著者
中野 苑香 立石 武泰 杉万 俊夫
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.362-407, 2013-12-28 (Released:2013-12-16)
参考文献数
4
被引用文献数
1

高度経済成長(1960-1970 年代初め)まで、都市部でも、地域コミュニティは、住民が喜怒哀楽を分かち合える場だった。それは、一方では窮屈なしがらみに耐えざるをえない場でもあったが、他方では、住民が、家族を超えて「溶け合える」場でもあった。 子どもは、地域コミュニティの人々が溶け合う接着剤だ。無邪気な子どもに難しい理屈は通用しない。子どもと大人を結び付けるのは、身体の溶け合いだ。近所のおじちゃん・おばちゃんは、子どもを接着剤として、子どもの親とも溶け合えた。 福岡市にある博多部は、そのようなかつての地域コミュニティを保持する数少ない地域の一つである。とくに、同地に継承されている祭り「博多祇園山笠」は、博多部コミュニティの絆を維持する上で大きな役割を果たしている。その姿は、現代の日本社会において、身体が溶け合える地域コミュニティを再生させるときに必要な「忘れられたイメージ」を提供してくれる。 本研究では、博多祇園山笠が博多部の子どもたちにいかなるインパクトを与えているかを調査した。調査結果は、山笠に参加している子ども、さらには、家族も山笠に参加している子どもほど、地域コミュニティの絆に編み込まれていることを如実に示していた。具体的には、山笠に関わりの深い子どもの方が、地域住民と挨拶を交わしていること、学年を超えて近所の子どもたちと遊ぶ頻度が高いこと、博多部という土地に対する愛着が強いことなどが明らかになった。
著者
三宮 信夫
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.3-58, 2015-12-28 (Released:2015-04-04)

大学組織は、教員、学生および事務職員で構成され、特に教員と学生は、基本的には、個人の価値観に基づいて自由に行動することが認められている。しかし現代では、大学を取り巻く種々の環境からの評価や決定が、大学の活動に影響を与える状況になっている。 大学は、高等教育機関であり、研究活動によって真理を探究し、教育活動によって学生を通じてそれを社会に広めることが、組織の目的である。このことは、大学内外の共通の認識であるが、具体的な問題に対応すると、自由なるが故のばらばらの要求が発生する。すなわち、教員や学生は個人の価値観に基づいた活動を望み、環境は大学の機関としての目的達成度上昇を要求する。法人化された大学では、その間の要求の調整が、学長の重要な任務となる。 筆者は、長年国立大学教員として、教育および研究活動に従事した後、9年間地方公立大学学長を務めた。その間大学環境は大きく変化し、それに対応する大学改革を、学長のリーダーシップで実践することになった。本論文は、実践期間中に学長メッセージとして教員に示した私見をまとめたもので、グループ・ダイナミックスのリーダーシップによる制御の一実施例を提供するものである。
著者
門間 ゆきの 杉万 俊夫
出版者
一般社団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.242-286, 2017-12-28 (Released:2017-10-07)
参考文献数
20

本研究は、貨幣経済の浸透や大量消費材の普及といった社会変容の中における「地縁技術」の可能性を、東北タイ、カオボンのカティップづくりを事例として示すものである。 <br> 「地縁技術」とは地域内で入手できる素材を用いて製作し地域内のマーケットで流通されていることを特徴とする技術であり、地域に暮らす人々の生活と密接なかかわりをもつ点を特徴とする(Shigeta, 1996)。カオボンでは、主食であるモチ米をカティップという竹籠に入れて食べるという習慣が色濃くある。各家庭には大小様々のカティップが5-8 個必ずあり、モチ米を入れる容器は必ずカティップである。地元の竹を使って手作りされるカティップは、カオボンの「地縁技術」ととらえることができる。 <br> 参与観察とタイ人へのインタビューから、カティップづくりは、複数のつくり手による“分業体制”によって行われていることが明らかになった。その作業は、つくり手が自宅の生活空間で、日常生活の一場面として行っており、著者はその作業を“縁側作業”と呼ぶことにした。 <br> 縁側作業はカオボンの空間的・精神的な開放性という地域の特質に支えられており、カティップづくりを可視化し、人々の交流を生み、カティップづくりの暗黙知を伝達する機能がある。 分業体制は、1980 年代からの東北タイ農村の社会変容に適応して生まれたと考えられる。共同体や世帯が個人へ解体していくなかで、カティップを別世帯のメンバーとつくろうとするとき、「家内的領域の再生産と拡大世帯の形成」(田口,2002)がなされ、分業という新たな関係が生まれたととらえられる。 <br> 地縁技術には空間的・風土的地域特質と地域の変化の歴史が凝縮されている。また、地縁技術は、地域と人、モノの新たな関係を生み出す可能性をもつ。その動態を描き出すことは、地域の特質や変化、将来像を浮かび上がらせる豊かな可能性をもつのではないだろうか。
著者
近藤 乃梨子
出版者
Japan Institute for Group Dynamics
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.31, 2014

