著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究 (ISSN:21896933)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.30-43, 2023 (Released:2023-08-04)
参考文献数
36

マタイ24, 28/ルカ17, 37に,「死体のあるところはどこでも,そこに禿鷲たちが集まるであろう」というイエスの発言がある.共観福音書の研究においては,マタイとルカ福音書に共通する語録資料(通称Q資料)の一部とみなされている.この語録は私が過去二十年来続けてきたイエスの「神の国」のイメージ・ネットワークの新たな網の目として追加的に「積分」可能である.このことを論証することが本論考の課題である.私見では,プルタルコス『倫理論集』の一篇「自然現象の原因について」918Cとルクレティウス(前99年頃?55年頃)『事物の本性について』IV, 679に,内容上も文言上も最も顕著な並行事例が見つかる.それは死肉があれば,場所の如何を問わずどこにでも集まってくる禿鷲の超能力を称える格言であった(以上第II節).福音書記者マタイとルカがQ資料に加えた編集とその神学的意味を分析(第III節)することによって,Q資料がこの格言を用いていた意味が復元できる.すなわち,すでに死から復活して今は天にいるイエスが間もなく再臨するが,その再臨が人間の居場所を問わず目に見えるものだということである.生前のイエスにとっては,同じ「人の子」という語は自己呼称ではなく,自分が宣べ伝えている「神の国」が間もなく地上に実現する時に出現するはずの超越的救済者を指していた.この違いを考慮に入れた上であれば,生前のイエス自身が問題の格言をその「人の子」の到来の普遍的な可視性を言い表すイメージとして,稲妻のイメージとワンセットで用いたことに「さもありなん」の蓋然性がある.その到来は稲妻のひらめきが地上の特定の「あそこ」や「ここ」に限定されないのとまったく同じように,地上のどこでも目に見える宇宙大の出来事だというのである(第IV節).
著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究 (ISSN:21896933)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.1-21, 2020 (Released:2020-06-13)
参考文献数
47

初期ユダヤ教黙示思想に認められる終末論は宇宙史の終末論,魂の上昇の終末論,民族史の終末論の三つに下位区分される.しかし,アレクサンドリアのユダヤ人思想家フィロンにおいては,中期プラトン主義の影響を受けて,宇宙は神の最良の制作物とみなされる.そのため,宇宙の終わりについての終末論は成立しない.善人にも降りかかる自然災害の問題性は意識されているが,神の摂理の付属現象として説明されて終わる.―人間の魂には神的ロゴスと同じ叡智(理性)が宿っている.しかし,身体を通して働く感覚の惑わしの下にある.それを徳の涵養によって克服して,天に向かって上昇し,神を見ることに努めなければならない.ところが,その上昇は神の本質(ウーシア)を知る一歩手前,神の存在の事実(ヒュパルクシス)を知ることで終わる.フィロンはそれを超える途としての脱魂体験を示唆するが,それも究極的には理性の枠内にあり,同じ限界を超えるものではない.生涯にわたる徳の涵養と理性主義という点で,初期ユダヤ教黙示思想の中の魂の上昇の終末論とは明瞭に異なる.―フィロンは同時代のユダヤ教を席巻した政治主義的メシア運動を承知していたと思われるが明言は避けている.彼がその代りに説いたのは,徳の涵養を遂げた人 間から成る宇宙国家論であった.
著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.24-43, 2021

