著者
坪内 逍遥 坂井 健
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.23-31, 2013-03-01

『小説神髄』は、ごく簡単な擬古文で書かれているのだから、わざわざ現代語訳する必要はないし、近代文学を勉強しようとするものなら、当然、原書にあたって勉強するべきだというのは、なるほど、そのとおりだとは思うけれども、実際に、『小説神髄』を原書のまま読んで、正しく理解できる人は、大学四年生くらいでもごく少ないし、特に、この本を読んでほしいと思う大学二、三年生ではほとんど居ないといってもいい。そこで、いくらか無駄な仕事に属するかもしれないけれど、あえて『小説神髄』を現代語訳にすることにした。訳にまちがいや不適切な表現があるかもしれない。識者の叱正を乞う。なお、注は、日本近代文学大系『坪内逍遥集』(中村完注釈、角川書店、昭和四九年一〇月)に詳細な注があるので、ここでは、最小限にとどめた。この注には、さまざまに教えられるところがあったので、記して、感謝の意を表したい。現代語訳の底本は、初版本(松月堂、明治一八?一九年)とした。要するに、本稿は、岩波文庫『小説神髄』をもちながら、そのままでは理解しにくい初学者を主に念頭において訳したものである。
著者
森谷 峰雄
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.31-46, 2013-03-01

法然は、讃岐滞留に三つの福という名のつく寺-清福寺、真福寺、生福寺-を使って伝道したという謂れがある。しかも、夫々の間隔は、数百メートルであるので、拡声機もない当時に、これらの寺を同時に使用したとは、考え難く、又、時間を別にして、使用したとしても、近隣の故に、それほどの必要性はなかったと思われる。それでは、なぜ法然はこれら三福寺にかかわったのか、という疑問に出会う。それで、謎の三福寺とタイトルにしたのである。それは、法然がこれらの寺を建立したのではなく、当時すでに三福寺は建立されていて、それを法然が伝道に使用した、と考える。
著者
植村 善博
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.92, pp.29-43, 2008-03

"Gravel bar and Inner-bank pond called Oppori in Japanese are important flood landforms for research of alluvial plain and prevention of disasters of the Kizu and Uji Rivers, because they are indicators of the point of bank breaking and historical flooding. The author studies their location, present land use, origin and relationship between landforms and flooding. Inner-bank ponds had been about eighty during the past one hundred years, but are only three in April 2007, because of decrease by reclamation. Gravel bar were formed by debris flow or sandy mud flow, and are classified into A, B and C types in descending orders from their freshness and land use. Relationship between gravel bar, inner-bank pond and historical flooding in Seikacho, Kyotanabe City and Uji City were made clear since the eighteenth century. "gravel barinner-bank pondflood landformKizu and Uji Rivers
著者
黄 當時
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.97, pp.1-20, 2013-03-01

沖縄に、「さばに」という名の船があり、『日本国語大辞典』は、名称の由来を説明しないが、「さばに」は、「舟/船+α」の構造と意味をもつ名称のように思われる。 豊玉姫の説話の中に、屋根をまだ葺き終えないうちに産気付いた姫が産屋に入り出産する場面があるが、『記』『紀』は、火遠理命が姫の頼みに背いてその様子を覗いたところ姫は「和邇」や「龍」の姿に変わっていた、と記述している。 「和邇」と「龍」は、いずれも同じ情報を伝えているが、適切な海の民の視点を欠いたままでは、正確に理解できない。言葉は、文化である。異文化の言葉は、異文化の知識で解くべきである。 「和邇」と「龍」は、「大型のカヌー」である。「wa'a-nui(和邇)」は、ワァヌイもしくはヴァヌイに発音されるが、Hawai'iがハワイではなくハヴァイに発音されるように、沙+ wa'a-nuiは、サヴァヌイのように発音され、やがてサバヌイ、サバニとなったのではないか。 古代の日本語の問題を考えたり、古典を読み解くのに、ポリネシア語の知識や、船舶・航海の知識が役に立つという認識は、やがて常識となるのではないか。さばに八尋和邇龍
著者
有田 和臣
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.91, pp.1-12, 2007-03

