著者
山元 貴継
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.10, no.3, pp.209-221, 2018 (Released:2018-04-13)
被引用文献数
1

朝鮮半島は歴史的に,冬の北西からの季節風と外敵に備えるために,多くの都市や集落が盆地地形に立地する傾向が強かった。そして,都市の中心部全体を城壁で囲んだ「邑城」では,城門の外側に市場が形成され,その市場が現在の韓国の多くの地方都市の中心商業地として成長した。戦災や本格的な再開発を大きく経験しなかった韓国の地方都市では1970年代以降,「旧市街地」と少し距離をおいたところに「新市街地」が建設されたところが少なくなく,両市街地は機能的にも互いに異なる中心商業地として役割を分担している場合が多い。それだけでなく,韓国は日本よりも店舗の開業と廃業がたやすく,店舗移転もいとわない商慣習のもと,賃貸店舗が多数を占めた中心商業地では,店舗の交代が頻繁に発生する。このように,人口減少に伴うダウンサイジングにも対応しやすい特徴をもっている韓国地方都市の中心商業地は,日本の地方都市の中長期計画の立案にも多くの示唆を提示することと期待される。しかしながら,韓国独自の都市構造と文化などによってもたらされている部分が多いため,慎重なアプローチが求められる。
著者
山元 貴継 内山 桂次 枝廣 優也
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.44-58, 2016 (Released:2019-05-31)
参考文献数
18

2012 年にテレビアニメとして放映された作品「氷菓」をめぐっては,その舞台となった岐阜県高山市を訪れる観光客の動き「アニメ聖地巡礼」が確認されている.本研究は,それら「アニメ聖地巡礼」者だけでなく,同市市街地を訪れている観光客の層と,それらの観光客の動きの特色を分析したものである.2014 年6 月に高山市内の5 つの調査地点において質問紙調査を行い,計623 組,1,958 名以上分の観光客から回答を得られた.その結果,回答観光客全体では,名古屋大都市圏からは多くの観光客が日帰りで,関東地方および近畿地方からは多くの観光客が宿泊を伴って,高山市の市街地を訪れていたことが明らかになった.このうち48 組(全体の7.7%)が,アニメ作品「氷菓」を視聴した上で高山市を訪れていた.また,回答観光客全体は幅広い世代にまたがっていた一方で,「氷菓」を視聴した観光客は20 代が圧倒的に多くを占め,男性のみの団体観光客が目立った.さらに,回答観光客全体では,歴史的町並みの広がる「さんまち」地区と高山駅との間といった狭い行動範囲にとどまるのに対して,「氷菓」を視聴した観光客は「聖地」を求めて,広範囲かつ頻繁な動きをみせることが明らかになった.
著者
山元 貴継 坪井 宏晃
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100237, 2017 (Released:2017-05-03)