生前のイエスによるエルサレム神殿倒壊の予言(マルコ14, 58)は,復活信仰成立後間もない原始エルサレム教会の中で再び活性化された.それは使徒言行録と全書6–7章に記されたステファノ殉教事件から読み取られるように,復活のイエスが天上から再び到来するという待望と結びついていた(第I節).その待望は満たされずに終わり,ステファノを含むギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒はエルサレムから離散した.しかし,アラム語を話すユダヤ人キリスト教徒は残留した.やがてペトロに代わって「義人」(主の兄弟)ヤコブが指導権を掌握した.以後その系譜に連なりながら後二世紀までさまざまな分派として存続したパレスチナのユダヤ人キリスト教のことを「ユダヤ主義キリスト教」と呼ぶ.第II節で取り上げる『ヘブル人福音書』の断片は,ユダヤ主義キリスト教のキリスト論が初期の「人の子」キリスト論であったことを推測させる.それは義人ヤコブに顕現する復活のイエスを「人の子」と明示している.第III節では,義人ヤコブの最期に関するヘゲシッポスの報告から,ヤコブとその仲間が「人の子」イエスの再臨を待望していたことが論証される.そこでは,生前のイエスが織り上げていた「神の国」についてのイメージ・ネットワークが,原始エルサレム教会の復活信仰によって補正された上で,継承されていることが証明される.同時に,ヤコブが時の大祭司によって「律法を犯したかどで」処刑されたというユダヤ人歴史家ヨセフスの証言から,ヤコブがモーセ律法の中の「供儀」条項を拒否していたと推定される(仮説1).第IV節では,AD 70年のローマ軍によるエルサレム神殿の陥落直前に,原始エルサレム教会がヨルダン川東岸のペラ(Pella)へ脱出したこと,その根拠となったのがキリストによる「天啓」あるいは「命令」であったという証言が取り上げられる.その証言はヘゲシッポス,エウセビオス,エピファニオスという教父たちの他,後二世紀のユダヤ主義キリスト教に属する外典文書『ペテロの宣教集』の中に見出される.そこでも,イエスは「人の子」とされ,二回にわたる到来が語られる.一回目は生前のイエスのことで,彼は「真の預言者」として「供儀の廃止」を予言したと言う.二回目は差し迫った再臨のことで,その時初めて「供儀の廃止」が実現されると言われる.おそらく,ローマ軍によるエルサレム陥落の直前には,生前のイエスによる神殿陥落予言(マルコ14, 58)がまたもや活性化され,それがキリストによる「天啓」あるいは「命令」と解釈されたものと推定される(仮説2).第V節では,皇帝ドミティアヌスがイエスの親族(ひ孫)を直接尋問して,その終末待望について問い質したという,またもやヘゲシッポスの報告が分析される.イエスの親族が語る「神の国」は,「人の子」イエスの再臨によって実現されるという点で,原始教会の復活信仰による補正を経ているが,生前のイエスの「神の国」のイメージ・ネットワークをよく留めている.
著者
大貫 隆
雑誌
東京女子大学紀要論集
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.111-138, 1988-03-10

"Das Apokryphon des Johannes", mit Recht als "Kompendium der gnostischen Lehre" (C. Schmidt/W. Till) bezeichnet, zahlt zu den wichtigsten Dokumenten des sogenannten mythologischen Gnostizismus. Es hat aber bis heute an einer durchgehenden japanischen Ubersetzung dieser Schrift gefehlt. Um diesen Mangel zu beseitigen, wird hier zunachst die im Papyrus Berolinensis 8502 enthaltene Version im ganzen ins Japanische ubertragen. (Eine weitere japanische Ubersetzung von NHC II, 1 ebenfalls geplant.) Grundlage fur Ubersetzung bildet die Textausgabe: "Die gnostischen Schriften des koptischen Papyrus Berolinensis 8502", hrsg., ubers. u. bearb. v. W. Till, 2. erweiterte Aufl., bearb. v. H.-M. Schenke, Berlin 1972. An mehreren Stellen sind jedoch andere Lesungen und Ubersetzungen vorgezogen worden. Begrundungen dafur werden in Anmerkungen angegeben. Dort erfolgen auch Auseinandersetzungen mit anderen bereits vorliegenden Ubersetzungen von R. Kasse (RThPh 97/1964 bis 100/1967), M. Krause (in: Die Gnosis, Bd. 1, hrsg. v. W. Foerster, Zurich/Stuttgart 1969) und M. Tardieu, Ecrits gnostiques: Codex de Berlin, Paris 1984. Die Anmerkungen sollen aber aus Platzgrunden getrennt in einem der nachsten Hefte der vorliegenden Abhandlungen gedruckt werden.
著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究 (ISSN:21896933)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.2-7, 2015 (Released:2016-08-15)

