著者
大山 麻稀子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.149-165, 2006-03-31

グレープ・ウスペンスキーは、「ナロードニキ作家」とも呼ばれる。しかし、この呼び名には、彼の外貌をゆがめて都合良くその作品を解釈しようとする、当時のリベラル派のジャーナリズムの意図があったといえる。本稿では、ウスペンスキーによる農民の分析を通して、イデオロギー的な視点に拠らずに彼の思想内容を把握することを目的とする。第一節では、農耕を営み、その生活の根幹において大地へ服従せざるを得ない農民(農奴解放前)が獲得した世界観に関する、ウスペンスキー自身の観察と見解を考察する。第二節では、資本主義経済が流れ込んだ農奴解放後の農村にいかなる混乱が生じたかをウスペンスキーの目を通して示し、農奴制によって育まれた農民の世界観の負の部分についての彼の分析に、主に着目する。彼の見解によれば、農奴制時代を通してロシア農民の内部に形成された、自分では何も責任を負わない受動的な赤子精神は、農奴解放後の資本主義経済において、百姓をして無分別に他者から奪い取らせ、同時にまた、無防備に他者の搾取の魔の手にかからせてしまう。続く第三節では、農奴解放後の農村社会に対するウスペンスキーの評価付けによって、彼の思想が当時のナロードニキ思想とは一定の隔たりがあったことを論じる。ウスペンスキーは、農村共同体を社会主義的理想に近しいものと美化する姿勢をナロードニキらと共有せず、同時に、農村生活の中に「ロシア」独自の発達段階を見なかった。加えて、ロシア正教の宗教的独自性をも認めておらず、彼によれば、キリスト教というのは昔の賢人が民衆の中に導入した「幾世紀もの苦悩の末に、人類が辿りついた最後の言葉」である。第四、五節では、近現代のロシア・インテリゲンチアの希望の基となった「農村共同体」、「ロシア正教」といった理念を放り捨ててしまったウスペンスキーにおける救いに言及する。ウスペンスキーは、「民衆のインテリゲンチア」と「刺すような社会の諸問題」いう理念を持ち出している。前者は、民衆に道徳的な義務を唱導する農村の精神的リーダーであり、後者は、民衆に直接伝えられるべき、現代にとっての「最後の言葉」である。これらの内にウスペンスキーの救いがあったのかどうかを判断するのは困難であるが、いずれにせよ、彼を「ナロードニキ作家」と一言で定義づけるのに誤りがあるのは事実であろう。ソ連時代の一定の評価の下に埋没しているウスペンスキー研究においては、今後一層の独創性と柔軟性が要求されるように思われる。
著者
鴻野 わか菜
出版者
Japanese Society for Slavic and East European Studies
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-16, 157-158, 2002

アンドレイ・ベールイの『銀の鳩』には、物語の鍵となるいくつかの船のイメージがあり、作者は船を描くにあたって、様々な文化的コンテクスト、1)ロシア民話、2)聖書、3)ロシア異教、4)西洋文化のシンボル体系、5)ワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人』、6)ピョートル大帝、7)ギリシャ神話のアルゴー船、を用いている。第一に、物語に登場する新興宗教〈鳩の宗〉の教義の中心に、「信徒が集う〈船〉を建造する」というモチーフがある。新興宗教のリーダー、クデヤーロフは、共同体としての船を語る際、船を削る鑿の音を表す擬音語として「Tyap-Lyap」という言葉を用いているが、これはロシア民話で魔法の船を建造する時に使われる表現である。新興宗教のリーダーがこの言葉を使って船の建造を語った時点では、彼の持つ魔術的力について読者はまだ知らされていないが、実はロシア民話の魔法の船のモチーフによって、クデヤーロフの魔術者的性格はすでに暗示されているのである。作者自身語っているように、〈鳩の宗〉は架空の宗教であるが、鞭身派をイメージの源泉としている。鞭身派の信者は、信徒の共同体を〈船〉と呼ぶことが広く知られている。ベールイは、文化学者プルガーヴィン、ボンチ=ブルーエヴィチの著作を通じて鞭身派の教義について知識を得ており、〈鳩の宗〉のイメージ形成にあたって明らかに実際の新興宗教をモデルにしていた。物語にはもうひとつ重要な船のイメージがある。主人公ダリヤリスキーは、婚約者カーチャの邸宅を追放されたことを契機として〈鳩の宗〉に身を投じることになるが、彼は邸宅を追われる際、ふりかえって「船のように飛び去る邸宅」を眺める。ここには、船を愛の住処、幸せの象徴として位置づける西洋のシンボル体系が影響している。また、注意したいのは、ダリヤリスキーにとっては、純情な乙女カーチャの愛も、セクトの魅惑的な教義も、同じ船のメタファーで捉えられていることである。ダリヤリスキーは、救済、幸福を求めて〈船〉を渡り歩く旅人であり、永遠の航海者という点では、ロシア象徴主義詩人の愛好したワーグナーの『さまよえるオランダ人』と重なりあう。ベールイは20世紀初頭、ギリシャ神話のアルゴー船物語に惹かれ、「アルゴナウタイ同盟」というグループを作り「日常の神話化」をめざした。特に1904年前後にこの理想に強く惹かれたベールイは、ギリシャ神話をモチーフにした詩を数多く残しているが(詩集『瑠璃のなかの黄金』)、『銀の鳩』を執筆した1909年の時点では、若き日の理想に苦い幻滅を感じていた。『銀の鳩』で船がセクトの共同体、不幸な「さまよえるオランダ人」の船として登場するのも、アルゴー船へのアイロニーとして捉えることができる。旧来の理想に飽き足らず、新しい救済を求める旅に出ようとするのは、ダリヤリスキーだけでなく作家自身の姿でもある。
著者
ゴリゾントフ レオニード Л. Е. Горизонтов ロシア科学アカデミー・スラヴ学研究所 Инсмимум славяноведения
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.103-132, 2004-03-22

