著者
大島 浩英 Hirohide OSHIMA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-16, 2018-07-31

1494年にアルザスの人文主義者・詩人のゼバスティアン・ブラントによって風刺詩集 Das Narrenschiff(『阿呆船』)がバーゼルで発行された。ドイツ語の時代区分では1350年〜1650年頃の初期新高(地)ドイツ語に分類される言語で書かれた韻文の詩(クニッテル詩句)である。言語的にはまだ不統一な言語状況の中で書かれ、ブラントによってある程度は標準化されたこの詩集のうち、前回の考察に続いて「傲慢」を扱った詩[92]„Vberhebung der hochfart" の39〜80行目(全124行)までを取り上げ、語学的な分析を行った。キリスト教(カトリック)的倫理観に基づいた風刺詩集のため、道徳的罪への戒めが基本的テーマとなっている。今回の考察でも中世高地ドイツ語から新高ドイツ語へ向かう途中の中間段階の状況が音韻、語彙、統語の側面でそれぞれ確認できたが、今回読んだ詩行では、不安定ながらも副文内で定動詞の後置が行われ、それによって枠構造が形成されている例が比較的多く認められた。韻律が優先される韻文詩ではあるが、韻律の条件を整えつつも文法規範をある程度意識しようとする傾向が見られる。
著者
張 起權 Kigwon CHANG
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.55-70, 2012-03-31

朝鮮王朝後期の朝鮮半島では、増大していく社会的混乱の中で、封建社会の基盤を成していた厳格な身分制度にも次第に変化が生じる。文化・芸術的な分野においても実学思想の動きがあらわれるが、特に文学においては、既存の理想主義的な風流文学の流れに反し、実生活を表現し、また批判する風刺文学が出現する。当代の風刺文学の中でも、仮面劇「タルチュム」にみられる風刺は最も痛烈で、批判精神に満ち溢れている。タルチュムは民衆によって生まれた芸術であり、その中には当時の民衆の主な関心事がそのまま描かれている。とりわけ階層間の対立問題と藤構造が浮き彫りにされ、支配層への批判がタルチュムという喜劇を通して表出されている。タルチュムの中には、「狂言」の太郎冠者のような、喜劇中の下男像の典型である「マルトゥギ」が登場する。お調子者で反骨的なマルトゥギによって、主である「両班(ヤンバン)」は弱点を突かれては嘲弄され、風刺の槍玉にあげられる。諧謔に富んだ風刺により、両班の掲げる地位や学識、道徳の矛盾に対して疑問を投げかけ、愉快な笑いを飛ばす。朝鮮王朝の厳格な封建社会において、社会風刺に富んでいるタルチュムの内容は、抑圧されていた庶民の鬱憤を発散し民衆意識を高揚させることに、非常に重要な役割を果たしていたのである。
著者
盛田 帝子 Teiko MORITA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.61-117, 2018-07-31

本稿は「光格天皇主催御会和歌年表―天明期編」(『大手前大学論集』第17号)の続編として、寛政期に光格天皇が主催した内裏の御会および光格天皇の詠草を年表形式で提示したものである。底本には、光格天皇歌壇の一員、もしくはその周辺人物でなくては知りえない情報が注記されている国立国会図書館所蔵『内裏和歌御会』(請求記号:124-202)を用いた。寛政期は、光格天皇の歌人としての面に光をあてれば、後桜町院上皇から御所伝受を相伝され、歌道宗匠として門人への添削を開始、門人に御所伝受の相伝を始めた時期であり、天明の大火のため仮御所としていた聖護院宮から新造御所への遷幸、幕府との関係では父の閑院宮典仁親王に太上天皇号をおくろうとした尊号一件、父典仁親王の薨去、後桃園天皇の第一皇女で唯一の御子であった欣子内親王との婚儀、儲君となった皇子温仁親王の誕生と薨去など様々な出来事が目まぐるしく起こった時期でもある。『光格天皇実録』(ゆまに書房、2006年)等から出典を示して事項を引用し、それらの事柄と御会の運営状況との関係性、寛政期の光格天皇の動向を立体的に提示することを試みた。
著者
丹羽 博之 Hiroyuki NIWA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-10, 2016

