著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.26, pp.33-49, 1998-03

現在存在している地形は不動のものではなく、長い歴史の中で生まれ、そして変形してきたものであり、今後も変化していく。だから我々が見ているものは、現在の時点の地形にすぎない。 地形形成にかかわり、地形を支配する要因には、組織・構造・地殻変動・気候・時間などがあげられる。これらのうち、筆者は組織と地形との対応関係という視点から「花崗岩」がつくる地形を調査してきた。 一般に組織の概念には、地形に影響を与える岩石の性質と地質構造が含まれる。しかし筆者は現在の地形を対象とするため、本論では岩石の性質(物性)と地形について考察する。このため、組織地形と岩石地形とはほぼ同意と考えている。 いろんな地形を構成する岩石の種類によってそれぞれの岩石の性質のちがいを反映した固有の地形(岩石制約)ができる。それにはさらに気候・気象環境のちがいが層地形の変化を助長させるため、世界には地域性に富んだ地形が形成される。一方、同一気候、同一の岩石からなる地域でも地形形成後の時間(年)や地形が位置している場の条件の差によって、多様な風化段階の地形が出現する。 以下、組織地形の視点から花崗岩・花崗岩地域の地形の事例を紹介し、基本的な考え方を述べる。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p1-16, 1982-12

近江国高島郡大溝を城地とする大溝藩は、元和五年(一六一九)八月分部光信が伊勢国上野から入封したのに始まる。分部氏は、『寛政重修諸家譜』によれば、伊勢国安濃郡分部村の出身で、代々伊勢国内を地盤に活躍したが、織田信包・豊臣秀次・豊臣秀吉・徳川家康らに仕えて頭角をあらわし、関ヶ原戦後には伊勢上野に住して二万石余を領する大名となった。分部氏は、大溝入封後も二万石余であり、以後江戸期を通じて石高・城地ともに変更がなかった。二万石の大名といえば、江戸期の大名としては極小規模の大名ということになるが、改易や転封・減封など、めまぐるしいほどの江戸幕府の大名統制の動きのなかで、二百五十余年もの間大溝を動くことなく、二万石余の石高を維持していったことは、注目に値する。分部家の永続は、数百人にのぼる家臣たちの身分とその家族の生活保障を意味した。大溝の城主としての分部家の二百五十余年には、その維持のための君臣一体となったそれなりの努力と悲願がこめられていたはずである。そしてまた、それは大溝藩領の領民の生き方にも、二百五十余年を同じ領主のもとで過さなければならなかった喜怒哀楽の特別な営みとなって深くかかわったに違いないのである。大溝藩の歴史については、すでに『高島郡誌』においても言及されているが、このたび『高島町史』の編纂の過程で新しい在地史料が数多く発見された。これらの新史料の分析から、あらためて近世小大名の家臣団構成と財政の問題を究明してみようというのが本稿のねらいである。
著者
正司 哲朗 エンフトル A. イシツェレン L.
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of Nara University (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.47, pp.147-158, 2019-02

本稿では、モンゴル国ドルノド県ツァガーンオボー郡に位置する契丹(遼)時代に築かれた土城バルスホト1に隣接する仏塔の調査成果について述べる。2014年の仏塔調査においては、デジタル化および建築部材の年代測定を行った結果、一部の建築部材が16世紀から17世紀前半であることが判明した。このことから、この仏塔は、契丹(遼)時代に建立され、修築されている可能性を示したが、2014年から2016年にかけて大規模な修築が行なわれた。2018年の調査においては、ドローンと画像計測を用いて、バルスホト1および修築された仏塔をデジタル化した。さらに、この仏塔が、どの程度修築されているかを調べるために、2014年と2018年にデジタル化した仏塔をもとに、修築前後の構造を比較した。最後に修築に関する問題について考察した。
著者
増本 弘文
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.23, pp.p29-50, 1995-03

死刑の一般的量刑基準を示した昭和五八年の永山判決以後の判決を検討した結果、以下のような死刑の具体的な量刑基準を定立することができた。しかし、心中事件に関する死刑判決が存在しないため、その量刑基準は不明のままである。①無期懲役の前科は、罪種・被殺者の数に拘らず死刑②被殺者三名以上の場合は、原則死刑であり、極めて例外的なケースにおいてのみ死刑が回避され得る以上のいずれにも該当しない場合であり、かつ、③被殺者一名では、「重い前科のない被告人が、悪しき動機に基づき、とりわけ残酷な方法で計画的に殺害した」という標準的ケースを少なからず上回る場合(例えばバラバラ殺人のような群を抜いて残酷な殺害方法)にのみ死刑④被殺者二名では、右の標準的ケースと同等あるいはそれを上回る場合に死刑しかし、以上の基準、就中③④は必ずしも安定的とは言えず、今後の判例の動向に注目しなければならない。
著者
松前 健
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.23, pp.p75-96, 1995-03

