著者
河上 麻由子
出版者
奈良女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

倭国が「天下」の語を銘文に用いた五世紀ころ、中国では皇帝の支配領域以外を指して「天下」を用いることに柔軟で、中国的な天下観を前提にせずとも、ある領域を指して「天下」と表現することがあった。倭国の鉄剣・太刀銘文に自らの支配領域を「天下」と表現したことを理由に、倭国を中心とした天下観の誕生を論じるのは難しい。加えて、銘文のように単純な漢文すら作成できない支配者層の人びとが、中華思想のように複雑で高度な思想を十分に理解・咀嚼し、それを自らの支配に当てはめて独自の天下観を醸成するということは不可能であろう。さらに、そのほかアジアの事例を踏まえれば、倭国には独自の「アメ(天)」を祭る信仰があり、その下にある領域=大八洲(オオヤシマグニ)は倭王に統治されるという認識をベースとして、倭王武の実効支配領域を「天下」と表現したと判断するのが穏当である。倭国的な天下観の芽生えに疑問を呈するからには、倭王武よりのちには倭国が朝貢しなくなった理由にも、再検討を加えねばならない。西嶋定生氏以来、先行研究では、独自の天下観を発展させた倭国は、朝貢をやめ、冊封を受けないことで中国の天下から離脱したとされてきたからである。しかし広義の天下とは、皇帝の実効支配領域に、その威徳が及ぶ夷狄の範囲を加えたものである。皇帝の威徳が及んでいると中国側が判断しさえすれば、冊封の有無にかかわらず、その国は中国の天下に編入された。倭国が冊封を受けようと受けまいと、皇帝が自身の威徳が倭国にも及んでいると考える限り、倭国は中国の天下に組み込まれる。倭国の朝貢停止と冊封の問題は、切り離して議論されねばならない。倭国が朝貢を停止した理由は、雄略天皇より以降に、直系継承を担うべき人物が不在となり、王権が大きく同様する中で、対中国交渉を維持する余力が失われたためと考えるべきである。
著者
大谷 由香 師 茂樹 小野嶋 祥雄 河上 麻由子 榎本 渉 吉田 慈順 野呂 靖 村上 明也 西谷 功
出版者
龍谷大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

「唐決」とよばれる日中間を往来した仏教の教義に関する書簡を中心とし、国や地域、文化を越えた仏教教義の問答内容と歴史的背景の分析を通じて、「仏教東漸」とは異なる東アジア仏教の相互交流の実態を明らかにする。本研究では、地域・時代・分野を別とする仏教学者と、対外交流史を専門とする歴史学者が共同研究を行う。これによって学術分野を超えた東アジア仏教史全体を俯瞰するための新たな視点の獲得を目指す。
著者
佐川 英治 小宮 秀陵 河上 麻由子 小尾 孝夫
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2018-04-01

本年度はまず6月に第3回の国内研究会を開き、研究分担者の河上麻由子『古代日中関係史』、研究協力者の河内春人『倭の五王』(ともに中公新書)の合評会をおこなうとともに、ビザンツ史の井上浩一大阪市立大学名誉教授を講師に招き「古代帝国の相続人―東西比較のために―」のテーマで講演していただき、ビザンツ史における古代末期論の意義ならびにローマ帝国と古代中国の比較に関する西洋史側からの視点について貴重な示唆を得た。続いて、9月に第4回の国内研究会を開き、小宮秀陵「6世紀中葉新羅の領土拡大と信仰」、河上麻由子「南北朝時代の王権と仏教」、小尾孝夫「六朝建康の仏教受容と寺院空間―梁代建康の全盛とその歴史的背景―」、佐川英治「漢帝国以後の多元的世界」の報告をおこない、これらの成果をもって10月にパリで開催された“Beliefs and Cultural Flows of East Asia in the Late Antiquity and Medieval Period” (College of France)に参加した。この会議は我々の知る限り、「東アジアの古代末期」をテーマに掲げた初めての国際学会であり、この会議において我々は、5~6世紀の東アジアの歴史的展開ならびにその意義を考えていくうえで、信仰とくに仏教の国際的な広がりや社会への浸透が重要な意味をもつことを明らかにした。また佐川英治は古代末期の議論を組み込んだ東部ユーラシアの視野からする新しい中国史の概説書『中国と東部ユーラシアの歴史』(杉山清彦・小野寺史郎と共著、放送大学出版会)を出版した。その他、研究代表者と分担者は、国内外での論文執筆や学会報告を通じて積極的に研究を推進し、その成果を広める活動をおこなった。
著者
河上 麻由子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.117, no.12, pp.2047-2082, 2008-12-20 (Released:2017-12-01)

