著者
逆井 聡人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.12, pp.181-197, 2014

本稿は、アジア太平洋戦争直後の日本映画において、戦略爆撃と疎開空地によって形成された都市空間の焼跡が如何に表象され、そしてまた批評の言葉によって如何に語られてきたかを『東京五人男』(斎藤寅次郎監督、1946年)と『長屋紳士録』(小津安二郎監督、1947年)を中心に検討する。『東京五人男』には、敗戦直後の焼跡の風景がありありと映し出されるものの、批評の言葉はそれを見苦しいものとして論じず、作品自体の出来の悪さとして切り捨ててきた。『長屋紳士録』においても、物語の背景としての焼跡が提示する敗戦の現実が、「昔ながらの下町人情劇」という枠組みで評価されることにセロよって、見えないものとされてきた。焼跡という実際の都市空間が、「戦後日本」の「0地点」という記号としての〈焼跡〉へと抽象化がなされる際、それが本質的に孕んでいた加害/被害の重層性は隠蔽されてしまう。批評の言葉と映し出される光景の歪みに着目し、実際の焼跡が提示する加害の責任を浮き彫りにすることで、焼跡表象の可能性を検討することが本稿の目的である。
著者
柾木 貴之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.14, pp.71-87, 2016

本研究は戦後から1960年代までを対象に、「国語教育と英語教育の連携」をめぐる状況について明らかにすることを目的とする。2000年以降、「連携」に関する議論が高まり、各分野から研究が進んでいるが、ほとんど研究が進んでいないのが歴史的研究である。とくに戦後から1960 年代にかけてどの程度、「連携」が行われていたかについては明らかになっていない。このような状況の下、文献調査を行った結果、「連携」が行われたことを示す資料は発見できなかったが、戦前にはほとんど見られなかった特徴として、(1)国語教育と外国語教育を合わせて「言語教育」と捉える動きがあったこと、(2)その「言語教育」という概念のもとで、国語教育と英語教育の共通点が模索されたこと、(3)しかし一方で、主に文学教材を通した人間形成を重視する国語教育と、コミュニケーション能力の育成を目指す英語教育とでは、全く異なったことをやっているという意識が存在したこと、の三点が明らかになった。このような意識が、戦後から1960年代にかけて、「連携」という発想が広く共有されなかった一因と考えられる。
著者
中川 映里
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.15, pp.179-195, 2017

本稿は,森鷗外の翻訳業績のなかで看過されがちな短篇小説の翻訳に注目し,記述的翻訳研究の枠組みを用いてその実態を分析することを目的とする.分析対象とする作品は,日本での短篇小説形式の成立において重要な役割を果たしたと考えられる翻訳短篇小説集『諸国物語』に収録された「病院横丁の殺人犯」(原作はEdgar Allan Poe の "TheMurders in the Rue Morgue")である.鷗外が短篇小説というジャンルの固有性を理解し,翻訳を通じてその形式を日本に紹介,移入しようとしていたこと,また翻訳に関しては,日本人読者にとっての読みやすさを追求し,原作の味わいを極力残しながら日本語の作品としての完成度を高める意識を持っていたことから,翻訳実践において短篇小説という形式を再現すること,文学性の高い日本語を用いることといった規範が働いていたという仮説を立て,テクスト分析を行った.原文および他翻訳者による同作品の翻訳との比較検討の結果,日本語らしい表現への置き換え,文章のつながりやリズムへの配慮,自然な口調の演出による巧みな人物造形といった特徴が明らかになり,仮説は支持された.こうした鷗外の短篇翻訳の意義は改めて評価されるべきである.
著者
Alaaeldin Soliman
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-14, 2009

本論では、標準アラビア語の二重主語構文(Double Subject Construction)を考察し、その特性を述べる。標準アラビア語の二重主語構文は、ゼロ繋辞文の一種であり、その主-述関係は限定関係により成立する。二重主語構文は二重主格表現になっており、一致関係では、第二主語の接尾形所有代名詞は、第一主語の性・数に一致する。また、述語は、第一主語ではなく、第二主語の性・数に一致する。さらに、第一主語と第二主語との統語的関係では、第二主語に接尾形所有代名詞が存在しているため、第一主語と第二主語の語順と意味関係は[全体-部分]、あるいは[所有者-所有物]と定められている。
著者
逆井 聡人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.85-102, 2015-03-01

