著者
漆原 和子 喜納 宏之 新垣 和夫 佐々木 正和 ミオトケ フランツ-ディーター
出版者
駒澤大学
雑誌
駒澤地理 (ISSN:0454241X)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.33-47, 1997-03

日本における石灰岩片の溶食率の地域差,経年変化を知るために北海道から南大東島まで7地点において,その測定を行った。この報告は,南大東島における溶食率の経年変化と,土壌中のCO_2濃度の経年変化について考察を試みたものである。1年ごとの溶食率は降水量の大な1993年に最大であった。一方,1994年は夏高温で水不足量(WD)が大であったが,水過剰量(WS)も大で溶食率は小さくなった。しかし1995年は,年降水量が少なく,かつ水不足量が大であり,空中,A_3層位,B_2層位ともに溶食率は最小であった。WDが少ない1993年には土壌中のCO_2濃度は高く,B_2層位の石灰岩片の溶食率も大であった。1994年には土壌中のCO_2濃度は低く,B_2層位の溶食率も低い。WDが大きく土壌が乾燥した1995年にはA_3,B_2層位ともに溶食率も最小であった。CO_2濃度の変化は1993年の一雨ごとの観測結果から,一定量を越える雨の後3〜4日で極大を示し,乾燥した時期が長びくと,CO_2濃度は低下することがわかった。土壌中の湿度は,有機物の分解を促進し,バクテリアの活動,根の活動を活発化させることに大きく寄与していると思われる。一方,畑の耕運による作土の孔隙率が大きいときには,生産されたCO_2は空中に放出されていて,Ap層位ではCO_2濃度は低い。
著者
漆原 和子 乙幡 康之
出版者
The Tohoku Geographical Association
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.99-110, 2007-08-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
10
被引用文献数
2

南西諸島の防風対策は, 屋敷囲いとして石垣のみを用いる場合と, 石垣に防風林のフグギを組み合わせる場合がある。本研究では屋敷囲いとしての石垣とフクギの防風林を同時に用いる例として, 集落が第二次大戦の影響をほとんど受けず, 防風に対する屋敷囲いの原型を残している沖縄県の渡名喜島を取り上げた。渡名喜島はハブが多く, トンボロ上に住居を築かねばならなかった。低平なトンボロ上に立地し, 屋敷を掘り下げて防風をおこなうことが渡名喜島の特色ある景観である。掘り出した砂を母屋のまわりに積む必要があり, 内石垣で砂が崩れないようにした。道路側には外石垣を用い, その間に砂を積んで, フクギを2~5列を植えることにより防風効果を高めている。村落の道路は交差軸を少しずらし, 道路を吹き抜ける強風が弱まるように工夫がされている。しかし, 1973年以降, 失業対策のたに外石垣をブロック塀に変えた。その後, RC工法の母屋も全戸の34%に増え, 強風に対して母屋の強度が増してきた。それにともない, 近年屋敷の掘り下げを埋め戻す例が多くなり, 屋敷囲いが変化しつつある。
著者
漆原 和子 吉野 徳康 上原 浩
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論. Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.71, no.7, pp.527-536, 1998-07
参考文献数
10
被引用文献数
2

福島県あぶくま洞内の小気候調査から,入洞者の影響により生じるCO<sub>2</sub>濃度の変化について考察した.観測は1995年夏季と秋季の2回実施し,気温・CO<sub>2</sub>濃度・風速の測定を移動観測と定点観測によって行った.その結果,閉鎖的な上部洞を中心に高温域とCO<sub>2</sub>濃度の高濃度域が形成されており,その持続時間は長かった.一方,下部洞では,夏季に洞窟内大気の流出,秋季に外気の流入が生じている.それは,洞窟内外の気温差が季節や日変化によって生じるためである.また,上部洞の三山の樹林では,夏季・秋季とも累積入洞者数とCO<sub>2</sub>濃度との関係に高い相関があり,得られた関係式から,約1500人で鍾流乳石の再溶食が生じるとされる2400ppmに達し,約4800人で人体に有害とされる5000ppmに達することが分かった.
著者
漆原 和子 勝又 浩 藤塚 吉浩 谷口 誠一
出版者
法政大学国際日本学研究所
雑誌
国際日本学 = INTERNATIONAL JAPANESE STUDIES (ISSN:18838596)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.151-172, 2007-05-31

