著者
初宿 成彦 安井 通宏 市川 顕彦 桂 孝次郎 河合 正人 中谷 憲一 山崎 一夫 大阪市立自然史博物館「都市の自然」調査グループ甲虫班
出版者
大阪市立自然史博物館
雑誌
自然史研究 = SHIZENSHI-KENKYU, Occasional Papers from the Osaka Museum of Natural History (ISSN:00786683)
巻号頁・発行日
vol.4, no.3, pp.41-104, 2020-02-28

大阪市内の甲虫類 867 種を、市民による野外調査、標本検視、文献引用により記録した。そのう ちの 195 種がレッドリスト掲載に相当すると考えられた。これらには 1950 年代および 80 年代に消滅し たものが多い。現在、甲虫の種数は2つの大河川周辺で最も多く、ここに限定して存続しているもの、ま たかつて市街地周辺にも見られたものもある。また外来種のように新しく分布するようになったものもあ る。このような変遷の記録と概観は、稀少種のみならず、普通種を含めた多数の標本が保管されること により可能である。
著者
谷 憲一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.417-428, 2015-03-31 (Released:2017-04-03)

The aim of this paper is to shed light on a new approach to examining the Islamic revival in modern societies. This approach is often articulated by means of what I identify as the "critiques of secularism," insofar as it encompasses a wide range of criticism for secular societies. The Islamic revival has attracted the attention of many social scientists, since it contradicts the idea that modernization is accompanied by secularization. Some scholars make sense of the Islamic revival by studying the rise and growth of certain elements of modernity in Islamic societies. In the process, they tend to engage in the 'objectification of Islam' and thereupon establish some kind of relationship between the simultaneous historical processes of modernity and Islamic revival. Their approaches open a line of inquiry for comparative research, often pursued as a form of "multiple modernities." In contrast, the "critiques of secularism" approach reveals the problems of the "multiple modernities" theory, and inquires other aspects of Islamic revival through the West/Islam binary. Asad and his followers inquire into the problem of why we tend to see Islamic revival as a strange political development. Asad argued that in trying to define religion and its difference with other realms of religious societies, one is not only engaging in a theoretical question, but also simultaneously grappling with the political agenda of 'secularism,' eventually marking out a conceptual distinction between politics and religion. Secularism as an ideal concept often determines an anthropologist's work, so we must conspicuously describe how Islam is a mix of religion and otherwise related sociopolitical realms. In an interesting way, therefore, they problematize the asymmetry inherent in the binary of the West (as liberal secularism) and Islam, and by juxtaposing the West and Islam, criticize Western assumptions about liberalism and secularism. As a remedy to the incongruent binary, they use two distinct concepts for comparing Islam with the West symmetrically: Islamic discursive traditions and their practices of self-cultivation are contrasted with the beliefs and practices of secularism. Thus, their conceptual apparatus, which is inclusive of diverse beliefs and practices, urges us to rethink our assumptions about modern liberal secularism as well as about Islam. Mahmood and Hirschkind also admit that modern developments of Islamic revival in Cairo can be comprehended only by ethnographically describing specific aspects of pious Muslims' everyday activities. The critiques of secularism proffer a novel approach to exploring the phenomenon of modern Islamic revival movements. That is a major contribution to the disciplines of anthropology and Islamic studies, which we must appreciate appropriately to harness deep insights into modern societies. At the same time, one must not disregard how such ethnographies may be criticized by other intellectual perspectives. In other words, we must recognize what may become invisible in the wake of new insights, while committing coherently to various critiques of secularism and the attendant binary.
著者
谷 憲一
出版者
くにたち人類学会
雑誌
くにたち人類学研究 (ISSN:18809375)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.24-40, 2015

本論文は、相対化の複層性という観点から、アサドの世俗主義批判を捉えなおし、「コスモロジー」(世界観、信念、広義の宗教、近年では存在論として名指されてきた対象)研究におけるその意義を検討する。まず浜本による信念の生態学というアプローチとその問題点を指摘する。次に存在論的転回で言及される、ストラザーンとヴィヴェイロス・デ・カストロによる二項対立を通じた戦略で2種類の相対化が試みられていることを確認する。それを踏まえながら、アサドの議論を浜本による信念や儀礼に関する議論と比較することで、アサドの議論においては、人類学が依拠する世俗主義という前提に関する批判が含まれていることを指摘する。最後に、アサドの世俗主義批判の人類学的意義を考察し、「コスモロジー」研究の可能性を提示する。
著者
長谷 憲一郎
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.51-72, 2020-07-25 (Released:2020-08-25)

