著者
新野 和暢
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.97-111, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第II部 :近代日本宗教史における〈皇道〉のポリティクス≫
著者
林 承緯
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.21-34, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第I部 :帝国日本と民間信仰≫
著者
コーカー ケイトリン
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.73-101, 2015

本稿の目的は,1960 年代年に土方巽が創始した暗黒舞踏(以下舞踏) における身体・肉体の 位置づけと,土方を中心とする共同生活の意義を,土方の弟子たちからの聞き取り調査に基づ いて考察することにある。それはまた,舞踏を追求する中で,その弟子たち,すなわち舞踏家 たちが日常実践を通じていかに自らの肉体を模索してきたのかを明らかにすることである。そして,その発言をもとに,肉体として生きることが,いかに人間の在り方を探究し,そして既存概念へ抵抗することになるのかを考察する。 舞踏は日本で始められた前衛的パフォーマンスであり,舞踏家は舞踏を踊る人の呼称である。 舞踏は革命と言われているほど,舞踊の世界に衝撃を与えた。そして,舞踏家は一生舞踏を踊る道を選ぶことで一般社会から外れていった。ここでは,肉体への重視が舞踏における芸術的かつ社会的姿勢であり,これは日々の実践によって実現していると主張する。本研究は,舞踏家7 人に聞き取り調査を行うとともに,それぞれの舞踏稽古の参与観察に基づいたものである。
著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.205-238, 2015

特集 : 領事館警察の研究朝鮮の独立運動,共産主義運動が盛んな間島に置かれた領事館警察は,日本の外務省警察組織の中でも最大規模のものだった。朝鮮人の運動を取り締まるため,在間島の領事館警察と朝 鮮総督府司法当局とは,協力して朝鮮人活動家らを逮捕・裁判・投獄する仕組みをつくった。 間島の領事館警察が逮捕し,朝鮮の裁判所に被告を送るというシステムである。 このシステムによって処理された最大の事件が,1925年から1932年まで5回にわたる間島共産党事件であった。領事館警察と朝鮮総督府は,被疑者が多数に上ると,取り調べや司法処理 の方法,拘禁場所の確保などをめぐって,意見の食い違いを見せた。さらには,中国共産党に加入した朝鮮人への治安維持法適用の可否をめぐっても,両者は対立することになった。その ため,5回の間島共産党事件で間島領事館から朝鮮の京城に移送された767名のうち344名 (45%) が不起訴,免訴,無罪となった。 治安維持法適用問題に関しては,朝鮮総督府の司法当局が間島領事館の見解に合わせて,中国共産党員にも同法を適用するという拡大解釈をしたため,間島と朝鮮の当局の見解が一致することになったが,事件の処理をめぐる両者の対立,軋轢は解決しなかった。1932 年日本は満洲国を樹立し軍事支配を強めたが,それに対応する形で間島の領事館は,間島と朝鮮との間の司法共助システムを変更した。それは,被疑者を朝鮮総督府に移送せず,間島で予審にかけることとし,間島に近い清津地方法院の裁判に送る一方,共産党員を検挙時に殺害するという方 策であった。
著者
小南 一郎
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.71, pp.1-68, 1999-03-26
著者
永岡 崇
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.143-158, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫本稿は, 近代日本において「神の声を聴く」という営みがどのような宗教史的・思想史的可能性をもちえたのかを, 大本を事例として検討するものである。大正期大本の思想・実践は, 異端的な神話的世界を語り出しながら, 近代国家が排除した霊魂との直接的交流の道を開くものであった。しかしそれは, 霊魂を統御するという志向性を, 近代天皇制ないし靖国神社などと共有していた部分もあったのではないだろうか。鎮魂帰神法は, 霊魂を発動させて, 鎮静させ, 序列化する試みといえるのだが, それは逆にいえば, 鎮静化させ, 序列化するための発動であり, 高級霊/低級霊, 立替立直/病気治しのヒエラルキーを確認・創出するものでもあったのだ。ただし, 実践のレベルではそのプロセスには不確定領域が広がり, 統御を逃れ出る霊魂の運動を可能にすることになる。出口王仁三郎や浅野和三郎の意図する秩序は越境する霊魂と過剰な欲望によって裏切られてしまうのだ。国家主義的神道の秩序世界を掘り崩す可能性を内包していたのは, じつは王仁三郎の思想・実践そのものではなく, 人びとの野放図な欲望の法‐外さではなかったか。そして, その欲望を賦活する仕掛けとして, 鎮魂帰神法システムは再評価しうるのではないだろうか。近代日本に生きた多くの人びとは, おそらく天皇制国家を下支えする心性と, そこから逸脱しようとする欲望の双方を抱えていたのであり, 鎮魂帰神法の思想と実践は, その両義的なありようを浮かび上がらせ, そこにはらまれる緊張関係を開示してみせるものだったということができる。こうして, 鎮魂帰神法が霊魂をとらえ損ねる営みであったというところにこそ, 近代天皇制国家の論理へと還元されえない民衆宗教としての大正期大本の可能性を読み取ることができるのではないだろうか。This essay reevaluates the significance of the technique of listening to divine speech in the history of religion in modern Japan, examining in particular the case of the Ōmoto sect. The thought and practice of Ōmoto in the Taishō period opened the way to direct communication with the spirits, and their mythical worldview was considered to be heterodox by the modern nation. Yet their practice shared with the modern emperor system and Yasukuni shrine an orientation towards controlling and organizing the spirits. The Ōmoto spirit-listening technique chinkon-kishin invoked, appeased, and assigned a hierarchical ranking to the spirits ; it invoked them in order to appease and assign the ranks of higher/lower and reconstructive/healing. In actual practice, however, indeterminate factors limited this control and let the spirits escape. The order established by Deguchi Onisaburō and Asano Wasaburō was betrayed by uncontrollable spirits and surplus desire. It was the excessive desire of the believers, not Onisaburō's system, that had the potential to undermine the premise of the State Shinto. Chinkon-kishin should be reappraised as a system that activated the desire of the people against the desire of the nation. This practice and theory illuminated the ambiguity of a popular desire that supported the emperor system and deviated from it at the same time, and thereby disclosed the unmitigated tension within the disposition of the people. This failure to capture the spirits illustrates the potential of Taishō period Ōmoto as a popular religion that could not be reduced to the logic of the emperor system.
著者
柴田 陽一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.105, pp.69-116, 2014