On the island of Okinoshima off the coast of Shikoku in the Uwa Sea are settlements situated on areas of flat ground secured out of steep terrain by stone walls. In Hirose, there remain stone walls built as windbreaks against typhoons and prevailing northwesterly winter winds. In Moshima, the stone windbreaks have been entirely replaced with concrete or block walls. The type of stone used on the island is Tertiary intrusive granite. The stonework is characterized by sharp corners, produced by stacking angularly cut stones at 90° angles to one another, and the walls are given a concave curvature when they exceed approximately two meters in height. In the case of long, high earth-retaining structures, stones are laid over the arched wall surface to increase strength. The stone walls on the island are in a typically Honshu style, the exemplar of which is Anō-zumi. Across the island, hidana are built instead of verandas. These temporary structures, which are unique to the island, are made from bamboo or PVC pipes that extend out from the stone walls of homes. However, some also span roads. Hidana provide shelter against the winds that ascend the steep terrain, allowing best use to be made of the scarce land available on the island.
著者
漆原 和子
出版者
法政大学国際日本学研究所
雑誌
国際日本学 = INTERNATIONAL JAPANESE STUDIES (ISSN:18838596)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.77-103, 2007-03-31

On the island of Tsushima, situated between the Japanese mainland and South Korea, prevailing northeasterly to northwesterly winds during winter cause more problems for daily life than the typhoons that attack the island only rarely. It has hence been necessary for the inhabitants to find ways to protect themselves from these winds. On the western coast of the island, high stone walls of sandstone or slate have been built around residences. In addition to the main building, they also constructed separate sheds known as itakura for the storage of food, tools, and furniture. Traditionally with slate roofs, these sheds were also a type of insurance against the spread of fire. In recent years, tiles have replaced the slate.The city of Izuhara on the east coast is situated on an alluvial plain well protected from the prevailing winter winds. Since it was an old castle town with a quarter of densely built houses known as bukeyashiki, stone walls were constructed around the houses to prevent the spread of the fires that were common in such circumstances. Several of these fire-prevention walls survive even today. They date back to the sixteenth century or so.Two styles of dry stone wall construction can be observed on Tsushima. The first is what I tentatively call the Ryūkyū style, which is to be found in Ryūkyū and the southern Korean island of Cheju. It uses rounded stones at its corners. The second is what I tentatively call Honshu style, which is to be found on Honshu. It is characterized by sharp corners, curved inwards in the vertical axis, produced by stacking angularly cut stones at 90° angles to one another at the corners, while the remainder of the wall is of natural and cut stones piled in Anō-zumi fashion. The existence of the first type of wall suggests strong cultural influence from Korea.On the island of Okinoshima, further east in the Japan Sea, the seasonal prevailing winds have been warded off with a combination of hedges and stone walls. These stone walls are in the Honshu style; protection from the wind is also accomplished with wooden and bamboo fences. Walls of the Ryūkyū style, however, are not to be found on Okinoshima. The border of the Ryūkyū style is therefore located between Tsushima and Okinoshima, and this appears to represent a border of localization of a characteristic component of Japanese culture.
著者
白坂 蕃 漆原 和子 渡辺 悌二 グレゴリスク イネス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.180, 2010

