著者
永田 和寛
出版者
京都大学大学院教育学研究科
巻号頁・発行日
2017-03-30

本稿は、1953年から1956年に至る大阪府泉北郡福泉町(現堺市)立福泉小学校大庭寺分校における野名龍二の生活綴方実践を検討する。従来の教育史研究において、1950年代において学校と地域社会の間には截然とした懸隔が生じていたという問題が指摘されてきた。本稿は、この問題に対して野名の生活綴方実践がどのような役割を果たしたのかについて、次の2点を明らかにした。(1)野名の実践の中で結ばれた集団は、個々人の多様な考えを重んじる「サークル」であった。(2)教師としての野名は、子どもや母親たちに「サークル」が結ばれる前提となる書くことや話し合うことに関する技術の付与を積極的に行っていた。以上より、野名の実践は、地域社会を教師による技術の付与によって組み替えるものであり、ここに1950年代における教育の公共性の歴史的性格を考えるための重要な手がかりを得られるだろう。This paper explores the practice of seikatsu tsuzurikata (life experience writing) of Nona Ryuji from 1953 to 1956 in Fukuizumi Elementary school, Obadera Branch, in Osaka. Previous studies regarding the history of education in Japan noted the problem a large gulf between schools and local communities in the 1950s. Nona’s practice of seikatsu tsuzurikata was able to solve this problem because (1) the organized community in Nona’s practice was a “circle” that respects the variety of ways of thinking between individuals, and (2) Nona as a teacher taught children and their mothers the skills of writing and discussion for organizing the “circle”. In conclusion, Nona’s practice of seikatsu tsuzurikata reconstituted the local community by teaching skills. This provides insight into the historical character of the public nature of education in the 1950s in Japan.
著者
松尾 理也
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.66, pp.219-232, 2020

明治末期、高級紙『時事新報』の西における分身として創刊された『大阪時事新報』に入社した下山京子は、「化け込み」と呼ばれる変装潜入ルポを得意とした異能の記者であった。下山は自堕落な人物だったと考えられているが、女性記者の役割が限定されていた時代に、その枠を超える活躍をしたジャーナリストでもあった。夕刊発行のため自前の原稿調達の必要に直面した『大阪時事』で、下山は神戸の高級料亭「常磐花壇」への潜入など新しいニュースのかたちの開発に成功する。それは、首都に比べればニュースが豊富でない大阪でなんとか紙面を埋めるための「ニュースを作る」手法の誕生であり、同時にそれは、かならずしも社会正義の実現や権力の批判にこだわることなく、むしろ底辺への温かい共感に彩られた記事の出現でもあった。しかし、吹き荒れた三面記事批判の前に『大阪時事』は萎縮し、東京に異動した下山も大阪時代の輝きを失ってしまった。
著者
松下 姫歌
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要
巻号頁・発行日
no.67, pp.335-359, 2021-03-25

Evidence-based Medicine(エビデンスに基づく医療; EBM)の概念は心理療法の領域にも⼤きな影響を及ぼし、Evidence-based Practice in Psychology(心理学におけるエビデンスに基づく実践; EBPP)という概念も生まれた。しかし、EBMやエビデンスの概念については理解の混乱や誤解があることが指摘され続けており、EBPPの概念はその誤解に基づく形で生まれ、後に軌道修正がなされたものの、心理臨床実践の観点から様々な問題点が指摘されている。本稿の目的は、①EBMの概念の再検討を通じて、その理念の本質とエビデンス概念について明らかにすること、②それに基づき、EBPPの問題点を明らかにすること、③心理臨床実践におけるエビデンスの概念を再定義することであった。その結果、3種類のエビデンスが抽出され、これらを基に、心理臨床実践におけるエビデンス概念が検討された。
著者
彭 永成
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.66, pp.275-288, 2020

本論文は雑誌『ゼクシィ』の歴史変遷を中心に、結婚情報のメディア史について検討するものである。『ゼクシィ』の創刊以前、各種のメディアに散見されていた結婚情報は一冊の雑誌によって簡単に取得できるようなものではなかった。1993年に登場した『ゼクシィ』はそのような状況を大きく変わった。三種類の結婚情報を網羅的に掲載し、画期的な結婚情報メディアとなったのである。1990年代において、『ゼクシィ』の情報発信は花嫁向けの結婚生活の礼義マナー情報に重点が置かれていて、誌上に構築された結婚式の意味合いは「新生活への通過点」にすぎなかった。2000年代に入ると、インターネットの普及によるメディア環境の激変や、社会の結婚文化の変化に対応して、花婿、両親を含めて結婚式の関係者全員に向けのブライダル情報が大量に発信されるようになった。そのため、誌面から読み取れる結婚式の意味合いは「独身脱出のゴール」とのイメージが強調されるようになっている。
著者
彭 永成
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要
巻号頁・発行日
no.67, pp.29-42, 2021-03-25

