著者
岡田 章子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.252-258, 2009-09-30

本稿は,『女学雑誌』の文学を,キリスト教改良主義による女性と文学の新しい関係性という観点から捉え,その新しい関係性が,後の『文学界』における文学の自律性を求める動きにおいて,どのような意義をもっていたのか,を検討するものである.<br>『女学雑誌』の文学志向は,当時の英米の女性雑誌に影響されたものであり,同時にそれは,明治20年代における「社会のための文学」という潮流において好意的に捉えられ,女性に向けて新しい小説を書く女性作家の登場を促した.彼女たちは,あるいは口語自叙体の小説によって女性の内面を語り,あるいは平易な言文一致体によって海外小説を翻訳するなど,独自の成果を生み出した.しかし,キリスト教改良主義の社会運動や道徳に縛られた文学は,やがて文学の自律性を求める『文学界』の離反を招き,「社会のための文学」ではなく,文学の自律性,ひいては社会における文学の独自の意義が追求されることになった.しかし,こうしたブルデューの定義するような「文学場」の構築を求める動きは,『女学雑誌』との断絶よりも,むしろ共通する「社会にとって文学とは何か」の問いを前提にしたものであり,しかも,樋口一葉という女性作家の,女性の問題のまなざしにおいて成立したという意味で,『女学雑誌』は日本の近代文学の成立において,従来論じられてきた以上に不可欠な役割を担っていた,といえるのである.
著者
竹中 克久
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.181-196, 2002-09-30

本稿では組織文化に関する2つの理論について言及する.1つは組織文化論であり, もう1つは組織シンボリズムである.双方とも「組織文化」という対象を共有しているにもかかわらず, そのアプローチにおいて著しい差異を示している.一方は組織成員の基本的仮定としての組織文化に着目し, 他方は組織文化を成員, 非成員を問わず当事者による解釈の対象としてのシンボルとみなす.前者についてはE.H.シャインの議論を, 後者についてはM. J.ハッチの議論を手がかりに分析する.<BR>結論としては, 筆者の立脚するスタンスは組織シンボリズムのそれに近い.組織文化のレベルに関しては, 基本的仮定のレベルよりシンボルとしての人工物のレベルを, 文化への関与に関しては, 特権的なリーダーより非特権的なフォロワーの視点をそれぞれ重視する.また, 組織文化論が組織と組織文化を合理性/非合理性という基準で明確に区分して位置づけるのに対し, 組織シンボリズムは組織それ自体を非合理的なシンボルとして考察するという視座を提起しており, 本稿でもこの見解を支持する.<BR>このような組織シンボリズムの視座は, これまで明確に理論化されてはこなかった, 組織アイデンティティやコーポレート・アイデンティティの分析に有効性をもつばかりでなく, 組織論の伝統的テーマであるリーダーシップ論や官僚制の逆機能, 組織変動の難しさの解明に新たな知見をもたらすものである.
著者
山口 節郎
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.32, no.3, pp.36-53, 1981-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
28
被引用文献数
1 1

Aシュッツの「現象学的社会学」は、社会的現実を、それを意味的に構成する諸個人の意識と結びつけて理解する最も確実な方法として、多くの支持者を見出してきている。しかし、一方で、詳しく検討してみると、彼の議論のなかにはいくつかの重大な疑問点が含まれていることがわかる。たとえば、社会的世界の理念型的構成物としての彼の「合理的行為のモデル」という考えは、はたして現象学の基本的視座と両立しうるのかどうか、あるいはそうした行為モデルと人間の自由の問題との関係はどうなるのか、そしてまた、彼のいう「適合性の公準」はそれ自体のなかに矛盾を含んではいないか、等々。こうした問題があらわれてくるのは、彼が社会科学の方法論的基礎を「自然的態度の構成的現象学」に求めようとしたことに原因があるように思われる。本稿では、シュッツの「現象学的社会学」が含むこれらの問題を、彼の主張する科学的構成物の妥当性を保証する三つの公準を中心に、考えてみたい。
著者
浦野 茂
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.492-509, 2013