報告の背景と目的 「字(小字)」および「字名」は,多くの地域で地区区分および小地名として用いられてきた.そして,その多くは1899(明治22)年前後の「明治の大合併」以前の村の領域や村名を引き継いでいる,といったイメージがもたれやすい.しかしながらこれまで,「字名」自体の残存状況については各地で多くの言及がみられる一方で,それらの「字」が示す領域までもがどのように継承されているのかについての検討は,管見の限り多くはない. そこで今回の報告では,一見すると「字」がよく残されているように映る愛知県西春日井郡を対象に,とくに同郡において比較的よく残されている「土地宝典」などに記された昭和初期の「字」の名称およびその領域が,対応する現行地区名およびその領域とどのような対応関係を見せているのかについて,例えば両者の重複面積などを算出することによる検討を紹介する.愛知県西春日井郡と「土地宝典」 分析対象地域とした旧師勝町(現北名古屋市)および豊山町が属する西春日井郡は,名古屋大都市圏の中心都市である名古屋市の北側にあり,現在でこそ同市郊外のベットタウンとして大きく発展している.しかしながら一帯は,第二次世界大戦以前には,庄内川北岸に広がる低地に集落が点在し,その周囲には主に水田が展開するといった農耕地帯であった.その後1944(昭和19)年には,このうち豊山町の東部に陸軍小牧飛行場(現名古屋飛行場)が開設されている。 そして同郡内の各町村については,昭和初期(昭和9(1934)年前後)に,地籍図の一種である「土地宝典」が多く作製された.これら「土地宝典」は,当時の地籍図に各地筆の地目や面積の情報を加筆して作製されたものである.その図面を画像ファイル化し,幾何補正して現行1:10,000地形図にレイヤーとして重ねることによって,現在では失われてしまった「字」も含めて,かつての「字」の領域が現在のどこに相当するのかが詳細に明らかになる.西春日井郡における旧「字名」の残存状況 まず,「土地宝典」記載の昭和初期の各「字」名自体は現在,豊山町側では依然として一定数がそのまま地区名として用いられているのに対し,旧師勝町側では,旧「字名」に旧「大字名」を冠し,連称化した地区名と,旧「字名」の一部を改変した地区名が多く採用されている. こうした旧自治体による対応の違いに加えて,豊山町側では,小牧飛行場の敷地となり,現在では「字」の存在自体が不明となった範囲がみられる.西春日井郡における旧「字」域と現行地区域との関係  一方で,「土地宝典」図面の幾何補正により判明した旧「字」域と,その「字名」を何らかの形で引き継いでいる形となる現行地区(「字」を含む)の領域とを,その位置に加えて面積的にも比較した結果,かつて集落であった範囲において,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも高い割合で重複することが明らかとなった(図).また意外にも,集落の中心から遠く離れ,かつて水田などが展開していた範囲においても,旧「字」域と対応する現行地区域とが面積的にも比較的一致した. 対して注目されたのは,かつての集落のすぐ外周となる範囲であった.同範囲では,一見すると旧「字」に対応する現行地区(「字」を含む)がみられるものの,両者の領域の面積的な重複は少なく,いわば,かつての旧「字」域からいくぶん外れた範囲となった現行地区が旧「字名」を引き継ぐ地名を名乗っている形となっているところがみられやすかった.旧「字(小字)域」変化のプロセス 「字名」だけでなくその領域にも着目した今回の分析からは,とくにかつての集落のすぐ外周に相当する範囲において,「字名」自体は現在まで残されていても,その領域は変化してしまっているところが少なくないことが指摘された.そうした「字」は,都市化に伴い宅地の範囲を拡大させたもともとの集落の属する「字」にその領域の一部を譲る代わりに,さらに外側の「字」域の一部を編入するといった「玉突き」状の字域整理を行った結果,旧字域とその字域を引き継いでいるはずの現行地区(「字」を含む)域とのずれが大きくなってしまったことが想定された. 今回試みたような分析手法をもとに,今後各地で,「字(小字)」の残存状況についての再検討が進むことを期待したい.
著者
藤田 裕嗣 吉田 剛 高橋 清吾 鈴木 康之 宇根 寛 牛垣 雄矢 安藤 哲郎 深瀬 浩三 宮里 修 上島 智史 堀 健彦 仁木 宏 山元 貴継 塚本 章宏
出版者
神戸大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

歴史地理学研究で取り上げられた地図・絵図資料の中には地震・水害など、災害に関わる古地図も多数含まれるが、現在の地図情報には反映されておらず、実際の対策に活かされてきたとは言い難い。そこで本研究課題は、地域中心として機能し続けた城下町に特に注目し、全国各地に残る過去の古地図情報をGISデータ化し、それらをデジタル地図情報に反映させて、防災・災害復興に向けた歴史災害情報をデータベース化し、情報発信することで各地の防災・災害復興への寄与を目指す。2022年度の高校教育「地理総合」必修化も念頭に置き、中等教育に貢献できる歴史災害GISコンテンツの提供も視野に入れる。
著者
山下 亜紀郎 山元 貴継 兼子 純 駒木 伸比古 李 虎相 橋本 暁子
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.140-151, 2020-03-15 (Released:2021-08-15)
参考文献数
9
被引用文献数
1

本稿では,「チェミン済民チョン川生態河川造成事業」が実施された韓国中部の地方都市,コンジュ公州市の旧市街地の南縁にあたる,近年まで衰退傾向にあった地区を対象に,店舗の業種構成や景観変化の特徴を把握し,そこに,同地区における地域活性化策や住民の取り組みがいかに関わっているのかを明らかにすることを目的とする.調査対象範囲は,公州市の旧市街地南部の地区である.近年の店舗・事業所等の分布と業種構成およびその変化については, 2017 年3 月と2019 年2 月に実施した建物悉皆調査に基づいて把握した.また,公州市における近年の景観をめぐる動向については,公州市庁の景観に関わる施策を担当する部署への聞き取り調査と資料収集,および,歴史的な建築物や街路を活用した取り組みを行っている地域住民や店舗への聞き取り調査を実施した.店舗・事業所等の全体的な業種構成や分布特性には,2017 年から2019 年の間で大きな変化はみられなかったものの,全店舗・事業所等のうち約4 分の1 にあたる78 件で,店舗の入れ替えや土地利用としての変化が生じていた.この2 年間で空店舗化したところも少なくなかったものの,空店舗に新たに入居した店舗等もみられた.それらは調査対象範囲北側のかつての繁華街であった旧市場町でより顕著であった.一方で,商業地域としては衰退傾向にある調査対象範囲南側や,済民川左岸側においても,店舗の入れ替えや新規出店が少ないながらもみられた.調査対象範囲を中心とした景観をめぐるさまざまな取り組みをまとめると,公州市の旧市街地南部では近年,河川や建築物や「コルモッキル」といった景観構成要素が,一部では保存されつつ,一部では改変されたり新しく創造されたりすることで,古きものと新しきものとが混在した都市景観が形成されつつある.このように新旧混在した景観こそが,韓国の地方都市で衰退傾向にある地区における,地域活性化の活力を体現する個性といえるのかもしれない.古きものを守り活かす活動と,新しきものを創造する事業とが並行しながら,現在の,そして将来の公州市旧市街地南部における独自の景観が造られていくのであろう.
著者
塩谷 香帆 蓑 豪輝 鈴木 健斗 山元 貴継
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.129-139, 2020-03-15 (Released:2021-08-15)
参考文献数
8

