- 著者
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加藤 秀一
- 出版者
- 日本社会学会
- 雑誌
- 社会学評論 (ISSN:00215414)
- 巻号頁・発行日
- vol.48, no.3, pp.361-370, 1997-12-30 (Released:2010-04-23)
踏み込んだ検討に移る前に, まず本書の内容を概観しておこう。『性愛論』は, 先にその一部を引用した短い序章を別とすれば, 全部で6つの章から成っている (以下, 「」内の部分は基本的に引用であり, 〈 〉の部分は, 著者の主張を評者の解釈を経て要約したことを示す。短い引用箇所については, あまりにも煩瑣になることを避けるため, 当該ページの挙示は省略する) 。第1章「猥褻論」と第3章「性関係論」は, もともとひとつながりの論文として書かれたものであり, 内容的に連続している。ここでは〈社会空間は性愛現象と非性愛現象とに分離している〉という社会存立の「公理」が解説されている。中にはさまれた第2章「性別論」では, 「規範としての性別」の成り立ちが原理的に説明されている。以上3つの章は, 性愛という現象に関する著者の見方の最も基礎的な部分を述べた, 原理論的な部分である。これに対し, 第4章「性愛倫理」ではキリスト教における性愛観の変遷が簡単に跡づけられ, 第5章「性愛倫理の模造」は, 戦後日本における性愛関係書のベストセラーの内容分析にあてられている。これら二つの章は前半で示された原理論的視点から歴史的事象を分析する応用編といえるだろう。さらに一書の締めくくりとして, 「性愛世界の彼岸」と名づけられた終章が置かれている。これら全編にわたって評者が疑問としたい点は多いが, 紙数の制約から, 本稿では本書の前半部分で展開された原理論的内容に視野を限定して, その中心線をたどりなおしてみることにしたい。上に記したように, 著者が提示する最も基本的な認識枠は, 〈性愛領域/非性愛領域〉という対である。これが「人間社会」に普遍的に妥当する分析枠として提示される。他方, 「性愛」の領域が限局されると同時に, その外部では, 「言語と権力」という他の媒介の流通性が高まる, とされる。次の箇所は, 本書のこのような理論的要諦を示しているだろう。「血縁に基づく親族秩序は, 事実としての性交渉や性愛関係の広がりを, ある一定の正当化手続によって婚姻とみなされるようになった配偶関係のなかに封じこめる。そしてまた逆に, そうした婚姻を間に挟んで水平に拡がる人びとの相互関係を, 性愛への志向を脱色され言語的・権力的な作用へと純化されたものとする。こうして社会空間は, 全域的な一種の透明性を獲得する。この透明性は, より遠隔に対してはたらく普遍的な作用力, すなわち言語や権力のはたらきを, 当該空間の端から端にまで容易に到達できるようなものとする (111頁) 。ここから直ちに二つの問題が生じる。第一に「性愛領域」の内容 (「非性愛領域」の内容に比重が置かれないのは, 本書のテーマからして当然であるから, 本稿では問わない), 第二にそれと非性愛領域との関係づけである。大まかに言って著者は, 第一の問題に対してはLévi-Straussの提示した概念法を再構成することで答え, 第二の問題に対しては独自の分析を展開している。こうした意味で, 本書は Lévi-Straussの親族構造論における方法と理論を拡張して, 性現象一般の普遍的構造の記述をめざす企てである, と言えるだろう。本書そのもののなかにはその通りの表現はみられないが, その中心的なアイデアをより厳密に展開したといえる別の論考 (「親族・家族・社会シスデム-人類学的交換理論の論理とその拡張」, 『橋爪大三郎コレクションII 性空間論』勁草書房) がその傍証となるだろう。評者の疑問は, 先の二つの問題-相互に切り離せるものではないから, 二重の, とするべきか-の全域に関わっている。第一に, 「性愛領域」に直接的な身体関係としての「性交渉」から, 「家族~親族」といった社会制度までが含まれているが, それを「性愛」の名の下に一括りにすることへの疑問。評者の見解では, ここでは橋爪氏は, Lévi-Straussの誤謬を拡大再生産してしまっていると思う。これと関連して第二に, 橋爪氏は, 「性愛領域」に含まれた諸制度にすでに流通している権力作用をうまく理論に織り込むことができなくなってしまった。以下, これらの問題について検討していく。