<B>I 目的</B><BR> 世界のかなりの地域では、厳しい気候条件の結果として、家畜飼養はたったひとつの合理的土地利用としてあらわれる。それにはさまざまな形態があり、定住して営む牧畜のひとつの形態が移牧transhumanceであると筆者は定義する。<BR> 本稿では、ルーマニアのカルパチア山脈におけるヒツジの二重移牧の変容を通して、山地と人間との共生関係の崩壊を考えたい。_II_ジーナの人びととヒツジの二重移牧 ジーナJina(標高950m)はカルパチア山脈中にあり、年間降水量は約500-680mmである。ジーナ(330平方_km_)の土地利用は、その25%が放牧地、15%が牧草地(採草地)で、耕地は1%にも満たない。牧草は一般には年二回刈り取れる。第二次世界大戦後の社会主義国であった時代にもルーマニアでは、山地の牧畜地帯は、これ以上の生産性向上を期待できない地域であるとして土地の個人所有が認められていた。ジーナの牧羊者(ガズダgazdā)は定住しており、多くの場合、羊飼い(チョバンciobăn)を雇用して移牧をする。<BR> ジーナはヒツジの母村であるが、ヒツジがジーナの周辺にいる期間は短い。毎年4月初旬から中旬にかけて、低地の冬営地からヒツジはジーナにもどってくるが、約2週間滞在して、さらに標高の高いupper pasture(ホタル・デ・ススHotarul de Sus)に移動し、5月中旬から6月中旬の間そこにいる。ホタル・デ・ススは約10,000haあり、ここに150-200ほどの小屋(sălaş)がある。<BR> 6月中旬にヒツジは高位の準平原までのぼり9月10日くらいまではここにいる。ここは森林限界を超えた放牧地 Alpine pasture(面積5,298ha)である。移牧はセルボタ山Vf. Şerbota (2,130m)の山頂直下の2,100mに達し、ここが夏営地の上限である。<BR> 遅くとも9月中旬には、ヒツジは高地の放牧地からホタル・デ・ススに下り1-2週間滞在し、10月初旬にはジーナに降りるが1-2週間しか滞在せず、10月中旬には冬営地であるバナート平原、ドブロジャ平原やドナウ・デルタにまで移動する。バナート平原までは約15日、ドブロジャやドナウ・デルタまでは20-25日かかる。<BR><BR><B>III 1989年以前の移牧とその後の変容</B><BR> 社会主義時代には約150万頭(1990年)のヒツジが飼育され、state farmsとcooperative farmsがその1/2以上を飼育していたが、ヒツジの場合、個人経営individualも多かった。1989年の革命後、state farmsとcooperative farmsで飼育されていたヒツジは個人に分けられたが、多くの個人はその飼育を放棄した。したがって、1998年の革命以降ヒツジの飼養数は半減した。また平野部の農用地は個人所有にもどったため、作物の収穫後であっても農耕地のなかをヒツジが自由に通過することは困難になり、さらに道路を通行する自動車などをヒツジが妨げてはならないというRomanian regulationもできた。そのために1,000頭程度の大規模牧羊者gazdāは、バナート平原などの平地でヒツジを年間飼養せざるをえなくなった。しかし彼らはラムのみに限っては夏季に平野部からジーナまでトラックで運搬する。そしてHotarul de SusやP&acirc;şunatul Alpinまでは徒歩で移動し、帰りもまたジーナからはトラックで輸送する。したがって、P&acirc;şunatul Alpinにおける夏季のヒツジの放牧数は1988年の革命以前に比べて極端に減少した。<BR><BR><B>IV EU加盟とヒツジの移牧</B><BR> 今日ではルーマニアの農牧業もEU regulations(指令)のもとにあり、ヒツジの徒歩移動は最大でも50_km_である。さらに条件不利地域への補助金もある。このように、1989年の革命後、それぞれの家族は彼らの持つ諸条件を考慮して牧畜を営むようになった。その結果、こんにち、ジーナにおける牧畜は次のような三つのタイプに分けられる。<BR>1)ジーナに居住し、通年ジーナでヒツジを飼育する世帯(Type 1)<BR>2)ヒツジの飼育もするが、ジーナとHotarul de Susの間で乳牛の 正移牧を主たる生業とする世帯(Type 2)<BR>3)平野部に本拠を移し、ヒツジの飼育を生業として維持する世帯(Type 3)<BR><BR><B>V まとめ</B><BR> 1989年の革命以前には、カルパチア山脈における二重移牧は見事なばかりにエコロジカルな均衡を具現していたが、社会主義体制の崩壊によって、変貌を余儀なくされた。しかしながら、現在のところその形態を変化させつつも、生業としての移牧は継続している。しかしながら、ルーマニアのヒツジの移牧は、「平野」の農村における農業生産力の発展、都市経済の変貌にともなって衰退すべきものであるとみるのが妥当なのかもしれない。
著者
漆原 和子 白坂 蕃 渡辺 悌二 ダン バルテアヌ ミハイ ミック 石黒 敬介 高瀬 伸悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.179, 2010

