著者
米地 文夫
出版者
岩手県立大学総合政策学会
雑誌
総合政策 (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.25-42, 2001-07

磐梯山1888(明治21)年噴火は,水蒸気爆発とそれに伴う岩屑なだれによる大災害であったが,噴火地点に近い磐梯温泉,中の湯の滞在客鶴巻良尊は奇跡的に助かり,詳細な手記を書簡として残した。この鶴巻の証言には噴火直後の噴石による被災の状況と,その後の避難行動が記されており,岩屑なだれを起こしたと思われる"破裂"が3度にわたり発生したことなども記載されていて,きわめて重要なものである。にもかかわらず,この噴火の学術的報告として研究者に引用されている関谷・菊池両氏の論文等は,この書簡を掲載した点は評価できるものの,証言の内容自体は黙殺したり改変したりして十分に活かしているとは言い難い。この論文では鶴巻証言から,噴石による災害は喧伝されたほど劇甚ではなかったこと,岩屑なだれ発生は山体の多段階崩壊によるものと推定できること,などを読み取り,同種災害時の避難行動に役立てようとしたものである。
著者
米地 文夫
出版者
東北地理学会
雑誌
東北地理 (ISSN:03872777)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.1-6, 1962

In the southern part of the Shonai Plain, there are several surfaces of river terraces and terrace-like surfaces. These surfaces are classified and shown in Table and Figure 1.<BR>The Iwanoyama, Etchuyama Settlement and Otori Nursery-garden Surfaces, thus named respectively, are covered with &ldquo;Tsuruoka Loam&rdquo; (volcanic ash as eolian deposits), and their surfaces are wavy due to the dissection. A part of the Matsune Surface is covered with secondarily deposited loam. The Matsune and Nakano-shinden Surfaces preserve the flat terrace surfaces.<BR>The Etchuyama Sites are located on the Etchuyama Settlement Surface and Otori Nursery-garden Surface. Stone implements of the Non-ceramic Age are discovered from the level between black soil (humus) and the Tsuruoka Loam.<BR>After all, the writer supposes that the Tsuruoka Loam was derived from the upper Pleistocene Age, and that the time of the formation of the surfaces from the Iwanoyama to the Otori Nursery-garden Surface was the Pleistocene. The Matsune Surface is a landform of slightly elevated fan-like delta formed in the lower Holocene Age.
著者
米地 文夫
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要 自然科学 (ISSN:05134692)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.89-100, 1960-03
著者
米地 文夫 菊池 強一
出版者
東北地理学会
雑誌
東北地理 (ISSN:03872777)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.23-27, 1966
被引用文献数
4

&ldquo;Obanazawa pumice bed&rdquo; is extensively distributed in Obanazawa basin and its vicinity along the middle-stream of the Mogami river. This deposit was first described by Prof. Y. Tomita as the deposit under the fluvial agency of the Niu river at the time of the explosion of Funagata volcano (in Ou mountains), at the source of this river.<br>The writers exmained about 160 exposures and made the isopach map of the deposit. From this map, the volume of Obanazawa pumice was roughly estimated 0.19km. The deposit attains a maximum exposed thickness in the western border of its distribution area, namely in the vicinity of Hijiori spa. Further, Obanazawa pumcie bed is found on the surfaces of hill-land and higher-middle terraces (Sabane-Obanazawa surfaces).<br>These observations about the distribution of Obanazawa pumcie and some other evidences indicate that Obanazawa pumcie was deposited as a fallen tephra originated from Hijiori cladera (Dewa range). In the writers' opinion taking the result of pollen analyses and archeological sruvey into consideration, Obanazawa pumice bed belongs to the upper Pleistocene or lowest Holocene age.
著者
米地 文夫一 一ノ倉 俊一 神田 雅章
出版者
岩手県立大学
雑誌
総合政策 (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.49-63, 2013-11

筆者等は「北上平野にとって、南部北上山地西縁は東方の異界との境界として生き続けてきたという時空間認識」を賢治が持っていた、という仮説を立て検証を行なった。賢治が北上平野に対する南部北上山地を、中国の平野に対するチベット高原(賢治のトランスヒマラヤ高原)に見立てたその背景には、この地域がかつて大和朝廷勢力軍事首長下の西の平野、奥六郡に、東のエミシの地、閉伊が対峙した時代があり、アテルイや安倍貞任などの伝説や、様々な郷土芸能、祭礼などにその歴史が変容し伝承されてきたことがある。たとえば、南部北上山地西縁部に位置する兜跋毘沙門天像を祀る寺社の配列は東方に対する結界であり、その西方は谷権現(丹内社)信仰などを持つ異界となる。しかし西側が設けたこの結界はむしろ、後々東側の西に対する結界となった。賢治もその結界は中立的な境界線というより、むしろ異界の始まりであると感じていた。
著者
米地 文夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.71, 2008