本稿は、アジア太平洋戦争直後の東京における戦災復興を考察する。本稿が対象とするのは、都市計画そのものや政府の政策等ではなく、戦災復興期の東京を描いた二本の映画である。一つは『20 年後の東京』という東京都都市計画課が作成したPR 映画であり、もう一つは黒澤明が監督した『野良犬』である。東京の戦災復興計画を宣伝する『20 年後の東京』がその計画の思想を伝える際に用いるレトリックを分析し、その背後にある植民地都市経営の経験とそれを「民主的」という言葉で覆い隠し、計画の正当性を偽装する態度を読み取る。また計画の障害として語られる闇市を取り上げ、その復興期における役割を評価した上で映画の言説との齟齬を明らかにする。そして、その闇市を映画の主要な空間として取り込んだ『野良犬』が、その空間にいかなる役割を担わせているかを主人公の復員兵・村上を通して考察する。本稿は都市を語る上で帝国主義の過去を忘却しようとする言説に対して、抗う拠点としての闇市という空間を位置付けることを目的とする。
著者
平井 裕香
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.241-257, 2013-03-01 (Released:2017-06-08)

『雪国』の地の文は、女を性的或は美的な対象の位置に押し込める一方で、自己を唯一の主体として特権化しようとする欲望を作中人物・島村と共有しながら、このホモソーシャルな共犯関係を「島村」という三人称の符牒により隠蔽する。そのような志向性を持つ語り手・島村の言葉に対して〈他者の言葉〉としてあると言える駒子・葉子の台詞は、地の文の言表行為の主体と主たる言表の主体たる島村の特異な関係ゆえに、語られる物語と語ることばの水準の差異を越えて地の文を逆照射する。二つの異質なコード・文脈の間でことばがふるえるとき、そしてそのふるえがテクストの他の位置にある同一語を介してテクスト全体に及ぶとき、語り手・島村のコード・文脈の偏向及びその背後にある志向性が露になる。『雪国』というテクストは、〈他者の言葉〉がこのように語りを脱臼させる過程をこそ提示している。以上のような複数の言葉の相互作用が織りなす動態をテクストの文体と呼び、作中人物の台詞を射程に含めた議論をこそテクストの文体論的分析と呼ぶならば、それは川端テクスト群及びそれを囲い込む言説の再検討において大きな方法論的意義を有すだろう。
著者
池 玟京
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.37-53, 2012-03-01

本研究は韓国語接続助詞neundeを対象にその機能を明らかにすることを目的とする。従来の研究で示されなかった分類の基準を設定して、実際のデータを分析、neundeで接続される前後関係をまとめた。neundeの用例は条件関係の有無、条件命題との一致、従属/対等、時間的連続性の有無、前件の必要性という五つの基準で、六つのケースに分類される。今回の分析ではneundeが他の接続助詞とは異なって、順接と逆接の両方を表せること、neundeの解釈を決めるのは前後の命題内容であることが確認された。本研究はneundeに概念的意味はなく、各ケースはneundeであり得る一つの解釈であると考える。また、今回の分析結果はneundeを手続き的情報だと主張したNoh(2008)の問題点を改善したものと考えられる。Noh(2008)の「セグメント分離指示」という説明では、単文の連続とneunde文に同じ解釈過程が想定され、neundeの特徴が示せない。そこで、本研究はneundeが「関連付けを意図明示的に指示する手続き的コード」であることを提案し、Noh(2008)の問題点を解決した。この提案によって、neundeは単文の連続や他の接続助詞とは性質の異なるものとして位置づけられる。
著者
我部 聖
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.7, pp.205-218, 2009

