著者
田辺 裕 稲石 貴弘 森本 大士 直海 晃 田中 友理 柴田 有宏 高瀬 恒信 中山 茂樹 梶川 真樹 矢口 豊久
出版者
一般社団法人 日本農村医学会
雑誌
日本農村医学会学術総会抄録集 第59回日本農村医学会学術総会 (ISSN:18801749)
巻号頁・発行日
pp.116, 2010 (Released:2010-12-01)

症例1 20歳代男性 H21年5月 祭りの最中に人を乗せた馬に腹部を蹴られた。救急病院入院したが翌日まで腹痛治まらず当院に転院。腹部は板状硬。CT上腹腔内遊離ガスと腹水を認め消化管破裂と診断。緊急開腹手術施行した。外傷性小腸破裂、汎発性腹膜炎に対し小腸単純縫合術、腹膜炎ドレナージ術施行した。術後経過は良好で11日目に退院した。 症例2 60歳代女性 H21年7月 馬の調教をしている時に後ろ足で上腹部を蹴られ、救急車で当院受診。右上腹部に軽度圧痛認めた。CT上肝内側区域に不整な低濃度領域あり。採血上GOT/GPT 279/223と肝逸脱酵素の上昇が見られた。外傷性肝損傷と診断し、安静目的に入院。入院翌日にはGOT/GPT 90/136と低下しており、CT上も血腫の増大なく退院とした。 症例3 30歳代男性 H21年10月 馬の世話をしている時に右鼠径部を蹴られ、救急車で当院受診。腹部は板状硬。CT上モリソン窩に少量の腹水を認めた。腹部所見から消化管破裂による腹膜炎を疑い緊急開腹手術を施行した。外傷性小腸破裂、汎発性腹膜炎に対し小腸部分切除術、腹膜炎ドレナージ術施行した。術後経過は良好で10日目に退院した。 馬に蹴られたことによって入院、手術が必要となった症例を続けて経験した。 馬に蹴られるという外傷は、狭い面積に強い力がかかり、内部臓器損傷のリスクも高くなると考えられる。このようなケースの診療に当たる際はそれを踏まえてアンダートリアージのないようにする必要がある。
著者
田辺 裕
出版者
東京大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1988

本研究は,昭和63年3月に開通した青函トンネルの行政境界(津軽海峡に横たわる公海と領海との境界,海底地下における日本の管轄権の妥当性,北海道と青森県の境界,関係市町村界)の基礎となる地理学的境界を政治地理学の観点から導きだし,昭和63年2月24日に自治大臣から告示された現実の境界決定とどのような対応関係にあるのかを明らかにすることを目的としておこなわれた。とくに告示の基礎となった自治省の青函トンネル境界決定研究委員会の研究結果報告書自体も研究の対象とすることとした。先ず従来の政治境界は,一般に自然境界あるいは人為的境界など形態的類型区分による場合が多く,研究の武器としては不十分であったので近年の政治地理学の考え方に従い,先行境界・追認境界・上置境界・残滓境界などの概念によって問題点を整理した。第一に,津軽海峡には公海が,我が国の外交・防衛上の配慮によって設定されていることによって,先行境界が存在せず,我が国で通常境界論争で用いられる論理,先行境界の確認によって境界を画定することが不可能であることをあきらかにした。第二に,追認すべき社会経済的境界の存在について調査したが,漁業権の圏域に関しても,すべて公海を越えておらず,北海道と青森県の直接的接触は見られなかった。してがって未開の地にあらたに先行境界として地図学的な境界画定を試みると,とくに津軽海峡のごとき「向かい線」の画定には,いわゆる等距離線がもっとも妥当であるとの結論に達した。この画定原理は,江戸時代以来,わが国の水上境界画定の原理でもある。すでに利害が錯綜し,多様な社会経済的境界が存在する場合と異なり,津軽海峡は公海の存在が政治地理学的原理と現実の政治行政上の結果とが見事に一致する希有な事例であったと理解してよいであろうとの結論に達した。
著者
田辺 裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.120-132, 1990-06-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
23
被引用文献数
1 1

従来,都市と都市住民や市民などの概念は,夜間人口に基礎をおいてきた。しかし都心行政区における夜間人口の減少と郊外市町村における遠距離通勤・通学者の増加は,この古典的概念を根底から覆しつつある。従来,都市とは居住し,働き,家族生活を営む場であったが,その主要な担い手であった都心住民は,職住分離によって郊外に転出しつつある。他方,遠い郊外からの通勤者は,都市行政と都市計画に参画すべき,公法的な権利を奪われ,しかも家族生活の場である都市に所属する意識を失いつつある。またここには生活圏の2重の分裂が見られる。 第一の分裂は通勤者相互間にある。これは旧都心に通勤する人々を除いて,多くの通勤者が家庭生活の場としての郊外と,労働の場としての新都心(副都心)群の一つとを焦点とした楕円状の分都市圏とも呼ぶべき生活圏に所属し,その圏域外の他の新都心とは精神的にほとんど無関係に生活していることである。いいかえれば,住民相互に共有する市民意識が失われていることである。第二の分裂は同一家族の構成員相互間にあって,都心方向に遠距離通勤する父,近くの郊外都市に通学する年長の子供,ごく近距離通学の低学年の子供,家に残る母や老人,それぞれの生活圏が分裂し居住市区町村への帰属意識にもずれが生じていることである。 このような都市住民を,参加度と要求度によって,伝統型,無関心型,要求型,近代型と4分類してみると,都心や農村に見られた,居住し,働き,しかも家族とともにある伝統型は減少し,郊外には職住分離した,都市行政に参加しない無関心型や要求型が増加して,他方市民意識を持とうにも住民ではない近代型が現れている。
著者
田辺 裕
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.22-42, 1984-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28
被引用文献数
1 1