鳥居枕作詞・瀧廉太郎作曲の「箱根八里」は、明治三十四(一九〇一) 年三月刊の『中学唱歌』に於いて発表された。一箱根の山は天下の険 谷関も物ならず万丈の山千初の谷 前に聾え後に支う雲は山を廻り 霧は谷を閉ざす昼猶暗き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか一夫関に当るや 万夫も開くなし天下に旅する剛毅の武士大刀腰に足駄がけ 八里の岩根踏み鳴らす斯くこそありしか 往時の武士二箱根の山は天下の阻 蜀の桟道数ならず万丈の山千初の谷 前に聾え後に支う雲は山を廻り 霧は谷を閉ざす昼猶暗き杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか一夫関に当るや 万夫も開くなし山野に狩りする 剛毅の壮士猟銃肩に草鮭がけ 八里の岩根踏み破る斯くこそありけれ 近時の壮士「箱根八里」の歌詞は、「函谷関も物ならず」「万丈の山」「千初の谷」= 夫関に当るや万夫も開くなし」「蜀の桟道数ならず」等、いかにも明治うまれらしく漢詩漢文の影響を受けている。ふとしたことから、『新修漢文新制版巻二』(昭和十二年七月印刷昭和十六年八月修正印刷)を読んでいると、草場侃川(一七八八〜一八六七) の「山行示同志」詩に目が留まった。以下にその詩を挙げる。路入羊腸滑石苔 路羊腸に入りて 石苔滑らかに風従鮭底掃雲廻 風鮭底に従ひ 雲を掃ひて廻る登山恰似書生業 山に登るは 恰かも書生の業に似たり一歩歩高光景開 一歩歩高くして 光景開く一読、起句は「箱根入里」とそっくりである。これは偶然の一致とは考えにくい。鳥居枕が箱根の険を表現するときに、草場の詩を利用したことはあきらかであろう。承句の「掃雲廻」「鮭底」は「箱根八里」の「雲は山を廻り」「猟銃肩に草鮭がけ」に似通う。当時は先行作品を上手に利用するのが常套手段。寧ろ、いかに先行作品を利用するかが作者の腕の見せ所であった。また、「箱根入里」の出だしの「箱根の山は天下の険」は白楽天の「夜入崔唐峡」の冒頭「嬰唐天下険」を参考にしたものと考えられる。嬰唐峡の上流には、蜀の桟道がある。草場の詩は、山行に託して、学問は上達するに従い物の見方が広くなることを同志に説いたものであり、教訓的・勧学の詩であり、旧制中学生が学ぶにはまことにふさわしい教材と言えよう。「箱根八里」も『中学唱歌』に発表されたということは、旧制中学の唱歌の時間に歌われていたのであろう。明治期の極めて優秀な旧制中学生は、この唱歌を歌いながら草場の詩を想起していたであろう。唱歌を歌いながら、草場の詩を頭に思い描き、学問の深さに憧れ、上級の学校に進み学問の奥深さを早く体験したいと思っていたのではないか。
著者
石毛 弓 Yumi ISHIGE
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-14, 2015

さまざまな哲学者たちが人格の同一性に関する論を展開しているが、なかでもデレク・パーフィットは彼独特の一種ラディカルな見解を示している。それを端的に示せば、「人格の同一性は、私たちの生存にとってもっとも重要なものではない」になるだろう。この見解は彼自身が認めている通り、一般的な経験からすると受け入れることが難しいものである。本論は彼がこの見解に至った過程を考察するとともに、その妥当性を功利主義の観点から検討する。まずパーフィットにおける人格の同一性の概念を、彼の論に沿って「非還元主義」と「還元主義」に分けて解説する。非還元主義とは、人格はなにかによって説明され得るものではなく、それそのものとしか表しようがないとする考えを指す。他方、還元主義では、人格の同一性はなんらかの経験的なものによって説明され得るとみなされ、彼自身の考えは大きくくくればこちらに与する。人格の概念に対してパーフィット流の還元主義を選択した場合とそうでない場合では、私たちの思考や態度は変化するだろう。後半ではこの変化をとくに功利主義の観点から追い、人格に対する彼の主張を検証する。
著者
山口 正晃 Masateru YAMAGUCHI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.11-45, 2016