1950年に開戦された朝鮮戦争のさなかに、サンフランシスコ講和会議が開かれた。会議の前後に竹内好らを中心に「国民文学論」が提唱され、広く議論された。この戦後の「国民文学論」を、戦前の「国文学」との差異を打ち出そうとする新たな「日本文学」の編成ととらえるとともに、戦後における文化統合の象徴としての「国民」が欲望される兆候とみることもできる。「国民文学」をめぐる論議のなかで、在日朝鮮人の作家金達寿の『玄界灘』を「国民文学」に回収しようとする動きがあったが、それは歴史的文脈を捨象して「被圧迫民族」に同一化しようとする、中心による周縁の包摂といえる。この中心による周縁の包摂を、「周縁」の側からとらえなおすのが本稿の目的である。同時期の沖縄では、琉球大学の学生が発刊した『琉大文学』において「国民文学論」が議論されていた。アメリカ占領下の沖縄では、「琉球文化」を奨励する文化政策と検閲が行われていたが、同人は、「国民文学論」をめぐる言説を「流用」(appropriation)しながら、検閲の視線をくぐり抜けて、脱植民地化の言説を紡ぎ出したのである。
著者
柾木 貴之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.125-141, 2012-03-01

「国語教育と英語教育の連携」に関してこれまでに紹介された資料で1980年代以前のものは、西尾・石橋(1967)と『英語教育』1977年1月号のわずか二点であった。その結果、1967~77年は「連携」の研究において「空白の10年」と考えざるを得ない状況であった。今回、行った文献調査では、1970年代の英語教育雑誌において「連携」の特集が何度も組まれ、盛んに「連携」の議論がなされていたことがわかった。その背景にあったのは第一に、英語教育における「標準週3時間」という授業時数の問題である。1970年代の英語教育は少ない授業時間にどう対処するか対応策を模索していたが、その一つには「言語教育」としての原点に立ち返り、母語の働きを見直すというものがあった。第二に、当時の国語教育は文章の内容面を重視しすぎることへの反省から、「言語そのもの」の指導を重視する「言語教育」を目指していた。以上の経緯から「言語教育」をスローガンとして、両教育をいかに結び付けるかという議論がなされたのだった。
著者
鄭 秀鎮
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.103-120, 2015-03-01

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』は作品の構成において整合性を欠いているという否定的評価が目立つ作品である。本稿では特に作品の主題における必然性を欠いていると指摘されている、ハワイへの旅行の部分にむしろ作品全体の主題と密接につながる文脈を見出そうとする試みである。主人公「僕」は、1980 年代日本社会において現実感覚が稀薄化されていくという問題意識を持っている。この問題意識は「僕」のハワイ行きによってもっと鮮明になる。ハワイという、観光を目的に計画的に作られたイメージで成り立っている空間に来た「僕」は、そこに住んでいる写真作家アメと詩人ディック・ノースの間の奇妙な関係から、技術的映像(写真)が文字文化(文章)を圧倒している、二つのコミュニケーション媒体の不均衡な力関係を二重写し的に読み取ることになる。そしてこれこそ「僕」が現実感覚の弱体化の原因を意識し、次なるステップを模索する契機になる。この点において「ハワイ」は作品全体の主題をむしろ鮮明にする文脈を有することになる。
著者
井上 博之
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
no.8, pp.183-199, 2010

This paper aims to examine the relationship between the state of exile and Mexican representation in Cormac McCarthy's All the Pretty Horses (1992), which is the story of a modern Texan young man who loses his home and crosses the border south to Mexico in search of a "paradise" for cowboys. The protagonist, John Grady Cole, projects his own vision onto Mexico and then gets "betrayed" by the violent reality of Mexico. It is true that Mexico appears here as "the Infernal Paradise," but the country is also "another country," where foreigners can only know of the Otherness of Mexico, and at the same time functions as a "mirror" which reflects the reality of the U. S. John Grady loses his Mexican "paradise" and returns to Texas, where there is no place for home; he comes to be a cowboy on the border, who cannot belong to the U. S. nor to Mexico. This homelessness seems to join him to some Mexican-Americans who appear in the story, such as Luisa, Arturo, Abuela and a "Mexican" who has never been to Mexico. Thus, his "failed" crossing, paradoxically, makes him into a true border-crosser.
著者
ギュヴェン デヴリム C
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.187-202, 2011-03-01