日本における市町村の境界は,近代的市町村制度が成立する以前から存在していたことを前提としている.したがって,いわゆる境界紛争は既存の境界が不分明になっているから起ることとなり,その解決は原則として確認行為によって求められるのであって,創設行為によることはない.しかし現実には,特に近年における工業化にともなう埋立地の拡大によって,既存の境界自体の確認はきわめて困難になってきている.本稿では,大牟田市と荒尾市との埋立地における紛争を,先行境界・追認境界・上置境界の三つの観点から双方の主張を分析することによって,解決する糸口を見出すとともに,日本の行政領域や境界の考え方の特質を明かにすることを試みた.先行境界については,武家諸法度にさかのぼって漁業法にも規定された漁場の占有権の水上境界が,三井砿山などの埋立によって消滅しながらも,なお現在に残っていることを,歴史的にあとずけ,また両市の主張の根拠ともなっている地図類を推計学的に考察し,追認境界については,現地調査によって実質的な両市の支配圏をもとめて,現実に存在する境界と両市の主張線とを対比した.上置境界については,水上境界の一般形態である等距離線(向い線)の特殊形態である地上境界の末端としての海岸線における垂線(隣り線)を幾何学的に求めて,これと両主張線とを比較した.このようにして得た地理学的境界は大牟田市に有利なものとなったが,そのことによって,むしろ両市の妥協を見ることが出来た.両市の理事者の政治的判断を評価するとともに,地理学の一つの応用事例としても,興味深い結論となった.
著者
田村 俊和 氷見山 幸夫 田辺 裕 漆原 和子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.179, 2003 (Released:2004-04-01)

地理学の特性としてしばしば語られる4つのキイワード(学際性,環境,地域,空間)を手がかりに,最近の日本の地理学研究の動向を,地理学の内外および国の内外から点検して,地理学はこれからどのようにしていくのがよいか,参加者とともに考えてみたい. 地理学の研究はほんとうに学際的か? たとえば変動地形の研究からジェンダーの地理学まで並べてみれば,その対象はきわめて多岐にわたり,個々の研究にとっての隣接分野は,全体としてはきわめて広い.しかし,本来多面的な地理学の個々の研究対象を,地理学(内の各分野)の研究において真に多面的視点から分析しているかというと,かなり心もとない.たとえば都市の緑地の配置やその評価・活用について,都市地理学,植生地理学,気候学等の研究者が共同で,あるいはその誰かが他方から知見や方法の教示を得て研究するよりも,都市計画や造園学などの研究者が,大胆に結論を出し,方策を提示している例が目につく.これら応用的とされる学問分野では,社会の要請する問題の構造を敏感に感じ取り,ときに自らの蓄積の少なさや手法の不十分さをも省みず,その要請に応える(かの)ような答を用意しようとしている.一方,地理学内部の個別の研究は,地理学が全体としては何とか保持している多面的視点をうまく活用できず,むしろ自らの視野を狭めているようにみえる. 地理学では環境の問題を正面から扱っているか? 環境への関心は,大小の波を経ながらも,1970年ころからは,社会において,したがって科学研究においても,高まってきた.古来,自然環境と人間活動との関係を重要な研究対象としてきたはずの地理学は,全体としてはこの波に乗れなかった.自然地理学のいくつかの分野では,個別の人為的環境悪化の発端となる現象のメカニズム研究で成果を上げたが,それを,問題発生の抑制に向けた人間(社会,企業,etc.)活動の規制にまで発展させて議論することは少なかった.人文地理学者の多くは,環境決定論批判の後遺症に陥っていて,人間-環境関係の研究に的確に取り組むすべを失っていたようにみえる.70年代後半ころから,大学その他で環境という語を冠した研究組織に地理学的発想をもった研究者が多少とも進出し,あるいはそのような組織の結成に積極的に関与して,関連する教育にも携わる例が増えてはきたが,一方で「地理学でも環境をやるのですか」という素朴な疑問が隣接分野から聞こえる状況は変わっていない.その原因の一つは,大学の教育体制にあると考えられる. 地理学では地域を深く認識しているか? 「環境」の場合と同様,「地域の科学」を自称することの多い地理学を置き去りにして,地理学の外の多くの分野で「地域(の)研究」が盛行している.しかしその中には,空間性を捨象した人間関係だけで地域をとらえているようなものもみられ,地理学が強みをもって地域の研究に(再)参入し,成果を上げる余地は,まだあるように思われる. 地理学は空間を扱う手法を発展させたか? いわゆる計量地理学の後で登場したGISは,地理学も学んだ地理学外の研究者・技術者により主として考案されたが,ある段階からは地理学出身者の寄与も小さくない.そして地理学研究・教育の強力な手法として,今までは概念的にしか論じられなかった空間現象を,具体的なデータに基づいて図示し,解析することが可能になってきている.地理学が伝統的に蓄積してきた空間解析の手法と知見を生かしつつ,この新しい手法の活用法や適用範囲の拡大を図り,新たな概念の展開にもつなげる可能性が,今までの実践の外にある. これからどのような方向をめざすのがよいか? たとえば,そろそろ時限の来るIGBPのような環境研究計画は,広範囲の学問分野を結集して初めてその推進が可能になるものではあるが,その一部を分担しつつ,各分野での成果をその都度結びつけ(できれば統合し)て全体像を示し,それが人間生活においてもつ意味を多面的に考え続け,公表していくということは,地理学諸分野の共通の目標になり得る.これにより,地理学内の少なくともいくつかの分野での研究は進展し,その他の分野にとっても波及効果があり,地理学全体として活性化し,その特性を外に向かってアピールできる.このような次の大きな研究課題を地理学から提案し,中心的に推進して行けないであろうか.