鎌倉時代の軍記物、室町時代の謡曲、舞の本、それから江戸時代の浄瑠璃、歌舞伎に至るまで、民衆の英雄として、人気の的であった人物の一人は、悪七兵衛景清であった。景清の史実性についての確実な資料は乏しく、『吾妻鏡』などにも、その名は現れない。ただ十二巻本の『平家物語』では、八島合戦のとき、美尾谷十郎との一騎打ちの中で、豪快なシコロ引きの話が語られる位で、そのほかは、大勢の平氏の武者の中に、その名をつらねるだけで、それほどの武将とも思われない。
著者
木田 隆文
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.29, pp.190-166, 2021-01

" 漢口(武漢)日本租界に関する研究は、これまで政治史や建築・都市研究の分野で一定の成果が挙げられてきたものの、居留民社会、特にその文化面の研究は資料不足も相俟ってほとんど進展がなかった。 しかし先ごろ稿者は、漢口で発行された文学雑誌『武漢歌人』および『武漢文学会雑誌 武漢文化』の二誌を入手した。両誌は現地居留民が結成した文学者団体、武漢歌話会・武漢文学会の会誌であったが、やがて汪兆銘政権が設立した翼賛文化団体である中日文化協会武漢分会の機関誌へと位置づけを変えた。そのためこの両誌からは、現地居留民社会の文芸文化の動向だけではなく、汪兆銘政権統治地域における文化支配の実態をうかがい知ることもできる。 本稿はその両誌の改題および記事細目を紹介することで、武漢居留民社会の文化動向および文化支配の実態を解明する基礎資料を提示することを試みたものである。"
著者
坂本 英夫
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.15, pp.p105-125, 1986-12

近年,わが国においては高速道路・新幹線・航空による高速交通の発展は著るしいものがあり,国土の時間的距離の縮小が達成されつつあるといえよう.しかし,一方で,それら高速交通の恩恵に浴していない地域も存在している.このような地域は概して部分的・飛地的に局在しているので,鉄道や道路による高速交通をはかることは困難な点がある.そこで,航空機をもって交通面の隣路を打開しようとする動きが出ている.乗客数と設備投資の上から,小型の航空機で比較的短距離(150㎞程度)を運航する,いわゆるコミューター航空の構想がこれである.欧米では,小型機の運用形態には3種類あるといわれている(今野修平,1985).1つはコミューターで,定期航空である.第2はエアタクシーで,不定期のチャーターである.第3は自家用機である.わが国で,小型機を活用して地方の活性化をはかるべく,注目をあびているのが,第1番目にあげたコミューターである(西岡久雄,1985,佐藤文生,1985).本稿では,とくに辺地での地域航空の可能性を検討するとともに,問題点を探り,かつ具体的な場として北海道と近畿地方を例にして考察を進めることにした.
著者
滝川 幸司
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.32, pp.41-58, 2004-03

延喜二年に開催された藤花宴の公的地位について検討した。この藤花宴は、通説では和歌が公的地位を獲得した晴の場として理解されているが、、資料を再検討して、藤原時平による献物という私的場であって、和歌の公的地位獲得の場とは評価できないこと、また、この藤花宴について記す『延喜御記』の記述からも、醍醐天皇が和歌を高く評価し、和歌の勅撰に強い意志を持っていたとは考えがたいことなどを指摘した。一般に、宇多・醍醐朝に和歌が公的地位を得、その結果、『古今和歌集』の勅撰に結びつくといわれるが、延喜二年の藤花宴の地位、『古今集』における作者層からも、和歌の地位は必ずしも高いとはいい難いことを述べた。
著者
横山 香
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of Nara University (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-17, 2019-02