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」と「インドラの網」との二編の童話に天の野原に行った夢の場面を描いた。 前者はジョバンニが夢の中で銀河鉄道に乗って天の野原を旅し, 後者では「私」はツェラ高原から天の空間にまぎれ込む。 ツェラ高原についてはチベットやパミールの高原を基にした架空の地といわれてきたが, 演者はその地形や湖の描写がヘディンの『トランスヒマラヤ』の中のチベット北部, 現阿里地区北東の塩湖の記載と類似点が多いことを見いだした。 ただし植生は詩「早池峰山巓」とその先駆形の山頂の描写と共通したコケモモや灰色の苔や草穂の原などがあり,「インドラの網」の天の野原は早池峰山頂緩斜面の記憶にチベット北部の塩湖を銀河として重ねたのである。なお,チベットにはツェラ(頂きの峠~山道の意味)という地名が複数存在し,音に則拉や孜拉という漢字を当てている。 一方,「銀河鉄道の夜」の沿線の記述は一見,多様であるが,演者はこれを景観から二分することにより,そのモデルを絞り込んだ。すなわち, 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)をモデルとする東西線と,東北本線(現JR在来線)のイメージを持つ南北線とである。 東西線は最も初期に書かれた第一次稿の前半部(演者の0次稿)に当たり,地形に大きな起伏がある。車窓のコロラド高原に擬した高原にはトウモロコシ畑があり,白い鳥の羽根を頭につけ弓を持つインディアンが登場する。当時,種山ヶ原に飼料用のトウモロコシ畑もあり(詩「軍馬補充部主事」),また詩「種山と種山ヶ原」に「じつにわたくしはけさコロラドの高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図板をもって…」とあるので,インディアンは賢治自身の投影,高原は種山ヶ原である。高原から列車は激しく揺れつつ下るのも,同日付の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(異稿に銀河軽便鉄道の名あり)の猿ヶ石川の谷を下る際の描写と同じである。 南北線部分の地形はほとんど平坦で,三角標や十字架が星と星座を示している。これは,東西線では,インディアン,いるか,鶴など星座名にちなむ人や動物が登場しているのとは対照的である。南北線沿線にはススキやリンドウなど岩手の二次草原の植生がみられる。ジョバンニには,カムパネルラの捜索現場の河原で「川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見え」たとある。この河原は花巻の北上川の旧瀬川合流点の州をモデルにしており,したがって南北線は北上川をモデルとした銀河に沿って走り,そらの野原は北上低地をモデルとしたことになる。「プリオシン海岸」の挿話は北上河畔のイギリス海岸がモデルであるから,本来は岩手軽便鉄道に近いが,北上川に沿うため南北線に移して組み込まれている。 このように宮沢賢治の描く銀河に沿う景観は,実際に観察している岩手の景観に,本や映画で知った海外のイメージを重ね,さらにそれを天上の景観の幻想を重ねるという,三重の幻想空間構造になっているのである。したがって宮沢賢治の銀河沿岸の│景観描写のモデルは表のようになる。
著者
米地 文夫
出版者
学術雑誌目次速報データベース由来
雑誌
季刊地理学 = Quarterly journal of geography (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.47, no.4, pp.267-284, 1995-12-01
参考文献数
40

明確な地名としての「東北」の初出を, 岩本 (1989など) は慶応4年7月の木戸孝允の建議書をその初現であるとし, 難波 (1993) は同年閏4月から太政官日記にみられるとしたが, 筆者は同年正月の久保田 (秋田) 藩主への内勅や, 2月の仙台藩主からの建白書に, 「東北」の語があることを見いだした。<br>岩本は「東北」を「東夷北秋」を約めたもので, 勝者が敗者に押し付けた地名とした。しかし「東夷北秋」の略は「夷秋」で, 当時は欧米を意味していた。また朝廷側が味方の秋田藩を「東北の雄鎮」と呼んだり, 奥羽側でも自らをも含めて「東北列藩」と呼んだりしており,「東北」に蔑視的な意味は無かった。この「東北」は, 東海, 東山, 北陸の三道全体, すなわち東日本の意味で, 現東北6~7県地域を指すものではなかった。明治初年のこの広義の「東北」は当時の歴史教科書にはみられるが, 地理教科書にはほとんど登場しなかった。
著者
米地 文夫
出版者
岩手県立大学総合政策学会
雑誌
総合政策 (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.109-125, 2010-05