アメリカの地政学者J・P・ルドンヌによれば、対立し合う二つの「民族国家の核(core area)」があるとき、そのあいだには不等質な「辺境地帯(frontier)」があり、それは「近接する区域(proximate)」、「中間区域(intermediate)」、「最も遠い区域(ultimate)」に区分できる。対立する民族国家の核の一方が併合政策を進める過程で、帝国型の国家機構としてロシア帝国が形成されていったのだ。1815年から1915年に至る当該地域の社会政治過程は、まさにこの枠組みに当てはめることができ、士族共和制ポーランドの分割や黒海北岸地帯の帝国への併合を経て往古のキエフ・ルーシの伝統は決定的にモスクワ中心に置き換えられたのである。これに対してポーランドの核は、分割により消滅した往時の政治空間ではなく、ウィーン会議で承認されたポーランド王国であった。これを民族国家の核として、マゾヴィア、大ポーランド、小ポーランド、ポドラシエの一部を、さらにウクライナや旧リトアニア大公国領に散在する群島を合わせた広範囲のポーランド文明圏を構成していた。多くのシュラフタ身分を抱えるマゾヴィアと首都ワルシャワの周辺地域が、とくに重要な役割を果たした。ワルシャワは第一次世界大戦前夜には人口100万人を擁する都市に成長し、ロシア帝国内ではペテルブルグ、モスクワに次ぐ第三の都市となっていた。ハプスブルク帝国領に入った古都クラクフは、ワルシャワに較べてポーランドの核としての比重はそれほど大きくなかった。ロシア領ポーランド、すなわちポーランド王国こそがポーランド人が集任する最大の地域であり、往時の士族共和制領内で民族解放闘争や経済発展の指導的役割を果たしたのである。ロシア帝国内のほかの民族核と較べても、これ以上の強力な核は存在しなかった。ポーランド化の著しいベラルーシとリトアニアの国境線沿い、アウグストゥフ県の一部、ヘウム地方は、ミツキェヴィチやピウスツキの「小さな故郷」としてポーランドとの結びつきがひと際強く感じられる「最も近い区域」であった。こうした区域は往時の士族共和制の各地に散在し、ポーランド蜂起の分布図とほぼ一致していたのである。「辺境地帯」であるウクライナについてみると、ロシア政府は非ポーランド化を進める際に、右岸ウクライナでは農民身分を支援し、ハプスブルグ帝国統治下の東部ガリツィアでは親ロシア派に挺入れし、左岸ウクライナでは自立志向を強めるヘトマン(コザックの自治)政府に対してはむしろ地域全体の支持を確保しようと努めた。ウクライナ愛国主義の台頭を「ポーランドの陰謀」とみなしたためである。ポーランドの核を内側から破壊し、「最も近い区域」を切離し、その区域を潰してロシアの核を拡大するために、「辺境地帯」の再配置と行政的な核への接合、すなわち、汎スラヴ主義者I.S.アクサーコフが高唱したように、1772年国境を跡形もなく廃止することが企図されたのである。そのためにポーランド人の西部諸県のみならず近接諸県への移住は禁止され、モスクワやペテルブルグにまで及ぶ、いわゆる衛生区域が設定された。流刑囚の西部諸県への帰還を禁止する代わりに、往時の士族共和制の領域範囲外への居住が奨励された。ポーランド人は結果として衛生区域に移り住むことが可能となり、帝政ロシアの版図の隅々まで居住空間を拡大していく皮肉な結果をもたらしたのである。ポーランド移民は、1880年代にモスクワとウーチ間の経済競争の激化にともなって一層増大した。1880~90年代に入ると、ロシア社会では「中央(核)の衰退」という意識が芽生え、ここから民族排外主義が高揚し、敵対感情がポーランド人を含む非ロシア人すべてに向けられたが、それにもかかわらず、ポーランド人の拡散は帝国の近代化・工業化にかかわる分野で顕著となり、それゆえ非ポーランド化政策はほとんど効果を上げなかった。それにも増して、ロシアとポーランドという二つの核の対抗は、その二つの核に挟まれた辺境地帯でウクライナ、ベラルーシ、リトアニアの民族覚醒を促し、その発展を助長しさえしたのである。19世紀を通じてロシアとポーランドの対立は、文明の相違であると宣伝された。20世紀に入ると、「文明」と「未開」の対比に置き換えられ、ウクライナ人やベラルーシ人も巻き込む永い論争として展開され、この論争から産まれたのがロシアをヨーロッパ文明の外側に置く「中・東欧概念」であった。層の厚い、強力なポーランドの知識人層が、文明の名を借りてロシアをアジアの野蛮とみなす主張を幅広く展開したのである。The American geopolitician J. P. Ledonne proposed the key concepts of core area, frontier, proximate, intermediate, and ultimate, arguing that they might well be used to analyze the modern history of the territory that belonged to the former Commonwealth of Poland and was later annexed by the Russian Empire. Applying these key concepts, it could be said that the Russian Empire as a core area grew up and expanded her territory by annexations of the former Commonwealth and the northern area around the Black Sea. Taking into consideration the historical process from 1815 (the Congress of Vienna) to 1915, the tradition of ancient Kievan Rus was decisively transposed to another core area, that of Moscovite Russia. On the other hand, the core area for Poland was not the former Commonwealth, but the Kingdom of Poland, acknowledged by the Congress of Vienna, which comprised Mazovia, Wielkopolska, Malopolska, and Podlasie, and also covered regions of the Lithanian-Belorussian frontier, as well as other Polish islands scattered widely in Ukraine and the historical Lithuanian Grand Duchy. In particular, it should be pointed out that the influential and powerful privileged social stratum of szlachta in Mazovia and Warsaw made the Kingdom of Poland a Polish core area, and played a decisive role during the independence movements and the subsequent drive for socio-economic progress. On the eve of the First World War, Warsaw contained more than one million inhabitants and thus became the third city of the Empire, after Petersburg and Moscow. In Russia, Poland was generally regarded within the frontiers of 1772 as a core area, and this viewpoint remained alive for a long time. Compared with other nationalities in the Russian Empire, the Poles were the most powerful nationality. The proximate areas within the frontiers of 1772, such as the Lithuanian-Belorussian frontier, part of Augustow prefecture, and Chelm, referred to as the "petty-homeland" of Mickiewicz and Pilsudski, became thus firmly attached to Poland. Such areas had been scattered widely in the former Commonwealth of Poland, and largely coincided with the map of Polish insurrections. Concerning Ukraine, the Russian Empire, in order to de-polonize, gave strong support to the peasants in right bank Ukraine, supported the pro-Russian groups in Galicia in the Habsburg Empire, and then tried to organize the independent peasantry as a whole under the Hetman system of Cossack autonomy, because tsardom observed in Ukrainian patriotism a "Polish intrigue." One famous Pan-slavist, I.S.Aksakov, proposed to destroy the Polish core area from within, cut off the proximate areas, and combine it all with the Russian core area. In order to implement these policies, Imperial authority prohibited Poles from settling in Western Gubernias, and established a sanitary zone around Moscow and Petersburg. To prohibit Polish political prisoners from returning to their homeland, they were encouraged to settle well outside the territory of the former Commonwealth. Ironically, Poles were thus able to enlarge their settlement to the entire Russian Empire. In the 1880s the wave of Polish immigrants gradually increased between Lodz and Moscow, with attendant economic consequences. In the 1880-90s, Russian chauvinism impacted non-Russian citizens, including Poles. Nevertheless, Poles' activities in various fields contributed greatly to the industrialization of the entire Russian Empire, and as a result Imperial de-polonization policies ended unsuccessfully. Moreover, between the frontiers of these two core areas were born the modern nationalities of ≪Ukrainian≫, ≪Belorussian≫ and ≪Lithuanian≫, and the rivalry of these two core areas facilitated these new national formations. Throughout the 19th century the contrast between Russia and Poland could be regarded as "Europe versus Asia." In the 20th century this notion was replaced by the contrast "Civilizing versus Uncivilized," actively involving the Ukrainian and Belorussian intelligentsias in this debate. In this context the idea of "Central Eastern Europe" was born, intended, of course, to exclude Russia from European Civilization. Powerful Polish intellectuals energetically promoted this assertion in the name of Civilization, regarding Russia and her Imperial authority as emblematic of Asiatic barbarism.
著者
黛 秋津
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-31, 2007-03-30