用途規制の厳しい大都市圏では1990 年代以降,立地規制の緩い工場跡地に大規模な複合商業施設が多くみられてきた.そうした施設は,多くの自動車の行き来に対応していなかった施設周囲の道路で交通渋滞などを発生させないよう,さまざまな事前対策を練って立地している.そこで本調査では,静岡県浜松市浜北区の工場跡地に立地した「プレ葉ウォーク浜北」による対策を紹介した上で,それらの対策がどのように発揮されているのかを,現地での実際の利用者(車)の動きについての計測で確認した.その結果,圧倒的に多くを占める近隣からの利用者の乗った自動車が,施設側の誘導する特定の駐車場入口から入場する一方で,遠距離からの自動車が,施設側が誘導していない入口からも相対的に多く入場していることが明らかとなった.また,施設側が誘導していない駐車場入口からの自動車の入場は,昼食時に加えて,施設で行われていた各種イベントの直前の時間帯に集中しやすかった.
著者
山元 貴継 鎌田 誠史 浦山 隆一 澁谷 鎮明
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100329, 2014 (Released:2014-03-31)

報告の背景と目的  沖縄本島南部および宮古・八重山諸島を含む広い範囲で,「格子状集落」と呼ばれる,長方形状の街区群によって構成された集落がみられる.この「格子状集落」は,琉球王朝下で18世紀以降,既存集落の再構成や,集落移転などを伴う新規集落造成の中で,各地にみられるようになったとされる.そして,「格子状集落」の成立は,琉球王朝が実施した,土地はあくまで集落共有のものとして私有を認めず,住民には耕作権などのみを与えるとする土地旧慣「地割制度」が背景となっていることが指摘されてきた.土地を計画的に配分し,一定期間後にはその再配分を行う「地割制度」の前提のもと,四角形かつほぼ同面積の屋敷地を整然と配列させた街区群で構成された「格子状集落」が,琉球王朝下で広くみられるようなったという解釈となる. ただし「格子状集落」も,土地整理事業(1899年~)に伴い「地割制度」が撤廃されて土地の私有が進み,土地集積や細分化も進展して,さらには沖縄戦の被害も受けた.その沖縄戦の中で,土地整理事業以降使われてきた地籍図の多くが失われ,住民も大きく入れ替わっており,「格子状集落」の原型的な構造がどのようなものであったのかについて明らかにしにくくなっている.そこで本報告では,かろうじて土地調査事業当時のものとみられる地籍図面の写しを残す南城市玉城(旧玉城村)の前川集落などを事例とし,それらの図面をもとに,「格子状集落」に映る集落について,原型的な空間構造の復元を試みる.同時に,聞き取り調査および現地確認の成果をもとに,周囲の農耕地を含めたそれらの構成がいかなる条件のもとで形づくられた可能性があるのかを検討する.研究対象集落の空間構成  前川集落は,『球陽』などによれば,1736年に現位置に移すことを認められた.かつて住民の多くは,ここから1km以上離れた通称「古島(旧集落)」に居住していたが,以降段階的な住民の移住と,後の人口増加により,前川集落は現在のような規模に発達した.現在集落は,南向き緩斜面の標高45~90mにわたって長方形状の街区が整然と並び,そこに住宅が建ち並んで,まさしく「格子状集落」となっている. 土地調査事業に基づく地籍図面などを確認すると,宅地の増加や細分化以前の,同集落の原型的な空間構造を把握できる.そこでは,「格子状集落」とはいえ同集落内の街路は大きく曲線を描き,各街区が弓なりな形態をみせていたことがより明確となる.また,全体的には南北方向1筆×東西方向3~7筆で構成された「横一列型」街区が卓越するものの,とくに集落中央部などにおいて,南北方向が2筆となるといった不定型な街区もみられる.ほかに各宅地(屋敷地)は,地筆により約2倍の面積差があったことが明らかとなった.面積が大きく不定型な宅地は相対的に集落の中央部にあり,そこから上方・下方に向かうに従って,それぞれ正方形に近く定形で,比較的面積の小さい宅地群がみられるようになる.そして,これらの宅地群の周囲には同心円的に,集落の宅地部の幅の約2倍長さを半径とする範囲まで,農地が展開していた.その範囲の周囲を取り囲むように,第二次世界大戦の前後までは,「抱護」と呼ばれた松並木群があったとされ,その存在を示す山林地筆が環状に分布していた. こうした傾向を,国土基本図および航空写真の判読で明らかになる地形条件と重ね合わせてみると,集落のうち宅地は,緩斜面の中でも舌状になっている部分に発達していることが示される.そして,面積の大きい宅地は傾斜約1/10の斜面部分を中心に存在しており,比較的面積の小さい宅地群は,そこからより急斜面となる上方と,ほぼ平坦地となる下方へと展開していた.同様の構成は,八重瀬町具志頭(旧具志頭村)の安里集落などでも確認できる.また,宅地-農耕地の外側を囲む形になる山林地筆は,集落周囲の急崖や,わずかな高まりを丁寧にたどって分布していた. 「格子状集落」拡大のプロセス 以上の分析の過程においては,住民の多くがかつて居住していた「古島」の平坦地を離れて,この舌状の緩斜面に「格子状集落」を展開させた形となることが明らかとなる.そして,集落中央の面積が大きく不定型な宅地は,集落内でも最も早期に移住者の子孫が居住してきた屋敷地に該当する.そこを軸に当初は上方に,後に下方に街区を拡大させて現在の集落構成となったとする住民の認識をもとにすれば,集落の拡大はより急斜面での街区の造成を伴っていた.その過程において,東西方向の等高線に沿うような曲線街路が設定されることになり,かつ,各屋敷地内にあまり高低差をつくらないようにする,南北方向の幅を狭くした宅地群-「格子状集落」を形づくる「横一列型」街区が前提となったのではないかと想定された.
著者
山元 貴継
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.115-131, 2010 (Released:2018-01-19)
参考文献数
51
被引用文献数
1 1