<B>I 研究目的</B><BR> ルーマニアは1989年12月社会主義体制から自由経済への移行を果たした。そして2007年1月にはEUに加盟した。こうした社会体制の変革に伴って、とりわけEU加盟後に伝統的なヒツジの移牧がどのように変容しているのかを明らかにし、ヒツジの移牧の変貌に応じて地生態系がどのように変容しているのかを把握することを目的にした。<BR><BR><B>II 調査地域と方法</B><BR> 調査地域は、南カルパチア山脈中部の、チンドレル山地山頂部から北斜面を利用して移牧を行なっている地域である。調査地では、社会主義体制下でも個人所有が許され、伝統的な二重移牧が維持されてきた。この地域は、プレカンブリア時代の結晶片岩からなり、土壌の発達が極めて悪く、農耕地には不適な地域である(図1)。3段の準平原を利用した二重移牧が行なわれてきたところである。土地荒廃地は、毎年地形の計測を繰り返した。山頂部では、草地への灌木林の進入をコドラート法により調査した。礫の移動は方形区をかけ、計測した。<BR><BR><B>III 調査結果</B><BR>1)3番目の準平原上の移牧の基地に相当するJina村(約950m)では、EU加盟後も春と秋にヒツジの市を開く。EU加盟後、大規模なヒツジ農家の多くは、冬の営地であったバナート平原に定住するようになった。冬の営地であるバナート平原へのヒツジの移動は貨車とトラックを用いる。<BR>2)Jina村付近の土地荒廃は、2003年、2004年ごろがピークであった。2007年から2009年の間は侵食地の物質の移動はほとんどなく、裸地に草本が回復し始めている。これはEU加盟後のヒツジによるストレスが軽減していることを示している。<BR>3)社会主義体制下では、最上部の準平原面上をヒツジ・牛・馬も夏の営地として利用していた。しかし、EU加盟後、最上部までの移動はラムに限られ、数は激減し8000頭に満たない。20年前からPinus mugoとPicea abiesが成育を始めた地域が拡大している。これはヒツジのストレスの減少が起こった為と考える。さらに、これらの樹木はいずれも17~18年前に著しく枝分かれしていることから、ヒツジの頭数の減少は17~18年前に急激であったか、気象の異変があったと考えられる。
著者
漆原 和子
出版者
法政大学文学部
雑誌
法政大学文学部紀要 (ISSN:04412486)
巻号頁・発行日
no.64, pp.37-49, 2011

