著者
〓〓 牧林
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.51-74, 2007

白居易の「日高眠」を表現した詩に注目し、この「日高眠」の詩語は彼が官僚になってから詠まれ始め、官僚世界での昇降に従って、「日高眠」の意味も変り、人生観の変化がよく伺われる。初任官である校書郎の時は閑職で「日高眠」が自然に形成された。しかし、「兼済」の志のため、県尉になってからは「日高眠」する心情が変化した。左拾遺の時、諌言が皇帝に受け入れられず、精神的に疲労して、出勤するより「日高眠」することを望んだ。下邦で三年間は官職から離れ、無駄な「日高眠」をし、無為に過す自分を悲しんだ。この考えを江州まで持ち続けた。香鐘峰の下に草堂を作り、心安らかに「日高眠」し、自己を中心とする閑適思想の人生観が生まれた。この考えは後半生を通して変わることがなかった。晩年の白居易は自由な身分、「日高眠」する安定した精神を求めて、政争から身を避け、「中隠」という人生観を持ちながら官職に勤め、七十一歳で致仕した。その後は出勤するため早起きする必要もなくなり、「日高眠」の詩語も詠まれなくなった。
著者
塩田 昌弘
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.101-125, 2012

明治・大正・昭和を通して、実業界で活躍し、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝映画、宝塚歌劇、阪急ブレーブス、コマ・スタジアム、逸翁美術館、マグノリアホール、池田文庫、小林一三記念館等の創設の基礎にその才能・才覚を発揮した不世出の実業家・小林一三(1873〜1957)について紹介する。 特にこの小論では、小林一三の成した事業のうち、文化・美術方向を中心に逸翁美術館に焦点をあて論考しようと思う。本来、事業はそれを成した人の人格の反映と考えられる。後年、今大閤と言われた小林一三であるが、幼年期は、愛情の薄い家庭に育った。だが、その小林一三がどの様にして、その才能を開花させていったのか。小林一三の志とは何か、逸翁美術館成立の礎となったコレクションを貫流する美とはどの様なものか、これらについて考察する。
著者
佐々木 英洋
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前短期大学研究集録 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.29-41, 2007
被引用文献数
1

近年の「ゆとり教育」の方針により小・中学校、高校における各科目の指導実施要綱の内容が以前より少なくなっているなどの影響から、大学・短期大学に入学後、それ以前の基礎学力の欠如により、授業の理解が追いつかない、授業についていけないという学生が多く授業運営に支障をきたす等の問題が全国の大学・短期大学で多く見られている。本学(大手前短期大学)でもそういった事情は例外ではなく、特に基礎学力の低下が就職活動等にも影響を及ぼしており、基本的な知識を問う筆記試験等を学生がクリアできず就職率に影響が出るなど、教育、就職の両面から基礎学力を補完するための対策をとる必要に迫られていた。そこで本学では平成19年度入学生対象に、小・中学の範囲の計算問題を理解させ、解くことができるようにさせるために数学(計算問題)の入学前・リメディアル(補完)教育を実施した。平成19年春学期(4月〜7月)に行ったその実施内容と補習授業への出席率等の結果について報告する。
著者
川田 真弘 Masahiro KAWADA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.261-274, 2017-03-31

福島県会津若松市東部にある飯盛山は、白虎隊自刃の地として知られ、山の中腹には亡くなった白虎隊士を偲んだ墓があり、その墓の対面にはイタリアから送られたという記念碑がある。この記念碑が寄贈された当時(1928年)の新聞に、下位春吉(1883~1954)という人物が、売名目的で記念碑建立計画を会津出身者に持ちかけた、という内容の記事が掲載されている。本稿では、下位春吉とはどのような人物であり、白虎隊記念碑がどのような経緯で建立されることになったのかを検討する。本稿では、まず下位春吉がどのような人物であるのかを示し、また下位名義で出版された本を基に、彼がファシズムをどのように見ていたのかを考える。次いで、外務省外交資料館所蔵の『本邦記念物関係雑件/白虎隊記念碑関係 第一巻』を基にどのような経緯で白虎隊記念碑が建立されたのかを概観。そして最後に、下位がでたらめの白虎隊碑建立計画をもちかけた理由として、下位自身とムッソリーニとの近しさをアピールすることで、日本国内における下位のファシストとしての地位を明らかにすることを目的としていたと考察する。
著者
青海 邦子 Kuniko SEIKAI
出版者
大手前短期大学
雑誌
大手前短期大学研究集録 = Otemae Junior College Research Bulletin (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.34, pp.15-39, 2015-03-31