This article examines memorials (上表文) sent to the Southern dynasties that display a strong Buddhist influence. Its first chapter focuses on the analysis of the memorials sent to the Song and the Liang Dynasties from the Shizi 師子 Kingdom and the Tian-zhu-jia-pi-li 天竺迦〓黎 and Zhong-tian-zhu 中天竺 Kingdoms, which have been considered the same kingdom, but despite the common name Tian-zhu 天竺, they should not be regarded as the same. In addition, it is difficult to confirm that tribute sent in the name of the Shizi Kingdom in 527 was really sent by that kingdom. Chapter 2 discusses the circumstances under which the memorials sent to the Song and Nanqi Dynasties correspond to those sent to the Liang Dynasty and concludes that the former were composed by Buddhist monks who moved between the Nanhai 南海 Kingdoms and China, in such places as Funan 扶南. Moreover, the author argues that during the reign of Liang Dynasty Emperor Wu, correspondence was sent out expressing the emperor's wish to receive Buddhist-worded memorials, which forced neighboring kingdoms to consult older memorials preserved in a place presumably Funan. Given this background, Chapter 3 examines the relationship between the Southern dynasties and those kingdoms which sent Buddhist-influenced memorials, concluding that the traditional tribute relationship (册封 or 除授) was not formed between the Southern dynasties and those kingdoms, with only one exception during the Song era. This is because their memorials presumed a different relationship, between the Chinese emperor as bodhisattvas who provide guidance in popular worship and the kingdoms, as described in the Buddhist scripture about the relationship between Ashoka the Great and the kingdoms on his periphery. Within such a scenario, the traditional emperor-subject tribute relationship was considered inappropriate. Considering the situation of the Southern dynasties having to legitimize their existence in competition with the Northern dynasties, the author argues that the former, particularly the Liang dynasty, instituted a new form of diplomatic relationship based on Buddhism, which was now expected to play an international role as the guarantor of dynastic legitimacy.
著者
三成 美保 粟屋 利江 村上 薫 小浜 正子 鈴木 則子 小野 仁美 長 志珠絵 山崎 明子 桃木 至朗 河上 麻由子 野村 鮎子 久留島 典子 井野瀬 久美惠 姫岡 とし子 永原 陽子 落合 恵美子
出版者
奈良女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

「アジア・ジェンダー史」の構築に向けて、次の3つの課題を設定して共同研究を行う。①「アジア≪で≫問うジェンダー史」に関する史資料の収集・整理、②高校「歴史総合」のための「アジア≪を≫問うジェンダー史」教材の作成、③アジア諸国の研究者と協力して「アジア≪から≫問うジェンダー史」研究を発展させることである。研究成果は書籍として刊行するほか、比較ジェンダー史研究会HP(https://ch-gender.jp/wp/)を通じて広く国際社会に成果を公表する。とくに②については、高校教員との対話や共同作業を通じて、ジェンダー視点から歴史教育の発展をはかるためのテキスト・資料を作成・提供する。
著者
韓 昇 河上 麻由子[訳]
出版者
専修大学社会知性開発研究センター
雑誌
専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報
巻号頁・発行日
no.3, pp.97-108, 2009-12-18

文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業オープン・リサーチ・センター整備事業韓昇「井真成墓誌の再検討」の訳
著者
河上 麻由子
出版者
奈良女子大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

5~9世紀に仏教を受容したアジアの王権は、勅命による経典目録の編纂や寺院建立といった崇仏事業、あるいは君主を菩薩・転輪聖王と位置づけることで、仏教の持つ影響力を王権に内包していった。仏教に裏付けられた王権の正統性は対外的にも喧伝され、諸国の対外政策・認識には仏教の影響が認められるようになる。その結果、当該時代のアジアでは、仏教を思想的基盤とする諸国間交渉が、様々なレベルで展開したといえる。
著者
河上 麻由子
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.1-38, 2015-06
著者
河上 麻由子
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.1-38, 2015-06

This paper attempts a systematic examination of essential information by which the significance of the entire Portraits of Periodical Offerings (Zhigongtu 職貢圖) can be explored by re-examining the titles (題記) and the portraits of envoys to Liang China. The first section of this paper analyzes the titles. The titles of the envoys seen in the manuscript of Portraits of Periodical Offerings, held by Nanjing Museum, and those found in the Airiyinlushuhua xulu (愛日吟廬書畫續錄) reveal that the emissaries from West and Central Asian kingdoms to the Liang dynasty included Sogdians, specifically, the Hephthalites (滑國) sent Sogdians and Bactrians as their official envoys to the Liang court. Two other manuscripts in the National Palace Museum in Taiwan show the envoy from Khotan (于闐國) carrying a pot-shaped object, which can be regarded as their gift of a glass vase (瑠璃罌) officially presented to the emperor in 519 ; accordingly, the potraits of the envoys from Karghalik (