ルーマニアにおいて,EU加盟後5年を経過した2011年におけるヒツジの移牧の実態の把握を試みた。1989年12月の革命よりも前のヒツジの移牧の実態は,聞き取り調査によって正確に明らかにすることが困難であった。その後の市場経済体制下とEU加盟後の今日のヒツジの移牧は,2003年から2011年までの現地調査によってその実態が明確になった。調査地域は第2次世界大戦後の社会主義体制下において,生産性の上がらない場所として集団化をまぬがれたチンドレル山地の山麓である。ジーナ村とその周辺の海抜約1000mを基地として移牧を行う人々に限定して,調査を実施した。その結果,現在ジーナ村で登録されているヒツジの群は,冬の宿営地であるバナート平原で冬を越し,また春にはジーナ村に引き返す。夏は海抜1800m まで移動する。その際は,若羊のみ山頂の2200m 付近へ移動させる。一方,バナート平原に定住し,そこで飼われたヒツジは肉として売られるか,又はチーズの生産にむけられている。この数は年々大型化していて,その総数は不明である。しかし,1戸が1,000~1,500頭を超えるヒツジ飼育農家が増加している。その他にドナウ河畔まで南下し,冬を過ごすグループもあり,1 グループが600~800頭である。彼等は,夏はチンドレル山頂で過ごし,秋にはジーナ村にもどる。基地のジーナ村には秋の市場が開かれる時のみ戻る。もう一つはドナウ川下流域,又はデルタまで移動した移牧のグループである。彼等はEU 加盟後は移動をやめて定住している。その数は,今回の聞き取り範囲の推定頭数でも15,000頭に達することがわかった。ドナウデルタ全域では,定住しているヒツジの総数はきわめて多数にのぼると推定される。EU加盟後5年を経た今日のヒツジの移牧の実態から,今後のヒツジの畜産業の方向には次の二つが考えられる。一つは,バナート平原やドナウデルタのように冬も宿営地として飼育できる場で定住をし,大型化をはかる方向である。この方向は今後ますます飼育頭数が増加していくであろう。二つ目は,チンドレル山地の山頂まで移牧をし,良質の草を食べさせて,良質の若羊を飼育する方向である。これは,伝統的なこれまでの方法であるが,質の良い肉の需要がある限り,この移牧は消滅することはないであろう。しかし,伝統的移牧で扱うヒツジの頭数は年々減少すると思われる。
著者
漆原 和子 白坂 蕃 バルテアヌ ダン
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

ルーマニアにおけるヒツジの移牧が社会体制の変革とともにどのように変化したかについて研究結果を述べる。とりわけ2007年EU加盟後の移牧が変質してきた。夏の宿営地(2100mの準平原面)へのヒツジの移牧頭数は激減し、冬の宿営地(バナート平原)へは移動手段を貨車、トラックに頼るようになった。また、バナート平原に定住化したヒツジの移牧の頭数が増え、大型化している。1000mの準平原面の上の基地では土地荒廃は改善されつつある。またドナウデルタではヒツジは定住化し、移牧は全くおこなわれなくなった。
著者
漆原 和子 清水 善和 羽田 麻美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.102-117, 2015-03-01 (Released:2019-10-05)
参考文献数
22

ルーマニアの南カルパチア山脈チンドレル山地のジーナ村において,聞取り調査,空中写真および衛星写真判読,夏の宿営地となる山頂部の植生調査を行い,1989年の社会主義体制崩壊の前後と2007年のEU加盟後のヒツジ移牧の変化を検討した.調査地域では,3段の準平原面を利用した二重移牧が行われてきたため,放牧地や移動経路は切り拓かれて広大な草地が成立していた.社会主義体制下では約4万頭のヒツジを山頂部で放牧していたが,体制崩壊後は山頂部でのヒツジが激減し,2010年には3,500頭となった.その結果,森林限界付近のPicea abiesと山頂部のPinus mugo, Juniperus communisがその分布高度を上げて草地に侵入していることが明らかになった.侵入稚樹の最高樹齢はおおむね20~25年を示すことから,社会主義体制の崩壊直後から樹木が侵入していることがわかった.EU加盟後のヒツジの総頭数は社会主義体制当時の数に匹敵するまでになったが,山頂部へのヒツジの移動頭数は減少を続けている.
著者
永塚 鎮男 漆原 和子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.170-178, 1989-12-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
8