三国魏において制度化された都督制は、若干の変化を見せながらも、次の西晋王朝まで大枠としては変更なく受け継がれた。その制度上の特徴について明らかにすることが、本稿の主題である。具体的には、(1)魏晋期都督制の制度内容について最もまとまった記述のある『晋書』職官志の分析、(2)都督制に付随する「節」という権力標識から見た都督制の成立経緯、(3)都督制の実際の運用状況、(4)軍隊組織における都督の位置づけという四つの視点から、検討を加える。その結果、都督制が将軍の地位下落を契機として出現した制度でありながら、実際にはその制度上の基盤は却って将軍に存すること、すなわち都督とは独立した官職ではなく、将軍が持つ「肩書き」であることが判明した。この結論は、二つの点において先行研究に対する独自の意義を有する。一つは、漢末三国に将軍号が虚号化して軍事長官の座から転落したという従来の理解に釘を刺し、西晋期まで「一軍」の長官としての地位はなお保っていたことを指摘した点。いま一つは、一部の研究者に見られる都督の主体を刺史・太守と見なす誤解を正し、現実に刺史・太守が都督を兼任する場合はあるものの、それは将軍号を持つ刺史・太守であって、制度的に都督が付与されるのはあくまでも将軍に対してであることを論証した点、である。
著者
松原 秀江
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.(47)-(74), 2008

『たけくらべ』の中の「子どもたちの時間」は、吉原界隈の当時の大人(親)たちの価値観や暮しの中にあること、また一葉の分身と思われる信如と美登利には、一葉の家族や文学に対する様々な思いのこめられていることを、古典とのかかわりの中で述べた。
著者
松原 秀江 Hidee MATSUBARA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.65-92, 2016

数え年十歳で、近世の名家・葛野流大鼓師の娘だった母・すゞを失った鏡花にとって、すゞの長兄・孫惣の未亡人・ちよとその娘たち、特にすゞ同様江戸生まれのふみが、代々伝えて今はない鼓の精として、紅葉を師と仰ぐ鏡花の作家としての成長に深くかかわることを、清次とすゞの出会いのきっかけも含め、能とのかかわりの中で述べた。
著者
田中 キャサリン Kathryn TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.89-124, 2016-03-31

幸田露伴『對髑髏』(1890年)は、ドイツ語や英語でも翻訳出版されているにもかかわらず、欧米でも日本でも露伴の他の作品に比べると研究はわずかである。まず、本作は、単純なプロットでありながら、古語による文体が用いられ、古典作品からの引用も多く、仏教思想や中国哲学の参照を要請する緻密な言語で構成されている。本作は浪漫主義・神秘主義の作品として分析されてきたが、作中のハンセン病(癩病)描写は、現代社会の寓意として理解することができる。その他の作品においても、文学作品でのハンセン病描写は、病気や帝国主義における不安と解釈することでより広範な意味を持つ言説と見なすことができる。続いて、ロッド・エドモンドの画期的な研究は、ハンセン病と帝国主義の関係を論じ、1890年代~1930年頃のイギリス文学におけるハンセン病表象には、植民地が帝国にもたらす脅威への不安が反映されることがあると実証してきた。エドモンドの研究をふまえ、本論は西洋と日本における幽霊譚を描く怪奇小説を比較し、それらの共通点および相違点、そしてその寓意に注目し、作品におけるハンセン病患者表象の重要性を論じる。西洋の作品としてコナン・ドイルやキップリングらの作品分析を行い、それらと『對髑髏』の比較を通じ、本論は露伴の『對髑髏』が現代の怪奇小説の原型であると捉え、露伴の革新性の考察を通じて、文学作品における病の役割や帝国観の一端を明らかにする。
著者
大沼 穣
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.A33-A55, 2007