" ドイツ語の"heile Welt"(「無傷の世界」)は、「ユートピア」という意味で肯定的に用いられると同時に、通俗性を批判するクリシェとなっている。 その"heile Welt"を描く代表格としてLudwig Ganghofer(1855-1920)がいる。彼は、彼の描く「郷土」「高地」「農村」のイメージから、ドイツ・ナショナリズムの体現者とされ、こういったイデオロギー批判的言説は、いまなお学術界に根強くある。 一方ジャーナリズムのGanghofer像は、ナチス時代から戦後を通じた彼の「郷土映画」と関連している。1950年に出版された詩集から広まった"heile Welt"は、戦後のドイツ的アイデンティティの再構築と関わった「郷土映画」における表象そのものであった。 しかし1960年代になり、「郷土映画」などの復古的な1950年代の文化は批判にさらされ、それとともにGanghofer が描く"heile Welt"も欺瞞的な「キッチュ」とされていくようになった。 このように"heile Welt"とは、ドイツの歴史的、文化的背景があって、初めて理解可能な言い回しなのである。"
著者
酒井 竜一
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.22, pp.p157-170, 1994-03

本稿は、アラム語の一方言であるシリア・パルミラ語碑文に関する初歩的な学習記録である。その出発点としてこれまで3回は、墓と列柱碑文を例に、主に単語の目安程度の意味を知る作業を試みてきた。ただし単純ミスや誤解が多く、各単語の正確な意味・語根・品詞・語形変化・発音等、いわゆる文法的な検討も今まだ皆無の状態にある。今後は、当面の課題である「単語集」を充実させながら、そうした点の学習にも努めたい。さて今回は、西暦137年に制定された有名な『関税碑文』の「序文」部分をテキストにとりあげる。パルミラ語とギリシャ語で書かれたこの碑文は、1881年にロシアのA・ラザレフによってパルミラ遣跡内のアゴラ南側で発見され、現在、サンクト・ペテルブルグ(レニングラード)のエルミタージュ美術館に所蔵されている。数年前、西藤清秀・豊岡卓司・酒井龍一の3名は、パルミラからの帰途この碑文を実見すべく同館を訪問したが、関係者不在のため実現しなかった。それは些かの心残りとなっている。以下、主に次の文献等に学びながら、テキストの検討を進める。
著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.34, pp.65-78, 2006-03

熱帯サバナ気候下に位置するカンボジア・アンコール地域の地盤の安定度と、石造遺跡の風化状況について調査した。その結果、地質地盤は安定陸塊上に位置しているが、寺院遺跡は環濠の掘り込みとその土砂による盛り土の上部に構築されているものが多いため、表層地盤は不等沈下や流動による被害が生じている状況を各地で確認した。石造遺跡の石材の風化は長年月を経て全体に進行してきているが、風化による剥離破壊は石材の限られた部分で急速に進んでいる。その部分と剥離破壊の状況は、自然界に生じているタフォニTafoni侵食と極めて類似していることがわかった。さらに風化破壊の速度は、砂岩石柱に生じている剥離破壊深が7~10cmに達しており、遺跡の構築がすでに800年程経過していることから、ほぼ100年間で1cmの速度で進行してきていることが推測できた。
著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.30, pp.83-96, 2002-03

Aw気候下のインド東南部で1300年前に構築されたことがはっきりしている石造寺院に生じた風化破壊の状況を観察、調査した。その結果、石造寺院の風化は全体に同速度で進行しているのではなく、風化の状態は上方から下方へかけて4層に分かれ、中央部の2層が速く、上方部と下端部では遅れていることがわかった。風化の内容も、最も進んでいる中央部では特異な形状を示すタフォニTafoni化タイプの風化を伴ないつつ進んでいるのに対し、下方部では剥脱・剥離exforiationタイプの風化破壊を進行させている。さらに、この石造寺院に生じているタフォニの成長速度は、自然界で形成している活発なタフォニで実験計測して得た値とほぼ一致することがわかった。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.16, pp.p59-72, 1987-12

近時の考古学の著しい進展は、多くの分野に対して詳細な「語り」を整え、次第に体系化を促す方向に進みつつある。「女性論」、とくに古代における女性の在り方をめぐっても多くの資料が蓄積されており、視座の展開と相俟って種々の見解が叢出している。本稿では、こうした所見を踏まえつつ、私見を中心に据え私なりの構造観でもって「女性論」の考古学を語ることとしたい。
著者
吉村 治正
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of Nara University (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.47, pp.183-195, 2019-02