海南島は,亜熱帯から熱帯への移行帯に位置しているとともに,降水量の多い東部から乾燥した西部へ向かって湿潤度が次第に低下しているため,成帯性土壌の分布様式もかなり複雑である。この島の成帯性土壌型の国際的土壌分類体系における位置づけを明らかにするために,代表的な土壌型であるラトソル(傳紅壌),ラテライト性赤色土(赤紅壌),鉄質ラトソル(鉄質傳紅壌)の3種の土壌断面について一般理化学性,粘土鉱物組成,鉄化合物の存在様式を分析し,アメリカの分類体系, FAO-Unescoの分類体系ならびにフランスの生態的土壌分類体系における分類単位との対比を試みた。対比の結果は以下のとおりである。 1) 5ケ月間の乾季がある亜熱帯ないし熱帯季節雨林気候下のラトソルはオキシックロドアスタルフ(USA), クロミックリキシソル (FAO-Unesco), 典型的熱帯鉄質土(フランス)にそれぞれ対比される。 2) 乾季が4ケ月間ある亜熱帯季節雨林気候下のラテライト性赤色土は,オキシックハプラスタルト (USA), ハプリックアリソル (FAO-Unesco), 塩基未飽和熱帯鉄質土(フランス)にそれぞれ対比される。 3) 亜熱帯ないし熱帯雨林気候下の鉄質ラトソルは,トロペプティックハプロルソックス (USA), ローディーックフェラルソル (FAO-Unesco), フェリソル(フランス)にそれぞれ対比される。したがって,海南島のいわゆるラトソルやラテライト性赤色土は真のラトソル(オキシソルあるいはフェラルソル)のカテゴリーには入らず,鉄質ラトソルだけがかろうじて真のラトソルに属すものと見なされる。
著者
漆原 和子 永塚 鎮男
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.127-136, 1989-12-31 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14

雲南省の西双版納には成帯性土壌が垂直的に分布している。すなわち標高600mまでは準ラトソル(準磚紅壌), 600mから900mまでは赤紅壌, 900mから1600mまでは赤色土(紅壌),1600m以高には黄褐色森林土(黄棕壌)と思われる土壌が分布する。しかし,赤紅壌は紅壌の分布地域に古土壌として分布している。鉄の結晶化指数(Fed-Feo)/Fetはそれぞれの土壌の化学分析値から計算した。準磚紅壌の結晶化指数はほとんどが0.85以上の値を示し,赤紅壌は0.7~0.85, 紅壌は0.5から0.7の値を示す。 吉良の暖かさの指数による区分では,西双版納の標高900mまでは亜熱帯,それより高地は温暖帯である。一方,日本では赤色土の分布は西南日本の亜熱帯地域で,黄褐色森林土は西南日本の温暖帯に広く分布し,かつ古土壌として赤色土を伴なう。このように西南日本と中国南部の雲南では,土壌型と暖かさの指数の間の関係は同じではない。しかしながら雲南の紅壌と西南日本の赤色土とは鉄の結晶化指数はほとんど同じ巾 (0.5から0.7) の中におさまる。 標高600mよりも低い雲南省の南部は吉良の暖かさの指数では亜熱帯であるが,準磚紅壌が西双版納にある。この地方では1月から6月までの間,毎年水不足量 (d) が出現する。雲南省から広東省にかけて,水不足量は毎年1月から6月までは出現しない。むしろ水不足量は中国南部のより東部では8月, 9月に年々出現する。雲南省の南部は夏に高温湿潤であり,有機物の分解には好適である。一方,冬から春にかけて毎年温暖で,かつ乾燥している。このような気候条件は鉄の結晶化を促進させ,結果的に亜熱帯のような温度条件であっても準傳紅壌や赤紅壌を分布させていると考える。ただし,準傳紅壌はこの調査地域では古土壌として分布している可能性がある。
著者
漆原 和子 鹿島 愛彦 榎本 浩之 庫本 正 フランツ ディーター ミオトケ 仲程 正 比嘉 正弘
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
地學雜誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.108, no.1, pp.45-58, 1999
参考文献数
38
被引用文献数
2 3