本稿は, 発達障害をもつ高校生を対象にした社会生活技能訓練 (SST) においてその参加者たちがこの訓練に抵抗していく事例を検討する. とりわけ本稿は, 社会生活技能訓練とそのなかでの抵抗について, それぞれの実践を組み立てている手続きを記述することを通じ, 発達障害者に対する制度的支援の実践が当事者に対していかなる行為と自己アイデンティティの可能性を提供しているのかを明らかにする.<br>制度的実践を介した医学的概念とその対象者の行為およびアイデンティティとの関係については, 医療化論の視点からすでに批判的検討がなされてきた. しかしこうした批判的視点にあらかじめ依拠してしまうことは, 発達障害者と呼ばれる人びとがこの概念に基づいて行いうる実践の多様なあり方を見失わせてしまう. したがって本稿はこの視点からひとまず距離をとりながら, この実践を構成している概念連関の記述を試みる.<br>この作業を通して本稿が見出すのは, 医療化論の視点とは対立する次の事態である. すなわち, 発達障害者への制度的支援の実践は, その参加者が発達障害の概念を批判的に捉え返していくための可能性をも提供しており, したがってまたこの実践のあり方に抵抗し, さらにはそれをあらためていく可能性をも提供しているという事態である. これに基づき本稿は, 当事者のアイデンティティ形成とその書き換えの積極的な契機として制度的支援の実践を捉えていく必要のあることを示すことになる.
著者
毛塚 和宏
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.194-212, 2017

<p>本稿の目的は「個人主義の浸透により恋愛結婚が普及した」という個人主義仮説を, フォーマル・アプローチによって検討することで, 新たな理論的説明を提示することである.</p><p>個人主義仮説は, 「家」や「分」を重視するような集団主義的な人々は見合い結婚を選択し, 自分の意思を尊重する個人主義的な個人は恋愛結婚を選択する, と仮定する. これに対して, 個人主義への志向と恋愛結婚の選択は必ずしも直結しない, という意識と行為の関連について批判がなされている.</p><p>そこで, 本稿では「選好の進化」によるアプローチを用いることで, 意識と行為をそれぞれ独立に扱い, その単純ならざる関係を分析する. 個人主義の浸透プロセスを考慮した恋愛結婚の普及モデルを構築し, 意識と行為の時系列変化を捉える.</p><p>その結果, 先行研究では想定されていなかった「慎重な個人主義」という行為パターン (選好) が析出した. 慎重な個人主義はある程度の階層維持を考慮に入れ, 見合い結婚・恋愛結婚を選択する. 恋愛結婚の普及に際して, この慎重な個人主義が, 見合い結婚中心的な社会の中で恋愛結婚を志向する選好を社会に涵養する, という重要な役割を果たすことが示唆された.</p>
著者
武田 俊輔
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.265-282, 2017
被引用文献数
1

<p>本稿は, 伝統的な都市祭礼における複数の祭礼集団間の対抗関係と, それを楽しむ見物人のまなざしと行為とが対抗関係に与える作用について明らかにする. 従来の都市祭礼研究の多くは対抗や競い合いが祭礼の場において具体的にどのように成立し, それぞれの町内の人々によって経験されるのかについて, そしてその優劣を判断する見物人の存在が対抗関係にもたらす作用について, 十分に論じてこなかった.</p><p>また見物人のまなざしが与える影響について分析した数少ない研究においても, 担い手たちが祭礼における対抗関係をどのように経験し, それに基づく興奮と面白さを創り出すのか, またそれを眺める見物人が対抗関係にどう関与し, 「面白さ」を拡大すべくいかに担い手に働きかけるのかといった, 担い手と見物人の意識および行為を十分に捉えることができていない.</p><p>本稿では上記の点について明らかにすべく, 滋賀県長浜市の長浜曳山祭という都市祭礼において, 祭礼組織同士の対抗関係が喧嘩という形で最もあらわになる「裸参り」行事を事例として分析を行う. そこで見物人のまなざしの下での祭礼における対抗関係について, 担い手・見物人双方の興奮と楽しみが創り出されていく仕組みや, 見物人たちが担い手に対して対抗関係を拡大すべくどのように働きかけるかについて論じ, 見物人の対抗関係への作用とそれが都市祭礼においてもつ意味の重要性について明らかにする.</p>
著者
麦山 亮太
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.248-264, 2017

<p>キャリアの中断は, 個人の社会経済的地位を動揺させ, 格差を生成する契機である. 本稿の目的は, キャリアの中断による格差の生成過程を明らかにすることにある. 中断の効果を問うにあたり, 従来の地位達成モデルにもとづく分析は, キャリアの中断の効果が個人の異質性に由来するものか, その後の地位を低下させることに由来するものかを分離できないという点で不十分であった. そこで本稿では, 2005年SSM調査の職業経歴データから同一個人について複数時点の観察を作成しパネルデータ分析の手法を適用することで, 以上の効果を分離し, 中断がその後の正規雇用獲得確率に与える持続的影響を捉える. 加えて, 中断時年齢, 中断期間の長さ, 中断に至った理由によってキャリアの中断の効果が異なるかどうかについても検討する.</p><p>分析の結果, 個人の異質性を除いてもなお, 男性は20年弱, 女性は20年以上, キャリアの中断を経験することでその後の正規雇用獲得確率は低い水準にとどまることが示された. 男性はとくに30歳以上の壮年期においてその効果が強い. 女性は, 年齢・中断期間・離職理由による差異はあるものの, キャリアの中断はどの層にとってもその後の正規雇用獲得確率を持続的に低下させる契機となっている. さらに, キャリアの中断はより地位の低い個人が経験しやすいイベントであり, それまでの格差をさらに拡大させる役割を果たしている.</p>
著者
鹿又 伸夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.283-299, 2017