Oe Kenzaburo's "Applause" ("Kassai", 1958) recounts the story of Natsuo, a university student who is the "male mistress" of Lucien, a foreign diplomat posted in Japan. Natsuo's encounter and "successful" sexual intercourse with Yasuko, who is hired as a maid-prostitute by Lucien gives him hopes about an authentic "commitment" with her. Yet his plan collapses when he learns that she is in fact a prostitute specializing exclusively in homosexual couples, and all was a game planned by Lucien in order for Natsuo to become economically and sexually further dependent upon him. Oe used "sexuality" as a metaphor for articulating politics and power relations; the current political disengagement of Natsuo and the stagnation of the student movement during the suffocating social atmosphere of the late 1950s are translated into a creative discourse of sexuality by adopting images of impotence, sexual dependence and prostitution. Through juxtaposing almost all socio-political and sexual senses of the word "engagement" and a deliberate mistranslation of the French word "engager", Oe attempts to expose the effects of power mechanism of the Eurocentric culture, i.e., "cultural imperialism" on the periphery countries.
著者
堀井 一摩
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.225-240, 2016-03-01

本稿は、泉鏡花の「高野聖」における不気味な他者たちの表象が日清日露戦間期の日本社会においてどのような意味を担っていたのかという問題を考察する。まず「高野聖」に書き込まれた近代性の記号、すなわち地図、徴兵制、衛生学の歴史性を追跡し、それらが近代的国民軍の要請によって整備されたものであることを確認する。そのうえで、宗朝と、富山の薬売り・次郎との分身関係を分析することを通じて、「高野聖」が、不気味な動物的他者が表徴する脱国民的身体への憧憬を保存していたという読解を提示する。最後に、孤家の女が統治する「代がはり」の世界の意味を考察し、壮健な男をもはや戦うことのできない動物に変じる女の魔力が、国民国家にとってサブヴァーシヴな力をもつことを明らかにする。鏡花は、このような異界を仮構することで、対外戦争へと向かっていく近代日本の国民の生きる空間を逆照射し、それに異議を申し立てるようなヘテロトピアを描いている。
著者
村上 克尚
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.241-257, 2016-03-01

本稿の目的は、武田泰淳の『富士』を、同時代の精神障害者をめぐる言説を参照しながら検討し、両者の共通性と差異とを分析することである。『富士』は、甘野院長や一条といった登場人物を通じて、患者を「人なみ」になるように「治療」しようとする試みや、患者を神のごとき超越者に高めることで尊厳を回復しようとする試みを批判的に描いている。これは、同時代の「反精神医学」的な言説と響き合う。それに加えて、『富士』の語り手である大島は、序章と終章において、動物をめぐる長大な思索を展開する。これは、健常者/精神障害者の区分が、国家による、人間/動物(=生きるに値する命/生きるに値しない命)の分割に規定されていることを示唆する。最終的に、大島は、患者たちの依存し、寄生する繋がりに、自分の身体を開いていく。ここから読み取られるべきは、依存的(=動物的)な生を否認するのではなく、むしろそれに内在することで、国家が掲げる、自律的な「人間」の理念を解体していくという道筋である。この点にこそ、『富士』というテクストの独自性を指摘できる。
著者
坂口 周輔
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.163-179, 2014-03-01

Cette recherche a pour but de comprendre comment Stéphane Mallarmé a perçu le « mythe hamletien », lors de la représentation d’Hamlet , jouée à la Comédie-Française en 1886. Le « mythe hamletien » s’est formé à l’époque romantique. Durant celle-ci, la pièce d’Hamlet est considérée comme le chef-d’oeuvre d’un genie, Shakespeare. Du reste, Mallarmé assiste à la version réduite d’Alexandre Dumas, écrivain romantique. Le poète, qui perçoit ce mythe, se questionne alors sur son hérédité. Cet article remonte, tout d’abord, à la source du « mythe hamletien », afin de retracer la réception d’Hamlet en France, de l’époque romantique jusqu’à la fin du XIXe siècle, notamment à travers les comédiens qui ont joué Hamlet. Cette recherche poursuit, ensuite, avec l’analyse de « Note sur le théâtre », texte de Mallarmé au sujet d’Hamlet. Finalement, nous mettons en lumière la reception mallarméenne de cette représentation d’Hamlet. Pour Mallarmé, Hamlet n’exprimerait plus ses émotions, mais hésiterait entre être et non-être, dans « le suspens d’un acte ». Ce suspens ne s’appliquerait-il pas, d’ailleurs, au « mythe hamletien » après le romantisme ?
著者
田畑 きよみ
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.141-157, 2013-03-01

