにして成立するかを説明する上で何の役割も果たさない、と私は考える」 https://t.co/WMiIuZ6NdP https://t.co/I2XOI2xqgN
失礼します。「配慮」という言葉はハイデガーから来ており、この「セキュリティー」の語源、すべてがそこにあります。 https://t.co/e74PR5Lm25 https://t.co/nGKQ2Tbt67
『風景画家による日本の自然「発見」 : アルフレッ ド・パーソンズと大下藤次郎』を読む。 https://t.co/nOCpgaffel
慎重に議論していこう。 郵便本はデリダのフロイト読解における周期性やリズムに注目しているが、生については論じていない。それに対し本稿は間隔化およびリズムという概念が心的プロ セスにおける時間経験と生をいかに条件づけるかという問題を補い、検討する。https://t.co/4Ca3JF65FZ
人間は、概念化することで、現実を認識可能な現実としてあらしめる。スペンサー=ブラウンの「指し示し」をソシュールの言葉で言えば、「思想はそれだけ取ってみると星雲のようなものであって、必然的に区切られているものは一つもない。言語が現れないうちは」 https://t.co/jE6TwpNQlu 塩田千春 https://t.co/9bA0FXnTjN
自伝的記憶は自己の連続性やアイデンティティの基盤となっているが、しかし男女間の自伝的記憶の機能の違いは明らかになっていない。 https://t.co/EcN7wwczUo
“形態的緊密性の原理によれば、統語規則は語の内部を「見ることができない」ことが予測されるのに対して、基体動詞の項構造の継承は、語内部の情報が統語構造において「見える」現象の一つの表れと見なすことができるように思われる” https://t.co/7LTQ2pmeDa https://t.co/j9RKxPSTGc
ついでにジェフ・クーンズの「ハードウェア」についても語ろう。 https://t.co/Jah4NSvyrw 参考文献はニューヒストリシズムの批評家ウォルター・ベン・マイケルズの『金本位制と自然主義の論理』(1987年)である。巽孝之が案内する。 https://t.co/607vq4aehY
あとで読む。「オレゴン州ポートランドにおける持続可能な消費文化」 https://t.co/Gp4ib3yjW8
メイヤスーはハムレットのシェイクスピアと同じく、彼の手に余る問題を扱おうとしている。というのも固有名の剰余=単独性は、ひとが名とその説明、つまり名と確定記述(メイヤスーと思弁的実在論)をセットで受け取ると考えるかぎり説明できないからだ。(郵便的p111) https://t.co/VHPewApvif
たとえば、家の門戸で犬に吠えられる郵便屋のような形で行動を予測・説明する仕方のことをフォーク・サイコロジーと呼んでいる。 https://t.co/Bfj4E1oQnO 偉大な哲学者、それはいつも、ちょっとは大きな郵便局なのだ。郵便配達人が転べば言うまでもなく、行方不明の郵便物が生じる。(郵便的p192) https://t.co/VOdZLBonsK
遺作内部のレプリカの写真と、チェスに興じる晩年のデュシャンの写真には、ご覧の通り、「ミニマル・コンセンサスの条件」 が共通して見出せる。それはデリダの「私のチャンス」では、テレコミュニケーションの転移関係において生じると論じられていた。 https://t.co/MS4CPvQHra https://t.co/2lIFDZ3rHf
「ことば」の厳しさや力を鋭い刃物のイメージで表象すること、殊に身体の「舌」の部分と「ことば(シニフィアン)」とを同化させて表現することは、慣習的なメタファーのひとつであり、図像化された表現においても多くみられる。 https://t.co/J9Slv2FKgr https://t.co/P3QhRIYba2
最果タヒによれば、たひーんうさぎのポイントは、効果音が耳に挟まっているところだという。 https://t.co/p2nlOd6fAO 次のことが指摘されるだろう。 《MIMIQUE》、または mi + mi + que、つまり二度の半分プラス従属 のインジケーションまたは接続法のイミテーション。 https://t.co/T5uOBEd7Ty
意味論的空虚(空白)は、なんらかの意味というより、意味効果が生じる場そのものである。 https://t.co/m1O8Y2uRrM https://t.co/S8JYcclxY0