本稿は雑誌『ゼクシィ』の九州版の歴史変遷を中心に、結婚情報誌における地方色の表し方と衰退の過程について検討するものである。「九州ゼクシィ」を分析した結果、創刊初期の誌面上では、地方の結婚事情の特色が読み取れた。たが、『ゼクシィ 首都圏』が表紙、目次、記事、付録という順に「九州ゼクシィ」の内容を同化していくうちに、誌上に表した地方色が徐々に消えていき、誌上で見られる結婚理想像も首都圏版とほぼ変わらないものになった。同時期、福岡発の地元誌『MELON』は地域特色に密着する誌面づくりをしていたが、最終的には廃刊に至った。『MELON』の対抗は、『ゼクシィ』による九州地方の結婚イメージの均質化を止めることはできなかった。
著者
堀 雄紀
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.64, pp.359-371, 2018

本稿の目的は、言葉によっては説明し尽くされ得ない「暗黙の知」をあえて言語化しようとする営みに、どのような意義を見出すことができるのか、身体技法の伝承場面における観察・分析を通じて明らかにすることである。そのために、M. ポランニーの<暗黙知>に着目し、「私たちの『知』を支える、暗黙裡に進行する過程」という定義に立ち戻った上で、G. ベイトソンのコミュニケーション理論を導入することで、「<暗黙知>によって構築される自己修正的システムの階層構造」という新たな理論枠組みを提示した。それに基づいて見出された「語り」の意義は、いずれも<暗黙知>の制御による学習者支援であった。ひとつは、言語の表示作用によって<暗黙知>が取りこぼした差異(情報)に注意を向け、既存のシステムの再構築を促すことである。もうひとつは、比喩的言語表現によって<暗黙知>を起動し、より高次の包括的統合を実現することである。This paper examines the significance of narrative about tacit knowledge, via analysis about the transmission of Body Techniques. The paper explains the basic idea of "tacit knowing" proposed by M. Polanyi, and confirms its primal definition; tacit processes underlying our knowledge or knowing. The theory of communication proposed by G. Bateson is added, and the hierarchy of communication systems is discussed. The paper clarifies two main points. First, the denotative function of language calls attention to the difference (information) missed by "tacit knowing, " and causes reconstruction of existing systems. Second, metaphors activate "tacit knowing, " and give rise to comprehensive integration at a higher level.
著者
奥井 遼
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.57, pp.111-124, 2011

This paper aims to reconsider the education of the body, by referring to the phenomenological framework of Maurice Merleau-Ponty (1908-1961). Many interests in the body among educational studies have been given to changing bodies or improving performances as the education of "through the body." On the other hand, works of the body, according to Merleau-Ponty's framework, are the base of the experience of the world, which has already moved before a reflective subject thinks about world. If it is so, we can understand that these works of the body have been beyond our educational attempts or intentions. In this paper, I describe these works of the body, which provides a perspective to its education. To explain this perspective, I first consider the influences of Husserl to Merleau-Ponty, who expands and deepens the basic framework proposed by the Husserl's phenomenology, especially about the idea of" Lebenswelt" transforming to" le monde vécu." Second, I investigate the concept of "intercorporéité, " which is regarded as a key concept in describing the experience of the world. In conclusion, I reconsider the education of the body by claiming the educational significance of the concept of "intercorporéité" and the phenomenological mode of thought in educational studies.
著者
杉本 均 山本 陽葉
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.65, pp.179-200, 2019

本論文は日本の学校で働くフィリピン人ALT教師の実態について調べることで、ESLであるフィリピン人をALTとして雇用することがJETほか日本の英語教育プログラムにおいてどのような意味を持つかについて考察することを目的としている。結論としては、日本側はより多くのALTを必要としており、それに伴って十分な英語能力を持つESLの英語話者を採用しつつあるが、実際の現場では未だネイティブスピーカーが好まれる傾向があり、職場における人種差別を感じている者も多かった。しかしながら帰国後ALTとしての職歴が有利に働くことや、他国出身者よりも勤務歴が長いことなどから、メリットのある取り組みであることが明らかになった。ESLの英語能力は英語教育の推進を図る日本の英語教育界においては十分通用するものであり、ESLであるALTは人員確保の面だけでなく、生徒に多様な文化に触れる機会を与えるという点においても、今後の日本にとって必要な存在であると言える。
著者
山本 良子
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.273-285, 2007-03-31

本研究では, 他者に悪い事象が生じるネガティブ状況に 限定し, その状況下で"非当事者"に, 理論上想定されている"共感的苦痛"と"シャ-デンフロイデ"の両情動が実際に経験されているのかどうか, また, 経験されている場合, どのように経験されているのか, その情動経験の詳細について把握することを主な目的とした。
著者
富松 良介
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
no.59, pp.443-455, 2013

