著者
笹田 裕子 ササダ ヒロコ Hiroko SASADA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
no.38, pp.114-128, 2017-03-31

The BFG(1982)は、子ども読者を対象としたライトファンタジーの作家として知られるRoald Dahl(1916―1990)の代表作の1つである。孤児の少女SophieとBFG(Big Friendly Giantの略)という名の巨人との交流を描くこの作品は、献辞にも明記されているように、Dahlの亡き娘Oliviaへ捧げられたものである。Dahlの児童文学作品としては稀なことだが、〈よい〉大人が登場することと、大人と子どもの良好な関係が描かれていることから、The BFGはMatilda(1988)と同様、子ども読者のみならず大人読者にも好評を博している。 この作品は、これまでに2回映像化されている。最初の映像化は、イギリスのアニメーション作家Brian Cosgrove(1934― )によるアニメーション作品Roald Dahl's The BFG: Big Friendly Giant(1989)で、クリスマスにITVで放映された。次が、Steven Spielberg(1946― )が監督を務めた実写映画The BFG(2016)である。 本稿では、この2本の映像作品を題材に、Quentin Blake(1932― )の挿し絵が付された原作にも言及しながら、BFGを含む巨人の造型、巨人国や夢の国といった別世界の造型、巨人国の飲料Frobscottleの表現方法、この作品に内包される擬似父娘関係の描かれ方などに関する分析を通して、映像化によるファンタジー作品の視覚化および架空の事物や〈目に見えぬもの〉の視覚化について考察する。
著者
姫野 敦子 ヒメノ アツコ Atsuko HIMENO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.49-65, 2015-03-31

中世の日本文学において、死、そして救済はどのように捉えられていたのかを世阿弥(生没年一三六三?〜一四四三?)作の能「鵺」を通じて考えた。中世文学における「救済」は、仏教的意味での「往生」として表される。つまり「六道輪廻」という苦しみから抜け出る方策が、「往生」である。世阿弥の時代前後の「修羅能」では、終末部に弔いを頼み、成仏を願う様が描かれる一方で、「鵺」では成仏が約束されてはいない。これは、「鵺」という畜生道の存在が影響していると考察し、作者の世阿弥は、成仏の困難さを描くことで、より観客へ訴える能をつくっていったと結論づけた。
著者
井上 まどか イノウエ マドカ Madoka INOUE
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.195-220, 2014-03

本稿では、ソルジェニーツィンのロシア/ロシア人論を検討することにより、その表象世界においては、その内部に悪や悪意が存在しないことを明らかにする。今日のソルジェニーツィンに対する評価は、完全に二分されている。とりわけ彼のロシア/ロシア人論について、リベラルな人々は民族主義的あるいは反ユダヤ主義的であると批判して、もはや考察の対象としない一方で、政治家や本質主義的なロシア論を展開する人々においては根強く支持されている。両者の間に大きな懸隔が存在する。本稿では、ソルジェニーツィンのロシア表象における悪の不在を明らかにすることによって、その両者の対話の糸口とすることを目的とする。 検討の対象となるのは、ソルジェニーツィンの主に60―70年代と90年代の作品である。60年代の作品の中から主に短編文芸作品、90年代の作品の中からロシア/ロシア人論が展開される2つの論文をとりあげる。 第1節は、「善き民衆(ナロード)~智慧としての正教」と題し、60年代の作品では農民や労働者に見出される人間的美徳が、90年代においてはロシア人一般に投影され、正教によって培われる美徳とみなされるようになることを明らかにする。第2節は、「善き大統領とともに~ロシア型民主主義」と題し、90年代のロシア論をとりあげ、「小空間の民主主義」とソルジェニーツィンが呼ぶところのロシア型民主主義について考察する。第3節は、「ロシア人論と民族概念」と題し、1990年代の作品におけるロシア人像をソ連時代の民族概念・民族行政との関連において考察する。最後に、ソルジェニーツィンのロシア表象における悪の不在とその意味について検討を行なう。
著者
藤本 勝義 フジモト カツヨシ Katsuyoshi FUJIMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.31-48, 2015-03-31