Observations of the solution rate of limestone tablets from 1993 to 1997 have been utilized to clarify the degree of karstification from northern to southern Japan.<BR>Limestone tablets were placed at seven observation points stretching from northern to southern Japan : Toma, Abukuma, Chichibu, Akiyoshidai, Shikoku Onogahara, Ryugado, and Minamidaito. Three groups of four limestone tablets from Slovenia, Guilin (China), Chichibu, and the fourth tablet from limestone indigenous to the obsevation point, were arranged on three levels at each observation point : 1.5m above the ground, the A3 horizon, and the B<SUB>2</SUB> horizon. Measurements were taken of the solution rates of the tablets at each observation point from 1993 to 1997. Thornthwaite's method was used for calculating water balance to ascertain the relation between solution rate and water balance factors. The solution rates of limestone tablets placed 1.5m above the ground show a high correlation coefficient between (water surplus (WS) minus water deficit (WD)). On the other hand, limestone tablets planted in the soil had a solution rate from two to three times higher than those suspended in the air. The solution rates of limestone tablets located in the A<SUB>3</SUB> and B<SUB>2</SUB> horizons exhibited the highest annual precipitation correlation coefficient. The high CO<SUB>2</SUB>values under warm, humid conditions may account for the higher solution rates of the tablets planted in the soil.<BR>The solution rate tendency curve achieved its greatest range during the five years in direct proportion to the WS-WD ratio in 1993, when a cool, humid summer prevailed throughout most of Japan. The solution rate tendency curve marked its smallest range during the five years in proportion to the WS-WD ratio at all locations for limestone tablets suspended in air in 1994, under conditions of an extremely hot and dry summer, such as occurs only once in a hundred years. In general, however, the solution rates of the limestone tablets were high when the WS-WD ratio ranged between 1, 000 to 1, 600mm. Within this range, the solution rates at each observation point decreased slightly as the WS-WD ratio decreased.
著者
漆原 和子
出版者
法政大学文学部
雑誌
法政大学文学部紀要 = Bulletin of Faculty of Letters, Hosei University (ISSN:04412486)
巻号頁・発行日
no.66, pp.31-39, 2012

バスク地方は,ヒツジの移牧の発生の地であるといわれている。このバスク地方のうち,フランスのバスク地方におけるヒツジの移牧の現状を知り,ルーマニア・南カルパチア山脈におけるヒツジの移牧の現状と比較することを目的として調査した。現在のバスク地方は,バスク語を用いる人々によって,ヒツジの正移牧が維持されている。EU 加盟後も,伝統的な移牧を維持しつづけてきた牧童たちは,将来も維持しつづけられると考えている。その理由は,良質のヒツジのチーズをつくり,"Ossau-Iraty"(オッソー・イラティー)のブランド名を付け,人気を博していることにある。チーズの質を維持できるのは,ヒツジに対しても,製品に対しても,殺虫,殺菌をすることをせず,草地もすべて自然にこだわっている。冬の飼料も自然の干草か,有機栽培によるトウモロコシ,大豆に限定していることにある。チーズの質を求めるならば,移牧の形式は必要である。牧童たちはこの方法を維持する限り,将来も十分に消費者の需要があると考えている。筆者も本調査の結果から,その考えを支持する。In the Basque area of the Pyrenees Mts., France, the transhumance of sheep used to be conductedin the form of intermediate-stationed transhumance prior to World War I. Today, the style oftranshumance has changed to ascending transhumance. In this study, a questionnaire survey ofshepherds was conducted in Ossau valley. This valley was formed by glacial activity during the lastglacial period. Sheep stay at the bottom of the glacial cirque around the altitude of 1700-1800 m a.s.l.where sheep, cattle and horses graze on 1,400ha as their summer range. The local breed of sheep isthe "BASCO-BEARNAISE". From July 1st to the middle September, the shepherds milk the ewestwo times a day. They use the milk to make "Ossau-Iraty" cheese. They sell the cheese throughthe market or directly to private visitors. The summer huts are used by the shepherds alone orwith their families. The living facilities are completely modernized with solar batteries, mobilephones, tap water and computers. The quality of cheese is the best in Europe. To achieve this qualityof cheese, a supply of clean cold water, soft natural grass and a cool climate are required. Theseconditions are needed to maintain the quality of both the cheese and the meat. Thus, the transhumanceof sheep in this area, meets conditions for sustainability in the future also.
著者
田村 俊和 氷見山 幸夫 田辺 裕 漆原 和子
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.179, 2003 (Released:2004-04-01)

