著者
友田 義行
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.11, pp.38-50, 2011-11-10 (Released:2017-05-19)

安部公房原作脚本・勅使河原宏監督による映画『他人の顔』には、顔の右半分にケロイドを負った女性が登場する。小説から映画へと変成される過程で、彼女の存在は議論の的となった。本稿ではこの作品を、原爆投下という破壊的・暴力的な出来事に対する文化的反応として捉え返し、女性被爆者の表象について考察する。言語(原作・台本)と映像(演出・編集・美術・音響)を横断して、「原爆乙女」の表象(不)可能性と、それをめぐる作家たちの想像力を吟味する。
著者
宇都宮 千郁
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.10-18, 1997-02-10

紫式部日記に描かれた、敦良親王御五十日の儀の記事の中に、御膳の取り次ぎ役にあたった小大輔と源式部の装束について、「織物ならぬをわろし」とする同僚女房からの非難の声があがったようである。なぜ小大輔と源式部の装束が非難の対象となったのか、解釈の揺れる所であるが、所謂「禁色」などの、当時の女房装束にまつわる禁制そのものを改めて考証することにより、より無理のない解釈を試みた。
著者
植木 朝子
出版者
日本文学協会 ; 1952-
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.70, no.11, pp.64-67, 2021-11
著者
保坂 達雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.56-60, 2005-04-10
著者
田渕 句美子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.7, pp.12-22, 2003

平安期・鎌倉期の女房歌人が、文学上、自らの〈家〉をどのように意識したか、また周囲からその女房歌人と〈家〉がどのように意識されたかを考える。平安期においては、父の〈家〉が多いとは言え、例えば伊勢大輔以下は母系による重代の歌人であり、〈母〉の家への意識が表出され、継承される場合も少なくない。しかし鎌倉期になると、歌人としては、父の〈家〉への意識が圧倒的であり、やがて夫の〈家〉への意識が顕在化されていく。その早い例が阿仏尼である。
著者
関原 彩
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.9, pp.28-38, 2015

<p>『心学早染草』の善玉悪玉の図像の先蹤を探るため、これまで総合的にとらえられてこなかった魂の図像の変遷について考察した。その結果、歌舞伎の演出と『延寿反魂談』の魂の意味が重要であるとの結論を得た。黒本青本や初期の黄表紙において、「心」の字を入れた炎を、殺された人の魂として描いていたが、これらは魂を丸に「心」で表わした歌舞伎の演出の影響である。また、『延寿反魂談』になると、霊魂という意味ではなく〈性格を伴う心理〉という意味が付け加えられる。</p>
著者
松村 良
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.11, pp.58-68, 2005

水木しげるは「ゲゲゲの鬼太郎」以前に、貸本漫画で<鬼太郎もの>の大河長編作品を描いている。そこでは繰り返し<他界>(=地獄)へ行く話が出てくる。その一方で、鬼太郎が誕生したのは東京都調布市であり、その後も彼は東京という<都市>に住む少年として描かれる。この<都市>と<他界>は平面的に連続しており、全ての出来事が平面上のどこかで接続するという、この時期の水木の世界観を提示しているものと思われる。
著者
莊 千慧
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.9, pp.50-60, 2015-09-10 (Released:2020-10-03)

一九四〇年代の台湾では、日台両方とも〈郷土〉に対する概念の変化が見られる。本論では、池田敏雄という在台日本人の台湾民話に着目し、歴史状況の葛藤の現場として池田の活動を捉える。一九四〇年代の日台の文化的交渉の錯綜を具体的に示すものとして、池田とその民話を提示し、池田民話の再評価を試みる。
著者
会田 実
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.7, pp.25-33, 2011

<p>一般に曽我物語には大きく分けて真名本と仮名本との二種のテクストがあるが、両テクストの様相には大きな隔たりがある。真名本は、富士という〈場〉に収束してその主題を開示していると思われる。これは、東国に樹立された政権が富士という東国最大の地主神との折り合いをどうつけるかという現実が根底にあったからだろう。曽我兄弟の御霊化も、この富士という地主神と支配者としての頼朝との葛藤に関わることではじめて意味を持つのである。そしてこの物語で地獄と認識される富士という〈場〉は、古来から見られる神仙性のコード変換として物語の基層に意味づけられたものであった。</p><p>これに対し仮名本は、真名本に対照すれば、地主神と支配者との切実な葛藤状況を脱した(御霊鎮魂の終結)上にあるように見える。真名本のいわば富士との縦関係のやりとりの中に収束して形成される構造に比して、仮名本は、意味の摩滅した言葉が無限定に拡散し横に拡がる様相である。そこでは意味の表層が過剰に消費された喧噪や多声環境が形成されている。従来荒唐無稽と言われた所以であるが、この多声性をどう考えるかが日本という土壌の心性を考える上でも重要なのではないか。なぜなら、近世に至って盛行するいわゆる曽我物はまさにこの多声性の上にあるからである。</p>
著者
渡辺 憲司
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.10, pp.8-16, 2000