公益事業の民間開放を進めてきたEU・欧州委員会は、なぜ水道セクターに限って自由化指令を断念せざるをえなかったのであろうか。確かに途上国インフラブームの終焉によって、水道企業は先進国市場を求めていた。しかし西欧では水道公営の伝統を持つ国々も多く自由化への抵抗も強い。またさまざまな民間的経営手法も普及し始めており、さらには水道企業自体が水道部門の比重を低下させ多角化を進めているなどの理由により、EU水道セクターに強制的に競争を導入するかしないか、という選択肢が水道企業にとって重要性を失っていったと考えられる。しかし対外的にEUが市場開放を求め続けていることには注意を要する。
著者
大高 順雄 Yorio OTAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.207-237, 2014

15世に成立したフランス語の物語『パリとヴィエンヌ』は広く流布され、ヨーロッパの主要諸言語に翻訳され、16世紀にアラゴン語の写本を翻字したアルハミーヤ文が成立した。これはフランス語の原文の半分にも満たず、作者は不明である。ここではそのアルハミーヤ文の言語的特徴を明らかにする。
著者
古田 榮作
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.(25-76), 2012

前稿を受けて、『ダンマパダ』を"Legends of Buddhist"に拠りながら考察した。本稿では、中村元氏の著作から東洋の文化とその思惟方法を概観し、日本における読誦経典が依然として漢訳経典に拠っていることの呪術性を看過することができず、明治以降の西洋社会との交流で生まれた、インドでの経典に依拠すべきである。 『スッタニパータ』([P]Suttanipata『ブッダのことば』)『ウダーナヴァルガ』([P][S]Udanavarga『感興のことば』)は、『ダンマパダ』とともに小部に含まれる最古層の仏説に含まれるが、漢訳はなされず、『ダンマパダ』とは異なっている。 本稿では、『ダンマパダ』の「地獄の章」に関連の深いデーヴァダッタ、アジャータシャトルに関連のある若干の偈頌を取り上げ、アジャータシャトルとの関連で、『觀無量壽經』『阿彌陀經』に言及し、またアジャータシャトルの心的苦悩を現わす「阿闍世コンプレックス」にも言及した。結語として南伝経典の長部経典の「シンガーラへの教え」の家庭教育、夫婦の誓約に、自立と、家庭の存続を位置づけた。
著者
田中 キャサリン Kathryn TANAKA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.119-147, 2014

本論文では、1909年に設立された香川県高松市のハンセン病療養所、大島療養所(現大島青松園)におけるロイス・ジョンソン・エリクソン夫人の翻訳作品を検討する。エリクソン夫人は1905年、アメリカ南部の長老派教会所属の宣教師として来日し、36年間、夫のスワン・マグナス・エリクソンとともに布教活動に従事した。エリクソン夫人はこの布教活動に、大島療養所で生まれた「霊交会」というキリスト教団体の会員の作品を英語に翻訳し、活用した。しかし、エリクソン夫人は、この「翻訳」を単にtranslationとは呼ばず、interpretationと述べている。この語の意味は、「翻訳」というよりもむしろ「解釈」や「意訳」に近い。そのようなエリクソン夫人の翻訳のあり方の特徴に着目して、本論文では、「霊交会」における文学の実態とエリクソン夫人による「意訳」との関係性について論じる。また、エリクソン夫人の翻訳が、療養所の患者の一人、長田穂波の文学を世に知らしめるきっかけとなったことも併せて明らかにしたい。This article examines the activities of Lois Johnson Erickson at a Hansen's Disease hospital, Oshima Hospital (today Oshima Seisho-en) in Takamatsu, Kagawa Prefecture. She and her husband, Reverend Swann Magnus Erickson, a Southern Presbyterian minister, came to Japan as missionaries in 1905 and served there for 36 years. Erickson used literature in her missionary work, and as part of this she translated the writings of a Christian group in Oshima, Reiko-kai, and used them to publicize missionary activities and the Christian faith. As she herself states, rather than translations, her writings are interpretations of the original Japanese. This article examines Erickson's process of translation and argues that Erickson's translations were of use to the missionary community for fundraising and to demonstrate the success of the mission in Japan was precisely because they made the dense original more accessible to readers. Not only did Erickson's translations domesticate Honami's psalmic style, but the fact of her English translations served to garner Honami more recognition within Japan as well.
著者
OZAKI Koji
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.061-088, 2017-03-31