現在のルーマニアの主要部分を成し、一定の自治権を有する属国としてオスマン支配に組み込まれたワラキアとモルドヴァの二つの公国は、16・17世紀のオスマン帝国の西欧に対する優位の時代にはイスタンブルの統制下にあった。しかし18世紀に入るとこの地には、北方に台頭したロシアの影響が徐々に及ぶようになる。1768年の露土戦争に勝利したロシアは、1774年に締結されたキュチェク・カイナルジャ条約により両公国に関する発言権を獲得し、同時にモルドヴァに傀儡の公を立てることに成功した。その後、傀儡の公を通じての両公国への勢力浸透というロシアの目的は、オスマン政府によるその公の処刑により挫折したものの、ロシアは両公国に親ロシア派の人物を長期間公位に留まらせることを一貫して目指し、18世紀末における、フランス・オスマン間の断交、ロシア・オスマン、またイギリス・オスマン同盟というオスマン帝国をめぐる国際環境の変化と、アーヤーン(オスマン帝国内の各地に自立する有力者層。しばしば中央政府と対立)によるバルカンでの混乱を利用して、1802年の勅令において両公国におけるさらなる権利を得た。事実上の露土間の外交合意であるこの勅令の中では、公の任期は7年と定められ、オスマン政府による自由な公の任免はそれまで以上に困難となった。また同時に、ロシアは自らに好都合な人物をワラキア公位に就けることにも成功した。この問題は、その後フランスがオスマン帝国に接近するにあたって、露土間の離反のために利用され、1806年にオスマン政府がフランスの主張に従って、ロシアへの通告なしに突然公を解任したことが、オスマン外交の親仏路線への転換とロシアに見なされた結果、同年末に開始される露土戦争勃発の直接の契機となった。このように、宗主国による付庸国の長の任命というオスマン帝国内の問題が、1774年キュチュク・カイナルジャ条約以来わすか30年余りの期間に、オスマン帝国の外交路線を表わす象徴的な意味が付与される程の、重要な国際間題へと発展したことは、この時代オスマン帝国がロシアと共に西欧国際体系へと急速に包摂されて行く過程の一端を表わしていると言える。
著者
ヨコタ村上 孝之
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.23-34, 2011-03-31