仏教において、今も昔も仏像や経論が尊崇されこれらが重視されるのは当然と理解されるが、仏教伝来当初に仏像や経論の外に「仏具」として「幡」と「蓋」(天蓋)がともにもたらされたことはよく知られている。仏教での「幡と蓋」がいかなる役目を果たし、どういう意義をもっていたものであるかについて、日本の幡の歴史を考察しながら、今回、神下山・高貴寺(葛城山西麓大阪府河南町平石)における、経年の間、仏殿の周りに懸けられていた幡や幡の断片について調査、研究を行ったので報告する。
著者
柏木 隆雄
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-19, 2011

映画と小説と演劇の関係の考察からだけでも、黒澤明と文学という議論は示唆的である。映画は小説や演劇という旧来の二つの芸術に対してどのような特徴をもつだろうか。映画のリアリティは、演劇のそれよりはるかに劣るように思われ、観客にイメージを自由に膨らませることも小説のようには行かない。映画の特徴は、逆説的ながら、イメージを固定させることによって、観客のリアリティへの信頼を克ち得、映画が展開するイメージの連続に酔い、ストーリーに誘うことにある。しかし映画芸術は先行する二つのジャンルの深い影響、少なくともそれらの存在を意識しないでは成立し得なかった。黒澤映画をバルザックという小説家の方法と較べると、そのストーリー性や老人と青年の対立、融和、青年の自立といったテーマにおいて、極めて似るところが多い。さらにバルザックが創出した「人物再登場法」のシステムは、映画において、ある特定の主役、脇役を固定的に何度も使うことによって、『人間喜劇』のシステムが読者に醸し出す効果と、ほとんど同じような結果を得ていることにも気がつく。黒澤の映画がにわかに生彩を無くすのは、常連の俳優たちが姿を消したことによることも大きい。バルザックを読む目で黒澤映画を分析する試みが本論である。
著者
鈴木 基伸 Motonobu SUZUKI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.017-039, 2018-07-31

本稿では、日本語の難易形式「〜やすい」「〜にくい」が、目的格名詞句を、ガ格をとる場合と、ヲ格をとる場合とで、どのような意味の違いが生じるのかについて考察を行う。コーパスから、同じ動詞句でありながら、ガ格とヲ格が使用されている例を抽出し、それらの意味について比較・検討を行ったところ次のようなことがわかった。まず、「〜やすい」においては、ヲ格を使用した場合、ガ格が使用された場合に比べ、「意志の希薄化」が見られる。「〜にくい」においては、ガ格が使用された場合、ヲ格が使用された場合と比べ、動詞によって表される行為の遂行に対して焦点が当てられるようになり、意志性がより強く読み取れるようになる。この結論の他、「〜やすい」「〜にくい」においてヲ格からガ格へ、ガ格からヲ格への交替をブロックする要因についても明らかにした。前者については動作の「非意志性」が、後者については「評価性」「主題化可能性」がそれぞれの格交替をブロックする要因である。
著者
鈴木 基伸 Motonobu SUZUKI
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.95-118, 2014

動作遂行・実現の困難さを表す「にくい」と「づらい」は、機能的に重複している部分が多く、両者の使い分けがどのようにされているのかが明らかであるとは言い難い。そこで本研究では、「にくい」と「づらい」のどちらを入れても成立するような例文を作成し、それらを用いて「にくい」「づらい」の使用に関するアンケート調査を大手前大学の学生に対して行った。アンケート結果の分析を通し、①外的要因によって動作実現の不可能性が高い場合「にくい」が選択されやすい、②不可能性が低くなるに従い「にくい」が選択される割合が減る、③内的要因(「身体的痛み」「心理的抵抗感(±恥ずかしさ)」)によって困難となっている場合「づらい」が選択されやすい、④「づらい」選択の割合は「にくい」ほど顕著ではない、⑤心理的抵抗感の程度の大きさに応じて「づらい」がより選択されやすくなる、⑥相手に対する「申し訳なさ」が困難の要因となっている場合「づらい」が選択されやすい、⑦「身体的痛み」の場合外的要因による「けが」であるほうが「づらい」がより選択されやすくなる、ということが明らかになった。
著者
山下 真知子
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.93-109, 2007