<tt> 本稿は、日本海に突き出す本州最西北端に位置する過疎の半島で始まった、ある小さなグループによる村おこしの取組みの記録である。</tt>2010<tt>-</tt>2013 <tt>年初夏の黎明期から萌芽期にあたる様子を書き記した。</tt><br><tt> 山口県長門市油谷に位置する向津具半島は、過疎高齢化の進行著しい地域である。</tt>65 <tt>歳以上の高齢者が集落人口の半数を超える限界集落の存在も珍しくない。</tt>2007 <tt>年に家業である寺院経営を継承するために</tt>U <tt>ターンした一人の青年、田立氏の呼びかけで始まった村おこしの取組みは、災いを焼き尽くすといわれる「柴燈護摩」と、かつてこの地に楊貴妃が難を逃れて漂着したと語り継がれる「楊貴妃伝説」とを掛け合わせて生み出された楊貴妃「炎の祭典」と呼ばれる祭りである。衰退していく故郷を目前に、地域活性化の定義も定まっておらず、何をすればよいのかもわからない。けれども、このままではこの地域はダメになる。そのような思いから、目標を定め、行動に移していく。いかにして、無から有が生み出され、広がっていったのかを、本稿は記している。</tt><br><tt> しかし、順調なことばかりではない。むしろ困難なことの方が多いように思われる。田立氏が帰郷した当初、荒れ果てた行政施設「楊貴妃の里」を村おこしに活用したいと役場に相談した時には、適切な対応がなされないばかりではなく、宗教的活動には使用させられないと、門前払い同様の扱いであった。資金獲得のために助成事業に申請すれば、助成元の財団からも、宗教団体ではないかと調べられたり、詳細すぎるほどの説明を求められたりした。楊貴妃つながりで中国の留学生や領事館との交流が芽生えたかと思えば、祭りに私服警官が何人も配備されるほどの厳戒態勢で臨まねばならないこともあった。取組みを「二尊院の祭り」と言われ、地域の祭りとしての協力を仰ぐことが難しい時期も続いた。</tt><br><tt> 幸いにも運営ボランティアは集まったが、遊びの延長のような状態であったため、打ち合わせはバーベキュー方式や「決めない」会議になった。「欣ちゃんがやるから、てごする二尊院の祭り」を脱却して「みんながしたいからやる向津具の祭り」にいかにして変化を遂げられるのか。この問題に直面していた時、新たにボランティアに参加した、移住してきたばかりの若者、松本氏から疑問の声が上がった。なぜ会議で物事を決めないのか</tt>----<tt>。</tt><br><tt> この問題提起をきっかけに、膠着した動きに新たな風が吹いた。本稿では、村おこしの取組みの初期段階から、今後の展開に影響を与えうる重大な局面に至るまでを記録した。</tt>
著者
向井 大介 近藤 乃梨子 杉万 俊夫
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.66-240, 2017-12-28 (Released:2017-09-13)
参考文献数
22