ロシアの帝国主義的拡張に深い関心を寄せていた日本社会は、露土戦争の行方も大きな興味を持って観察していた。クリミア戦争の情報はまず英国の言説を通じて主に日本に移入し、そのあと、ロシア文学におけるその記録がそれに代わった。レフ・トルストイのセヴァストポール物語もその系譜に入るが、トルストイは社会主義者、白樺派、大正ヒューマニストらに与えた影響が顕著なので、日本におけるそのイメージは、非戦主義の権化ということになっている。しかし、彼は一貫して戦争文学に関心を持ち、創作を続けたし、セヴァストポールものにおいては、反戦思想は必ずしも明確ではない。また、イギリス文学におけるクリミア戦争の表象と比較したとき、トルストイの顕著な特徴は、戦争を合理主義的な観念から徹底して切り離して考えるという思想であった。これは彼の後期の非戦主義の思想に接合していく。トルストイの平和主義は西欧のそれに刺激を与えたものの、多くの反戦主義者はトルストイ流のアプローチに違和感を表明したが、それは西欧の平和主義が、戦争の合理的・理性的コントロールということに発想の原点を置いていたからである。日本の反戦主義者たちは、むしろ、トルストイ流の反合理主義に基づく非戦思想に大きな感化を受けていた。クリミア戦争の表象においてすでに見られた、平和主義における二つの理念の違いは、トルストイの思想的展開、そして、その日本のおける明治後期から大正にかけての受容においても、そのまま受け継がれていくのである。
著者
河野 益近 KOIZUMI Yoshinobu SEKACH Stanislov. M. BUDILINA Tatiana. A.
出版者
ロシア・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European Studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.53-66, 1996
被引用文献数
1 1

On April 26 in 1986, the catastrophe at Chernobyl unit-4 reactor occurred about 100 km north of Kiev in the Ukraine. A lot of radioactivity was released from the damaged reactor into the environment. A vast land and many people living there were contaminated by the radioactivity. After about 7 days the radioactivity reached Japan, a remote country about 8,000 km from Chernobyl and was detected in all the prefectures there. Needless to say, the nuclear facility and its surrounding countryside have been highly polluted by the radioactivity. Naturally this radioactivity was found in people's bodies, too. The high concentration of 300 Bq/Ag (24,000 Bq at weight of 79 kg) was detected in the inhabitants living in Checherusk about 200 km north of Chernobyl in 1991. Some estimations of 10,000 to 400,000 deaths in the future due to cancer caused by the accident were reported. A catastrophe at only one nuclear reactor leads to global pollution by radioactivity and inflicts damage on people.
著者
水上 則子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.81-108, 2010-03-31