小林秀雄が生命主義思潮の影響下にあった痕跡は、文壇デビュー前後の初期の小林の文章から比較的容易に探すことができる。生命主義のキーワードである「生命」を、文壇デビュー以前の小重量林秀雄もしばしば使用している。そしてその「生命」という用語は、初期小林の批評のキーワードである「宿命」と深く結びついた形であらわれる。一九世紀末から二〇世紀にかげての西欧に登場したのが「生の哲学」だった。「合理的な知的認識」への否定的姿勢、「非合理的な直観や心情的体験」の称揚、「人間の生」の「全的な」把握への希求は、初期小林秀雄および小林の生命主義的な批評思想形成に影響を与えた和辻哲郎『ニイチェ研究』にも顕著に見られる特質だった。しかし日本の「生命主義(Vitalism)あるいは「大正生命主義」(Taisho-Vitalism)は、和辻、小林らが関与したかぎりでは、「生の哲学」(philosophy of life)と同じ根から発しながらも、それとは微妙に異なる力点をもっている。神秘主義と融合した側面が強い点もあげられようが、とりわけ人格主義と結びつき、人格陶冶の方法論としての利用価値に力点がおかれた点に特徴があった。こうした状況が初期小林秀雄の文章に与えた影響を検討する。小林秀雄大正生命主義生の哲学人格主義和辻哲郎とニーチェ思想
著者
野間 正二
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.95, pp.73-84, 2011-03

ヘミングウェイは、パパ・ヘミングウェイと呼ばれてきたように、米国における理想的な男性像のひとつの象徴とこれまで見なされてきた。ヘミングウェイ自身も、生前、そのマッチョな男性像を造りあげるのに努力を惜しまなかった。しかし死後出版された作品、たとえば『エデンの園』などが読まれるようになると、そうした男性的なヘミングウェイ像がゆらぎはじめた。その動きの急先鋒となったのは、いわゆるフェミニストとよばれる批評家たちであった。フェミニストたちは、ヘミングウェイの作品のなかに、作家ヘミングウェイの心のなかに隠されていた両性具有の願望や女性への変身願望を読みとっている。そこでここでは、わたしは、『エデンの園』をフェミニズムの視点から再読することで、そうしたフェミニストたちの主張を再検討した。ヘミングウェイフェミニズム性差人種黒人女性
著者
森山 清徹
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.90, pp.31-50, 2006-03

因果論に関し無常な自性を有する対象(因)の吟味に続く本稿で扱う常住な自性を有する対象(困)の吟味に於ても感官知、特に有形象知の点からは経量部説とされる対象の二条件に照合して論破され、さらに推理の点からは常住な自性を有するものの吟味の際の常套手段ともいい得るダルマキールティの刹那滅論の活用により論破される。しかしながらこのプラマーナを用いたカマラシーラの吟味は夕ルマキールティとは以下の点で異なる。ダルマキールティはプラマーナ(直接知覚と推理)を言語行為(vyavahara) によるが、結果的には効力を有する実在(vastu ,勝義有)を明らかにする整合した知であるとする。他方カマラシーラは、プラマーナを有という言語行為及び常、無常なる実在の自性を排除する無なる言語行為を明らかにする知とする。さらに無なる言語行為を証明する反所証拒斥検証(sadhyaviparyaye badhakapramana)により自、他、自他の二、無因からの四不生や離ー多性などを能遍の無知覚(vyapakanupalabdhi)因とし勝義無自性の論証として確立している。このプラマーナの意義や適用の仕方はダルマキールティとは異なっている。本稿で扱う因果関係と常、無常なる実在の自性に関して勝義として能遍(因果関係)の否定により所遍(実在の自性)の否定(無自性)を論理的必然関係として論じ、他方、対論者の実在を論じる推論は能遍の確定により所遍を確定するという過ちを犯している、なぜなら実在の自性が成立しなくとも因果関係はあり得る故、反所証拒斥検証が成立せず不定因であると退けている。またカマラシーラはプラマーナに段階的に限定された整合性を設け二諦説を設定する基準としている。カマラシーラダルマキールティ
著者
森山 清徹
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.80, pp.15-34, 1996-03