On Jeju Island, now part of South Korea, dynastically-owned ranches developed up until the 19th century spread across the slopes of Mt. Halla which soars upward at the center of the island. However, taking advantage of the mild climate, mandarin orange farms have now become widespread on Jeju Island, taking the place of the old ranches. One origin of those farms is a mandarin orange farm that was established at Seohong-ri on the south slope of Mt. Halla by Japanese living there during the era of Japanese rule. This farm was handed over to Korean residents after World War II, and both the farm and the late Mr. Kang, the planter, are still highly respected.The purpose of this research is to investigate concretely how the mandarin orange farm in Seohong ri, in the present suburban area of Seogwipo City, was established during the era of Japanese rule, and how it was handed down to the residents after that period. This study involves analyzing cadastral materials such as cadasters and cadastral maps, verifying the register list, and interviewing the residents.First, according to the examination of the cadastral materials recorded from the beginning of the Japanese jurisdiction, it was possible to confirm that low grade fields and forests were spread out over the upper slopes of the village due to the disuse of the dynastically-owned ranches. From the viewpoint of land ownership, the upper slope of the village was occupied as government-owned ground in the 1910’s. On the other hand, the ownership of the lower slope of the village was complicated as the proprietors of the residential land and those of the surrounding farmlands did not necessarily correspond with the movement of the residents’ settlements. The land on the upper slope of the village gradually came to be owned by the residents, and land on the more gentle slopes were owned by the Japanese. The mandarin orange farms were developed on these lands. However, the area of these farms held by the Japanese did not change during the era of Japanese rule. Moreover it is recorded in the cadastres that the land ownership of the farms was assigned in 1951 to Mr. Kang, who was a Korean who did not live in the neighborhood of Seohong ri.According to interviews of the residents, even the descendants of Mr. Kang do not know the reason why Mr. Kang acquired the farm. Evidence from his family register and from many interviews reveals that the first Korean owner was killed during the “4・3 Disturbance” and that Mr. Kang then happened to acquire the farms.In South Korea, generally speaking facilities developed by the Japanese and the people who later acquired them tend to receive negative evaluations. However, the residents gave comparatively positive evaluations of the mandarin orange farms of Seohong-ri because they agreed that the location of these properties was on a degraded slope and that the acquisition of the farms by Mr. Kang after World War II contributed much to the economy of the village. In addition, there is a possibility that such positive assessments were supported by the fact that Mr. Kang had not assumed control of the farms directly from the Japanese. The time of Japanese rule was also a time when the Korean residents of Seohong-ri were able to expand their own lands.As mentioned above, this research investigated the locations and the extent of the mandarin orange farms that the Japanese established, and examined in detail the changes in the ownership of these lands through analysis of the cadastral materials. Based on this study, it is clear that the cadastral materials provided a means to clarify the process of the transfer of the farms that the residents themselves did not know well.
著者
ネスミス キャシー ラドクリフ サラ 山元 貴継[訳] 神谷 浩夫[訳]
雑誌
空間・社会・地理思想 (ISSN:13423282)
巻号頁・発行日
no.4, pp.94-108, 1999