R・ジラールの文化人類学によれば,供犠とは「いけにえ」の上に共同体の攻撃性を集約することで,内部の平和と秩序を基礎づけ保持してゆくメカニズムである.イエスの「神の国」はユダヤ教の贖罪の供犠を終わらせるもの,従ってユダヤ教の禁忌を破るものと見做され,イエスは排除された.パウロと四つの福音書もその次第を報告するが,彼ら自身がイエスの死を供犠と見做している箇所は一つもない.ジラールによれば,まさにそこにこそ,現代が供犠的キリスト教に対する根本的な批判を試みるための最大のチャンスがある.ところが,現実のキリスト教では受難と供犠が頻繁に混同されている.S・ヴェイユと鈴木順子氏の学位論文においても両者が混在し,繰り返し同義的に用いられている.私の見方では,両者は出来事としては同一であるが,「供犠」はその出来事を自己存続を図る共同体から見た場合の概念,「受難」は供犠として奉献される者から見た場合の概念として,アスペクト上互いに明確に区別するべきである.
著者
大山 裕太 大井川 秀聡 大貫 隆広 指田 涼平 木倉 亮太 井上 雄貴 中里 一郎 廣川 佑 川口 愛 高屋 善德 藤原 廉 朝見 正宏 後藤 芳明 石川 久 宇野 健志 田中 純一 大山 健一 小野田 恵介 山根 文孝 安心院 康彦 三宅 康史 坂本 哲也 松野 彰 辛 正廣
出版者
一般社団法人 日本脳神経外傷学会
雑誌
神経外傷 (ISSN:24343900)
巻号頁・発行日
vol.44, no.2, pp.44-49, 2021-12-20 (Released:2021-12-20)
参考文献数
11

Background: We experienced a case of head pene­trating injury caused by a crossbow that was initially treated in the Hybrid Emergency Room (ER).Case: A 25–year–old male who lost conscious­ness and was collapsed in his room with penetrating crossbow in his head, was transported to our hospital. After routine checkups, the pa­tient was immediately move to the Hybrid ER. A head CT and digital subtraction angio­graphy (DSA) was performed and no obvious injury in the intracranial major vessels was confirmed. The crossbow was safely removed there. The patient was then moved to the central operating room and underwent a relevant sur­gical procedure. Postoperative diffusion–weighted MRI showed a high–signal area in the corpus callosum and disorders of con­sciousness continued for a while. The corpus callosum lesion was determined to be cytotoxic lesion and the patient was followed up. His conscious state gradually improved and the ab­normal signal in the corpus callosum disappeared on the 40th hospital day. On the 91st hospital day, the patient was transferred for additional rehabilitation.Conclusion: A Hybrid ER is one of a surgical unit installing CT and DSA. The ability of multi­modal medical treatment is useful to traumatic brain injury, especially penetrating head injury for which we often need to carry out flexible surgical procedure.
著者
中田 誠司 三木 正也 岡部 和彦 真下 透 小林 幹男 山中 英寿 高橋 修 大貫 隆久
出版者
泌尿器科紀要刊行会
雑誌
泌尿器科紀要 (ISSN:00181994)
巻号頁・発行日
vol.37, no.5, pp.507-514, 1991-05
被引用文献数
1

GU 205例(47.7%),NGU 225例(52.3%),平均年齢32.5歳は両群で大差なし.感染源はホステス76.3%,以下ソープランド,ガールフレンド,海外,妻の順であった.尿道分泌は87.7%に認められ,排尿時痛,尿道不快感がこれにつづいた.検尿,尿道分泌物塗抹染色陽性は両群で72.7%,100%と50.9%,92.2%で,GUのペニシリン抵抗性は29.4%;25.6%にクラミジア混合感染あり,NGUのクラミジア陽性は71.8%となった.GUのNQ, PC治療1週間後の有効は80.6%,83.8%で,NQによる淋菌消失は89.7%である.NGUではNQ, MINO治療1週間後の有効は70.4%,85.3%,クラミジア消失は70.0%,100%であった.NQのOFLX有効は84.3%で最高,両群共治療は2週間の方が再燃が少なかったWe reviewed 497 patients with male urethritis diagnosed between January, 1986 and March, 1989 at the Asama General Hospital. The incidence of gonococcal urethritis (GU) was 47.7%, and that of non-gonococcal urethritis (NGU) 52.3%. There was no difference in the age distribution between GU and NGU. Prostitutes were the most common source of the infection in both GU and NGU. Incubation periods were longer in NGU than in GU, statistically. Urethral discharge was the most common symptom. Purulent urethral discharge was seen more commonly than serous urethral discharge in GU. On the contrary, serous urethral discharge was more common in NGU. Penicillin-resistant gonococcus comprised 29.4% and mixed infection of the C. trachomatis existed 25.6% in GU. C. trachomatis was detected in 71.8% in NGU. In GU, new quinolones and penicillins were administered frequently. The effective rates 1 week after the administration were 80.6% and 83.3%, respectively. In NGU, new quinolones and minocycline were administered frequently. The effective rates were 70.4% and 85.3%, respectively. Ofloxacin (OFLX) showed the highest effective rate to NGU among the four new quinolones. The relapse rate for the two-week administration group was lower than that for the one-week-administration group, but the difference was not statistically significant.
著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究 (ISSN:21896933)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.24-43, 2021 (Released:2021-04-21)
参考文献数
47