源氏物語では重要な人物で死ぬ者が多い。それは、長編物語のためだけでなく、死そのものの意味があり、死で終わるのではなく、そのプロセスと、死後に残された者の思いが重視されているからと言える。本稿では、死のもたらすものと、死者の救済について考察し、仏教的な救済はもとより、源氏物語独自の救済の論理を把握しようとするものである。先ず、物の怪に憑依された人物を取り上げる。夕顔は、その死が娘などには知られないため、菩提を弔われることが少なく、成仏することがかなり遅れた。葵の上は、嘆き悲しむ光源氏の心からの哀悼により成仏したと考えてよい。しかし、光源氏がそこまで葵の上を愛していたとも思われない。別の理由も考えられる。死者の往生のためには、生前の本人の仏道への帰依と、残された者の供養が要請された。勤行の経験がほとんどなかった主に若い死者には、残された者の心からの追善供養が必要である。六条御息所を光源氏が、心をこめて菩提を弔うことはなかったと言ってよい。それは、死霊となる六条御息所の物語とも深く結びついていた。源氏物語では、死者の冥福に関して、追善供養と精神的救済が要請されているかのようである。紫の上は厚い信仰心と光源氏の心底からの供養によって極楽往生した。次に、亡霊として夢枕に立つ人物の救済だが、桐壺院は、光源氏による大々的な追善供養によって救われ、極楽往生したと考えられる。藤壺救済の道筋は、身代わりになってでも救いたいという光源氏の強い思いなどで、はっきりとつけられた。八の宮は、中の君が「幸い人」路線を進むことで、心の平安を得て成仏したと考えられる。源氏物語以外の作品では、光源氏など個人が、心の底から菩提を弔うといった、あくまで物語の精緻な展開に密着した描写は限られており、盛大な葬儀を行うことが、当事者の権勢を示すことに直接関わったり、源氏物語には決して描かれなかった挿話を記すなど、その質の違いが際立つのである。
著者
長野 太郎 ナガノ タロウ Taro NAGANO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.222-242, 2014-03

アメリカ合衆国における社交ダンス、とくにペアダンスの歴史には、つねにピューリタン的禁欲主義の問題が関わっていた。こうした禁欲主義は、マックス・ヴェーバーの言う資本主義の精神の根本にあり、人々の行動を内と外から統制してきた。つまり、労働の対極にあるものとしてダンスを遠ざける一方で、道徳的な観点からの糾弾もなされてきた。また同様に、人種、階層、ジェンダーなどの社会的変数が歴史状況に応じて交渉される、接触領域の存在も重要である。本稿では、もっとも米国的な社交ダンスが登場した1920 年代に注目する。
著者
金田 房子 玉城 司 Fusako KANATA Tsukasa TAMAKI 清泉女子大学 SEISEN UNIVERSITY
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.40, pp.21-37, 2019-03-31

玉城司の所蔵する礫亭文庫には、越後魚沼の富農で俳諧を愛好した増田二川旧蔵の俳書約五十点や当時の著名職業俳諧師からの二川宛書簡などが所蔵されている。天保の三大家の一人としてあげられる鳳朗は何度も越後に足を運んでおり、両者の深い交流がこれらの資料から見えてくる。 本研究は地方の文化人の俳諧活動と、諸国を行脚した著名な職業俳諧師との交流の様を明らかにすることを目的とするが、その具体例の一つとして、本稿では二川旧蔵資料を取り上げ、二川と鳳朗との関わりを書簡の記述も読み解きつつ紹介する。併せて二川関連以外の同文庫所蔵の鳳朗関係資料も紹介し、その活動を跡づけることにしたい。The Rekitei Library, owned by Tamaki Tsukasa, houses a collection of written materials that previously belonged to Jisen, who was an affluent farmer and haikai-lover in Uonuma, Niigata during the late Edo period. This collection contains about fifty haikai books and a number of letters addressed to Jisen from the renowned professional haikai poets of the age. The documents reveal that Hōrō, one of the three great haikai poets, frequently visited Niigata and closely interacted with Jisen. This research aims to shed light on the literary activities of the local intellectuals, as well as the interactions among prominent professional haikai poets who traveled around the country. For instance, it uncovers the relationship between Jisen and Hōrō through a close examination of the written materials once owned by the former and the letters the two exchanged. In addition to Jisen-related texts, it also introduces the documents concerning Hōrō, tracing his accomplishments.
著者
山本 勉 小久保 芙美 神野 祐太 伊波 知秋 ヤマモト ツトム コクボ フミ ジンノ ユウタ イナミ チアキ Tsutomu YAMAMOTO Fumi KOKUBO Yuta JINNO Chiaki INAMI
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.35, pp.95-167, 2014