本稿においては、以下のブィリーナ集を分析対象とした。(1)ルィブニコフ収集「歌謡集」(2)ギリフェルヂング収集「オネガ地方のブィリーナ」(3)マルコフ収集「白海のスターリナと宗教詩」(4)グリゴーリエフ収集「アルハンゲリスクのブィリーナと史謡」(5)ソコロフ収集「オネガ地方のブィリーナ」(6)アスターホヴァ収集「北方のブィリーナ」(7)「プードガ地方のブィリーナ」の7集の電子化テクストである。「славу поют」およびその類似表現のすべての出現箇所を挙げて、意味による分類を行ったほか、名詞славаの出現回数、動詞・形容詞を含む関連語の出現回数を調べ、「славу поют」とслава,слава関連語の使用頻度を明らかにした。分析によって得られた結論は以下のとおりである。1.オネガ地方の収集である(1)、(2)、(5)を比較すると、収集の年代が新しいほど、слава関連語の使用頻度が低くなるのに対し、名詞славаの使用頻度は逆に高くなっている 2.オネガ地方のうち、複数回の収集が行われていて、「славу поют」の使用頻度が高いКижиとПудогаの状況の分析を、(1)、(2)、(5)、(7)において行った。Кижиにおいては、この表現を好んで用いる特定の歌い手の役割が大きく、この歌い手の死後には、この地域における使用頻度が下がっていること、Пудогаにおいては、世代交代後も使用頻度が極端に低くなることはなく、この表現の使用が地域的な伝統となっていることが観察された 3.北方の収集である(3)、(4)、(6)では、特に(4)において「славу поют」の使用頻度が非常に高い。その中でも、Мезень地域における使用頻度の高さが際立っている。しかし、(6)に収録されている同地域の品の中では、使用頻度がかなり低下している。Мезень地域においては、(4)の中で「славу поют」を使用している歌い手は17名を数えている。Кижиの場合とは異なって、特定の歌い手の好みによってではなく、地域的な伝統として用いられていたと考えられる。このため、約30年後に行われた(6)の収集において使用頻度が大きく低下していることは、Мезень地域のブィリーナ伝統の変化を示している可能性がある
著者
笠谷 知美
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.103-118, 2007-03-30

本論は、ビザンツ帝国の第一次イコノクラスム(726-787年)の諸問題を検討したロシア研究史の回顧であり、ロシア人研究者がこの問題をどのような視点から考察しているのかを通覧したものである。ロシアにおける本格的なイコノクラスム研究は19世紀後半から始まり、特に1940-1950年代にかけてイコノクラスムの社会経済的な要因(修道院の所領、教会の財産問題など)をめぐって研究者間でさまざまな議論が交わされた。研究史の流れは、主として6つに大別される。1)宗教・神学的観念から見たイコノクラスムの考察、2)史料学に基づいた考察、3)政治史から見た考察、4)経済的な要因をめぐる考察、5)政治的イデオロギーの問題としてのイコノクラスム、6)教会史・印章学からのアプローチなどである。特に注目されるのは、イコノクラスムの狙いが修道院の所領ではなく、教会の財宝や動産の没収を狙ったものであり、それらを強奪するためには聖職者のres sacrae (神聖さ、聖遺物)の剥奪が不可欠であったとするM.シュジューモフの学説である(「ビザンツにおけるイコノクラスムの諸問題」1948年)。この学説は、イコノクラスムが巨大な富を所有する修道院の世俗化を目指したものであったと見るM.レフチェンコやB.ゴリャーノフ、E.コスミンスキーらによる従来の「伝統的な」封建制度問題の考察に対立するものであり、後に彼の学説をめぐってさまざまな議論がたたかわされた(「シュジューモフ論争」)。また、イコノクラスムを専横支配的な教会や富裕な修道院に対立する反封建的民衆運動として捉え、宗教論争という名のもとに隠れていたビザンツ帝国における社会的な諸問題を明らかにしようとしたE.リープシッツの論考も注目される。1980年代に入ると、修道院や教会の政治的影響力に注目した3.ウダリツォーヴァの考察や、軍事的な危機に瀕していた8世紀のイコノクラスム時代に、皇帝の政治的イデオロギーが重要な役割を果たし、皇帝と国民との間に団結をもたらしていたとするE.リターヴリンの考察など、新たな視点からの研究が登場する。1990年代後半には、第二次イコノクラスム時代(815-843年)における聖像崇拝派のコンスタンティノープル総主教の抵抗運動について検討したД.アフィノゲーノフの研究やイコノクラスム時代に新しいタイプの印章が現れていることを指摘したE.ステパーノヴァの論考などがある。このように、革命以前のロシア・ビザンツ学では、イコノクラスムが宗教・神学的な問題として捉えられていたのに対し、ソ連時代のビザンティニストたちは、帝政ロシア時代におけるB.バシリエフスキーやФ.ウスペンスキーらを代表とする偉大な業績をマルクシズムの立場から見事に継承し、社会経済史問題の分野において数多くの研究成果を上げたと言える。また80年代には、欧米の研究が積極的に導入されたことから、さまざまな視点からイコノクラスムの諸問題を考察しようとする動きが見られ、近年においては社会、文化、宗教、美術史や考古学の分野からのアプローチが行われるようになった。以上のことからも、ロシア人研究者によって明らかにされたイコノクラスムの諸問題は、イコノクラスムの時代のみならず、8世紀のビザンツ史研究に大きな貢献をもたらすものと考えられる。
著者
ベェチェスラフ カザケヴィッチ
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.29-42, 1999-03-31