生前のイエスによるエルサレム神殿倒壊の予言(マルコ14, 58)は,復活信仰成立後間もない原始エルサレム教会の中で再び活性化された.それは使徒言行録と全書6–7章に記されたステファノ殉教事件から読み取られるように,復活のイエスが天上から再び到来するという待望と結びついていた(第I節).その待望は満たされずに終わり,ステファノを含むギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒はエルサレムから離散した.しかし,アラム語を話すユダヤ人キリスト教徒は残留した.やがてペトロに代わって「義人」(主の兄弟)ヤコブが指導権を掌握した.以後その系譜に連なりながら後二世紀までさまざまな分派として存続したパレスチナのユダヤ人キリスト教のことを「ユダヤ主義キリスト教」と呼ぶ.第II節で取り上げる『ヘブル人福音書』の断片は,ユダヤ主義キリスト教のキリスト論が初期の「人の子」キリスト論であったことを推測させる.それは義人ヤコブに顕現する復活のイエスを「人の子」と明示している.第III節では,義人ヤコブの最期に関するヘゲシッポスの報告から,ヤコブとその仲間が「人の子」イエスの再臨を待望していたことが論証される.そこでは,生前のイエスが織り上げていた「神の国」についてのイメージ・ネットワークが,原始エルサレム教会の復活信仰によって補正された上で,継承されていることが証明される.同時に,ヤコブが時の大祭司によって「律法を犯したかどで」処刑されたというユダヤ人歴史家ヨセフスの証言から,ヤコ ブがモーセ律法の中の「供儀」条項を拒否していたと推定される(仮説1).第IV節では,AD 70年のローマ軍によるエルサレム神殿の陥落直前に,原始エルサレム教会がヨルダン川東岸のペラ(Pella)へ脱出したこと,その根拠となったのがキリストによる「天啓」あるいは「命令」であったという証言が取り上げられる.その証言はヘゲシッポス,エウセビオス,エピファニオスという教父たちの他,後二世紀のユダヤ主義キリスト教に属する外典文書『ペテロの宣教集』の中に見出される.そこでも,イエスは「人の子」とされ,二回にわたる到来が語られる.一回目は生前のイエスのことで,彼は「真の預言者」として「供儀の廃止」を予言したと言う.二回目は差し迫った再臨のことで,その時初めて「供儀の廃止」が実現されると言われる.おそらく,ローマ軍によるエルサレム陥落の直前には,生前のイエスによる神殿陥落予言(マルコ14, 58)がまたもや活性化され,それがキリストによる「天啓」あるいは「命令」と解釈されたものと推定される(仮説2).第V節では,皇帝ドミティアヌスがイエスの親族(ひ孫)を直接尋問して,その終末待望について問い質したという,またもやヘゲシッポスの報告が分析される.イエスの親族が語る「神の国」は,「人の子」イエスの再臨によって実現されるという点で,原始教会の復活信仰による補正を経ているが,生前のイエスの「神の国」のイメージ・ネットワークをよく留めている.
著者
大貫 隆
出版者
日本西洋古典学会
雑誌
西洋古典学研究 (ISSN:04479114)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.97-108, 1981-03-30 (Released:2017-05-23)

ヘブライおよびギリシア文学史には,死を目前にした人物の「訣別の辞」が数多く見出される.このような場合には,両者を文学様式と機能の視点から此較してヘブライ文学史の側でのその特性を解明することが聖書の様式史的研究方法にとって避け難い課題となる.しかし私の見るところでは,この研究方法が今世紀前半にドイツで提唱され,以後の聖書学の方法的基礎となったのち今日まで,「訣別の辞」の素材の辞典的な収集はなされたが,上のような視点からの立ち入った研究が行なわれたことはない.本稿は聖書の様式史的研究が残しているこの領域的な不備を,『ヨハネ福音書』13-17章のイエスの「告別説教」とプラトンの『パイドン』を各々の文学史的前提も顧慮しつつ此較することによって多少でも補おうとする試みである.
著者
大貫 隆
雑誌
東京女子大学紀要論集
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.63-85, 1988-09-10