本研究は、過疎化や高齢化が進行する2 つの地域における地域活性化活動の事例を題材にして、これまで見過ごされてきた地域活性化活動の潜在的な側面を再検討し、より有意義な地域活性化活動の在り方や情報発信の方法を提示しようとするものである。本論文では、参与観察を行って収集した情報を、筆者や活動参加者の人物像を明記したうえで、活動参加者でもあった筆者の当該時点における率直な感想をも記述する「新しいスタイルのエスノグラフィ」を試みた。 <br> 本研究を通じて明らかになったのは、次の4 点である。第1 に、地域活性化活動を数値的に評価する場合、「数値的な成果を高めるもの」として認識されることが多いが、地域活性化活動に参加する個人の視点に立つならば、それは、「幸福を追求するための営み」の一形式にほかならず、地域活性化活動は、あくまでも、その文脈で評価されることが重要であることを指摘した。 第2 に、地域活性化活動における最大の価値は、活動それ自体に「かけがえのなさ」を共同構成するプロセスにあることを主張した。また、そのプロセスにおいて、行為そのものが規範贈与の性質を有することが示唆された。第3 に、地域活性化活動が拡大・発展するための潜在的かつ重要な要因として、「規範贈与の整流化」とも言うべき現象が必要であることが明らかになった。第4 に、上述の「新しいスタイルのエスノグラフィ」は、読者がよりリアルな追体験をすることを可能にすると同時に、インターローカルな協同的実践を喚起し、活動を継続するための内省にも役立つ素材となることが見出された。 <br> 最後に、以上の結果を踏まえたうえで、新しい地域活性化活動の在り方、新しい地域活性化活動支援の在り方、外部の人の扱い方を提示した。
著者
近藤 乃梨子
出版者
一般社団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.321-376, 2017-12-28 (Released:2017-10-30)
参考文献数
21

過疎地域において、人口減少という問題は依然進行しているが、過疎地域を「気候や自然に恵まれた場」、「ロハスやスローライフのできる場」、「自給自足のできる場」、「子育てに適した場」として、暮らしや自己実現の観点から肯定的に捉える機運が生まれており、田園回帰志向が高まっている。過疎地域の活性化のためには、過疎地域への移住を促進するとともに、とくに若者世代、子育て世代の仕事づくりを実現することが重要である。 <br> 移住者が地域づくりの主体として、過疎地域に眠る埋もれていた地域資源をヨソモノ視点によって利活用し、「地域のなりわい」を生み出すことは、地域の価値を創造することにほかならず、過疎地域の地域づくりに新たな価値を上乗せする。この移住者による「地域のなりわい」づくりの社会的意義は計り知れない。 <br> 購入型クラウドファンディングは、過疎地域で「地域のなりわい」を起業する移住者のリスクを少しでも軽減し、金銭的負担をわけあい、心理的な応援者を獲得し、万が一失敗しても再チャレンジすることのできる簡便に導入できる資金調達の方法である。過疎地域における購入型クラウドファンディング活用の意義は、起業のための資金が調達できることにとどまらず、資金調達のためのプロジェクト終了後も、過疎地域に人とお金の流れをつくることにある。本稿では、過疎地域の移住者による購入型クラウドファンディング活用の有用性について、山口県長門市油谷向津具半島の移住者の事例を用いて、過疎地域への人とお金の流れを生み出すことを確認した。 <br> また、購入型クラウドファンディングの活用によって得られた、目標達成のために支援メンバーを事前確保したうえで、より多くの「ファン」を効率的に獲得するスキルが、新たな地域資源活用商品の販売プロモーションや都市農村交流及び移住の促進など、過疎地域に人とお金の流れを呼び込むための様々な活動に応用することができると指摘した。
著者
河合 直樹 八ツ塚 一郎
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.206-221, 2013-12-28 (Released:2013-09-02)
参考文献数
8