<p>日本の世代間所得移動と貧困の世代間連鎖に関する研究では, 成育家庭の経済状態から始まる影響の経路そして成育家庭の貧困から始まる地位の経路が, 貧富の世代間再生産傾向を作りだすことに焦点をあてている. しかし, 親の学歴や職業など他の成育家庭要因にくらべて, 成育家庭の経済状態から始まる影響経路が子世代の経済的格差を作りだすのかは, 検証されるべき問題である. その検証を, 全国調査データをもちいて, 経済状態を家計水準として測定し, 無職を対象に含めて行った. 分析結果は, 成育家庭の経済状態を始点とする影響経路だけが, 子世代の経済的格差を作りだす顕著な経路とはいえないことを示した. 子世代の経済的格差を作りだす主要な影響経路は, 成育家庭の経済状態, 親の学歴と職業がそれぞれ本人学歴に影響し, その本人学歴から離学後職業へ, 離学後職業から現職へ, そして現職から本人の経済状態へとつながる連鎖的影響経路だった. 男性での貧困に到達しやすい地位経路は, 成育家庭の貧困だけでなく親の低学歴からも始まっていた. しかし, 女性では現職から本人の経済状態への影響が男性ほど強くないため, 明確な地位経路はなかった.</p>
著者
北澤 毅
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.38-54, 2017

<p>本稿の目的は, 教育社会学領域における構築主義研究の展開をレビューするとともに, 今後の課題を論じることである. そのためにまずは, 本稿における構築主義に対するスタンスを明らかにした. 簡潔に述べるなら, OG批判を受けて, 言説実践は実在するが, 言説が想定する社会問題の実在性は問わないという方法的立場を採用した. それを受けて「実在/構築」という分類軸を設定し, 教育社会学領域における構築主義研究の特徴と課題を浮き彫りにすることを目指した.</p><p>まずは構築主義前史として, 山村賢明と徳岡秀雄の研究に着目し, それらがどのような意味で構築主義の前史として位置づくかを論じた. そのうえで, 1980年代から始まる教育社会学領域における構築主義研究の系譜を, 教育問題の構築過程の研究と教育問題言説研究とに大別し, それぞれの研究系譜を「実在/構築」という軸から論じた. なかでも, 教育問題言説研究を, 言説とは別に状態の実在性を想定する「言説批判分析」と, 言説が現実を作り出すという言語論的転回以降の言説観に基づく「言説分析」とに峻別し, それぞれの特徴を論じることに力点をおいた. それを受けて最後に, 言説が現実を作るというテーゼは, 構築主義が研究対象とする日常生活世界に適用されるだけでなく, 構築主義研究それ自体にも当てはまることを強調し, 構築主義研究の発展のためには新たな分析概念の創出が不可欠であると論じた.</p>
著者
松木 洋人
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.25-37, 2017
被引用文献数
1

<p>日本の家族社会学における構築主義的アプローチは, 近代家族をモデルとして家族を定義する核家族論的な研究枠組みの刷新が求められるという学説史的文脈のなかで受容された. その結果として, 構築主義的アプローチへの期待は, このアプローチが人々は家族をどのように定義しているのかに目を向けることによって, 「家族とは何か」を問うという点に寄せられることになった. しかし, 人々による家族の定義を分析の対象とする初期の研究例は, その文脈依存的な多様性を明らかにするものではあっても, 新たにどのような家族の定義が可能なのかを提示したり, 「家族とは何か」という問いに答えを与えたりするものにはなりえなかった. また, これらの研究が, 人々が家族を定義するために用いるレトリックに焦点を当てたことは, 多くの家族社会学者の研究関心との乖離をもたらすことになった. このため, 家族社会学においては, 構築主義的アプローチによる経験的研究の蓄積が進まず, アプローチの空疎化が生じた. このような状況から脱却するためには, 家族の定義ではなく, 人々の家族生活における経験に注目すること, そして, 家族の変動という家族社会学のいわば根本問題と結びつくことによって, 構築主義的アプローチが家族社会学的な関心を共有した研究を展開することが重要になる.</p>