Hierbei handelt es sich um Anmerkungen zu meiner japanischen Ubersetzung des ,Apokryphon des Johannes" (BG), die gesondert bereits im Heft 2, Vol. 38 (Marz 1988) der vorliegenden Abhandlungen gedruckt vorliegt. Die Anmerkungen sind stets bemuht um eine intensive Auseinandersetzung mit folgenden funf Ubersetzungen: 1) Die gnostischen Schriften des koptischen Papyrus Berolinensis 8502, hrsg., ubers. und bearb. v. Walter Till, Berlin 1955. 2) Die gnostischen Schriften des koptischen Papyrus Berolinensis 8502, 2. erweiterte Auflage, bearb. v. H. M. Schenke, Berlin 1972. 3) Bibliotheque gnostique I: Le livre secret de Jean 'Anokpuyov 'Iwavvov, RThPh 97 (1964) 140-150, II: versets 1-124, RThPh 98 (1965) 129-155, III: versets 125-394, RThPh 99 (1966) 165-181, IV: versets 395-580 fin, RThPh 100 (1967) 1-30, ubers. v. R. Kasse. 4) Das Apokryphon des Johannes (BG 8502, 2), ubers. v. M. Krause, in: W. Foerster (Hg.), Die Gnosis, Bd. 1, Zurich/Stuttgart 1969, 141-161. 5) Ecrits gnostiques: Codex de Berlin (Sources Gnostiques et Manicheennes 1), introduction, traduction et commentaire par M. Tardieu, Paris 1984.
著者
大貫 隆
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.205-226, 2010-09-30 (Released:2017-07-14)

グノーシス主義研究において、神話論的思考から哲学的・神秘主義的思考への変容は避けて通ることのできない重要な問題である。ナグ・ハマディ文書第八写本の『ゾーストリアノス』では、この変容が明瞭に起きている。他方、プロティノスが『グノーシス派に対して』で対峙している論敵も同名の書物を持っていた。プロティノスはその中に、魔術文書の「呪文」と同類の発語を見出して批難している。事実、『ゾーストリアノス』を初めとする後期グノーシス文書は魔術文書から多くの「呪文」を受容した。しかし、それは魔術文書の場合のように、神々やさまざまな霊力を強制的に人間の思惑に従わせるためではない。それは地上から至高の究極的存在へ向かって上昇した神秘主義者が、究極的存在に関する認識と自分自身の存在を合一させた瞬間に発する呻き、つまり「異言」(グロッソラリア)である。
著者
大貫 隆
出版者
桃山学院大学
雑誌
桃山学院大学キリスト教論集 = The St. Andrew's University journal of Christian studies (ISSN:0286973X)
巻号頁・発行日
no.49, pp.5-27, 2014-03-13

Both Matt 19:28 and Luke 22:28-30 are based on the Q source, but the context is significantly different between the two passages. As the three passion predictions placed in proximity to 19:28 suggest, Matthew overall has in mind the parousia of the "Son of Man," Jesus. On the other hand, Luke 22:28-30 belongs to the scene of the Last Supper. Verse 30b corresponds almost exactly to Matt 19:28, in which Jesus tells his disciples: "You will also sit on twelve thrones, judging the twelve tribes of Israel." The difference between the two verses is that Luke 22:30b does not specify the number of the thrones as twelve because, earlier in 22:3, Luke announces that Satan has entered into Judas Iscariot. The original form of the Q saying is preserved in Matthew's text, which keeps the phrase "twelve thrones" intact. The early Church could not have produced a saying that assumes the inclusion of "Judas the betrayer" in the judgment activity. The Q text thus derives from the actual words Jesus uttered in his lifetime. The question is, what kind of judgment did Jesus originally say the Twelve would engage in as his closest associates? In my view, the answer is found in Mark 8:38 and Luke 12:8-9, which point to the same reality as Matt 19:28. Luke 12:8-9 refers to the judgment that divides people into two groups: those acknowledged and those denied by the Son of Man before the angels of God, depending on whether or not they accepted Jesus' words during his lifetime. Likewise, when Jesus suggests that in the kingdom of God the Twelve will be enthroned with him to judge the twelve tribes of Israel, he implies that they will pass judgment on individuals from God's chosen people, Israel, according to their responses to the ministry of Jesus and the Twelve. As G. Theissen argued two decades ago using the term "group messianism," the kingdom of God, as Jesus proclaimed it, did not represent a focus of the messianic expectation on a particular individual. Jesus' relationship with the kingdom of God was neither individualistic nor exclusive. While he embodied the kingdom of God with an overwhelming sense of sovereignty, sovereignty nevertheless was shared by the Twelve who worked with him for the proclamation of the kingdom. They will therefore be duly enthroned with Jesus as individuals from Israel are judged in responding either positively or negatively to the message proclaimed by Jesus as well as the Twelve.
著者
大貫 隆
出版者
桃山学院大学
雑誌
桃山学院大学キリスト教論集 (ISSN:0286973X)
巻号頁・発行日
no.49, pp.5-27, 2014-03-13