プーシキンが国民詩人と呼ばれるのは、彼の詩が、ロシアに存在するすべてのものと調和をもって一体化したからであった。19世紀のロシア詩の関心は、プーシキンに創作の集中した。彼のテーマや手法にならった詩が大量に書かれた。20世紀には、ロシア詩がプーシキン自身の個性やその生涯により強く引きつけられ、人間プーシキンについて、彼の周囲の人々や物についての詩が次々に書かれた。19世紀に実在の人であったプーシキンは、20世紀には、ロシアの詩の登場人物となったのである。彼はいまやロシア文学にただ一人の、完璧な肯定的主人公である。しかし完全無欠のヒーロ-は、お伽噺(民話)の中にしか存在しない。そしてロシア民話は、いまだ彼をなんと呼ぶべきか、決めかねている。なぜなら、詩人プーシキンが依拠し、理想ともしたヨーロッパの高貴な遍歴の騎士イメージは、ロシア民話には異質のものだからである。プーシキンに言葉も行為も、一元的な扱いにはなじまない(例えば彼は幾つかの宗教的な詩行と、その何倍かの涜神的な詩を残した。愛国者であるとともに、世界市民であった、等)。そんな彼の中で、不変のものを求めるとすれば、それは誇り(自尊心)と騎士道精神である。プーシキンの誇りと騎士道精神をみてきた20世紀ロシア詩は、彼の伝統から幾つかのものを借用した。その第一は貴族性と戦闘性であるが、それはしばしば世界制覇への夢につながっている。プーシキンの愛の伝統が失われ、とりわけ最近の10年間に、ロシア詩はプーシキンへの変わらぬ忠誠を誓いながら、じつはプーシキンの理想から急激に離れて行っている。
著者
白村 直也
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.19-44, 2010-03-31

本稿は、帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期のろうあ者が抱いた、コミュニケーションツールの選択をめぐる葛藤に、史資料に基づく客観的な考察を通してアプローチすることを目的としている。ろうあ者のコミュニケーションツールとして、手話(Sign Language)や口話(Oral Speech)というものがあることは、よく知られているように思う。帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期ろうあ者が、それらをどのように捉えていたかと問うことは、この頃のろうあ者が自身の「障害」をどのように捉えていたかと問うことと密接な関連を持つ。もちろん、「社会」の中に生きるろうあ者にとっては、自身の「障害」を「社会」がどう扱うか(社会保障政策など)という外的な捉えを、(個人差こそあれ)無視することは決して容易なことではなかったに違いない。したがって本稿はそうした問いを、帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期という史的な広い文脈に位置づけることによって理解・把握するよう努める。さまざまな対障害者社会政策の中でも、本稿が積極的に取り上げるのは、社会保障政策とろうあ教育政策である。そうした政策の中で「障害」や手話、そして口話はどのように捉えられていたのか。同時にそれら政策に対峙した(触発された)ろうあ者の「(特に手話や口話をめぐる)声」を積極的に取り上げることによって、より社会史的な分野で手話や口話の位置づけをみていく。題目に掲げるように本稿は、ソヴィエト政権初期の状況に、より多くの紙面を割く。帝政ロシア期の「成果」を踏まえ、また十月革命を経て、ソヴィエト政権初期のろうあ者は、手話や口話といったコミュニケーションツールをどのように捉えるに至ったのか。この点をうかがい知る上で本稿は、帝政ロシア期に活動の起源を持つ全ロシアろうあ者連盟(当事者社会団体、VOS:1926年に全ロシアろうあ者協会VOGに改名)を、ろうあ者の「声」を拾い上げるための「フィルター」として取り上げる。資料の面では、協会の機関紙「ろうあ者の暮らし(The Life of the Deaf)」上の記事を多用する。本稿は次の2点を今後の課題として残した。(1)本稿が主に扱う1920年代が、相対的に自由な議論が許された時期であることを思えば、その後の時期の議論とつき合わせることによって、1920年代の議論の特性を振り返る必要がある。(2)ソヴィエトに暮らした諸民族の中にもろうあ者がいたことを思えば、ろうあ者のコミュニケーションツールとしての手話や口話と、当時の言語政策との兼ね合いは非常に気になる点である。そうした点について今後考察を進めることを課題として残したい。
著者
生田 美智子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.73-96, 1999-03-31