「満散利久佐」(明暦二年刊(一六五六)四月刊)に登場する遊女小藤への、<利発者・わつさり者・おほちやく者・ふてき者・いたづら者・無心中者>といった評判記の表現を検証しながら、平凡、類型的な、近世初期遊女の像を描き、それとは対照的な名妓と呼ばれる遊女表現に言及し、西鶴の個性的な遊女理解についてもふれてみたい。
著者
山元 隆春
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.49-57, 1996-01-10 (Released:2017-08-01)

<誤読>が積極的な意味を帯びるのは、それが私たちの既存の価値観を揺さぶる時である。本稿においては、<誤読>を単に正しい読みに対立する概念としてではなく、代案としての様々な読みを示す営みを指すものとして捉えた。リチャーズやリファテールの読みの理論を批判的に捉えた上で、主としてスコールズの<対抗的に読むreading against>という考え方に依拠しながら、一次的なテクストに対するもうひとつのテクストを読者が産み出し、その営みを通じて読者としての主観性を形成することが、出来事としての読みを誘うことに繋がると論じた。
著者
中野 綾子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.11, pp.55-66, 2013

<p>堀辰雄ブームを学徒兵という愛読者を視座として検証する。戦後、学徒兵の読書行為は戦争に対して批判的な行為として捉えられていくが、それは自らが特別であると示す行為でもあった。文学者の堀辰雄愛読者に対する批判もこのような読書行為と同様の構造を有し、堀辰雄の真の理解者だと示すことは、戦争責任を忌避する行為でもあった。文学者たちが学徒兵との関連を捨象しながら、堀辰雄の普遍性を保証する評価を下してきたことで、同時代的な読書行為の意味や自らの戦争責任を問いがたくしてきたのである。</p>
著者
小川 豊生
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.7, pp.10-23, 1998

『渓嵐拾葉集』『山家要略記』に集成される叡山「記家」のテキスト群、伊勢神道における「数百巻」にもわたる「神宮秘記」や、外宮調御倉に収蔵されていたという「神代秘書十二巻」のテキスト群、そうして、『麗気記』に結実する両部神道のテキスト群。鎌倉後期に全面展開する神話制作の動向は、その根底にいずれも<偽書>の存在ぬきにしては語れないものがある。本稿は、これら総体の動向を視野に入れつつ、なかんずく『麗気記』の中枢に導入された偽書をめぐる諸問題について解明する。
著者
小川 豊生
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.1-10, 1987

おそらく、表層的な文芸ジャンルの変動に先だって、ことばの分布秩序の解体や詩的言語の基層の変動があったはずだ。それを何よりも敏感に感受したのは当時の歌学という世界においてであったろう。院政期という説話集が多量に産出されてくる時代の背後で、まず一語一語をささえる本説あるいは物語化が精力的に続行されていた事実に、もっと注目すべきであろう。院政期に見られる<本文>という語の内実を検討することによって、それら本説の展開の様相を把握してみたい。
著者
砂川 博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.37, no.10, pp.64-73, 1988

後醍醐天皇、楠木正成、護良親王の間に、西大寺流律僧殊音文観が介在したことは周知の事実である。その文観に対する『太平記』の筆致は概ね好意的で、背後に西大寺流律僧の関与が思われる。また、楠木正成の千早・赤坂合戦談についても同様のことが指摘できる。一方、『太平記』成立に深く関わったと目される恵鎮円観に対する筆致も極めて好意的で、絶賛の趣をもつ。恵鎮は、黒谷流の天台円頓戒を伝持する律僧で、法勝寺は鎮護国家の道場であった。『太平記』は国土安穏・天下泰平の祈祷に従った西大寺流律僧らの様々の語りなどに拠りつつ、同じ職掌をもつ天台系の律僧の手によって、太平への祈りをこめて作られたのではないか。
著者
近藤 瑞木
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.19-28, 2006

近世の儒家思想は「怪異」の存在を否定していたわけではなく、むしろそれを論理化し、コントロールしようとしていた。儒家の思想に於いては、「徳」が「妖」に優越し、論理性をはみ出そうとする余剰な力は制御され、怪異が封建秩序を揺るがすことはなくなる。そのような思想を通俗的に普及していたのが「妖は徳に勝たず」の諺や、儒者の妖怪退治譚であった。本稿はこのような、儒家思想が近世怪談を抑圧する構造を検証するものである。