Both Matt 19:28 and Luke 22:28-30 are based on the Q source, but the context is significantly different between the two passages. As the three passion predictions placed in proximity to 19:28 suggest, Matthew overall has in mind the parousia of the "Son of Man," Jesus. On the other hand, Luke 22:28-30 belongs to the scene of the Last Supper. Verse 30b corresponds almost exactly to Matt 19:28, in which Jesus tells his disciples: "You will also sit on twelve thrones, judging the twelve tribes of Israel." The difference between the two verses is that Luke 22:30b does not specify the number of the thrones as twelve because, earlier in 22:3, Luke announces that Satan has entered into Judas Iscariot. The original form of the Q saying is preserved in Matthew's text, which keeps the phrase "twelve thrones" intact. The early Church could not have produced a saying that assumes the inclusion of "Judas the betrayer" in the judgment activity. The Q text thus derives from the actual words Jesus uttered in his lifetime. The question is, what kind of judgment did Jesus originally say the Twelve would engage in as his closest associates? In my view, the answer is found in Mark 8:38 and Luke 12:8-9, which point to the same reality as Matt 19:28. Luke 12:8-9 refers to the judgment that divides people into two groups: those acknowledged and those denied by the Son of Man before the angels of God, depending on whether or not they accepted Jesus' words during his lifetime. Likewise, when Jesus suggests that in the kingdom of God the Twelve will be enthroned with him to judge the twelve tribes of Israel, he implies that they will pass judgment on individuals from God's chosen people, Israel, according to their responses to the ministry of Jesus and the Twelve. As G. Theissen argued two decades ago using the term "group messianism," the kingdom of God, as Jesus proclaimed it, did not represent a focus of the messianic expectation on a particular individual. Jesus' relationship with the kingdom of God was neither individualistic nor exclusive. While he embodied the kingdom of God with an overwhelming sense of sovereignty, sovereignty nevertheless was shared by the Twelve who worked with him for the proclamation of the kingdom. They will therefore be duly enthroned with Jesus as individuals from Israel are judged in responding either positively or negatively to the message proclaimed by Jesus as well as the Twelve.
著者
大貫 隆
出版者
学校法人 自由学園最高学部
雑誌
生活大学研究
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.2-7, 2015

R・ジラールの文化人類学によれば,供犠とは「いけにえ」の上に共同体の攻撃性を集約することで,内部の平和と秩序を基礎づけ保持してゆくメカニズムである.イエスの「神の国」はユダヤ教の贖罪の供犠を終わらせるもの,従ってユダヤ教の禁忌を破るものと見做され,イエスは排除された.パウロと四つの福音書もその次第を報告するが,彼ら自身がイエスの死を供犠と見做している箇所は一つもない.ジラールによれば,まさにそこにこそ,現代が供犠的キリスト教に対する根本的な批判を試みるための最大のチャンスがある.ところが,現実のキリスト教では受難と供犠が頻繁に混同されている.S・ヴェイユと鈴木順子氏の学位論文においても両者が混在し,繰り返し同義的に用いられている.私の見方では,両者は出来事としては同一であるが,「供犠」はその出来事を自己存続を図る共同体から見た場合の概念,「受難」は供犠として奉献される者から見た場合の概念として,アスペクト上互いに明確に区別するべきである.
著者
大貫 隆史
出版者
釧路公立大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2006