本稿は,Santideva(c.650-700) のBodhicaryavatara(BCA)及びそれに対するPrajnakaramati(11c)の注釈(panjika)(BCAP)より,唯識派の自己認識(svasamvedana)の理論に対する批判部分の検証と和訳である。Santidevaの自己認識批判は, Candrakirti(c.600-650)の自己認識批判の単なる反復ではなく,彼独自の新理論の展開をも示すものである。つまり, Candrakirtiは,ミーマーンサ一学派のKumarliaによるDignagaの自己認識の理論一量,所量,量果の同体論―に対する批判を受けDignagaを批判したのであるが,Santidevaは,Dharrnakirti(c.600-650) の自己認識の理論をも批判している。自己認識批判シャーンティデーヴァプラジュニャーカラマティディグナーガダルマキールティ
著者
坪内 逍遥 坂井 健
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.95, pp.21-30, 2011-03
著者
真田 康道
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
no.79, pp.p21-40, 1995-03
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.15-29, 2004-03-01

第一次世界大戦で00万人以上の戦没者母出した英数仏三ケ国は戦後、戦場に大小の戦争慕地(軍用慕地〉を建設した。若物たちの大量死という現実は、相当な慰霊の施設を作ることを世論として国家に要求することになった。英仏の首都にある「無名戦の墓」が有名ではあるが、それは戦場に作られた基地のおり方を前提として存在する。逆ではない。こうたあり方の究明を通じて、国民国家の戦没者追悼の現代的あり方が考察されねばならはない。
著者
荒木 猛
出版者
佛教大学文学部
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.43-58, 2018-03-01 (Released:2018-04-11)

明代に現れた神怪小説の代表作に、『西遊記』と『封神演義』がある。この両作品はいろんな点で類似するが、中でも注目されるのは、作中に挿入された詩詞に共通するものが少なからず見られることである。このことは、いずれかが原作で、いずれかがそれを借用した為と考えられる。拙論では、ストーリィの展開の中で、挿入された当該詩詞の妥当性を検討した結果、『西遊記』中の詩詞が原作で、『封神演義』のそれはそれを借用したものであるとの結論に達した。 神怪小説 『西遊記』 『封神演義』 成立時代
著者
橘高 眞一郎
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.57-71, 2011-03-01

人間の言語活動の最も重要な産物の一つが文学である。しかし、文学性とは何かと問われると、途端に返答に窮してしまう。現在のところ認知科学では、文学性とは一般的認知機構の阻害克服過程で読者の心中に喚起された審美的感情群と考えられており、その過程を説明するずれの解消モデルが提唱されている。本稿では、主にユーモアやジョークを分析対象としているこのモデルをベースに、文学作品中の言語表現によるメトニミー・リンクが喚起する複数のドメインのブレンディングによる日常的推論からの意図的なずれが認知的負荷を与え、焦点シフトによるずれの克服過程で審美的感情群が生じると論じて、文学作品解釈の認知図式を提示する。文学作品解釈の背後には、認知的無意識とでも言うべき複雑な認知プロセスがあるが、メトニミー・リンク、ブレンディング、焦点シフトは、そうした認知プロセスの一部として機能している。
著者
山口 堯二
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.61-73, 2004-03-01