This paper investigates Sensai Nagayo’s ideas on hygiene through xamining his 1877 treatise Eisei Iken (An opinion on public health). Nagayo was a Japanese physician and bureaucrat who served for 18 years (1875-1892) as the director of the Central Sanitary Bureau of the Home Department. Scholars have long referred to his ideas and activities in the context of the establishment of the public health system in nineteenth-century Japan, yet they seem to have failed to correctly understand the characteristics of his achievements. Specifically, due to an emphasis on ‘hygienic modernity’ among scholars like Ruth Rogaski, they often discuss this aspect of westernisation alone in Nagayo’s ideas. This paper takes a different approach and demonstrates that Nagayo worked on improving pharmaceutical affairs in the early days of his directorship, mainly by relying on traditional wholesale pharmacists or through the traditional distribution system of medical chemicals, in particular wholesalers in Osaka Doshô-machi. These conclusions elucidate that the Japanese medical or hygienic system was not only an echo of those of European countries but also included traditions derived from the Japanese premodern medical system.
著者
古田 榮作
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.33-50, 2007

五十余人の善知識を訪問し、信仰を深めた善財童子は、愈々彌勒菩薩の所にやってくる。善財は彌勒に「どのように菩薩は菩薩行を学び菩薩道を修められるのでしょうか。お教えください」と懇願すると、彌勒は大樓観にいた大衆の前で「この童子は、不退轉の心で厭きることなく勝れた法を習得しようとして、善知識を求め。親近し供養し法を聞き受持しようとしてきた。この童子は、かって頻陀伽羅城で文殊師利の教えを受けて、善知識を求め、多数の善知識に菩薩行を問い、心に疲倦無く、とうとう私のところにやってきた。この童子のように大乗を学ぶものは甚だ稀有である。」と善財を讃えた上で、「このように学ぶ者は、則ち能く菩薩所行を究寛する。大願を成満し、佛菩提に近づき、一切刹を浄め、衆生を教化し、深く法界に入り、一切の諸波羅蜜を具足し、菩薩行を広め、一切の諸善知識に値遇し、生涯に能く普賢菩薩諸行を具えるであろう。……」と善財の成道の近いことを宣言し、文殊師利に諸の法門と、智慧の境界と、普賢の所行を問うよう勧めるが、善財の更なる菩薩の行を学び、菩薩の道を修する方法の問いにあなたは文殊師利をはじめとする善知識に遇うこともでき、それなりの器の持主でもある。善知識の教える所は諸佛を護念することである。悟りを求める気持である、菩提心は諸佛の種子であり、良田であり、大地であり、浮水であり、……と諭し、善財の成道への大願が不退転のものであるとして、大樓観の中に導き入れられる。樓観の中で自分自身の姿を見るとともに佛の描かれた世界が現出していた。