数学教育に携わる複数の関係者にインタビュー調査を実施し、言説体としての数学教科書の特徴を検討した。多くの関係者が努力を重ねているにもかかわらず、現行の数学教科書は、結果として学習者を数学から遠ざけ数学嫌いにしている可能性が示唆された。 高校教師に対するインタビューでは、教科書という言説体の位置づけが現状では中途半端で、現場の教師にとって使いにくいものとなっており、場合によっては不必要ですらあることが示 された。いわゆる成績上位の学校の場合、授業で使用されてはいるものの、教科書は最小限の情報しか含んでおらず、教師による補足が不可欠である。また、授業にあたっては問題集を使用することに力点が置かれ、教科書の比重は小さい。一方、いわゆる低学力校では、授業にあたって教科書は使い物にならず、学習者にとって不可解かつ無用の長物となっている。教師は授業にあたって、教科書の内容に相当の補足を行い、さらに教材を工夫するなど、多くの努力を強いられている。教科書は形骸化しており、無意味な存在となっていると言ってもよい。 現行教科書の整理された内容には評価もある一方、その課題を指摘する声は多い。教科書の内容は、数学的にみて不自然であり、学習者の思考のあり方からも乖離している。学習者の陥りがちな誤りに寄り添って思考を導くところがなく、数学を学ぶ意義や、数学の楽しさを見出しにくくなっているのが現状である。 教科書会社の編集者に対するインタビューでは、こうした指摘に理解が示される一方、そのために工夫をこらすと採用されにくくなるという矛盾した状況が示された。現場の教師は、指導しやすく受験勉強にも役立つ教科書を求める傾向があり、指導に工夫の必要な教科書は敬遠されがちな状況がある。 現行教科書は、いわば「数学らしきもの」を学習者に提示しているだけであり、その結果として「数学嫌い」を増やしている可能性がある。このような構造について考察するとともに、自由度が高く、学習する内容の意味を理解できる新しい教科書の条件を検討した。
著者
河合 直樹 八ツ塚 一郎
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.223-249, 2013-12-28 (Released:2013-09-02)
参考文献数
18

本論文では、高校数学教科書に対する言説分析を通して、現行教科書そのものが数学嫌いを構造的に産出している可能性を指摘する。数学離れをめぐる議論は、学習者や教師の責任、または制度・政策の問題に縮減されがちである。それに対し、「教科書」という道具に着目し、現行教科書の批判的検討を通して数学教育の構造的陥穽を明らかにすることが本論文の目的である。 本論文の構成は下記の通りである。まず、教科書の言説に内在する問題を摘出するため、以下の3つの観点から分析を実施した。第1 に、教科書の目次配列を検討し、数学的には同じ系統に属するはずの多くの項目が、異なる複数の巻に散在している事実を指摘した。数学知が断片化し、数学としての体系性や学習目的が見えにくいという現行教科書の特徴が浮上した。第 2 に、教科書に記載されている練習問題等の設問を検討し、多くの問題が、直前に示された模 範解答への追従を学習者に求めていることを明らかにした。現行の高校数学課程は、教育者側の提示する枠組みを踏襲させることのみによって学習者の学びを達成させる教育システムとなっていることが示された。第3 に、本文の「語り口」に着目して、特異な教科書として知られる三省堂版の教科書と現行教科書とを比較分析した。その結果、学習者に主体的な判断を求める問いかけや、数学のダイナミックな展開を物語る呼びかけが、現行教科書では限りなく乏しいことが明らかとなった。 以上の分析を踏まえて、数学離れが現行の教科書システムに対する自然な適応の産物である可能性を、正統的周辺参加論を援用しつつ考察した。あわせて、学習者が目的的かつ主体的に数学学習に参入するための教科書を構想した。
著者
増田 達志
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.3-71, 2014-12-28 (Released:2014-01-24)
参考文献数
9

本論文では、中国内モンゴル自治区における沙漠化防止活動を取り上げ、20 年間の取り組みの中で、活動内容や参加者のネットワークがどのように変化していったかについて、グループ・ダイナミックスの視点による分析と考察を行った。これを通じて、当該活動の発展の可能性とその方向性について検討をおこなう。また、当該活動のみならず、環境保全活動や地域活性化の取り組みに対して、活動団体、現地コミュニティ、外部からの参加者などによるインターローカルなネットワーク構築の視点を提供することを試みる。 内モンゴル沙漠化防止活動は、20 年間の取り組みを通じて、その形を大きく変化させている。沙漠化防止活動を農業開発による環境ビジネスとして進めていった初期の段階から、農業開発の失敗を経て、流動沙丘の緑化と循環型集落運営システムの構築という地域づくり活動へと基本方針が変更された。また、最初は活動団体単独でなされていた取り組みが、多くの人が交流するネットワークへと発展している。こうした変化は、活動を通じて深められた交流の中から生まれてきたと考えられる。 20 年間にわたって形を変えながら発展してきた沙漠化防止活動は、現在、停滞状態に陥って いる。直接的には活動資金の不足と地元集落を取り巻く社会情勢の悪化が原因となっているが、問題の本質は地元住民の主体的な参加の欠如にある。 この活動が停滞から抜け出し、さらに発展していくためには、活動団体と地元住民の間に、地元住民の内発性に依拠したパートナーシップを構築することが必要になる。また、当該活動と都市住民や日本社会との間で、それぞれの問題をそれぞれの立場から共有するインターローカルなパートナーシップを築いていくことも、重要な課題としてあげられる。
著者
坪井 麻伊
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学
巻号頁・発行日
vol.34, pp.21-64, 2017