古代語では完了の助動誌による「ありつる」 などの形で発話時にごく近い過去の事柄に言及することができた。過去と完了の助動詞が「た」に統合された近代語では、助動師側のそのような役割は失われた。そのため、中世にはより分析的にそのような時点を表せる言い方が要請され、室町期にはいくつかの至近過去を表す、時の副詞が形成された。和語では「さき」「さきほど」がそれであり、近世には「さつき」 も現れた。「きさ」や「さっき」ほ至近過去専用の語になって現代んい至る。漢語「さいぜん(最前)」「せんこく(先刻)」も室町期以降、至近過去を表すのに用いられるようになった。現在を表す「いま」「ただいま」に発話時直前を表す用法が増えるのも、室町期以降である。近世後期以降にはその「いま」を核に成立した「いましがた」や、「いま>いんま」で至近過去の至近性を強調する「いまさつき」などさらに多様化している。
著者
瀬邊 啓子
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.29-49, 2012-03-01

文革期に知青文学がどのような過程で創作され、発表されるにいたったのか。この点を王小鷹の文革期の創作活動を通して、分析・考察を行った。王小鷹の処女作である「小牛」の創作・発表の背景から浮かび上がってくることは、知青文学については書き手が知青であり、一定の水準の作品が書けさえすれば、「誰でもよかった」ということである。そのため作品を書く知青の出身階級については、全く問題にされていなかったことが分かった。王小鷹は作家になりたいとも思っていなかったのだが、たまたま仲間たちと業余文藝小分隊を作り脚本などを書いていたために、編集者から原稿依頼を受けることになった。そうして文革期の文藝政策の変化に左右されながらも、編集者とともに何度も改稿を繰り返し、「小牛」については最終的には編集者が強引に審査を通す形ではあったが、作品発表にいたり、作家としての一歩を踏み出したのである。
著者
松本 真治
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.86, pp.103-116, 2002-03-01

T. S.エリオットは自らの編纂によるA Choice of Kipling's Verseにつけた長い序文、後の評論集On Poetry and Poets所収の"Rudyard Kipling"において、キプリングが「表面の下に隠されているもの、境界線の向こうにあるものを何がしか知っていた」と言う。実はこの「境界線」という言葉はエリオット自身において重要な意味を持つ言葉でもある。本論ではエリオットの言及するキプリングの作品とエリオットの作品を検証し、エリオットの発言の意味とキプリングを評価するエリオットの視点を明らかにする。
著者
山口 堯二
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.85, pp.29-42, 2001-03-01

打消推量の助動詞「まい」は、室町期に形成され、当初、同じ打消推量の助動詞「まじ>まじい」「じ」と共存したが、やがてそれらも「まい」によって統合された。その統合の役割を担った「まい」の通時的変化を、他の推量の助動詞との対応性、および、推量体系の通時的変化と絡めて、意義別にたどる試みである。室町期に見られた「打消推定」や、「不適当」「不当」などの観念的意義はかなり急速に失われ、近世を通じて維持されたのは「打消推量」「打消意志」「禁止」の三義と概言できる。明治大正期頃を境に、打消と推量とに別語を併用する「ないだらう」などの言い方との交替もめだちはじめ、次第に弱体化する様子にも言及する。
著者
笹田 教彰
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.1-14, 2004-03-01
著者
黒田 彰 坪井 直子 筒井 大祐
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.1-18, 2012-03-01

八幡縁起は古代、中世に流行した八幡信仰を背景とする縁起絵巻で、北野縁起などと共に我が国の社寺縁起を代表する絵巻の一である。小稿では従来、甲乙類に分類される八幡縁起絵巻の乙類に属すると見られる新出資料、愛知県刈谷市の榊原家の所蔵に掛る、八幡の本地二巻をカラー影印、翻刻により紹介する。本号に収録するのは、その下巻で、本誌前号(95号)収録の上巻に続くものである。榊原本の書誌的事項や翻刻の方針などについては、前号の略解題を参照されたい。なお『京都語文』18号(平成23年11月)には、同じ八幡縁起絵巻甲類の新出資料、鰐鳴八幡宮本八幡大菩薩御縁起(上下巻)を紹介したので、併せての参照を乞う。