東京都荒川区の社会福祉法人上宮会所蔵聖徳太子像は、像内銘により、文永七年(一二七〇)に仏師尭慶が製作したことの知られる鎌倉時代後期の規準作品である。本稿では、二〇一三年五月に大学院思想文化専攻開講科目「美術史学演習Ⅲ」における演習の一環で実施した調査の概要を、「伝来」「像の概要」「銘記および納入品」の三章に分けて報告し、さらに日本彫刻史上の意義や周辺の問題についても、「聖徳太子造像における位置」「形式と表現」「仏師尭慶について」の三章に分けて論述する。この像は、聖徳太子像の典型的形式のひとつである孝養太子像の初期作例として貴重である。銘記によれば不退寺(現在も奈良市に所在する不退寺にあたる可能性がつよい)の像として造られたもので、さらに十六歳の肖像であると明記し、その形式の原型となった像の存在が暗示されることも注目される。また、形式や表現の点で奈良・元興寺の善春作聖徳太子像と共通する点が多く、作者尭慶はその他の事績をふくめても、鎌倉中・後期の奈良で活躍した善派仏師と関係が深いこと、などが明らかになった。末尾には、近代以降のこの像の伝来に関する文献を関連史料として付載した。 The statue of Shotoku Taishi owned by the Jyogu Hospital Social Welfare Group (Jyogu Kai), Arakawa-ku, Tokyo is a standard work in the late Kamakura Period, known to be created by Busshi (sculptor of Buddhist statues) Gyokei in 1270 from the inscription in the statue. This paper reports an outline of an investigation conducted as a part of a seminar in "Art History Seminar III", a course offered by the Department of Cultural History, Graduate School in May, 2013, in three chapters; "History", "Outline of the Statue", and "Inscription and Items inside the Statue" and discusses its meaning in Japanese sculpture history and peripheral issues in three chapters; "Position in Creation of Shotoku Taishi Statues", "Style and Expression", and "Busshi Gyokei". This statue is valuable as an example of the early stage of statues of Kyoyo Taishi (considered to be a style of praying, being concerned about the condition of his father), which is one of typical styles of statues of Shotoku Taishi. According to the inscription, this statue was made for Futai-ji temple (this temple is likely to be Futai-ji still located in Nara city) and is clearly described as an image at 16 years old, and the suggestion of presence of a statue used as a model of the style attracts attention. The statue has many points in common regarding style and expression with the statue of Shotoku Taishi made by Zenshun in Gango-ji temple in Nara, and it was found out that Gyokei had a close relationship with the Zen-pa School Busshi who were active in Nara in the middle to late Kamakura period also in terms of other achievements. Materials relating to the history of this statue in the modern period and after are attached to the end of the paper.
著者
高林 陽展 タカバヤシ アキノブ Akinobu TAKABAYASHI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.160-182, 2015-03-31

本稿は、ミシェル・フーコーの規律化と統治性に関する議論を念頭におきつつ、20世紀前半のイングランドにおける精神病院とその患者の問題を検討するものである。フーコーは、18 ~ 19世紀のヨーロッパにおける精神病院の勃興について、非理性の代表格たる狂気を規律化し、理性を持つ者の側に復帰させるための啓蒙主義的試みとして論じた。このフーコーの議論をめぐっては、実証的な歴史学の立場から再検討が加えられ、実際の精神病院の現場では精神病者とその家族の利害が考慮されていたことが明らかとなった。しかし、こうした実証的な研究は、20 世紀の精神病院とその患者たちを視野の外に置いていた。それは、20 世紀の精神病院には19 世紀とは異なる特質が認められるためであった。19 世紀末になって狂気の規律化が失敗に終わりつつあることが徐々に認識されると、精神病院という施設を通じた規律化を高コストなものとして退け、ソーシャル・ワークを中心とした施設外での取り組みが増えていった。このような歴史的展開は、フーコーが「生権力」「統治性」と呼んだ概念の下でより鮮明に理解することができる。フーコーは、近代社会の特徴を、集団レベルでの生命の特性を把握し、その調整を行う権力である生権力、人口集団を政治経済的に統制するための様々な制度や戦術の動員を意味する統治性という二つの概念の下で論じた。つまり、フーコーは、規律化とは異なる管理と統治の技法の存在を示唆している。本稿は、その新たな管理と統治の技法が実際の精神医療の現場においても確認できるものかを問うものである。具体的には、ロンドン近郊に所在したクライバリ精神病院の運営委員会記録を分析し、20世紀前半の精神病者たちは果たして、生権力と統治性という、いわば精神医学の権力に服する存在だったのか。彼ら自身の主体性は認められないのかを検討した。分析の結果、精神病院と精神科医たちは多くの場合、患者とその家族の利害を汲んでいたことが明らかとなった。ただし、フーコーが論じた別の概念、統治手段としての家族、あるいは司牧的権力論を参照すると、患者の主体性を認めることは一概には望ましくないことも確認された。結論としては、20 世紀前半のイングランドにおける精神医療は、ソーシャル・ワークという新たなサービス形態を通じて、患者とその家族の生活へとアプローチし、そのチャンネルを通じた国民生命と健康の管理を目指したことが論じられた。
著者
今野 真二 コンノ シンジ Shinji KONNO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.129-146, 2017-03-31

