著者
牛津 信忠
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.79-104, 2021-10-25

真の主体的存在=愛としての統合主体,すなわち神を指し示すことが出来る。その神の位置を仰ぐ行為的実質の態様が福祉であり,それに関する科学的宗教における人間学が人間福祉学である。 人間はそうした人間福祉の実践を通じて神の啓示の道に在ることが出来る。ホワイトヘッドの言う神をさらに探求すると,主体たる神の作用性のなかに内包される実在を見出すことが出来る。その神は創造的前進を可能にするベクトル性を有する作用主体ないし作用掌握体という位置から抱握をなし続ける。その抱握プロセスにおける真の主体存在が愛としての統合主体であることを発見出来る。人間福祉の実践は,いつも愛としての神の作用と共にある。
著者
鹿瀬 颯枝
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.173-190, 1990-12-20

フランス・ロマン派全盛時代、地理的にはイタリア、スペインへ、歴史的にはルネッサンスの世紀へと、「異国逃避」の傾向がみられた。こうした状況の中で、ミュッセは、幼年期から既にラテン語、イタリア語を解し、未だ訪ねたことのないイタリアに、理想郷を求めて、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、バンデロとイタリア文学に没頭、まもなくミュッセ劇の舞台は、ルネッサンス期のイタリアが中心となる。1833年末、初めてこの理想郷を旅するミュッセであるが、既にイタリアを舞台とした作品は『ヴェニスの夜』(1830年)『アンドレ・デル・サルト』(1833年)、『マリアンヌの気まぐれ』(1833年)と発表されていた。又、これまで長い間、イタリア滞在中に作品化されたといわれてきた『ロレンザッチョ』も、実は、イタリア出発前に大半が書き上がっていた。現実のイタリアを知りつくした後も、ミュッセは祖国愛に似た思いで、彼独自のユートピアのイタリアを描き続けた。その背景にあるものは一体何か。主要な作品がイタリア訪問前に書かれている点に注目してその意味を追求した。
著者
村松 晋
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第19巻, no.第1号, pp.72-61, 2006-11

This study focuses on letters of the well-known theologian Seiichi Hatano from around 1945 that clarify his perception of society and of the times. It becomes clear through this study that one side of Hatano was that of an “old liberalist” who had great pride in the Meiji era.
著者
池上 真理子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第26巻, no.第1号, pp.197-212, 2013-10

近年,新教育基本法や新学習指導要領の中で,日本の伝統文化教育を重視する方針が打ち出されたことにより,学校教育の中に日本音楽を取り上げる動きが活発になっている。しかし,教師の側の日本音楽に対する理解不足など,実際の導入に際してはいくつかの課題もある。そのような現状を踏まえ,本稿では,日本音楽の一領域である雅楽を,小学校の音楽教育に導入する意義と可能性について,筆者が実際に行った授業の分析や,学習指導要領に基づいた具体的な指導計画の提案などをもとに考察した。そして雅楽の導入が,その音楽を知るのみでなく,日本独自の豊かな芸術的感性を体験的に理解できる,歴史,文学など他教科との関連性をもって伝統文化の体系的な理解を深められる,など幅広い学びの可能性を持つことを指摘した。
著者
寺﨑 恵子
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.1-16, 2016

青年期の特徴を表す用語として,「第二の誕生」がある。この語は,ジャン=ジャック・ルソーが『エミール または教育について』(1762 年)の第4 篇で用いた。第二の誕生は,ライフサイクルにおける,子どもから大人への変成という節目における移行の状況を説明する用語であり,また,人間発達における危機的で根元的な転換点を説明する用語である。ルソーは,こうした第二の誕生という閾の過渡的な状況において「わたしたちの教育」が必要であることを説いた。彼の言う「教育」は,学校教育を意味していない。むしろ,それは消極的教育,つまり,生態的で発生的な自然を地とする意味をもっている。彼は,教育の原義を示し,青年期における第二の発展状況を,言葉の起源である情念のありように把握して明らかにした。本稿は,第二の誕生と教育の連関について,ルソーの言説の内実を明らかにするものである。 We know the term "the Second Birth" that represents the characteristics of adolescence. Jean Jacques Rousseau described this concept in his book, Emile , Book 4. The Second Birth refers to the process of transformation of a child into an adolescent, a life cycle in which the development of personality reaches a critical and radical turning point. Rousseau insisted on the need for education in that liminal and transitional period. For Rousseau, the term education didn't indicate a scholastic education, but rather an education which, due to its ecological and generative nature, is negative. He declared the original meaning of education, and elucidated the second developmental stage of personality relative to the origin of language, or passion. This article describes Rousseau's concepts of the second birth and education.
著者
増田 公香
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第21巻, no.第3号, pp.273-283, 2009-03