<p><tt> 将来は、地域に貢献できる人になりたい。そんな思いから、鳥取大学の地域学部を選んだ。勉強、サークル、地域活動、アルバイト、そんな毎日を繰り返すうちに、私が本当にやりたいことがわからなくなっていた。いつしか、誰かの声、私の声にすら耳を傾けることを辞めていた私は、自身を語ることができなくなっていた。</tt> <br> <tt>そもそも、私たちは今まで誰かの「声」に耳を傾けたことがあっただろうか。現在の私たちは、隣に住んでいる人の顔も名前もわからない、人に会ってもあいさつをしない、つながりの希薄化した生活を送っている。一方でインターネットさえあれば、相手の表情を見ることなく、好きな時間に好きなことを伝えることができる便利な世の中を生きている。いつしか話し相手は画面へと変化し、誰かと出会い、表情を見ながら言葉を紡ぐこと、語り合う楽しさを忘れてしまった。個人に時間を費やす人は多くなったが、自身を見つめなおす大切な時間は失われつつある。私たちは今まで誰と出会い、どんな言葉に耳を傾け、自身を見つめなおしてきたのだろうか。</tt> <br> <tt>そんな時代を生きている私が、縁もゆかりもない土地を訪れ、一人の語り手と出会うこととなった。それが</tt>3 <tt>年生の</tt>7 <tt>月から智頭町那岐地区で行われた「山里の聞き書きプロジェクト」である。那岐地区の真鹿野に住む谷口尭男さんから、自然を大切にしみんなで助け合い生活したこと、戦争という時代を生き抜いた経験を聞いた。そこには「懸命に生きる姿」があった。その暮らしから、尭男さんの人や物に対する「敬意」や「思いやり」をも感じていた。どんなお話を聞いても、必ず尭男さんは「それでも幸せじゃった」と語ってくれたことが忘れられない。しかし、尭男さんの語りに耳を澄ませば澄ますほど「私はどうだろうか?」と私の心に向かってまっすぐに語りかけられる瞬間があった。私は尭男さんのように、思いやりをもち日々をていねいに懸命に生きてきのだろうか。尭男さんを鏡として私自身が映しだされたのだ。聞き書きを通し、私にとって大切だったことは、この私の心に向かってまっすぐに語りかけられる瞬間であった。大切なことは、最初から私の心の中にあったのだ。尭男さんという一人の人と向き合うことで気づいたことである。</tt> <br> <tt>誰かの人生を聞くということは歴史を聞くことでもある。それは、地域史や歴史書には載っていない、語りから生まれた世界でたった一人の、たったひとつの物語である。この時代に私と語り手が出会うことこそが奇跡的で、歴史的な出来事でもあるのだ。その出会いこそ「わたしを映しだす鏡との出会い」でもある。</tt> <br> <tt>本論文では、尭男さんの語りをていねいに記述することで、現代の私たちが忘れてしまった「人と出会うことの大切さ」に改めて気づき、尭男さんを鏡として映しだされた私自身を見つめなおしていきたい。</tt><tt><b> </b></tt></p>
著者
近藤 乃梨子
出版者
一般社団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.196, 2014-12-28 (Released:2014-03-10)
参考文献数
11