日本語を古代語と近代語とに二つに分けた場合、鎌倉時代から室町時代にかけてを過渡期ととらえ中世語とみることがある。鎌倉時代は古代語の言語形式が形を変えていく時代、室町時代は近代語の言語形式が萌芽する時代ということになる。漢語という語種に着目すると、室町時代、すなわち後期中世語の頃から漢語は「話しことば」においても使われるようになってきたことがこれまでに指摘されている。その時点で、「書きことば」において使われる漢語と「話しことば」においても使われる漢語との「層」がうまれたとみることができる。これを「漢語の層別化」と呼ぶとすると、「漢語の層別化」は江戸時代、明治時代と次第に進んでいくことが推測される。本稿においては、明治期の漢語辞書を採りあげ、それらをまず収載語数によって「小規模」「中規模」「大規模」と分けた。より具体的には「イコウ(威光)」「イセイ(威勢)」という漢語に着目し、分析を行なった。室町期成立の文献においては、「イコウ(威光)」「イセイ(威勢)」はわかりやすい漢語であったことが推測される。それは日本人向けに編まれたと思われるキリスト教教義書『どちりいなきりしたん』において、こうした漢語が使われ、かつ仮名表記されていることから推測できる。室町時代においてすでにこれらの漢語は層の下にあったと思われる。このような漢語は明治期に刊行された「小規模」「中規模」の漢語辞書には採りあげられていない。それは収載語数が限られている漢語辞書において、わざわざ採りあげて語義等を説明しなければならないような漢語ではなかったことを意味していると考える。漢語辞書がどのような漢語を見出し項目として採りあげているか、ということについてはこれまで充分な検証がなされてこなかった。しかし、このことからすれば、室町時代頃に層の下にあったような漢語は、明治期において、「小規模/中規模」の漢語辞書が採りあげていないことが推測される。一方、これらの漢語は10000語以上を載せる「大規模」な漢語辞書には載せられており、「大規模」な漢語辞書はそのような漢語を載せることによって、収載語数が多くなっていることがわかる。明治期には漢語が頻用されていた、ということは事実であったとしても、今後はその「内実」の検証が必要になると考える。 From the beginning of the Meiji Era to the 40th year of Meiji, a number of Chinese character dictionaries used Chinese characters as entry words. The number of entry words vary among the dictionaries. They were divided into three groups: dictionaries with less than 5,000 words as "small scale", those with more than 5,000 words and less than 10,000 words as "medium scale" and those with more than 10,000 words as "large scale." The theme of this paper describes how the Chinese characters are classified and registered as entry words in most published Chinese character dictionaries. The research question is how are the Chinese characters differently registered in the "small scale," "medium scale," and "large scale" dictionaries? This paper presents a method that verifies the differences. This method, which was practiced in the Muromachi Era way before the Meiji Era, focuses on two Chinese characters assumed to be understood easily, "ikou" and "isei," and is based on whether these two Chinese characters are registered in the dictionary or not. As a result, these two Chinese characters were found only in the "large scale" dictionary. That is, "small scale" and "medium scale" dictionaries did not register the characters that had already been considered in the Meiji Era as those that were easily understood, and the dictionary with more than 10,000 characters had registered these characters. In other words, "large scale" Chinese character dictionaries increased prescriptive characters by adding these characters. There has not been a precedent case that has concretely presented the kind of Chinese characters that are registered in the Chinese character dictionaries. This paper has introduced this one method.
著者
笹田 裕子 ササダ ヒロコ Hiroko SASADA
出版者
清泉女子大学人文科学研究所
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要 (ISSN:09109234)
巻号頁・発行日
no.36, pp.214-204, 2015