その中で深い三昧に耽っていると彌勒は指を弾き、善財を三昧から覚醒させてお主は菩薩の神力をすべて目の当たりにしたと告げられ、彌勒の示した法門は「入三世智正念思惟荘嚴藏法門」であると示され、菩薩の十種の生庭を示され、その上あなたが先ほど目にしたすばらしい光景は文殊師利の威神力によるものであるとも告げられ、普門城に詣でると文殊師利は手を差し伸べて「でかしたぞ善財、若し信心の根を離れれば憂悔に埋没してしまうであろうし、功徳が具わらねば精勤しようとする心も失せてしまうであろうし、多少の功徳に満足しようものならそれで進歩は止まってしまったであろうに……」と善財の精進を讃え、更にすべての法門、大智光明、菩薩陀羅尼、無量三昧、無量智慧をお主は成就してので、普賢の所行の道場へ入らせるようにした。普賢菩薩は、一つ一つの毛孔より光を放ち、世界を照らし、衆生の苦患を除滅して菩薩の善根を出し、……とさながら盧舎那如来の光の世界を現ぜられる光景に接した。この光景を目の当たりにして善財は不可壊智慧法門をわがものにした。普賢菩薩は、「私は測り知れないほどの長期間に亘って菩薩の道を修め、菩提を求め続けてきた。その功徳で不壊の清浮なる色身を得たので、私の名を聞き、私の姿を見たものは必ず清潭の世界に往き、清浮なる身になるであろう」と諭し、普賢の現じた光の世界に觸れた善財の成道も実現したのである。「譬如工幻師能現種種事佛爲化衆生示現種種身」とされるのであり、「聞此法歓喜信心無疑者達成無上道與諸如来等」と結語する。善財の求道は師・善友(善知識)をを訪ねて教えを請い、その教えを通じて信を深めていくものであったが、ゴータマ・ブッダの場合は、修行法・瞑想法を学ぶための師は求めたが、師と仰ぐ師は見当たらない。瞑想し、思惟することを通じて人生の悩みの解決をはかり、苦行による悟りから離れ、悟りへの障りとなる欲望、嫌悪、飢渇、妄執、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、みせかけ・強情・名声と他人の蔑視という悪魔を斥けてきたのである。善財の修行の姿には慨怠も見られず、苦悩も見当たらない。経典の中で理想化された修行者の姿と生身の人物?との差異が表れているように思われる。佛教では勤習・数習・薫習という語を重要視する。それは「諸悪莫作諸善奉行自淨其意是諸佛教」を求める。なにげない行動の中に自ら善に趣き悪を避ける、身に染み付いた智慧の習得を求めているものであろう。
著者
村瀬 智
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.253-275, 2008

本研究は、インド・ベンガル地方の「バウル」とよばれる宗教的芸能集団の民族誌である。詩人タゴール(Rabindranath Tagore 1861-1941)が、20世紀初頭にバウルの歌の豊潤さを紹介して以来、それまで「奇妙な集団の風変わりな歌」とみなされていたバウルの歌が再評価されるようになった。タゴールの影響により、その後ベンガル人学者によって膨大な数のバウルの歌が採集され、なかには注釈つきの立派な歌集として出版された。また、バウルの歌を分析し、バウルの宗教を考察した専門書もいくつか出版された。もちろんこれらの研究は、バウルについてのわれわれの理解におおいに貢献したのであるが、そこには「人間としてのバウル」を専門的に紹介しようとした民族誌的文献は、事実上、皆無である。本研究は、バウルの民族誌的記述と分析を通じて、カースト制度と表裏の関係にある世捨ての制度を考察し、インド文明の構造的理解を試みようとするものである。
著者
松原 秀江
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.(51-80), 2013

辰雄の文学を考える上で、『風立ちぬ』以後、綾子との出会いを通して、特に『フランダースの犬』の果した役割の大きいことを、苛酷な人生を生きぬいた辰雄にとっての志気や多恵、広子の存在と共に述べた。
著者
松原 秀江
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.(77-91), 2012

『フランダースの犬』は、日本の子供たちにとって、「永遠の名作」とも云える作品である。明治四十一年日本語版が出て以来、平成十六年まで百点以上も刊行された。この作品と、『ルウベンスの偽画』・『聖家族』、及び堀辰雄その人とのかかわりについて、愛と友情・偉大な芸術(家)への憧れを中心に述べる。