The purpose of this paper is to analyze the relationship between the Russian song, introduced to Japan by Daikokuya Kodayu, and its translation by him. Daikokuya Kodayu was a Japanese sailor who was cast ashore in Russia during the period of Japanese political isolation from the rest of the world. After a decade of wandering around Russia, he and his two compatriots returned to their homeland aboard a Russian embassy ship to Japan. Upon his return, he informed Japan about things he had seen and heard in Russia. Astonished by the abundance of his information, the Japanese government sent to him Katsuragawa Hoshu, a Rangakusha (that is, the representative of the so-called "Dutch Sciences"), in order to obtain more information about Russia. As a result, Hoshu's report "Short news about wandering in the North Seas" (Hokusa Bunryaku) was compiled. Hoshu inserted in this famous report one of the popular Russian songs of those days and the Japanese translation of it by Kodayu. In previous research about this song, scholars' attention usually focused on its authorship, but Kodayu's translation which accompanied it, up to now remained beyond any observation. In this paper we first tried to restore the original Russian text based on Kodayu's transcription, then analyzed divergences between the translation and original text. As a result, we came to the conclusion that in the divergences Kodayu hid asecret message. We also think that the Russian song of Kodayu is a hybrid of individual work and folklore, and the Japanese translation is also a mixture of translation and adaptation. In Russian history this song in turn became lyric, then a soldier's tune, and later on a revolutionary one. For some short period of its rich history, it also happened to become a connecting link between Russian and Japanese cultures.
著者
城野 充
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.41-52, 1996

It was "the public sphere", a space for the formation of public opinion to support Perestroika, that M. Gorbachev tried to create by means of Glasnost. In J. Harbermas' ideal terms, the public sphere is a social space where the circulation of information and views on questions of common concern can take place so that public opinion can be formed. However, in the Soviet Union this social space had been sealed since the 1930s. An open mass media is an essential element for the public sphere, since it permits all sorts of discourses to be freely communicated. Glasnost has opened the Soviet mass media to revive the public sphere. It goes without saying that Perestroika had a demand for the public sphere on a nationwide scale. In this sense it was very important that the television space has been opened by Glasnost. Glasnost in this television space appeared as a change from, in M. McLuhan's terms, "hot media" to "cool media". The Soviet TV program "The 12 floor" and "Vzglyad" have formed the television public sphere, and what these programs had in common was that both were "cool media". There we can recognize the formation of a polyphonic space where an ethos was rehabilitated and where a dialogue began to take place between "noises" that had hitherto been excluded. In other words, this space had the character of a public square. The public sphere in the television space had been formed by change: the "hot media" for monologue of the Communist Party was metamorphosed into a "cool media".
著者
菊池 隆之助
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.109-117, 2001-03-31

欧州環境閣僚会議でスロベニアは大気汚染を最大の環境問題として発言した。とりわけスロベニアでは石炭燃焼によるイオウ酸化物の大気中への排出が深刻化している。日本や欧米ではイオウ酸化物排出対策に脱硫装置が一般的に使用されるが、その対策としてスロベニア環境省は省エネルギーや天然ガスの普及を第一に掲げている。こうした実状を現地調査した結果、環境省発表の対策ではなく、発電所は低品位国産炭の使用を止め、高品位輸入炭に切り替えつつある対策を取っていた。この石炭代替政策はスロべニアの石炭業に影響を与え炭坑労働者から職を奪う可能性を含んでいる。それは15%の失業率をさらに引き上げることになる。またエネルギーの海外依存度も高くなり、外債を抱えるスロベニアにとって国際収支を悪化させることにもなる。環境改善のため、炭坑労働者は犠牲になってよいのか、自国産業を鈍化させてよいのかという命題をスロベニアの本ケースを基に考察し、環境と社会と経済を融合させる糸口を持続保存的開発の理念に立ち模索するものである。
著者
五十嵐 徳子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.39-58, 159, 2002-03-31