近年盛んになりつつある女性と自然、環境をめぐる言説は、環境フェミニズムあるいはエコズムという総称でくくられる。現境問題に対する地理的アプローチを発展させるために、環境フェミニズムによって提起された諸問題に対する批判的検討が行なわれる。地理学の読者に対して環境フェミニズムの原理を手短かに紹介したのち、将来の地理学的研究のための三つの領域が概述される。それは、第1に自然と文化、ジェンダー、第2にグローバルな開発と環境とのジェンダー化された関係、第3にジェンダー化された景観とアイデンティティの問題である。とくに、フェミニズム地理学と文化地理学的考察は、環境フェミニズムのアプローチの将来的な発展に対して重要な扉になると主張される。
著者
兼子 純 山元 貴継 橋本 暁子 李 虎相 山下 亜紀郎 駒木 伸比古 全 志英
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

日韓両国とも,地方都市における中心商業地の衰退が社会問題化している。しかしながら,韓国の地方都市の中心商業地は,人口減少や住民高齢化のわりに空き店舗が目立たず,日本でいう「シャッター商店街」がみられにくい(山元,2018)。そこで本発表では,2016年と2018年に発表者らが行った土地利用実態調査の結果をデータベース化し,韓国地方都市の中心商業地における店舗構成の変化を明らかにすることを目的とする。<br><br>調査対象地域として,韓国南部の慶尚南道梁山(ヤンサン)市の中心商業地(新旧市街地)を選定した(図1)。梁山市は同道の東南部に位置し,釜山広域市の北側,蔚山広域市の南西側に接している。高速道路で周辺都市と連結されており,さらに,釜山都市鉄道2号線によって,釜山市の中心部とも直接結ばれている新興都市である(2017年人口:324,204)。旧市街地は梁山川の左岸に位置し,南部市場が立地している。新市街地は旧市街地の南西約1km,2008年に開通した地下鉄梁山駅前に位置している。近年では,両市街地と梁山川を挟んで対岸に位置する甑山(チュンサン)駅前で,新たな商業開発が進行している。<br><br> 韓国では短期間で店舗が入れ替わることもあって,日本の住宅地図に相当するような,大縮尺かつ店舗名などが記載された地図が作成されることはまずない(橋本ほか,2018)。そのため発表者らは,韓国における中心商業地の構造変化を明らかにするための基礎資料の作成を念頭に置き,2016年3月に梁山市の新市街地と旧市街地において土地利用調査を実施し,そのGISデータベースを構築した。この時の結果をもとに,2018年3月に同じ範囲かつ同様の調査手法で再度土地利用調査を実施し,2年間で店舗が変化している箇所の業種を抽出した。今回の発表では,1階で店舗が変化している部分を分析対象とする。<br><br> 2016年の調査では,新旧市街地での商業機能の分担,つまり旧市街地では伝統的な商品や生鮮食料品店の集積,新市街地では若年層向けの物販サービス機能が卓越し,チェーン店(それらが展開する業種)の立地が確認された。そうした両市街地における2016年から2018年の2年間で店舗構成が変化した箇所を確認すると,旧市街地では530区画中129区画(24.3%),新市街地では485区画中132区画(27.2%)で店舗が入れ替わっていた。<br> 旧市街地において,在来市場を中心とする中心部よりも周辺部で空き店舗が目立つようになり,市街地の範囲が縮小している。新市街地では,店舗の入れ替わりが激しいことに加えて,店舗区画の分割や統合なども顕著である。現地での聞き取り調査によると,賃貸契約は2年が一般的であるが,契約更新時の賃料上昇や韓国特有の権利金の存在もあって,現在では新市街地から,新規に建設が進む甑山駅周辺に移転する店舗が増加しつつあるという。当日の発表では,変化箇所の業種や地域,区割りの特徴などから,梁山市全体の商業地の構造変化について報告する。
著者
兼子 純 山元 貴継 山下 亜紀郎 駒木 伸比古 橋本 暁子 李 虎相 全 志英