地理学の特性としてしばしば語られる4つのキイワード(学際性,環境,地域,空間)を手がかりに,最近の日本の地理学研究の動向を,地理学の内外および国の内外から点検して,地理学はこれからどのようにしていくのがよいか,参加者とともに考えてみたい. 地理学の研究はほんとうに学際的か? たとえば変動地形の研究からジェンダーの地理学まで並べてみれば,その対象はきわめて多岐にわたり,個々の研究にとっての隣接分野は,全体としてはきわめて広い.しかし,本来多面的な地理学の個々の研究対象を,地理学(内の各分野)の研究において真に多面的視点から分析しているかというと,かなり心もとない.たとえば都市の緑地の配置やその評価・活用について,都市地理学,植生地理学,気候学等の研究者が共同で,あるいはその誰かが他方から知見や方法の教示を得て研究するよりも,都市計画や造園学などの研究者が,大胆に結論を出し,方策を提示している例が目につく.これら応用的とされる学問分野では,社会の要請する問題の構造を敏感に感じ取り,ときに自らの蓄積の少なさや手法の不十分さをも省みず,その要請に応える(かの)ような答を用意しようとしている.一方,地理学内部の個別の研究は,地理学が全体としては何とか保持している多面的視点をうまく活用できず,むしろ自らの視野を狭めているようにみえる. 地理学では環境の問題を正面から扱っているか? 環境への関心は,大小の波を経ながらも,1970年ころからは,社会において,したがって科学研究においても,高まってきた.古来,自然環境と人間活動との関係を重要な研究対象としてきたはずの地理学は,全体としてはこの波に乗れなかった.自然地理学のいくつかの分野では,個別の人為的環境悪化の発端となる現象のメカニズム研究で成果を上げたが,それを,問題発生の抑制に向けた人間(社会,企業,etc.)活動の規制にまで発展させて議論することは少なかった.人文地理学者の多くは,環境決定論批判の後遺症に陥っていて,人間-環境関係の研究に的確に取り組むすべを失っていたようにみえる.70年代後半ころから,大学その他で環境という語を冠した研究組織に地理学的発想をもった研究者が多少とも進出し,あるいはそのような組織の結成に積極的に関与して,関連する教育にも携わる例が増えてはきたが,一方で「地理学でも環境をやるのですか」という素朴な疑問が隣接分野から聞こえる状況は変わっていない.その原因の一つは,大学の教育体制にあると考えられる. 地理学では地域を深く認識しているか? 「環境」の場合と同様,「地域の科学」を自称することの多い地理学を置き去りにして,地理学の外の多くの分野で「地域(の)研究」が盛行している.しかしその中には,空間性を捨象した人間関係だけで地域をとらえているようなものもみられ,地理学が強みをもって地域の研究に(再)参入し,成果を上げる余地は,まだあるように思われる. 地理学は空間を扱う手法を発展させたか? いわゆる計量地理学の後で登場したGISは,地理学も学んだ地理学外の研究者・技術者により主として考案されたが,ある段階からは地理学出身者の寄与も小さくない.そして地理学研究・教育の強力な手法として,今までは概念的にしか論じられなかった空間現象を,具体的なデータに基づいて図示し,解析することが可能になってきている.地理学が伝統的に蓄積してきた空間解析の手法と知見を生かしつつ,この新しい手法の活用法や適用範囲の拡大を図り,新たな概念の展開にもつなげる可能性が,今までの実践の外にある. これからどのような方向をめざすのがよいか? たとえば,そろそろ時限の来るIGBPのような環境研究計画は,広範囲の学問分野を結集して初めてその推進が可能になるものではあるが,その一部を分担しつつ,各分野での成果をその都度結びつけ(できれば統合し)て全体像を示し,それが人間生活においてもつ意味を多面的に考え続け,公表していくということは,地理学諸分野の共通の目標になり得る.これにより,地理学内の少なくともいくつかの分野での研究は進展し,その他の分野にとっても波及効果があり,地理学全体として活性化し,その特性を外に向かってアピールできる.このような次の大きな研究課題を地理学から提案し,中心的に推進して行けないであろうか.