イギリスの児童文学作家・挿絵画家であるJoan G. Robinson(1910―88)は、作家自身の娘Deborahのテディベアについて書かれたTeddy Robinsonシリーズ(1953―64)や、5人兄妹の末っ子が主人公のMary-Mary(1957―60)など、幼い子ども読者を対象とした短編物語集で知られる。これらの作品では、挿絵もRobinson自身が描いている。また、Joan Gale Thomas という別の筆名で何冊かキリスト教に関する本も手がけた。前掲作品に比べると年長の子ども向けに書かれたWhen Marnie Was There(1967)は、カーネギー賞ショートリストに挙げられた作品である。1960 年代に出版された作品でありながら、本作品には1950 年代のファンタジー作品との共通点が見られる。 本稿では、When Marnie Was There の主要な要素である、主人公が過去と遭遇する特別な場所、子ども主人公にとっての愛する対象、孤立と成長について考察する。場所と少女主人公について論じる際には、本作品の舞台を北海道に移し、2014年に公開されたスタジオジブリ制作のアニメーション映画『思い出のマーニー』にも言及する。 最終的に、本作品の主題ともいえる、常に輪の「外側」(outside)にいる、すなわち孤立していると感じていた少女主人公が、他者を愛し自分も愛されるという経験を契機として成長する過程について明らかにしていく。 Joan G. Robinson (1910-88) was a British children's writer and illustrator who created several well-known works for young child readers. These included works such as Teddy Robinson series (1953-64) about her daughter Deborah's teddy bear and Mary-Mary books (1957-60) about the youngest girl in a family with five children . Robinson herself illustrated these works. She also wrote some religious books under another pen name, Joan Gale Thomas. When Marnie Was There (1967), which was written for older children, was shortlisted for the Carnegie medal. Although it was published in the 1960s, When Marnie Was There shows a lot of similarities to fantasy works of the 1950s. In this article, the significant aspects of When Marnie Was There are discussed: the specific place where the girl protagonist encounters the past; the child protagonist's object of love, and growing up through isolation. In the discussion of the place and the girl protagonist, the Ghibli animated film released in 2014, When Marnie Was There (original Japanese title: Omoide no Mani) is refrred to. Through this, the ar ticle explores the process of self-development the isolated girl protagonist undergoes, which is caused by the experience of loving the other and being loved in return.
著者
斉藤 悦子 川谷 旺未 サイトウ エツコ カワタニ アキミ Etsuko SAITO Akimi KAWATANI
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.54-72, 2017-03-31

1860年、南北戦争開戦前夜のアメリカに幕末の日本から遣米使節団が訪れ、そのワシントン到着の様子はニューヨークの主要メディアでも大々的にとりあげられた。その中でもふんだんなイラスト付きで報じたハーパーズ・ウィークリー紙には、一般的な記事のほかにも、風刺漫画や漫談風の記事なども掲載された。本稿は1830年代からアメリカジャーナリズムの中でひとつのジャンルとして人気のあった、架空の「田舎者」的人物がなぜか歴史的瞬間に立ち会って親戚に見聞録の手紙を送る、というスタイルのコラムを訳出、注釈したものである。判読の難しいvernacularで書かれた時事放談を、まず判読して標準英語に直し、注をつけて日本語に訳出した。遣米使節団がニューヨークの庶民に向かってどのように伝えられたか、という資料として紹介したい。
著者
飛田 勘文 ヒダ ノリフミ Norifumi HIDA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.38, pp.93-112, 2017-03-31