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<u>1.研究課題と目的</u><br> 日本においても韓国においても,国土構造として首都への一極集中が指摘され,首都圏と地方都市との格差が拡大している。共に少子高齢化が進行する両国において,地方都市の疲弊は著しく,都市の成立条件や外部環境,地域特性に合わせた持続的な活性化策の構築が必要とされている。その中で日本における地方都市研究では,モータリゼーション,居住機能・商業機能の郊外移転などによる,都市中心部の空洞化問題が注目されやすい。空洞化が進んだ都市中心部では,低・未利用地の増加,人口の高齢化,大型店の撤退問題,生鮮食料品店の不足によるフードデザート問題などが生じ,大きな社会問題となっている。 一方で韓国では,鉄道駅が都市拠点となりにくく,また同一都市内で「旧市街地」と「新市街地」とが空間的にも機能的にも別個に発達しやすいといった日本とは異なる都市構造(山元 2007)が多くみられる中で,バスターミナルに隣接した中心商業地などの更新が比較的進んでいる。そして,地理学の社会的な貢献が相対的に活発であって,国土計画などの政策立案にも積極的に参画する傾向が認められるものの,金(2012)によれば,研究機関が大都市(特に首都ソウル)に偏在し,計量的手法の重視および理論研究への偏重によって,事例研究の蓄積が薄い。 それらを踏まえた本研究の目的は,低成長期における韓国地方都市の都市構造の変容を明らかにすることを目指して,その手がかりとしての土地利用からみた商業地分析の手法を確立することである。なお,今回の報告は調査初年度の単年次のものであり,今後地域を拡大して継続的に研究を進める予定である。<br><u>2.韓国における一極集中と地域差</u> <br> 先述の通り,韓国は首都ソウルとその周辺部への一極集中が顕著である。その集中度は先進諸国の中でも著しく高く,釜山,大邱,光州,大田の各広域市(政令指定都市に相当)との差が大きい一方で,これら広域市と他の地方都市との格差も大きい。 <br><u>3.対象都市</u> <br> 地方都市をどのように定義するのかについては議論の余地があるが,本研究では首都ソウルとその周辺部を除く地域の諸都市を前提とする。今回の調査対象地域としては,韓国南部の慶尚南道梁山市の中心商業地を選定した。梁山市は同道の東南部に位置し,釜山広域市の北側,蔚山広域市の南西側に接している。高速道路で周辺都市と連結されており,さらに,釜山都市鉄道粱山線(2号線)によって,釜山市の中心部とも直接結ばれている。このように梁山市は,釜山大都市圏の一部を構成する都市である一方,工業用地の造成が進み,釜山大学病院をはじめとする医療サービスおよび医療教育の充実した新興都市として独立した勢力があり,人口増加も顕著である(2014年人口:292,376)。 そのうち新市街地は梁山川左岸に位置し,そこに梁山線が2008年に全通し,その終着点でもある梁山駅が開業した。同駅に近接して大型店E-MARTが立地しているほか,計画的に整備された区画に多くの商業施設が集積している。E-MARTに隣接してバスターミナルも立地し,全国各地への路線網を有する。一方,旧市街地は新市街地から見て国道35号線を挟んだ東に位置している。そこには梁山南部市場およびその周辺に生活に密着した小売店舗が集積しており,伝統的な商業景観が形成されている。<br><u>4.調査の方法</u> <br> 今後,韓国の各都市の都市構造の動態的変化を継続的に調査することを目指して,今回はその調査手法の確立を目指す。特に,韓国の商業地における店舗の入れ替わりは日本に比して頻繁で,その新陳代謝が都市を活気づける要因ともなっており,その変化に関心が持たれる。しかし,そうした変化を既存の資料から明らかにすることは難しく,実態調査が求められる。そこで今後,継続的に定点観察することを予定している中で,業種分類の設定の仕方なども重要となる。今回は予備的調査として,事例都市において商業地の調査手法を確立し,その方法を他都市に展開していくことを目指す。
著者
山元 貴継
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.73, no.12, pp.855-874, 2000-12-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
56
被引用文献数
1 3