宮沢賢治の未完の作品「銀河鉄道の夜」の多くの登場人物のうち、燈台守は最も印象的なキャラクターの一人である。この燈台守はヘルクレス座の近くで銀河鉄道の客室内に現れる。彼は黄金のリンゴを持ってくるヘラクレスであるとともに、賢治と同郷の花巻出身の農業技術者・島善鄰博士でもあり、なおかつ北上河畔に一人立つ賢治自身でもあった。ヘルクレス座には燈台のような変光星もあり、島博士はゴールデンデリシャスを北国から日本に初めて導入している。この燈台守挿話は賢治作品における重層的世界の典型例の一つなのである。
著者
米地 文夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2008年度日本地理学会秋季学術大会・2008年度東北地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.71, 2008 (Released:2008-11-14)

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」と「インドラの網」との二編の童話に天の野原に行った夢の場面を描いた。 前者はジョバンニが夢の中で銀河鉄道に乗って天の野原を旅し, 後者では「私」はツェラ高原から天の空間にまぎれ込む。 ツェラ高原についてはチベットやパミールの高原を基にした架空の地といわれてきたが, 演者はその地形や湖の描写がヘディンの『トランスヒマラヤ』の中のチベット北部, 現阿里地区北東の塩湖の記載と類似点が多いことを見いだした。 ただし植生は詩「早池峰山巓」とその先駆形の山頂の描写と共通したコケモモや灰色の苔や草穂の原などがあり,「インドラの網」の天の野原は早池峰山頂緩斜面の記憶にチベット北部の塩湖を銀河として重ねたのである。なお,チベットにはツェラ(頂きの峠~山道の意味)という地名が複数存在し,音に則拉や孜拉という漢字を当てている。 一方,「銀河鉄道の夜」の沿線の記述は一見,多様であるが,演者はこれを景観から二分することにより,そのモデルを絞り込んだ。すなわち, 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)をモデルとする東西線と,東北本線(現JR在来線)のイメージを持つ南北線とである。 東西線は最も初期に書かれた第一次稿の前半部(演者の0次稿)に当たり,地形に大きな起伏がある。車窓のコロラド高原に擬した高原にはトウモロコシ畑があり,白い鳥の羽根を頭につけ弓を持つインディアンが登場する。当時,種山ヶ原に飼料用のトウモロコシ畑もあり(詩「軍馬補充部主事」),また詩「種山と種山ヶ原」に「じつにわたくしはけさコロラドの高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図板をもって…」とあるので,インディアンは賢治自身の投影,高原は種山ヶ原である。高原から列車は激しく揺れつつ下るのも,同日付の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(異稿に銀河軽便鉄道の名あり)の猿ヶ石川の谷を下る際の描写と同じである。 南北線部分の地形はほとんど平坦で,三角標や十字架が星と星座を示している。これは,東西線では,インディアン,いるか,鶴など星座名にちなむ人や動物が登場しているのとは対照的である。南北線沿線にはススキやリンドウなど岩手の二次草原の植生がみられる。ジョバンニには,カムパネルラの捜索現場の河原で「川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見え」たとある。この河原は花巻の北上川の旧瀬川合流点の州をモデルにしており,したがって南北線は北上川をモデルとした銀河に沿って走り,そらの野原は北上低地をモデルとしたことになる。「プリオシン海岸」の挿話は北上河畔のイギリス海岸がモデルであるから,本来は岩手軽便鉄道に近いが,北上川に沿うため南北線に移して組み込まれている。 このように宮沢賢治の描く銀河に沿う景観は,実際に観察している岩手の景観に,本や映画で知った海外のイメージを重ね,さらにそれを天上の景観の幻想を重ねるという,三重の幻想空間構造になっているのである。したがって宮沢賢治の銀河沿岸の│景観描写のモデルは表のようになる。
著者
米地 文夫 姜 奉植 ビスタ ベット.B
雑誌
総合政策 = Journal of policy studies (ISSN:13446347)
巻号頁・発行日
vol.2, no.3, pp.297-309, 2000-12-31

地名は音声と文字との二つの形で伝えられる地理的情報で、それぞれの人類集団が用いる言語と文字とで表現されるが、地名の読みないし発音と文字による表記との間に"ずれ"があって、他国を訪れた旅行者にとっては、表音文字の通りに読んでも通じない、というような不便さに直面することが少なくない。かなり多くの地名の表記にこのような問題点のあることは、これまでほとんど指摘されたことはなかったが、本稿はそのような綴りと発音との不一致の例として、英国のウスター、日本の東京、ネパールのカトマンドゥ、韓国の金海などを取り上げ、そのような事例が諸言語にみられること、また、その類いの"ずれ"が生じたのには、さまざまな原因があり、また、そのような"ずれ"による分かりにくさへの対応としては、発音に合わせたローマナイズ表記やかな表記の併用が望ましいことを論じた。