近代日本における染色業および紡績業の発展に尽力した稲畑勝太郎が、リュミエール兄弟と日本での独占契約を締結し、実施したシネマトグラフ事業とは、いったい何だったのだろうか。本稿は2017年に筆者が発掘した新資料稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通(1897年)によって新たに判明した五項目にフォーカスし分析した。事業の背景には映画装置の渡来直前の明治後期、古都京都において第四回内国勧業博覧会が開催され、博覧会やパノラマ館、幻燈興行といったスペクタクルが消費され、受容されていた環境があった。実業家の稲畑は、野村芳国と横田永之助のスクリーン・プラクティスに基づく視覚的実践の経験に着目し、映画興行および映画撮影を成功させるべく二人に協力を要請して彼らの経験を有効に活用した。リュミエール兄弟のサポートはもちろんのこと、彼らのような興行者の協力を得ることで、稲畑のシネマトグラフ事業は、映画が単なる映写機でも撮影機でもなく、現実世界を自動的に再創造し、イリュージョンを生み、時空間をも越えさせる装置であることを見事に示したのだ。本稿は、日本における映画前史と映画史を接続させたという点において、稲畑は日本映画史に極めて重要な役割を果たしたと結論づけた。
著者
若林 大志 稲木 杏吏 廣正 智 森 博史 渡辺 悟 山瀬 喬史 赤谷 憲一 萱野 大樹 絹谷 清剛
出版者
日本内分泌外科学会・日本甲状腺外科学会
雑誌
日本内分泌・甲状腺外科学会雑誌 (ISSN:21869545)
巻号頁・発行日
vol.35, no.4, pp.255-258, 2018 (Released:2019-02-15)
参考文献数
19

手術不可能あるいは遠隔転移や局所再発を繰り返す悪性褐色細胞腫の治療として,131I-metaiodobenzylguanidine (MIBG)による内照射療法が行われる。131I-MIBGの腫瘍集積は極めて選択的かつ特異的であり,欧米では30年近い治療経験が蓄積されている。一方で,国内では放射線管理にかかる諸問題があり利用は限られていた。近年,悪性褐色細胞腫・パラガングリオーマに対する低用量131I-MIBG治療の多施設共同研究が先進医療Bとして実施され,2017年度には131I-MIBG治療の薬事承認取得を目的とした企業治験が国内で開始されるなど,131I-MIBG治療が我が国でも広がりつつある。本稿では131I-MIBG治療の現況と展望を紹介し,内照射療法の普及がよりいっそう進むことを期待する。
著者
吉田 裕 糟谷 憲一 池 享 渡辺 治 加藤 哲郎 李 成市 中村 政則
出版者
一橋大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2002

1.平成14〜17年度の各年度に、分担研究者がそれぞれの分担研究を推進するために、韓国及び日本各地において史料調査・収集を行った。2.分担研究者が集う共同研究会を18回開催し、日本史、朝鮮史、日朝関係史に関する報告・討論を行った。また研究の進め方、総括のために分担研究者による会議を7回行った。3.共同研究の総括と、韓国の日本史・朝鮮史研究者(ソウル大学校等に所属している)との研究交流のために、2002年8月23日〜25日、2003年8月22日〜24日、2004年8月20日〜22日、2005年8月26日〜28日に、第5回〜第8回の日韓歴史共同研究プロジェクトシンポジウム(2002年・2004年は一橋大学において、2003年・2005年はソウル大学校において)開催した。日韓両国における歴史研究の現状と課題に関して相互に認識を深めるため、日本史、朝鮮史、日朝関係史上の重要な論点を逐次取り上げて、率直に議論を行っていくという方針により、毎回の準備と報告・討論が行われた。報告数は第5回〜第8回を通じて20本であり、韓国側は12本、日本側は8本である。4.シンポジウムを通じて、日韓両国の研究者のあいだで、「東アジア世界」という視座を設定して、日本社会と朝鮮社会を比較するという方法が有効であることを確認しあうことができた。今後も比較研究をさらに推進・深化させるために、平成18年度に向けて「日本・朝鮮間の相互認識に関する歴史的研究」という共同研究を準備することとなった。5.糟谷憲一が編集担当となり、第5回〜第8回シンポジウムの報告書を作成し印刷した。
著者
長谷 憲一郎
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.51-72, 2020