RT @morita11: インタビューで言及されている博士論文の要旨PDF。 "心霊表象論:心霊イメージの変遷から読み解く「不気味な」表現の可能性 [要旨]" https://t.co/HN0CuLcgCM
平尾受刑者が脱獄したのは、まさしく彼が模範囚であったからこそ、という逆説が指摘できる。 私の嘘を信じよという逆接的な要請がルソーの言語行為の特徴であるならば、盗まれたリボンの一件は、まさしく「模範的な出来事」である。 https://t.co/N0Pa3OzboI
村上隆とヴァージル・アブローがシェイクスピアの作品を共作する様子。 https://t.co/7FxMeNGDRw この後、村上のDOB君がシェイクスピアに重ねてプリントされるが、その重ね合わせに、新歴史主義に対するふたりの批評性が見て取れる。 https://t.co/wxbphz1qOb
理解を確実なものにしていこう。 フォーサイスがマスターしたノンリニアな対位法は、偶然の一致を引き起こすアルゴリズムを用いた作品の構成手法である。ほとんどのダンスには何かしら幾何学的な構成要素が含まれ、ダンスに整然とした秩序をもたらしている。 https://t.co/3qYHzKyrQj
姥捨伝説は太古から存在し現在でも生きている「根源神話」なのであり、社会的には高齢者福祉という文化的な名前を冠して、現代21世紀の大きな問題としてアクチュアルに存在する。 https://t.co/d2Is1xZEQD
「世代」とは具体的にはどのような構造で、いかにして歴史的変動因と考えられるのか、オルテガの世代論から検討してみよう。 https://t.co/bOfVsv2zR8
火星には気象はあるが気候はない。気象学が人間不在でも成り立つ大気の科学であるのに対して、気候学は人間の存在と密着した科学である。地理学の気候学は地球物理の気象学とは〈哲学的〉に違う。 https://t.co/HRulFr8poG
ヘーゲルの『法の哲学』に入ろう。 「分析的行為論とヘーゲルの実践哲学との接点を探る試みが近年関心を集めている。これらの試みにおいて分析の対象となってきた主要なテクストは『精神現象学』と『法の哲学要綱』である」 https://t.co/DaSycrW3hN
晩年的には、往々にして細部は単なる「断片」であり、全体に散漫で緩く、余白が多い感じで完結性が弱くなる。 https://t.co/fR5xC9YI4g https://t.co/OyoEJEbvQ1
早稲田文学ロシア特集号から中村唯史著「「ロシア・ポストモダニズム」におけるロトマンの影」を読む。現代ロシアの批評家たちのことも知らないと、これから本当のゲンロン人にはなれないからね。 https://t.co/M1NIx5P7lJ
ハイデガーの手とメルロ=ポンティの手袋。この手と手袋は、おそらく触覚と触覚中心主義の隠喩として関係付けられる。 https://t.co/jjCwSipMMM
『動物化するポストモダン』で「手」の問題は、デ・ジ・キャラットの図版(p64、66)に示唆されている。 メルロ=ポンティは交差配列の可逆性について、生の手ではなく「手袋」の比喩を用いていた。 https://t.co/lG0hqPw9XQ https://t.co/3YUO4TUZqd
『雪の練習生』の第3章「死の接吻」について。 “それは他でもない言葉を介したコミュニケーションだ。「壊れた言葉の破片や言葉になり損なった映像や言葉の影なども多」かったとは、社会化される以前の言葉もまた共通言語だったということだ” https://t.co/ewnqjJJROt https://t.co/2o4ZEWdU3d
ブランショの『他処からやってきた声』には、いつにもまして「始まりの謎」への関心が前景化しているという。何よりも「言葉の始まり」が。http://t.co/8QLlzMSygN
次に佐村河内守については、フロイトが『モーセと一神教』で、モーセに比肩しうる偉大な男としてゲーテとレオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてベートーヴェンの名をあげていた、その意味の考察から始める。https://t.co/Ow9pqUatfl http://t.co/VCB5wuDErT

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