本稿は、日本海に突き出す本州最西北端に位置する過疎の半島で始まった、ある小さなグループによる村おこしの取組みの記録である。2010-2013 年初夏の黎明期から萌芽期にあたる様子を書き記した。 山口県長門市油谷に位置する向津具半島は、過疎高齢化の進行著しい地域である。65 歳以上の高齢者が集落人口の半数を超える限界集落の存在も珍しくない。2007 年に家業である寺院経営を継承するためにU ターンした一人の青年、田立氏の呼びかけで始まった村おこしの取組みは、災いを焼き尽くすといわれる「柴燈護摩」と、かつてこの地に楊貴妃が難を逃れて漂着したと語り継がれる「楊貴妃伝説」とを掛け合わせて生み出された楊貴妃「炎の祭典」と呼ばれる祭りである。衰退していく故郷を目前に、地域活性化の定義も定まっておらず、何をすればよいのかもわからない。けれども、このままではこの地域はダメになる。そのような思いから、目標を定め、行動に移していく。いかにして、無から有が生み出され、広がっていったのかを、本稿は記している。 しかし、順調なことばかりではない。むしろ困難なことの方が多いように思われる。田立氏が帰郷した当初、荒れ果てた行政施設「楊貴妃の里」を村おこしに活用したいと役場に相談した時には、適切な対応がなされないばかりではなく、宗教的活動には使用させられないと、門前払い同様の扱いであった。資金獲得のために助成事業に申請すれば、助成元の財団からも、宗教団体ではないかと調べられたり、詳細すぎるほどの説明を求められたりした。楊貴妃つながりで中国の留学生や領事館との交流が芽生えたかと思えば、祭りに私服警官が何人も配備されるほどの厳戒態勢で臨まねばならないこともあった。取組みを「二尊院の祭り」と言われ、地域の祭りとしての協力を仰ぐことが難しい時期も続いた。 幸いにも運営ボランティアは集まったが、遊びの延長のような状態であったため、打ち合わせはバーベキュー方式や「決めない」会議になった。「欣ちゃんがやるから、てごする二尊院の祭り」を脱却して「みんながしたいからやる向津具の祭り」にいかにして変化を遂げられるのか。この問題に直面していた時、新たにボランティアに参加した、移住してきたばかりの若者、松本氏から疑問の声が上がった。なぜ会議で物事を決めないのか----。 この問題提起をきっかけに、膠着した動きに新たな風が吹いた。本稿では、村おこしの取組みの初期段階から、今後の展開に影響を与えうる重大な局面に至るまでを記録した。
著者
森 永壽
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.62-86, 2015-12-28 (Released:2015-06-12)
参考文献数
36

本稿では、島根県松江市におけるドキュメンタリー映画「ひめゆり」の市民上映会(2008 年7 月)及びその後の活動を、「野火的活動」の概念を用いて考察する。 松江市における「ひめゆり」の市民上映は、友人から「島根でも上映ができないか」と相談を受けたT が、素人ばかりの上映実行委員会を立ち上げてはじまった。実行委員会の参加メンバーは固定されなかったにも関わらず、上映のみならず、趣向を凝らした関連展示や、高校での上映に対する資金補助まで行った。一連の活動が終わると実行委員会は自然消滅したが、その後の他所での上映会や関連の活動のきっかけになった。 これまで市民活動の分析にはネットワーク論がよく使われたが、メンバーの入れ替わりも多く、飛び火するように展開することもあり、分析には限界があった。しかし、Engeström は、こうした市民活動を「野火的活動(wildfire activities)」、すなわち「ある場所から消えてなくなったかと思えば、全く別の場所であるいは同じ場所でも長い潜伏期間の後、急に出現して活発に発達するといった独特な能力」を持つ活動(エンゲストローム, 2008)として重要視する。 「野火的活動」は、「痕跡による協同(stigmergy)」とよばれる自己組織化のメカニズム、すなわち、ある行為によって環境に残された痕跡が、続く行為を刺激し、また環境に痕跡を残すメカニズムによって継続・拡張する。このメカニズムによって、組織化や事前計画がないままでも、複雑で、知的な協同がなされるプロセスを記述することができる。 「野火的活動」及び「痕跡による協同」の概念を用いて市民上映活動を考察し、①活動を通じて「上映」に新しい意味が加わり、活動終了後は「痕跡」となって次の活動のきっかけとなったこと、②メーリングリストを通じた上映活動の言語化によって、活動に参加しやすくなると同時に、活動の内容が変化しやすくなったこと、③メーリングリストだけによらず、顔をつきあわせて議論することで、メンバーが離散することなく、活動が具体化し、発展したことを確認した。 野火的活動の概念は、市民活動の分析のみならず、未知のものや事象に関わるときの原初的な形態である。集団と社会との関わりを明らかにしていくことは、新たな理論や可能性を導き出す「生成的能力」(Gergen, 1994)を高めると考えられる。
著者
河合 直樹 永田 素彦
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学
巻号頁・発行日
vol.33, pp.25-48, 2016