本研究は、高齢者のケア環境として、加齢による感覚機能の低下をやわらげ、ユーザーのQOLを支援する適切な色彩設計の指針を明らかにすることを目的とする。そこで、エンドユーザーの立場から、実際的な施設の使い手であるユーザーと従事者の双方向から施設の廊下と療養室の色彩環境について、価値観の差異を調査した。結果、両者の共通点として、(1)療養室については、ピンクと白で設えられた「清潔な」色彩環境を望む。(2)高明度のグレーの壁にピンク色のカーテンで構成した療養室を「清潔」で「優しい」と評価する。(3)ベージュの壁にオレンジ色のドアやカーテンで構成した環境を「陽気な」「楽しい」と評価する。相違点として、(4)廊下については、ユーザーは、陽気で明るい明瞭な色彩環境を望むのに対して、従事者は、清潔で落ち着いた曖昧な色彩環境を望む。
著者
松原 秀江 Hidee MATSUBARA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.87-109, 2011-03-31

堀辰雄の文学に大きな影響を与えた女性たちが、彼の前に常に親子がらみで現れることに注目して、その誕生及び幼少年期を見ながら、『聖家族』に至るまでの作品内容とそれらを比較し、親がらみと裏返しをキーワードに、『聖家族』の書名が「聖母子」ではなく、「聖家族」だったことの意味を考える。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.55-74, 2016-03-31

公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団は、二つの意義あるミュージアムを持っている。それは、日清食品の創業者、安藤百福の意思を具現化したものである。一つは、池田市にあるインスタントラーメン発明記念館であり、あと一つは、横浜市にある安藤百福発明記念館である。両者に共通するものは、人間の創造力を通して、発明・発見のヒントを来館者に提示して、来館者に発明・発見の萌芽を涵養させようとする点にある。この二つの体験型の食育ミュージアムは、「食足世平」(食足りて世は平らか)という安藤百福の語録の具現化したものである。安藤百福は、インスタントラーメン、カップヌードル、スペース・ラムを発明し、また食文化に革新をもたらした。さらに、人間の幸福とは何か、人類の平和とは何か、を食の分野から解明しようとした真のベンチャー・スピリットを持った起業家であった。本論考は、安藤百福の最初の発明であったインスタントラーメンを研究した池田市に建っている記念館に焦点をあて世界的起業家・日清食品創業者 安藤百福について論考するものである。
著者
島崎 千江子 蘆田 秀昭 福井 就 酒井 健 SHIMAZAKI Chieko ASHIDA Hideaki FUKUI Shu SAKAI Takeshi
出版者
大手前短期大学
雑誌
大手前短期大学研究集録 = Otemae Junior College Research Bulletin (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.001-025, 2018-07-31

大手前短期大学生の生活状況に関するアンケート調査を行い、充実した学生生活を過ごすための課題を探った。その結果、大多数の学生は学生生活には充実・満足していた。その理由は、「自由に過ごせる」、「興味のある授業」を挙げていた。一方、授業以外に「友人との交流」に時間をかける反面、予習・復習、読書に充てる時間は少ないことが明らかとなった。また、自宅から通っている学生と、睡眠時間は就寝時間に関わらず6時間未満の学生が各々で約8割を占め、生活費は約6割で保護者が負担し、4割がアルバイトで賄っており、現在アルバイトをしている学生は約7割であった。生活面では、1日3食を摂り、昼食は弁当持参で夕食は自炊を含めて自宅で摂る学生が多いものの、3割の学生が孤食であることも判明した。悩みや不安に関する項目では「進路や就職のこと」「対人・恋愛関係」と「心身の健康」を挙げた。就職に関しては転職しても自分に合った仕事がしたいと考えている学生が約5割いることがわかった。他の項目についても、「私立大学学生生活白書2015」(以下、白書という)、「学生生活に関する調査報告書」(以下、報告書という)、「2014年大学生の意識調査概要報告」(以下、概要報告という)での学生の動向と同じような結果となった。しかし少数ではあるが学生指導上気になる特徴を持っている学生もみられた。そのことが充実した学生生活を過ごす上でどのような影響があるかについては、今後、継続した調査が必要である。
著者
奥上 紫緒里 西川 一二 雨宮 俊彦
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.29-41, 2012