本研究は,第二次大戦後英国に登場した,いわゆる「ニューウェイフ(New Wave)」と呼ばれる劇作家の中でも,社会改良を掲げて大きな反響を呼んだアーノルド・ウェスカーを,その主たる対象とするものである。その際,階層問題などの社会的背景との関連性を明らかにすることで,また,ウェスカーに関係する作家達にも目を向けることで,分析の充実を図り,再評価を行うことを目指した。二年目にあたる本年度では,ポピュラー・カルチャーの問題性を厳しく指摘し,否定的な立場を取るウェスカーが,聖別化もされていなければ,その一方で,大衆性の「烙印」を押されることのないような形の演劇を,どのように求めることになったのか,という問題を検討すべく,米国内アーカイヴでの調査資料を含む,ウェスカー関連資料の読解を行った。また,社会的背景と演劇作品の関わりを考察する上で,作品の「形式性」を慎重に検討するため,ウェスカーに限らず広く戦後英国の「社会的」劇作家一般という観点をとり,ウェスカー作品との関連性が強く指摘されるD.Edgar,Maydaysの分析を,本年度の研究目的に含まれる関連作家研究の一環として実施し,英国の「社会的」劇作家がその問題系を提示する際に共通して抱えると考えられる形式的問題点,つまり,悲劇的要素の抑圧とアイロニー形式の浮上という点について考察を深めた。この成果は,アメリカ演劇に対して応用されている文化の社会学的手法を,イギリス演劇に適用する際の妥当性を検討する際にも,示唆するものが大きいものと思われる。この観点を充分に生かしつつ,ウェスカー作品上演に関する文化の社会学的分析について,論文化の可能性を本研究は今後も継続して模索してゆく。
著者
大田 真理 大貫 隆子 潮平 俊治 矢吹 恭子 赤尾 正恵
出版者
The Japanese Society for Dialysis Therapy
雑誌
日本透析医学会雑誌 = Journal of Japanese Society for Dialysis Therapy (ISSN:13403451)
巻号頁・発行日
vol.41, no.8, pp.497-502, 2008-08-28
被引用文献数
1 1

症例は78歳,男性.近医へ外来透析通院中の患者で,2006年6月中旬より頭痛が出現したため21日近医の救急外来を受診した.頭部CTを施行し,脳出血や梗塞巣などの異常所見は認められず鎮痛薬を処方され帰宅した.しかしその後も頭痛は消失せず,6月26日見当識障害にて当院へ入院.当初の頭部CTでは異常所見は認められず,意識障害,ごく軽度の項部硬直,髄液所見(単核球優位の細胞増加83/3mm<SUP>3</SUP>,蛋白増加295mg/dL)よりウイルス性髄膜脳炎と診断し,アシクロビルの投与を行った.しかし呼吸状態も悪化してきたため一時人工呼吸管理となり,さらにステロイドパルス療法も併用し治療を行った.2週間後には人工呼吸管理から離脱でき,意識状態も完全に回復しリハビリ病院への転院を考慮するほどになっていた.しかし9月より再び意識状態が悪化し,頭部CT上造影剤で増強される腫瘤様陰影を認めたため,単なる髄膜脳炎ではなく中枢神経原発悪性リンパ腫の可能性を考慮し,2回目のステロイドパルス療法を施行した.これらの治療にもかかわらず11月よりさらに意識レベルは低下し,CT上の陰影も増大傾向となった.血清IL-2レセプター919IU/mL,髄液中IL-2レセプター259IU/mLと高値を示し,髄液細胞診上classIIIb,クロマチン増加の高い異型リンパ球を認めたため,画像所見などから中枢神経原発悪性リンパ腫が最も疑われると判断した.その後の治療にも反応せず12月26日永眠された.本症例のように当初はウイルス性髄膜脳炎様症状のみであり,後に画像所見上造影剤にて増強される腫瘤陰影の変化が現れ,中枢神経原発悪性リンパ腫が強く疑われた症例を経験した.亜急性の意識障害を呈する患者の鑑別診断のひとつとして,一般的な髄膜脳炎のみならず,中枢神経原発悪性リンパ腫の可能性を考慮する必要があると考えられた.