本研究は,韓国の地方.市郊外地域の日本統治時代における空間的変容を,土地利用や土地所有状況の観点から分析した.地籍資料に加えて聞き取りを活用した分析の結果は,以下のように要約される.変化の大部分は,川沿いの低地や山沿いの緩斜面に展開した田畑に限定された.近隣居住の韓国人個人の所有が多かった農地は, 1920年代中頃にはインフラ用地として一部が朝鮮総督府所有などに,1930年代末からは都市部居住の韓国人個人所有の宅地に転換された.後者の時期に日本人地主は,郊外地域にまで居住しっっ農地や一部の山林をも所有するに至った.一方で,山林の中でもとくに稜線上は,一部「国有」林の払い下げのほかは,ほぼ特定氏族の墳墓を抱いた山林として顕著に残され,現在までも細長く農地や宅地を取り囲む景観を維持している.この稜線部に対する新規地主の土地獲得は,当時からの住民に対しより強い衝撃を与えており,特別な意識の存在が指摘された.
著者
林 泰正 石田 雄大 山元 貴継
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.76, 2011

<B>調査の背景と目的</B><BR> 今回調査を行った伊勢市は,かつては「(伊勢)神宮」への参拝者で大きくにぎわっていたものの,近年では短時間での滞在にとどまる観光客が多くなり,「日本一滞在時間の短い観光地」という指摘も受けている.<BR> あらかじめ2009年6月28日(日)の終日行った調査では,伊勢市内の各所において,それらの場所に立ち寄っていた観光バスのナンバープレート記録をもとに,同市を訪れていると思われる観光バスがどのように市内をめぐっているのかを明らかにした(林ほか2010).そこでは,追跡できた192台の観光バスのうち127台が(伊勢)神宮「内宮」を訪れているものの,同じ神宮の「外宮」を経由したのは32台にとどまっていた.また多くの観光バスが,午前中には隣接する鳥羽市・志摩市から伊勢市方面へ,一方で夕方以降は,伊勢市から鳥羽市・志摩市方面に向かうことが確認された.このように,伊勢市を訪れている観光バスの多くが,実際には「内宮」周囲に立ち寄るのみで,そのまま宿泊などのために鳥羽市・志摩市方面に向かっていると想定された.<BR> そこで今回の調査では,こうした想定をもとに,伊勢市を訪れる観光バスツアーの関係者(バス運転手または添乗員)に対して,各ツアーが伊勢市内の観光地をどのように訪れているのか,また,同市以外の三重県内の都市をどのようにめぐるツアーを設定しているのかについて,その理由を含めた尋ねるアンケートを行なった.アンケートは,先の調査と条件を揃えた2010年6月27日(土)・28日(日)の両日に,「内宮」前駐車場にて実施した.<BR><BR><B>観光バスツアーと伊勢市内の観光地</B><BR> 今回,回答を得られた観光バスツアーは計150組であった.まず,それぞれの観光バスツアーについて,参加者の居住する都府県として最も多く挙げられたのは大阪府(30組),次に兵庫県(16組)となるなど,関西地方の居住者を対象とするツアーが多く占めた.これに愛知県(13組),岐阜県(11組)が続いた.ツアーの参加者の年齢層としては,50歳代,40歳代に偏って多かった.<BR> そしてアンケートからは,「内宮」を訪れていた観光バスツアーの中で,116組が「おかげ横丁」,89組が「おはらい町」にも立ち寄るよう,ツアーを設定しているとの回答が得られた.「内宮」に隣接しているこれらの観光地ですら訪れないとする観光バスツアーが現れており,続いて53組が「二見浦」,45組が「外宮」,23組が「二見シーパラダイス」,14組が「倉田山周辺」に立ち寄るとしたほか,「伊勢安土桃山文化村」などの伊勢市内の各観光地に立ち寄った観光バスツアーは一桁台にとどまった.これらの伊勢市内の観光地に立ち寄らなかった理由としては,ほとんどの観光バスツアーが「もともとコースに設定していない」と回答していた.とくに,6割以上と圧倒的に多くのツアーが伊勢市での観光への期待として「神社参拝」を挙げているにも関わらず,「外宮」にすら参拝していないことが明らかとなった.<BR><BR><B>周辺都市への観光との関係</B><BR> アンケートでは,観光バスツアーが伊勢市だけでなく,三重県内の他の都市をどのように訪れているのかについても尋ねた.その結果,ツアーの出発地から伊勢市に直行し,そのまま出発地に戻った27組を除いた123組が,伊勢市の前後に,三重県内の他の都市を訪れていた.とくに,伊勢市に続いて鳥羽市や志摩市に向かうといったように,伊勢市を訪れた後に県内の他の都市を訪れるコースを採る観光バスツアーが,相対的に多くみられた.<BR> そして,宿泊地についても,宿泊を伴っていた観光バスツアー計105組のうち,伊勢市内に宿泊地を求めていたツアーはわずか15組しかなかった.とくに,鳥羽市の存在が際だっており,宿泊を伴った観光バスツアーのうち74組が鳥羽市にも立ち寄っている中で,実に48組が同市に宿泊していた.伊勢市に宿泊地を選ばなかった理由としては,伊勢市以外の都市に宿泊した方が日程の都合が良いとする回答が最も多く,また,伊勢市内に良い宿泊施設が無いからという回答も多くみられた.<BR> 以上の結果からは,伊勢市をめぐっていると思われた観光バスツアーの多くが,実際には鳥羽市や志摩市などをメインに観光および宿泊する観光コースを採っている中で,「内宮」のみを訪れるために伊勢市に立ち寄っている可能性が高いということが明らかとなった.こうした,他の都市を含めた観光の中でますます,「内宮」を除いた伊勢市内の各観光地を観光バスツアーがめぐる時間が短くなっていることが想定される.<BR><BR>林 泰正,石田雄大,田中博久,山元貴継 2010. 三重県伊勢市をめぐる観光バスの動向.2010年度日本地理学会秋季学術大会.
著者
山元 貴継 内山 桂次 枝廣 優也
出版者
日本都市地理学会
雑誌
都市地理学 (ISSN:18809499)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.44-58, 2016