本研究では,フロー体験チェックリスト(石村,2008)を使って大学生のフローの頻度を測定した。測定の結果,フロー体験の比較的ある群とない群の2群に分かれた。いずれの群においてもフロー体験頻度に男女差は見られなかった。また,研究1においてフロー体験に関し「没入」「自信」「挑戦」の3因子の確認ができ,石村(2008)が示した特性が確認できた。研究2においてフロー体験の頻度と性格や感情,Well-beingに関する他の尺度と関連することがわかった。
著者
丹羽 博之
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.23-31, 2007

本稿は、一海知義先生主催の「読游会」(南宋の詩人陸游の詩を詳しく読む会)発表後の研究報告である。発表の際、議論になった「青氈」の語について調べると、「青氈」には、王之敬(王献之の字"王義之の子。三四四〜三八八)の逸話がある。その逸話が白楽天や陸游の詩にも見える。更にこの逸話が日本文学にも利用されていることが判明した。本稿では、その経緯を述べる。会でのやりとりの詳細は仮題『続・一海知義の漢詩道場』(岩波書店〇八年八月刊行予定)を参照されたい。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.157-185, 2008

芦屋市谷崎潤一郎記念館は、明治・大正・昭和の時代を通して文豪の名に相応しい文筆活動をした小説家、谷崎潤一郎(明治19年〜昭和40年)の原稿、書簡、書籍、美術工芸品、愛用の日用品などを展示して、世界の谷崎文学の普及を試みたもので、昭和63年、芦屋市に開館された。明治44年、小説『刺青』、『麒麟』を発表した谷崎は、永井荷風に絶賛され、文壇の第一線に登場した。大正12年、関東大震災の後、関西に移り住み、確実にその文学の才能を開花させていった。昭和8 年、代表作の『春琴抄』、『陰翳礼讃』を発表している。昭和9 年、兵庫県武庫郡精道村打出下宮塚16(現在の芦屋市宮塚町12富田砕花旧居)に住み、創作に精進している。昭和10年には、谷崎潤一郎のインスピレーションの源泉となった女性・根津松子と結婚した。昭和18年、58才の時、芦屋の風土と日本の文化の古典美に想をえた名作『細雪』を発表するにいたる。昭和24年、『細雪』により朝日文化賞を受け、同年、文化勲章を受章した。昭和40年、80才で死去。記念館は、谷崎好みの数寄屋風に設計、庭園は京都市左京区下鴨の旧居、潺湲亭(せいかんてい)の庭を模して作られている。関西、谷崎が好んだ芦屋という風土、そこから生まれた文学作品、文豪の創作を助けたたたずまい、これらの要素をこの記念館は総合的に理解できる様に設計されている。風土と文学と建築美について論考しようと考えている。
著者
古田 榮作
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.(85)-(107), 2011

日常語となっている「地獄」は、梵語 niraka 奈落、niraya 泥梨の訳語として日本語になっているが、この語の概念はアッシリア・シュメール文化起源のものであり、インドに移入されたものである。「善因楽果」「悪因苦果」と説く仏教に取り入れられたのである。『ダンマパダ』はその一章を「地獄の章」(Niraya-vagga)としている。釈尊の時代にどのように「地獄」が位置づけられ、どのように仏教の一つの重要な概念としてまでたかめられたのであろうか。六道の最下層に置かれる地獄が、悪因の苦果として描かれ、さらにはどうもがこうとも休むことなく続く苦しみを受ける avici 阿鼻地獄、無間地獄までもがリアルに描かれている。しかし悠久の転生によりそこからの他の六道への移行も否定はしない。『ダンマパダ』の「地獄の章」を中心として、地獄がどのように描かれ、どのような者が「地獄」に墜ちるのだろうかを考察した。
著者
芦原 直哉
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.317-337, 2008