幕末には多くの藩校で洋学を教授するようになった。それらの藩校が小学校へ継承された場合、後身校である小学校に、洋学教授法などの知的財産が引き継がれ、小学校での英語教育へと発展した可能性が考えられる。そこで本稿では、前身校での洋学教授の実績が小学校での学習内容に影響を及ぼした可能性を探った。また、明治初期の小学校英語教育においては地域の経済的豊かさが英語教育実施の大きな要因の1つと考えられたが、幕末期の藩校においても同様であるか確かめるために、洋学教授と経済力の関係を見た。この調査の先行的調査として、藩校からの継承校の追跡調査を行った。この調査結果から判明したことは、藩校を継承したのは、高等教育機関よりも小学校の方が多いということであった。幕末期の藩校において、そのことを示唆する教育制度の変化が見られ、それが、藩校が初等教育機関へと移行した一因と考える。洋学教授は小藩においても多くみられることから、藩の経済的豊かさが洋学教授実施の最大の要因ではないと思われる。そして、藩校での洋学教授実績が継承校である小学校での英語教育に引き継がれているかに関しては、それ程の影響力がないことが判明した。
著者
中原 雅人
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.139-156, 2015-03-01

Although a number of researchers have interpreted what J. Lacan had said about vision, most of their interpretations seem to be insufficient to grasp the essence of the Gaze (regard). This paper explains Lacan's concept of the Gaze through four steps: First of all, accounting for the function of "Lure" using an ethological study of Nicolas Tinbergen. Second, relating some examples of the Gaze referring to Sartre and Merleau-Ponty in the aspect of self-awareness. Third, distinguishing the Picture (tableau) from Painting (peinture), the Gaze from the eye by relating to the mimicry which is advocated by Roger Caillois. Finally, this paper integrates the arguments above and explains the painting contest of Zeuxis and Parrhasios. Therefore it reveals the meaning of "a triumph of the Gaze over the eye" and the object a. We find a relationship between the Gaze and the Idea designated by Plato.
著者
寺沢 拓敬
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.207-225, 2008-03-01

This study attempts to elucidate shared and unshared points in the debate on the introduction of English education into public elementary school in Japan. The discussions raised in the debate are analyzed from various perspectives (e.g., (a) educational objectives and (b) problems; and (1) propositions, (2) recognitions of current situations, (3) grounds for introducing English at the elementary-level that the proponents adduce). Close scrutiny of the discussions about the educational objectives reveals that there are three major unshared points that are continuously discussed both within and between the camps of supporters and opponents : whether it is necessary for elementary students to develop their English skills ; whether an earlier start leads to a better effect on their English proficiency ; and how English teaching relates to fostering students'attitudes toward different cultures and communication. These contentious points reflect the diversity among the arguments of the supporters for the introduction. These findings open a new avenue for further discussion and research.
著者
鄭 秀鎮
出版者
東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
雑誌
言語情報科学 (ISSN:13478931)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.103-120, 2015-03-01

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』は作品の構成において整合性を欠いているという否定的評価が目立つ作品である。本稿では特に作品の主題における必然性を欠いていると指摘されている、ハワイへの旅行の部分にむしろ作品全体の主題と密接につながる文脈を見出そうとする試みである。主人公「僕」は、1980 年代日本社会において現実感覚が稀薄化されていくという問題意識を持っている。この問題意識は「僕」のハワイ行きによってもっと鮮明になる。ハワイという、観光を目的に計画的に作られたイメージで成り立っている空間に来た「僕」は、そこに住んでいる写真作家アメと詩人ディック・ノースの間の奇妙な関係から、技術的映像(写真)が文字文化(文章)を圧倒している、二つのコミュニケーション媒体の不均衡な力関係を二重写し的に読み取ることになる。そしてこれこそ「僕」が現実感覚の弱体化の原因を意識し、次なるステップを模索する契機になる。この点において「ハワイ」は作品全体の主題をむしろ鮮明にする文脈を有することになる。