<p>近代日本における染色業および紡績業の発展に尽力した稲畑勝太郎が、リュミエール兄弟と日本での独占契約を締結し、実施したシネマトグラフ事業とは、いったい何だったのだろうか。本稿は2017年に筆者が発掘した新資料稲畑勝太郎のリュミエール兄弟宛て書簡4通(1897年)によって新たに判明した五項目にフォーカスし分析した。事業の背景には映画装置の渡来直前の明治後期、古都京都において第四回内国勧業博覧会が開催され、博覧会やパノラマ館、幻燈興行といったスペクタクルが消費され、受容されていた環境があった。実業家の稲畑は、野村芳国と横田永之助のスクリーン・プラクティスに基づく視覚的実践の経験に着目し、映画興行および映画撮影を成功させるべく二人に協力を要請して彼らの経験を有効に活用した。リュミエール兄弟のサポートはもちろんのこと、彼らのような興行者の協力を得ることで、稲畑のシネマトグラフ事業は、映画が単なる映写機でも撮影機でもなく、現実世界を自動的に再創造し、イリュージョンを生み、時空間をも越えさせる装置であることを見事に示したのだ。本稿は、日本における映画前史と映画史を接続させたという点において、稲畑は日本映画史に極めて重要な役割を果たしたと結論づけた。</p>
著者
萱野 大樹 稲木 杏吏 若林 大志 赤谷 憲一 山瀬 喬史 國田 優志 絹谷 清剛
出版者
日本内分泌外科学会・日本甲状腺外科学会
雑誌
日本内分泌・甲状腺外科学会雑誌 (ISSN:21869545)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.39-43, 2014 (Released:2015-05-01)
参考文献数
11

MIBG治療は手術不可能または悪性の褐色細胞腫に対して行われる放射線内照射療法であり,国内では数施設で治療が可能である。保険適応外治療であるため治療に要する費用は患者自己負担となる。放射性薬剤を用いた治療であるため,治療は放射線治療病室で行われ,治療後数日間は放射線治療病室で過ごさなければならない。放射線管理上の問題から,患者はADLがある程度自立していることが必須となる。重度の副作用は少なく比較的安全な治療であり,完治に至ることは稀ではあるが病状の軽減および増悪を抑える効果が充分に期待できる治療といえる。手術不可能または悪性の褐色細胞腫に遭遇した際には,早い段階でMIBG治療も治療選択肢の1つとして考慮していただければ幸いである。
著者
生間昇一郎 本宮 善〓 常深 邦彦 平田 直也 妻谷 憲一 森田 昇 植村 天受 金子 佳照 守屋 昭 吉田 克法 貴宝院 邦彦 平尾 佳彦 岡島 英五郎
出版者
社団法人日本泌尿器科学会
雑誌
日泌尿会誌 (ISSN:00215287)
巻号頁・発行日
vol.79, no.5, pp.903-909, 1988
被引用文献数
1

electroconductivity detectorを用いた高速液体クロマトグラフィー法による新しい尿中蓚酸測定法を開発し,この測定法はディスポタイプカラムを用いることによって前処置を簡便化し,さらに発色剤と反応させることなく直接蓚酸イオンをelectroconductivity detectorで検出できる.本法での測定範囲は1〜100mg/lで,再現性はtriplicate assayで,変動係数2.0±3.9%であり,健康成人10人の24時間尿中蓚酸排泄量の平均は25.6±4.7 mg/dayであった.
著者
谷 憲一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.094-096, 2019 (Released:2019-09-04)
参考文献数
4
著者
糟谷 憲一
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.100-126, 2011-06

The aim of this article is to elucidate the changes in the power structure in Joseon during the period from the Kabo Reform (July, 1894) to eve of the Russo-Japanese War (February, 1904). The author has previously examined the power structure of the Taeweongun 大院君 regime and the Min clan 閔氏 regime. The method of analysis involved a survey of those appointed to bureaucratic offices in the upper levels of the regime, clarifying to which of Four Sects (Sasek Tangp'a 四色黨派) and clans they belonged and calculating the ratios. As a result, the author made clear that within the Taeweongun regime, the ascendancy of Noron 老論, the largest faction, was unshaken, and that in the second half of the Min clan regime (December 1884 to July 1894) the ascendancy of the Noron faction became even stronger, and the power of the Yeohung Min 驪興閔 clan, which was a part of the Noron faction and was associated with the matrilineal side of the royal house, increased dramatically. In this article I survey appointees to the central government posts of Minister, Vice-Minister, and to the Department of the Imperial Household and analyze their affiliation with factions and clans. As this period was one of major political change, my analysis is based on distinguishing four periods: 1) that of the Kabo Reform, 2) that when the King resided in the Russian legation (February, 1896 to February, 1897), 3) that of the unfolding of the Independent Club's push for reform (February, 1897 to January, 1899), and 4) that of imperial despotism (January 1899 to February 1904). As a result, I have been able to clarify the following points. First, in regard to the Noron, the power of the Noron and influential clans, such as the Yeohung Min, declined within the upper levels of the government following the Kabo Reforms, but they maintained great influence in upper ranks of the Department of the Imperial Household. The power of the Noron in the upper levels of government was restored to the level of the latter half of the Min clan regime after the Independent Club began promoting reform. During that period, the Noron continued to occupy positions of power in the upper levels of the Department of the Imperial Household, and the power of the influential clans in the Noron faction was completely restored. Second, during the period of imperial despotism, the power of the Noron, from which ministerial appointments were made, increased, and the strength of the Noron in the upper levels of the Department of the Imperial Household grew to 50 percent. I believe this is an important factor in considering the foundation that supported imperial despotism.
著者
糟谷 憲一
出版者
東洋史研究会
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.100-126, 2011-06