<p>2012 年にテレビアニメとして放映された作品「氷菓」をめぐっては,その舞台となった岐阜県高山市を訪れる観光客の動き「アニメ聖地巡礼」が確認されている.本研究は,それら「アニメ聖地巡礼」者だけでなく,同市市街地を訪れている観光客の層と,それらの観光客の動きの特色を分析したものである.2014 年6 月に高山市内の5 つの調査地点において質問紙調査を行い,計623 組,1,958 名以上分の観光客から回答を得られた.その結果,回答観光客全体では,名古屋大都市圏からは多くの観光客が日帰りで,関東地方および近畿地方からは多くの観光客が宿泊を伴って,高山市の市街地を訪れていたことが明らかになった.このうち48 組(全体の7.7%)が,アニメ作品「氷菓」を視聴した上で高山市を訪れていた.また,回答観光客全体は幅広い世代にまたがっていた一方で,「氷菓」を視聴した観光客は20 代が圧倒的に多くを占め,男性のみの団体観光客が目立った.さらに,回答観光客全体では,歴史的町並みの広がる「さんまち」地区と高山駅との間といった狭い行動範囲にとどまるのに対して,「氷菓」を視聴した観光客は「聖地」を求めて,広範囲かつ頻繁な動きをみせることが明らかになった.</p>
著者
山元 貴継
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.55, no.4, pp.330-351, 2003-08-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
52
被引用文献数
1

The main purpose of this study is to show the basic structures of land use and land tenure on the old foreign settlement district and the neighboring district (former villages) in Korean open port city under Japanese rule, and to consider how and why they have changed during this period. This study on Mok-p'o City in South Cheol-la Province especially investigates how the state of land tenure had influenced on the changes of land use by analyzing the cadasters and cadastral maps. This study also intends to examine the relation between the spatial changes of the study area and the town planning under Japanese rule.The results are summarized as follows:1. In the study area, the forests and farmlands had spread on the slopes of mountains in the neighboring district, and the residential land had developed on the lowland of the neighboring district and in the whole old foreign settlement district. From the point of view of land tenure, in the beginning of 1910s, many land lots in the neighboring district were owned by Korean, and the residential land lots in the old foreign settlement district were clearly occupied by some of Japanese. However in neighboring district, the forests and farmland near the old foreign settlement district tended to be owned by a few Japanese who lived in the old foreign settlement district.2. In the study area under Japanese rule, the ratio of land owned by each race had almost not changed both in the neighboring district and in old foreign settlement district. But, in the neighboring district, some of land ownership had gradually come into the people who had not lived in the neighborhood, and the land owners often had got not to be agree with the inhabitants consequently. On the other hands, in the old foreign settlement district, the land owners had got to be in agreement with the inhabitants, because the land ownerships had been gradually subdivided into many Japanese and the other who lived in these lands.3. Under Japanese rule, the changes of land use were generally limited in the neighboring district. In this district, the forests and farmland owned by few Japanese near the old foreign settlement district had become residential land. And the infrastructure such as irrigation canals and new roads had been constructed in a short time while replacing the lands owned by Korean who not lived in the neighborhood. However, in the lands owned by the people who lived there, whether by Japanese or not, the construction of infrastructure by town planning had not gone on well. As a result, the land lots which had come to be owned by absentee landowners, who had easily changed their land use in the study area under Japanese rule.
著者
野間 晴雄 森 隆男 高橋 誠一 木庭 元晴 伊東 理 荒武 賢一朗 岡 絵理子 永瀬 克己 朴 賛弼 中俣 均 平井 松午 山田 誠 山元 貴継 西岡 尚也 矢嶋 巌 松井 幸一 于 亜 チャン アイン トゥアン グエン ティ ハータイン チャン ティ マイ・ホア 水田 憲志 吉田 雄介 水谷 彰伸 元田 茂光 安原 美帆 堀内 千加 斎藤 鮎子 舟越 寿尚 茶谷 まりえ 林 泰寛 後藤 さとみ 海老原 翔太
出版者
関西大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2010-04-01

東アジア世界に位置する歴史的地域としての東シナ海,日本海,黄海・渤海・中国東北地方,広義の琉球・ベトナム,朝鮮半島の5つの部分地域として,環東シナ海,環日本海沿岸域の相互の交流,衝突,融合,分立などを広義の文化交渉の実体としてとらえる。それが表象された「かたち」である建築,集落,土地システム,技術体系,信仰や儀礼,食文化等を,地理学,民俗建築学,歴史学・民俗学の学際的研究組織で,総合的かつ複眼的に研究することをめざす。いずれも,双方向の交流の実体と,その立地や分布を規定する環境的な側面が歴史生態として明らかになった。今後はこの視点を適用した論集や地域誌の刊行をめざしたい。