本稿では、シカゴ社会学の学説史研究の一事例としてエモリー・ボガーダス(Emory Bogardus)をとりあげ、彼の展開した社会調査方法論を検討した。シカゴ社会学というとエスノグラフィーに衆目が集まる。そのため、社会的距離尺度を提唱し戦後の計量的社会分析の確立に大きく貢献したボガーダスは、シカゴ学派の中ではマージナルな存在とみなされている。だが、彼の1920年代から30年代の研究記録を検討することで、この態度測定法は、ライフヒストリー法による社会調査の困難さの克服を求めた試行錯誤の産物であったことが明らかになった。
著者
廣井 いずみ
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of Nara University (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.47, pp.93-107, 2019-02

非行経験者が非行から離脱するときに、他者とどのように関係性を発展させ、どのような体験を積むのか、援助要請行動が見られるのはどの段階か、非行経験者の手記を分析することで検討した。非行経験者は、大人に対する不信感、周囲との機能不全のコミュニケーションの課題を抱え、それぞれの課題に対して、①支え、ガイドしてくれる大人との出会い、②周囲との関係性の構築を体験することが、課題解決のプロセスになる。援助要請には、非行や非行集団からの離脱のための援助要請、今後の進路の実現のための援助要請の2種類が見られ、前者については、①支え、ガイドしてくれる大人との出会いを経験していることで、主としてフォーマルな援助要請が為され、一方後者については、①支え、ガイドしてくれる大人との出会い、②周囲との関係性の構築を体験した後、構築された関係性を基盤に、インフォーマルな援助を求めるのではないかと論じた。
著者
中尾 真理
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.22, pp.p33-48, 1994-03

アン・エリオットは「洗練された知性」と「優しい性格」の持ち主として描かれている。「洗練された知性」とは何を意味するのだろうか。オースティンは従来から「理性」と「感性」のバランスのとれた精神を理想としてきたが、それとどこが違うのだろうか。以上の観点から、オースティン最後の作品『説得』について考察する。ヒロインは家族からも、コミュニティからも切り離され、孤独の内に移動を続ける。斜陽の准男爵家から、大家族の暖かい雰囲気を残す郷士(スクワイア)のマスグローヴ家、ライム海岸、そして、最後にエレガントな温泉保養都市バースへの孤独な旅の過程で、アンの洗練された知性はそれぞれのグループにどのように反応し、また、どのようにして心からの共感者であるウェントワース大佐の心を掴むことができたのだろうか。鍵はやはり、感性とモラルに求めるべきだろう。
著者
尾上 正人
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 = Memoirs of Nara University (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.46, pp.183-196, 2018-03

トマ・ピケティの 『21世紀の資本』 には、2度の世界大戦のみが、資本主義における格差拡大傾向を押しとどめたという、いささか物騒な記述が散見される。本研究はこれにも示唆を得て、進化生物学の「ハミルトン・ルール」(包括適応説)に準拠しつつ、戦争を単なる国民大衆に降りかかる災難ではなく、既存の階層秩序が揺らぐ中で戦功を上げて一族の栄達を図る、繁殖戦略に裏打ちされた身内びいき的利他行動の場である、という仮説を立てた。この仮説を検証するため、究極的利他行動である特攻の実行者の遺族、および生存者を対象とした聞き取り調査を行なった。両家族の比較の結果、当初想定していたような「ハミルトン・ルール」は妥当せず、特攻戦死者の遺族が重要な働き手を失って家族の再生にかなり苦労し、未成年のきょうだいたちも十分な教育が受けられなかったのに対して、生存者の家族は戦後の生活の立て直しも比較的容易であったことがわかった。
著者
中尾 真理
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.38, pp.302-280, 2010-03

バラは栽培の歴史も古く、特に西洋では「花の中の花」として古くから特別に愛されてきた。本稿の目的はバラの栽培、その利用、鑑賞など、バラをめぐる文化を歴史的にたどることにある。バラはギリシア・ローマ時代には主に薬用、香料として利用され、キリスト教のもとでは神秘的な表象として使われた。イギリスでは「ばら戦争」に見られるように、バラが国家の紋章としても使われ、シェイクスピアやR・バーンズなどの詩にも歌われ、広く親しまれている。野生種を含め、バラの品種は多いが、古代から十九世紀の始めにかけて、ヨーロッパで栽培されていたバラは、わずか五系統にすぎなかった。十八世紀に四季咲きの中国バラが伝来したことにより、バラの栽培は飛躍的に発展し、バラの品種も爆発的に増えた。本稿ではバラの文化史(その一)として、ヨーロッパ、特にイギリスを中心に、バラ革命までを扱う。中国とヨーロッパのバラの交流、日本のバラについては次回にとりあげる予定である。