<p><tt> 本研究は,東日本大震災(</tt>2011 <tt>年)の被災地で開催している「書道教室」が,被災住民の内発的復興を促す可能性を,アクションリサーチを通じて検討したものである。書道教室は、被災地の一つである岩手県野田村において,</tt>2012 <tt>年</tt>10 <tt>月からほぼ毎月開催してきた。この実践の大きな特徴は,活動のなかで「復興」という目的を明示しないという点にある。第一著者は,講師役としてこの書道教室を主宰し,参加者および関係者の言動を参与観察した。</tt> <tt><br> 書道教室は,これまで交流のなかった多様な住民が集う新たな共同体となった。すなわち,参加者は,主体的に書道を楽しむだけでなく,それをとおして新たな人間関係を構築した。このことは,書道教室が,生活の立て直しに追われるばかりだった住民にとっての貴重な機会となったことを示唆している。</tt> <tt><br> そのうえで,正統的周辺参加論(レイヴ&ウェンガー</tt>, 1993/1991<tt>)の観点から,書道教室が「復興といわない復興支援」として被災地の内発的復興を促す可能性を論じた。具体的には,次の</tt>3 <tt>点を考察した。(</tt>1<tt>)既存の復興支援活動は,復興を強調することによって「受援者」という受動的な役割を被災者に獲得させてしまう傾向があった;(</tt>2<tt>)それに対して書道教室は,被災者が主体性を取り戻すための新たな共同体として機能した;(</tt>3<tt>)その共同体では,「復興」や「受援者」を強調する支配的な言説に対して,住民が主体的に物事に取り組む姿勢を喚起する新たな言説が創出された。</tt></p>
著者
鮫島 輝美 竹内 みちる
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.98-123, 2014-12-28 (Released:2014-02-07)
参考文献数
27

本研究は,介護を負担と見なすことの問題点を指摘し,その問題点を克服する認知症介護の実践事例を考察することで,要介護者・家族介護者・支援者の「共育」を軸とする新しい介護のあり方を提起する。従来の認知症介護支援では,要介護者は,認知機能が欠損している状態,社会的・職業的機能水準の著しい低下状態とされ,その機能を補うだけの「介護力」が前提とされている。この特徴は,近代医療の特徴とパラレルである。 筆者らは,発症から24 年間,在宅で認知症の妻Kさんの介護を行ってきたT氏の取り組みの中に,新しい認知症介護における一つの方策を見いだした。T氏は,妻の病気を問題とするのではなく,ⅰ)支援の方向性を「妻が楽しくなるような介護」と定め,ヘルパーたちに支援を求めた。そして,支援者たちは,T氏の介護力不足を問題とするのではなく,ⅱ)今,必要な支援を「課題」とし,その課題解決を試みた。また,在宅での認知症介護が一般化される前から,ⅲ)支援者たちはKさんやT氏に寄り添いながら,日常生活の問題に共に向き合い,Kさん–T氏−支援者たちの間で溶け合う関係を通じた支援が長期にわたって行われていた。 以上の具体的実践から,大澤のポスト近代論を援用して,溶け合う関係を通じた支援によって,「介護=負担」という等式が崩壊し,介護関係が「『支援があればできる』認知症を生きる人」と「それを支援する人」という新たな関係を生成することを提示する。また,認知症を生きる人の世界とは,「未だ歩んだことのない新しい道」であり,在宅介護の現場は,規範(意味)の原初的形成の場となり,共に成長する「共育」的関係を醸成していることを提示する。次に,認知症を生きる人は,〈プロレタリアートの身体を生きる〉のであり,彼らの願いとは「よく生きること」である。そのため支援の発動点は常に要介護者側にあり,それを支援側が自覚する必要性を述べる。最後に,支援者に要請されている【専門性】とは,自らの生活世界から出て,相手の生活世界に飛び込み,そこから必要な支援を考える態度であり,支援者が「専門家」という視座をおり,要介護者との「溶け合う関係」を楽しむ姿勢が,支援者と要介護者,家族介護者との関係性を変化させ,新たな支援を生み出す可能性に開かれていることを示す。
著者
伊村 優里 樂木 章子 杉万 俊夫
出版者
Japan Institute for Group Dynamics
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.409-435, 2013