本稿の目的は交渉が人類社会発展に果たしてきた役割を明らかにし、その歴史認識に立ってこれまでの交渉の定義を見直し、21世紀の社会が正しく発展していくための交渉のタイプを明示することにある。最初に、人類の発展は協力関係による分業の歴史であり、分業を成り立たせたることを可能にしたのは人類が営々と行ってきたコミュニケーションとしての交渉であることを論ずる。次に、その歴史的認識を踏まえこれまでの交渉についての定義である相互の妥協に基づく分配という定義ではなく、新しい定義として「交渉とは、複数の交渉当事者が共通目的を達成するために、コミュニケーションを通じて協力関係を構築し、協働によって価値を創造し双方の問題を解決することである。」とした。最後に倫理観と交渉者双方の交渉目的と利害の関係軸を使って5 つの交渉タイプに分類して今後のあるべき交渉タイプを模索した。結論として、社会の協力関係に基づく分業という観点に立ち返り、従来の交渉タイプである分配型交渉を利害交換型交渉へ、更には共利協働の理念に基づく問題解決型交渉及び最高レベルの交渉である価値創出型交渉に転換するべきであると論じる。
著者
塩田 昌弘 Masahiro SHIOTA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学論集 = Otemae Journal (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.101-125, 2012

明治・大正・昭和を通して、実業界で活躍し、阪急電鉄、阪急百貨店、東宝映画、宝塚歌劇、阪急ブレーブス、コマ・スタジアム、逸翁美術館、マグノリアホール、池田文庫、小林一三記念館等の創設の基礎にその才能・才覚を発揮した不世出の実業家・小林一三(1873〜1957)について紹介する。 特にこの小論では、小林一三の成した事業のうち、文化・美術方向を中心に逸翁美術館に焦点をあて論考しようと思う。本来、事業はそれを成した人の人格の反映と考えられる。後年、今大閤と言われた小林一三であるが、幼年期は、愛情の薄い家庭に育った。だが、その小林一三がどの様にして、その才能を開花させていったのか。小林一三の志とは何か、逸翁美術館成立の礎となったコレクションを貫流する美とはどの様なものか、これらについて考察する。
著者
田中 紀子
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.187-202, 2008

John Steinbeck の小説Of Mice and Men は、1930年代のカリフォルニアの農場を渡り歩く労働者二人の友情を中核とし、彼らの夢とその崩壊を描いた作品である。最初の映画化は1939年に行われ、それ自体の評価は良かったが、原作との違いには喜ばしくない点も見受けられる。それ以後1992年にはGary Sinise 監督・主演で新たに制作された映画は、概ね原作に忠実だと認められてはいるが、それでもいくつかの変更箇所が目につく。本稿では、小説のテーマである孤独、それを表わす人物であるCandy とCrooks とCurley の妻、さらにオープニングとエンディングの描き方についてこの1992年版の映画と比較し、原作者の意図と照らし合わせながら検討する。
著者
仲野 好重 桜本 和也
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学論集 (ISSN:1882644X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.177-195, 2009

大学の初年次教育の一環として「自分探しの心理学」という科目を位置づけ、それを履修する大学一年生の自己認識に対する精神的変化を量的および、質的に分析することを目的においた。関西にある共学の四年制大学で上記の科目を履修している大学一年生100名に対し、学期の初めと終わりに、(1)自己肯定意識尺度、(2)自己受容測定尺度、(3)多次元自我同一性尺度を実施した。また、毎授業の終了時に、学生は授業内容に即したコメントメモを提出し、その日の授業で学んだことがらを中心に、自己の内面を見つめる機会が与えられた。これらの3尺度の結果とコメントメモの内容から、学生たちの自己意識の変容を分析した。まず3尺度すべてにおいて、授業開始時に比べて終了時では、平均値の有意な上昇が認められた。すなわち、本講義を受講した学生たちは、自己肯定意識、自己受容、及び自我同一性の形成において有意に促進されたと考えられる。その要因はこの授業だけにあるのではなく、学生生活におけるさまざまな体験が複合的に作用していると考えられるが、自分探しに焦点をあてた授業内容が何らかの精神的変化の契機になっていたのかもしれない。また、コメントメモから得られた質的データは、学生の心の動きを詳細につかむ助けとなっており、自己の肯定的側面の発見や自己受容がうながされた授業の直後には、大きな心理的変化を示す学生が多数存在していた。