筆者は、旧ソ連の共和国におけるポスト社会主義のジェンダーの状況を明らかにしている。本論において、グルジアにおけるジェンダーの状況ロシアと比較することにより明らかにしている。ロシアにおいては、1997年にペテルブルグ市において502人(男性231人、女性271人)にジェンダーに関する意識調査を実施した。また、グルジアでは、ロシアと同種のアンケート調査をグルジア共和国の首都トビリシの10地区でトビリシ大学文学部社会学科の協力を得て1999年4月に男女700人(男性333人、女性367人)に対してジェンダーに関する意識調査を実施した。このアンケートの質問項目は筆者が1996年1997年にロシアのサンクトペテルブルグで行ったものとほとんど同じものであるが調査項目数は、全部で21ある。なお、グルジアでのアンケートはロシア語版からの翻訳によってグルジア語で行った。本論は、グルジアとロシアのジェンダーに関する統計資料をまず、提示し、ロシアとの統計的な違いあるいは共通点について述べる。そして、次にグルジアにおけるジェンダーに関する意識調査について簡単に述べたのち、ロシアと比較しながら、グルジアのジェンダー意識を分析している。そして、最後に、結びとして全体を総括し、今後の傾向について予測している。なお、旧ソ連全土における意識調査は実施しておらず、最終的な結論を導き出すことができなかったが、これまでの旧ソ連のジェンダー研究にはなかった新しい研究であり、これが、旧ソ連のジェンダー研究に一石を投じるものになれば幸いである。
著者
小林 潔
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.87-102, 2004-03-22

O.O.ローゼンベルク(1888-1919年)は、大正時代に来日し漢字研究および仏教研究に従事したペテルブルク東洋学派の日本学者である。仏教学者シチェルバツコイの高弟で、日本語はペテルブルク大学で黒野義文に、ベルリンで元東京大学教授ランゲおよび辻高衡に学んだ。1912年〔明治45年〕に来日。これは師であるシチェルバツコイの意向であった。シチェルバツコイは当時、日本をも含めた各国の研究者と倶舎論(5世紀の仏教書)研究を推進しており、日本に残る伝統的な教学を学ばせるためにローゼンベルクを東京に派遣したのである。留学時の指導教授は姉崎正治、専門の仏教研究では、シチェルバツコイとともに倶舎論研究グループを形成していた荻原雲来が指導に当たった。日本の同僚とも親しくつきあい、また同時期に留学していた同窓の日本研究者ネフスキーやコンラットとも交流を続けている。また、ドイツ東洋文化研究協会(OAG-Tokyo)で仏教論を発表したほか、日本の学界に向けて倶舎論研究上の問題点について問う文書を公開している仏教研究を続ける一方、彼は、外国人にとっても使いやすい用語辞典と漢字典が無いことを嘆き、これらの制作を決意し、日本人と協力しつつ在日中に2つの辞書を実際に刊行した。1つは、仏教研究に必要な術語、日本史、神道の用語を集めた一種のコンコーダンス『佛教研究名辞集』(1916年〔大正5年〕)である。ここでは術語は漢字毎に排列されており、発音を知らない外国人でも検索しやすいものになっている。また、中国語音、対応する梵語術語を掲げ、語の解説に関しては別の然るべき便覧への参照指示がつけられている。もう1つは、外国人にとって日本語学習のネックとなっている漢字を解説した字典『五段排列漢字典』(1916年〔大正5年〕)である。ここで彼は従来の部首引きを批判し、ペテルブルク中国学の伝統に基づいた新たな漢字分類法を提唱、それに基づいて漢字を排列している。これは漢字の図形的要素に注目した分類であった。1916年〔大正5年〕に帰国。ペテルブルク(ペトロダラート)大学でエリセーエフらと日本研究に従事する中で、1918年、日本・中国の伝続的教学の知見と倶舎論研究に基づいて博士論文『仏教哲学の諸問題』を執筆する。ここで彼は、仏教の基本概念である「法(ダルマ)」について詳細な分析を行った。翌1919年に亡命、31歳でレヴァル(タリン)にて死去した。没後、彼の博士論文は、独訳されて世界の東洋学者に影響を与えることとなった。日本の和辻哲郎もローゼンベルクの独訳論文を活用しつつ仏教研究を行っている。独訳からの重訳で日本語訳も刊行され、ローゼンベルクのこの著作は現在の日本の仏教学界でも基本文献とみなされている。ローゼンベルクが提唱した漢字排列方法は、ソ連・ロシアで刊行される中国語辞書で採用され、今日まで用いられている。また、アメリカでもローゼンベルク方式を採用した漢字字典が刊行されている。ローゼンベルク方式は今なお生きているのである。ローゼンベルクは、仏教学及び漢字研究に於いてアクチュアルな意義を有する業績をあげた。この意味でロシア東洋学史上の重要人物である。また、その業績は、在日中の研鑽の結果であり、日露の学者の協同の成果でもあった。日露文化交流史上でも価値ある存在であり、その生涯と業績について更なる研究が侯たれる。