著者
小林 万理美
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.94, pp.141-144, 2006-11-10 (Released:2009-09-04)

本書は、ハーバート・リード研究を体系的に進めた唯一の研究者とされるシスルウッド (David Thistlewood, 1944-1998) による、リードの評伝である。二〇〇一年に出版された新訳『芸術による教育』の別刷解題、山木朝彦氏による「芸術による教育とハーバート・リード研究の現在」のなかで詳細が紹介され、暫時を経た本年、待望の邦訳が出版された。美術と文学の評論を中心に、多数の-生涯で八十有余に及ぶ-著作を著したリード (Herbert Read, 1893-1968) であるが、シスルウッドが「唯一の」体系的研究者と形容されるのはなぜだろう。それは、以下の構成を眺めることで示唆されよう (各章原タイトルは原著による) 。
著者
小林 万里子
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1999, no.79, pp.59-74, 1999-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
41

Am Ende des 19. Jahrhunderts, als in Hamburg ein staatliches Volksschulwesen eingerichtet wurde, hatten die Volksschullehrer über ihre Arbeit, also Erziehung und Schulverwaltung wenige Rechte zu sagen. Sie kritisierten die Verbürokratisierung der Schule. Um ihre Rechte von der Offentlichkeit anerkannt zu sehen, starteten sie nicht nur eine reformpädagogische Bewegung (Kunsterziehungsbewegung oder Arbeitsschulbewegung), sondern auch eine soziale Bewegung, oder nahmen daran teil. In der Bewegung entwarfen sie die 'neue Schule' als Alternative zur 'alten Schule'. Um diesen Entwurf zu realisieren, verlangten sie öffentlich eingerichtete Versuchsschulen.In der Versuchsschule Berliner Tor, die 1919 entstand, wurde eine Erziehung eingeführt, die auf dem Interesse und der Förderung des Kindes basiert, wobei diese von seiten der Lehrer angefaßt wurden. Die Lehrer der Berliner Tor Schule forderten nicht nur das Recht des Kindes, sondern auch immer dasjenige der Lehrer selbst.Daher stellte sich heraus, daß die Pädagogik 'vom Kinde aus' in der Hamburger Schulreformbewegung aufgrund der Forderung der Lehrer selbst nach Selbständigkeit entworfen wurde.
著者
小林 恭
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1981, no.43, pp.63-80, 1981-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
92

It is felt that something is lacking in the traditional approach toward the problem of 'dialogue'. The reason is that a difference between 'parole' and 'écriture' is being tacitly presupposed. Alain, in his educational theory, has re-emphasized education through 'lecture' (reading) and is critical concerning instruction by means of dialogue. It would, however, be a mistake to interpret this as simply ascribing value to 'écriture'. To the contrary, his ideas are very illuminating in view of building up the power of true dialogue. His educational theory rests on the foundation of a creative and well thought-out philosophy of 'signe'. He thinks that all 'signes' consist of 'langage absolu' and 'langage relatif'. Whenever relative language is dominant, and the absolute language which lies at its basis to support human thinking, is forgotten, thinking turns out to be mechanical and man is alienated from his true self. Alain thinks that the goal of education is that everybody recovers his own true self and realizes his spiritual freedom, but he maintains that in order to accomplish this, it is necessary that the absolute language be restored and the exercise of 'lecture' is necessary. The attempt is here made to clarify the reasons for this by referring to his philosophy which elucidated the hermeneutic structure of thought.
著者
小林 澄兄
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1964, no.10, pp.68-69, 1964 (Released:2009-09-04)

この本は、早稲田大学教授長谷川亀太郎氏の新著であって、道徳教育の意味・内容の研究法を明らかにすることを期したものである。
著者
小林 道夫
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.9-15, 1997-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
7

デカルトは現在の (特に英米系の) 心の哲学においてはたいへん奇妙な扱いを受けている。デカルトの心の哲学の第一の特質はその二元論であるが (ただし, あとで触れるように二元論に尽きるのではない), この二元論のゆえにデカルトの哲学は, しばしば, 反科学の扱いをうけるのである。J.サールは最近の著書で, 現代の心の哲学での (科学主義的的) 唯物論の動向を難じて, その要因の筆頭に,「 (人々は) デカルトの二元論に陥るのが怖いのだ」という点を挙げている。現代の科学の時代にあって, 実在とはすべて客観的なものであり究極的には物理的存在であると思われるにかかわらず, 物理的存在以外に心的実体なるものを認めるデカルトの二元論に同調することは, 科学的知性を脅かす不条理を引き受けることだと見られるというのである(1)。しかし, 改めていうまでもなく, 自然科学の対象から心的性質や目的論的な概念を一切除外して, 近現代の数理科学を方向づけたのは他ならぬデカルトである。彼はまた, 動物や人間の身体をも機械論的に説明しようとして近代の生理学の見地をも設定したのである (デカルトの生理学的な「人間論」はのちの唯物論的な「人間機械論」の一つの有力なソースであった)。デカルトにとっては自分の哲学こそが, 人間の身体をも含む自然全体の科学的探究を推進するものであったのである。しかし, 問題はもちろん, デカルトが科学的探究の対象となる物理的生理学的対象以外に, それとは独立のものとして思惟や意志という心的存在を認めたことである。現代の言葉でいえば, デカルトは, 科学的生理学的探究を推進しながら, それとは独立に「常識心理学」の領域があるとはっきりと認めたということになる。私見によれば, 現代の心の哲学の状況に身を置いて, いわゆる「消去的唯物論」に与するのでなしに, 自然や人間の身体に対する科学的生理学的探究の見地を堅持しながら, 常識心理学が表す心的性質や心的存在に独自の身分を認める方向の哲学を立てようとした場合には, デカルトの心の哲学はなおも極めて有力で説得的な見地と評価しうる。以下で私は, 現代の心の哲学の問題, とくに「心的性質の実在性」や「心的因果性」の問題を念頭におき,「デカルトの心の哲学」からはそれらの問題に対してどのような解答が与えられるか, という点を考えてみたい。