EBP, Evidence-Based Practice, appeared in the area of social work at the beginning of 2000. EBP was formally established in medicine in the 1990s, but now exists as a powerful methodology with which integrate science and intervention through social work. This article has three purposes: 1) to review the history of EBP and the reason for the appearance of EBP in the social work area; second, to examine definitions of EBP and steps for practice; thirdly, to pay attention to the use of EBP in social work education and social practices. The use of EBP in future social work will also be examined.
著者
近藤 存志
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.125-138, 2007-03-30

イギリス国会議事堂が1834年に焼失したことから,その翌年,ゴシック様式ないしはエリザベス朝様式による議事堂の再建に向けた設計競技が開催された。審査を経て1836年の1月に発表された当選案は,新古典主義の建築家として知られたチャールズ・バリーのゴシック様式でまとめられた設計案であった。この設計競技でのバリーの勝因をめぐっては,若いゴシック・リヴァイヴァリスト,オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンを「アシスタント」として雇用したことが功を奏したと考えられている。しかしこのピュージンの雇用をめぐっては,「単なるアシスタント」から「影の建築家」まで,その具体的な役割についてこれまで諸説伝えられてきた。19世紀当時のイギリスにおいても,ピュージンの働きは装飾のデザインや設計図面の作成を担当する補助的なものであったと考える人々がいた一方で,新古典主義建築を得意とするバリーに変わって,実際の設計はほとんどすべてピュージンの手によるものであったと主張する人々もいた。そしてこの二人の関係は後に,「新しいイギリス国会議事堂の本当の建築家は誰であったか」という前代未聞の,そして未だに明確な答えが得られていない論争を生み出すことになった。本稿は,ピュージンとバリーの死後,主としてピュージンの息子で自らもゴシック・リヴァイヴァルの建築家であったエドワード・ピュージンとチャールズ・バリーの息子で後にシドニー主教となったアルフレッド・バリーの間で繰り広げられた「イギリス国会議事堂の本当の建築家は誰であったか」をめぐる論争の全容を明らかにしようとするものである。その際,特にエドワード・ピュージンとアルフレッド・バリーが1860年代に相次いで出版した3冊の小冊子,すなわち1867年にエドワード・ピュージンが出した『イギリス国会議事堂の本当の建築家は誰か─チャールズ・バリー卿の手紙とオーガスタス・ウェルビー・ピュージンの日記に見出される真実の記録』(Who Was the Art Architect of the Houses of Parliament: A Statement of Facts, Founded on the Letters of Sir Charles Barry and the Diaries of Augustus Welby Pugin)とアルフレッド・バリーがこれに対する反論としてその翌年に出版した『新ウェストミンスター宮殿の建築家─エドワード・ピュージン氏への回答』(The Architect of the New Palace at Westminster: A Reply to the Statements of Mr. E. Pugin),そしてさらにこれに応じる形でエドワード・ピュージンが同じ年に出版した『イギリス国会議事堂に関するE・W・ピュージンの「見当違いな主張」に対してアルフレッド・バリー司祭が示した回答について』(Notes on the Reply of the Rev. Alfred Barry, D.D. to the "Infatuated Statements" Made by E. W. Pugin, on the Houses of Parliament)の内容を中心に検討している。
著者
木村 裕二
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第29巻, no.第1号, pp.105-122, 2016-10

法務省は,2015 年3 月31 日,民法の改正案を国会へ提出した。その中に,次の2 つの規定が含まれている。(1)金銭の授受がなされる前は,借主は諾成的消費貸借契約を解除することできるが,貸主は損害賠償を請求できる。(2)借主は期限前に弁済することができるが,貸主は損害賠償を請求できる。これらの規定は「元本を期限まで利用する債務」「元本返済により失われた将来利息を補償する義務」を借主に負わせるものではないことを,論証する。また,元本返済により失われた将来利息を補償する義務を定めた当事者間の合意の効力を,利息制限法がどのように制限するかを検討する。
著者
村上 公久 ムラカミ キミヒサ
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第26巻, no.第1号, 2013-10