The aim of this article is to elucidate the changes in the power structure in Joseon during the period from the Kabo Reform (July, 1894) to eve of the Russo-Japanese War (February, 1904). The author has previously examined the power structure of the Taeweongun 大院君 regime and the Min clan 閔氏 regime. The method of analysis involved a survey of those appointed to bureaucratic offices in the upper levels of the regime, clarifying to which of Four Sects (Sasek Tangp'a 四色黨派) and clans they belonged and calculating the ratios. As a result, the author made clear that within the Taeweongun regime, the ascendancy of Noron 老論, the largest faction, was unshaken, and that in the second half of the Min clan regime (December 1884 to July 1894) the ascendancy of the Noron faction became even stronger, and the power of the Yeohung Min 驪興閔 clan, which was a part of the Noron faction and was associated with the matrilineal side of the royal house, increased dramatically. In this article I survey appointees to the central government posts of Minister, Vice-Minister, and to the Department of the Imperial Household and analyze their affiliation with factions and clans. As this period was one of major political change, my analysis is based on distinguishing four periods: 1) that of the Kabo Reform, 2) that when the King resided in the Russian legation (February, 1896 to February, 1897), 3) that of the unfolding of the Independent Club's push for reform (February, 1897 to January, 1899), and 4) that of imperial despotism (January 1899 to February 1904). As a result, I have been able to clarify the following points. First, in regard to the Noron, the power of the Noron and influential clans, such as the Yeohung Min, declined within the upper levels of the government following the Kabo Reforms, but they maintained great influence in upper ranks of the Department of the Imperial Household. The power of the Noron in the upper levels of government was restored to the level of the latter half of the Min clan regime after the Independent Club began promoting reform. During that period, the Noron continued to occupy positions of power in the upper levels of the Department of the Imperial Household, and the power of the influential clans in the Noron faction was completely restored. Second, during the period of imperial despotism, the power of the Noron, from which ministerial appointments were made, increased, and the strength of the Noron in the upper levels of the Department of the Imperial Household grew to 50 percent. I believe this is an important factor in considering the foundation that supported imperial despotism.
著者
有吉 範高 布谷 憲一 高橋 由紀 宮本 昌美 醍醐 聡 梅津 有理 横井 毅 木村 寛三 Philippe BEAUNE 鎌滝 哲也
出版者
The Japanese Society for the Study of Xenobiotics
雑誌
薬物動態 (ISSN:09161139)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.57-61, 2000 (Released:2007-03-29)
参考文献数
28

CYP2A6 has been characterized as a coumarin 7-hydroxylase in humans. A large interindividual difference in the activity of coumarin 7-hydroxylation suggested an existence of genetic polymorphism of this enzyme. In fact, CYP2A6*2 variant allele which has T→A substitution, leading to amino acid change from Leu160 to His160, has been found in Caucasian population as the most frequent mutation in poor metabolizers (PM) of coumarin. Although several drugs used clinically or under development such as fadrozole, losigamone and methoxyflurane are recognized at present to be good substrates of CYP2A6, no specific substrate of this CYP isoform has been known until we found a drug, SM-12502. In the phase I trial, 3 out of 28 Japanese subjects were classified as PM of the drug. In vitro studies demonstrated that CYP2A6 played a major role on the metabolism of the drug. Genomic analysis revealed that the PM phenotype was caused by the presence of a novel CYP2A6 gene variant which lacks the entire region of open reading frame encoding the enzyme in the PM. Thus, we designated the variant as “deletion-type” allele. We examined the frequency of individuals carrying homozygous deletion by a genotyping method established in our laboratory. Thus, the frequency was estimated to be 3-4% in Japanese. We found another CYP2A6 gene variant whose 60 bp in the 3'-untranslated region was substituted by the corresponding region of the CYP2A7 pseudogene. This variant was designated as “conversion-type” allele. We found that the allele frequency of the conversiontype was comparable to that of wild-type, CYP2A6*1 allele in Japanese. We also compared the frequency of the CYP2A6*2 allele as well as the deletion and the conversion alleles between Japanese and Caucasian. Consequently, a marked interracial difference in the frequency of the genetic variants of the CYP2A6 gene was observed. These results give an interesting insight into racial difference in response to drugs and evolution of the CYP2A gene subfamily in humans.
著者
糟谷 憲一
出版者
東京学芸大学史学会
雑誌
史海 (ISSN:02886731)
巻号頁・発行日
no.64, pp.58-69, 2017-05