This paper explores the fantasy of violating corpses in Rat Man case, which Freud omitted from his case report and psychoanalytical records. We discuss this uncanny fantasy in terms of direction in Freud's interpretation. First, we consider how Freud describes this fantasy in his records, and show that Freud averts his glance from scenes of violating the corpse to the act of "gazing," and to infant sexuality. Second, we consider Freud's counter-transference to Rat Man, and ascend to Freud's anxious dream in his childhood, memories in his infancy, and his lecture on the cradle of his psychoanalytic theory. We can find corpses (the dead and ghosts) in these materials, and discuss Freud's own resistance to the corpse. Third, we consider Rat Man's main compulsive symptom concerning repayment that can never be done, and correlate it with the feeling of indebtedness to the dead (corpse). In one of his articles, "Leonard da Vinci," Freud quotes accounts of expenses for burial that Leonard documented when his mother died. These accounts are similar to Rat Man's symptom as a characteristic of compulsive neurosis. Also, we discuss Rat Man's anal erotic ideas about "rats," and show a lack in those ideas –that is "gift." This lack itself in Freud's interpretation expresses Rat Man's critical trouble. We conclude that Freud's interpretation always goes around death, and focuses on sexuality.
著者
本島 優子
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.299-312, 2007-03-31

本稿では、妊娠期の母親の表象世界の中でも特に重要とされる、お腹の子どもや母親としての自己についての表象に関して、主にアタッチメント研究領域で蓄積されてきた、これまでの実証的知見を概観・整理し、論考することとする。
著者
山本 一成
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.305-317, 2013-03-28

Understanding children's experience is an essential task for preschool teachers. It is also an important mission for research on early childhood education. This paper reconsiders research on the practice of early childhood education, to describe the experience of children and teachers, as part of the process of education. Experience cannot be described completely from a single perspective. Theories of description, such as phenomenology and ecological psychology, sometimes provide opposite views with regard to the theme of early childhood educational practices. Research on the practice, from a pragmatic view, cannot define the truth of experience. Truth and goodness are found by teachers as a practical consequence of utilizing the research. The contents of the research should be reconsidered in the process of utilization through dialogue among the text, practitioners, and other researchers. Research on the practice can contribute to the development of practices of teachers by working within their experience and produce continuous dialogue on the meanings and values of children's experience. Research on the practice of early childhood education is an endless inquiry to understand children's experience, and requires a respectful attitude toward a diversity of experience.
著者
太田 拓紀
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.318-330, 2008-03-31

This paper examined factors that lead university students to pursue a teaching career by focusing on their family backgrounds, A questionnaire survey was conducted among students in 18 universities to evaluate their father's profession, level of education in family, experience of lesson (e.g. sports, cramming school) in childhood and their outlook of the future. The results show that among the students pursuing teaching, the majority of their fathers are white-•collared businessmen, and less blue-collared businessmen and farmers. Further, these students have a stronger cultural and educational experience in their family. In addition, male students tend toward sports, while female students take music lessons in their childhood. On investigating the valuable factor in their future, it is found that students pursuing teaching are less status-oriented and more family-oriented. Finally, the author examined which factors affect the aspiration toward a teaching career from the above mentioned variables. Using multinomial logistic regression, variables such as level of education in the family, experience in sports and music, and family-orientation, raises the possibility of a student aspiring to be a teacher. In addition, it is inferred that family-oriented disposition of would-be teachers is related to "familism”, which is regarded as a tradition in teachers' culture.
著者
河井 亨
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.641-653, 2011-04-25

This paper attempts to clarify the lives of people that socially were becoming individualized by reviewing theories of G. H. Mead and E. H. Erikson of the relationship between individual and society. They were organizing their own lives rather than adapting them to their life course provided by society. The theories of Mead and Erikson, though they had been proposed in the early 20th century, were still eff ective to consider their own lives to be organized. Because of this, it was valuable to review and consider these theories. As a result, I found that the relationship between self and community could be located in the relationship between individual and society by reviewing Mead’s interactional social psychology, Erikson’s identity theory, and Mead’s social theory of practice. In this mediation, individuals’ selves were constructed in the communities and those communities consisting of society were also reconstructed by people’s involvement.
著者
稲垣 恭子 濱 貴子
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.1-23, 2013-03-28

In this paper, we will analyze the question, how do famous people from various professional worlds describe their memories of "teacher (mentor)," mostly in quantifiable terms. This paper adds to our knowledge by analyzing the results of a long-running monthly column in the Nikkei Shimbun entitled "My Resume (Watashi no Rirekisho)," which highlights differences according to one's occupation. When we consider this question for professions as a whole, our results can be divided into four categories: 1) a group in which most people describe deep and profound memories of their teachers (specialized professions), 2) a group in which most describe deep memories of only a few particular teachers (arts, entertainment and literary professions), 3) a group in which a large number of teachers are described but the descriptions are short and their depth is thin (bureaucrats), 4) and a group in which both the number of teachers described and the types of descriptions offered are few (company managers and politicians). This paper considers the details of these four professional categories to clarify the distinct characteristics of these types of people. The results indicated that the meaning of "teacher (mentor)" and the social status afforded to them differed depending on one's profession.