ルイス・クラーク探検隊(1804-1806)は,米国において太平洋岸への最初の大陸横断を成し遂げ,現地踏査によって西部域についての多くの情報を得,独立間もない国家の北米大陸西部域についての認識と領土意識の形成に貢献した。第三代大統領トーマス・ジェファソンから任命された二人のヴァージニア州出身の軍人メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークが率いた探検隊は,この地域の植物,動物,地質,および地理の実地調査と,交易と通商のための内陸水路を探る任務を帯びていた。ジェファソンの目標はアジアとの商取引の目的のため太平洋岸に至る水運のルートを見つけることだった。ジェファソンはミズーリ川とその流域に沿ってアメリカ先住民の各部族に米国の主権を宣言し,ルイジアナ購入によって版図に入れられた地域の正確な情報を得ることを重要課題としていた。本試論は,アメリカ合衆国においては広く知られているがわが国では未だほとんど知られていないこの探検隊について,特にアメリカ合衆国を導いてヨーロッパ国家の一植民地から今日の超大国になる道を拓いたトーマス・ジェファソンの関与について観,ジェファソンの領土画定の試みをルイス・クラーク探検隊の派遣を通して探る。
著者
河島 茂生 カワシマ シゲオ
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.1-15, 2013

本論文は,オートポイエーシス論に基づきながら,ネットゲーム依存の問題を検討している。これまで心理学的もしくは精神医学的なアプローチでの取り組みがなされ,対策も講じられてきた。しかし,情報学の基礎理論でもあるオートポイエーシス論を援用した分析はほとんど見られない。そこで本研究は,オートポイエーシス論の視座からネットゲーム依存を考察することにした。この方法を採ることにより,人間の心理において現実と虚像の境界が原理的に曖昧である点が指摘でき,またネットゲームだけにのめり込む危険性も考察することができた。さらには,インターネット依存から身をかわす一契機を見出すことが可能となった。
著者
黒崎 佐仁子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第23巻, no.第2号, pp.1-14, 2011-03

In anime and manga, there are various expressions called Yakuwari-go ( role language) .Yakuwari-go are expressions typically used by characters in anime and manga that are not used in the real world. There are many such characters in anime and manga. This paper focuses on expressions used by the character Hakase (“Old Scientist)”.Kinsui (2003) examined ja (a part of the predicate) used by characters in popular books from the Edo period to the present and stated that the “role language” of “Hakase” resembles a sociolect used in the Edo period which, as a result, displays the characteristics of a western Japan dialect.This paper, which examines the usage of washi, a first-person pronoun in materials from the Edo period such as a dialect dictionary, texts on dialects, popular books and Japanese language textbooks, confirms that washi is characteristic of the “role language” of the character Hakase.
著者
丸山 久美子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第16巻, no.第2号, pp.189-218, 2004-03
著者
渡邉 正人
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第18巻, no.第3号, pp.187-196, 2006-03

In current Japanese culture, the rise of one particular subculture has been especially conspicuous in recent years. The “hobby-world” (called otaku in Japanese) has been a powerful social force which has transformed Akihabara, the electronics discount district fo Tokyo. It has been the birth of a new community: “community through hobby/interest.” The influence of this subculture is reflected in the novels of Haruki Murakami.
著者
竹井 潔
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第32巻, no.第1号, pp.41-56, 2019-10-25

ネット依存はスマートフォンによるオンラインゲームやSNSにより,中高生を中心に増加している。またゲームのやりすぎによる様々な日常生活への支障をきたしたゲーム依存症はWHOにより疾患として認定された。ネット依存は若い層を中心に急増してきており,ネット依存を情報倫理の重要な課題として取り上げたい。AI社会になってAIへの依存が高くなってくると,ネット依存はさらに深刻になってくるであろう。AIの時代に入り,ネットの利便性だけではなく,ネット依存,さらにAI依存の倫理的側面を考慮していく必要がある。 本稿では,情報倫理の視点から,ネット社会の進展とネット依存について概観し,AI社会に向けてのネット依存における情報倫理の課題を検討することを試みる。
著者
黒﨑 佐仁子
雑誌
聖学院大学論叢 = The Journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.第34巻, no.第2号, pp.69-83, 2022-03-15

本稿は「な(さ)過ぎ」を含む複合語の使用実態調査を目的とする。過剰を表す「過ぎ」は,様々な品詞と接合する。助動詞「ない」と接合すると,「な過ぎ」や「なさ過ぎ」となり,「さ」の挿入が起こり得る。本研究では,以下の問いを課題とする。(1)「な過ぎ」と「なさ過ぎ」の出現割合は変化しているのか。(2)どのような動詞が「な過ぎ」または「なさ過ぎ」と接合するのか。(3)「な過ぎ」と「なさ過ぎ」の出現割合は,話者の出身地と関係があるのか。 国会会議録を資料として調査を行い,「さ」の有無は,年代によって割合は変化していないこと,動詞の活用型や話者の出身地が関係していることが明らかになった。
著者
川崎 司
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.11, no.3, pp.219-244, 1999-03-25