1882年に日本人初の女子留学生の山川(大山)捨松が「英語演劇クラブ」を創設し、日本に英語劇(英語教育における教育方法としての演劇)を紹介して以来、日本には約135年の英語劇の歴史がある。ところが、日本の英語劇の歴史について調査した研究は少ない。そこで、本研究は、日本の学校や大学の英語劇、とくに教育課程の英語科における英語劇の内容と指導方法の変遷について調査し、分析を試みた。 調査にあたって、日本の英語劇の歴史を3つの期間に分類した。第1期(1930~1970)、英語教師は、「英語で考える」という目的のもと、主に児童中心主義教育の哲学とハロルド・E・パーマーのオーラル・メソッドを土台にして英語劇の実践を展開した。第2期(1970~2000)、英語教師は、「表現・コミュニケーション」という目的のもと、主にコミュニカティブ・ランゲージ・ティーチングを土台にして英語劇の実践を展開した。第3期(2000~現在)、英語劇を活用する英語教師の間に共通する哲学や理論といったものは見られないが、彼らは、異文化・国際理解、多文化共生、グローバル人材などを目的として英語劇の実践を展開している。 本稿は、第1期と第2期をとりあげる。第1期と第2期の英語劇を通して分析してみると、第1期から第2期にかけて①英語劇の焦点が個人から個人の外側(外の世界)に移行している、②英語劇が開発を試みる学習者(人間)の諸相の範囲の拡大している、③英語劇が扱う演劇の形式や技法の種類が増加している、④英語劇の指導における児童中心主義の傾向が強くなっていることが分かる。
著者
藤澤 秀幸 フジサワ ヒデユキ Hideyuki FUJISAWA
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.36, pp.67-79, 2015-03-31

幸田露伴における死と救済は仏教的である。彼の場合、現世で死んだ人を救済する方法は転生である。この発想は伝統的で、新しくない。人間の世界から人間の世界への転生は水平方向への転生である。 他方、泉鏡花における死と救済には二つのパターンがある。一つは、死にそうな状況からの救済である。これは露伴には見られない特徴である。これは、年上の美しい女性によって救済されたいという鏡花の夢から生まれた鏡花文学の基本構造である。二つ目は、人間の世界での死が異界への転生によって救済されるというパターンである。この発想は新しい。これは垂直方向への転生である。 露伴と鏡花は対照的であるが、鏡花は露伴を超えていた。
著者
井 真弓 イノモト マユミ Mayumi INOMOTO
雑誌
清泉女子大学人文科学研究所紀要
巻号頁・発行日
vol.35, pp.1-22, 2014-03

藤原定家によって著された『松浦宮物語』に対しては、作者論の立場で分析が加えられることが多く、物語としての価値が正しく認められてこなかった。本作品は、弁少将が鄧皇后に未練を残しながらも帰国し、復活を遂げた華陽公主とともに一時は平安を得ながらも、形見に渡された鏡に映る鄧皇后の姿に心乱されるという場面において、省筆文によって唐突に終了する。このような終焉が一見不自然であるがゆえに、収拾がつかなくなった作者が半ば強引に筆を擱いたとする未完成説も有力であった。しかしながら、この弁少将帰国後の場面は、実は本物語の最大の主張点を含んでいるといっても過言ではない。 神奈備皇女は、弁少将が唐に渡った後も秘かに彼のことを想い続けていたが、一方の弁少将は唐において華陽公主や鄧皇后といった「より素晴らしい」女君との出会いを経て、帰国後にはもはや神奈備皇女への想いを残してはいなかった。この冷淡な弁少将の仕打ちを神奈備皇女側から読み解くことによって、『伊勢物語』二十四段を彷彿とさせる悲恋譚と捉えることができる。華陽公主は弁少将帰国後に彼の妻となり、子も成して揺るぎのない立場を確立したはずが、弁少将の心変わりによって自らの立場が実は危ういものであることを認識する。このような華陽公主の心理は、本文の表現上においても『源氏物語』の紫上に通じるものであり、そのような苦悩が公主の身にも将来起こり得ることを読者に類推させる形をとっている。鄧皇后は梅里の女として弁少将と逢瀬を持っていたが、彼の幸せを願って帰国を推進し、自ら別れを決意している。「相手の幸福のために自らが身を引く」という価値観は、鎌倉期の中世王朝物語に多く見られる「悲恋遁世譚」の男主人公の姿と重ね合わせることが可能である。 従来の解釈では、物語の一貫性を損なうものとして否定的に捉えられてきた終盤の弁少将帰国後の場面について、このように三人の女君たちの立場に基づき考察することにより、物語全体を貫く主題が三者三様の〈女の嘆き〉であることが判明した。神奈備皇女は「相手との恋愛関係の不成立」を嘆いたのに対し、華陽公主では「成立した恋愛関係の中で自らの不遇な立場を嘆く」ことへと変遷し、さらに鄧皇后は「恋愛関係において自らを客観視し、相手の幸福のための自己犠牲を厭わない」という、より深化した対人関係が描写されていることが明らかとなった。