地域主権を構想する上で、国と地方自治体の関係を見直すのみならず、市町村よりも小さなコミュニティ、すなわち、「風景の共有できる空間」での住民自治をいかにして育むかを考えねばならない。農山村では、戦前ないし昭和の大合併以前の旧村が、「風景を共有できる空間」に相当する。<br> 鳥取県智頭町では、旧村単位に地区振興協議会を設置し、住民自治を育む運動が始まっている。本論文では、同町を構成する6つの地区(旧村)のうち、地区の運動を現場調査に基づき報告する。具体的には、各地区について、①地区振興協議会立ち上げの経緯、②現在までの活動、③活動の成果と今後の課題を報告する。
著者
畑井 克彦
出版者
Japan Institute for Group Dynamics
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.176-194, 2014

<tt> 筆者(高校教諭)は、</tt>2003 <tt>年から約</tt>10 <tt>年間、兵庫県伊丹市で、地元商店街の地域住民と高校が連携して、高校生を教育する試みを行ってきた。具体的には、高校生に商店街の店舗で活動する機会を与え、「社会人デビュー」をしてもらう活動、すなわち、「商店街学校」の試みである。この活動を通じて、高校生をも含む住民の絆も紡がれていく。本論文の前半では、「商店街学校」が着想されて以来、現在までの経緯を紹介する。</tt><br><tt> 「商店街学校」は、教室で教科書に沿って行われる教育とは大きく異なっている。お定まりの筋書などない。教師と生徒が、商店街を舞台に、筋書を書きながら演じるドラマと言ってもよい。そのドラマの中で、高校生は、主体的に「自ら筋書を書き、演じること」の苦労と喜びを味わい、人間として成長していく。しかし、あくまでも高校教育の一環である限り、「筋書のないドラマ」を生徒とともに演じていくことは、教師にとって大きな挑戦でもある。本論文の後半では、「商店街学校」のハイライトでもある「ハロウィンパーティ」に注目し、その準備段階での生徒の動向と、それに伴う教師の迷いと判断を時系列的に述べる。</tt><br><tt> 「地域が子どもを育てる」とは言うものの、その実例は少ない。本論文は、その貴重な実例を、内部者の苦労をも含めて発信するものである。</tt>
著者
甲田 紫乃
出版者
公益財団法人 集団力学研究所
雑誌
集団力学 (ISSN:21872872)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.89-105, 2012-12-28 (Released:2013-02-10)
参考文献数
18

環境意識の高まりから、昨今の企業には、ますます環境に配慮した経営が求められている。コンビニエンス・ストアもその例外ではなく、コンビニエンス・ストアから大量に排出されるゴミは批判の的となっている。そもそもコンビニエンス・ストアは、その名称が示すように、「便利な店」である。しかし、その利便性そのものが、コンビニエンス・ストアにおける環境問題を引き起こしている元凶ではないだろうか。 本論文は、筆者がコンビニエンス・ストアで働きながら観察した事実をもとに、コンビニエンス・ストアの利便性が資源浪費を引き起こす構造的な問題を考察したものである。その結果、①「一応は環境への配慮を示しつつも本音では利潤追求を志向する本部と、販売機会の損失を回避すべく資源を浪費する加盟店」という「本部-加盟店」関係、②「飽くなき利便性を求める客とそれに全力で応えようとする店舗」という「客-店舗」関係という 2 点からなる「資源浪費の構造」が明らかになった。