Twenty years ago I gravitated to the pure character of Mizutarô TAKAGI (1864-1921) and began to study his career. Mizutarô was faithful in the pursuit of truth as a pastor, an editor and an educator, caring neither for praise nor blame. This essay is an interim report of his life-long search for truth. Mizutarô was the oldest son born to an ancient and respectable family. His birthplace, Nakakawane Mura in the Haibara District of Shizuoka, was the district along the Ôi river where a well-known brand of tea was produced. He grew up in the bosom of nature. Mizutarô's father Genzaemon TAKAGI and his uncle Matazaemon YAGI were liberal and broad-minded. They ware open to new ideas, especially Yukichi FUKUZAWA's ideology. Mizutarô was affected by these ideas and showed respect for Yukichi's spirit. In January 1874 he began to attend Nagao Elementary School. He was by far the best pupil in the whole school. In 1878 he entered Shizuoka Normal School. In that year or the following year, he met Yakichi YAMAJI, who later became the famous historian, Aizan YAMAJI. As Yakichi couldn't pay for expenses of elementary school, he left in mid-course and served as assistant master. Mizutarô hoped to study at Keiô Gijuku as a student from Shizuoka Prefecture, but in 1880 his ambition was thwarted by financial problems. The democratic movement was in vogue. In October 1880 Mizutarô founded a literary magazine (Gozan Ippô) with his close friend Yakichi. They advocated their democratic ideology in the magazine. In 1881 Mizutarô graduated from Shizuoka Nomal School with the highest marks, and took his post as a schoolmaster in Gotenba Mura in Shizuoka, at the same aspiring to enter the world of politics. The youthful schoolmaster, intelligent and gifted with fluent speech, was looked up to as a man of learning and enlightenment in the village. In 1883 he was brought under pressure to enter politics, so he gave up his position as schoolmaster. The next year his mother Sonoko died of illness. It was the worst thing in his life. He became aware of "Life is as evanescent as the morning dew." In 1885 he was promoted to the Shizuoka Prefectural office. But he missed his mother and led a lonely life. At a time when he experienced great anxiety, Yakichi and others invited him to Shizuoka Methodist Church. A girl friend, Miss Rika ÔISHI, took care of him. In 1886 Mizutarô was happily married to Rika. He worked hard to support his family, but he hadn't yet given up the hope of entering a school of higher education. Beginning sometime around the summer of 1886, Mizutarô began to desire Jesus Christ. Several months later he crossed the Rubicon and accepted baptism from Yoshiyasu HIRAIWA, the pastor of Shizuoka Church. After that he became a son of the light.
著者
酒井 俊行
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 = The journal of Seigakuin University (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.11-25, 2019

真逆に位置する2つのタイプの表現者平手友梨奈と川上奈々美を分析することによって,"黒い羊"問題を議論してみた。この二人の表現者は立ち位置は真逆であるが,実はその差は紙一重と思われる。にもかかわらず,一方が白で一方が黒。実際に社会で生起する"黒い羊"問題においても,白でも黒でもほとんどはっきりした差異は見られない。寸毫の差が白黒の分かれ目となってしまう。これが"黒い羊"問題の本質であり,それ故にここに独特の複雑性が醸し出される。
著者
村上 公久
出版者
聖学院大学
雑誌
聖学院大学論叢 (ISSN:09152539)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.109-134, 2013

ルイス・クラーク探検隊(1804-1806)は,米国において太平洋岸への最初の大陸横断を成し遂げ,現地踏査によって西部域についての多くの情報を得,独立間もない国家の北米大陸西部域についての認識と領土意識の形成に貢献した。第三代大統領トーマス・ジェファソンから任命された二人のヴァージニア州出身の軍人メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークが率いた探検隊は,この地域の植物,動物,地質,および地理の実地調査と,交易と通商のための内陸水路を探る任務を帯びていた。ジェファソンの目標はアジアとの商取引の目的のため太平洋岸に至る水運のルートを見つけることだった。ジェファソンはミズーリ川とその流域に沿ってアメリカ先住民の各部族に米国の主権を宣言し,ルイジアナ購入によって版図に入れられた地域の正確な情報を得ることを重要課題としていた。本試論は,アメリカ合衆国においては広く知られているがわが国では未だほとんど知られていないこの探検隊について,特にアメリカ合衆国を導いてヨーロッパ国家の一植民地から今日の超大国になる道を拓いたトーマス・ジェファソンの関与について観,ジェファソンの領土画定の試みをルイス・クラーク探検隊の派遣を通して探る。