「大東亜戦争」期 (1941-1945年),京都帝国大学地理学教授であった小牧実繁は,「日本地政学」を標榜し,著書・雑誌・新聞・講演・ラジオなどさまざまなメディアを駆使したプロパガンダ活動をおこなった。けれども,国民の啓蒙を意図しておこなわれた彼の活動を可能にしたネットワークの存在,活動の社会的影響,プロパガンダの内容については,これまでほとんど検討されていない。本稿は,彼の著作をひろく利用することにより,彼のプロパガンダ活動の特徴と,その思想戦における役割を検討した。その結果,つぎの三点が明らかになった。すなわち,(1) 彼がプロパガンダ活動を多方面で展開できた理由に,当時の言論界で大きな力をもっていた情報機関 (内閣情報部・陸軍省情報部) や,スメラ学塾,大日本言論報国会,国民精神文化研究所とのネットワークが存在したことである。(2) 世界観というレベルの問題をとりあつかい,精神的側面を重視した彼のプロパガンダ活動は,全体としては当時の思想戦の動向と軌を一にしたものだが,単なる御用学者という言葉だけでかたづけられない側面ももちあわせていたことである。地政学的地誌を通じて彼が提示した独自の世界観に,この点がよく表れている。(3) 彼のプロパガンダ活動が当時の社会に影響を及ぼしたことは,おびただしい数の出版物や旺盛な講演活動などから間違いないが,活動の実質的効果については大いに疑問の余地が残ることである。
著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.103, pp.1-43, 2013

琵琶は,古代中世の東アジアにおいて最も流行していた楽器の一つである。小稿では,正倉院に伝わるタイプの琵琶の源流とその流伝について,新たな仮説を提起する。従来の研究では,とくにローマとの関連は考察されていないようであるが,琵琶をひいては伝統音楽をあるいはさらには東西文化の交流を総合的に検討するためには,見落としてしまってはならないであろう。「阮咸」は,中国起源あるいは中国系であるとされる。そういえないことはないであろう。ただし,その原初タイプは,西アジア系長頸リュートから2世紀頃から3世紀頃までに中国において分岐したものらしい。また,1世紀から3世紀頃の西アジア系長頸リュートの中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝における流伝は,ローマあるいはローマ文化圏と関連がありそうである。「曲項」は,ペルシャ起源とされるが,ローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから2世紀頃までに中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「五絃」は,インド起源とされるが,正確にはローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから3世紀頃までに南方インドのサータヴァーハナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「秦漢」は,詳細不明であるが,あるいはギリシア・ローマ文化圏の梨形直頸リュートの直系あるいはそれに近いタイプであったかもしれない。
著者
上野 大樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.107, pp.31-72, 2015

古典派経済学を確立し,それにもとづいて政府の市場介入を否定する徹底した自由放任策を 主張した論者としてアダム・スミスをとらえる見方は,こんにち様々な観点から相対化されつ つあるが,スミス像の多様化はひとつのイメージを結ばないほどに拡散の傾向を強めている。 本稿はまずスミス理解の見直しの動向をいくつかの類型に整理する。そして,スミスの全体構 想のなかで狭義の経済学は決して自己完結した体系ではなく,人間本性をめぐる道徳理論や公 法学での歴史社会学的考察を前提としたものであったことを指摘する議論とは別に,スミス経 済学じたいが実は統治技法ないし立法者の科学として構築されたことを強調するタイプの議論 を区別し,後者に焦点をあてる。P. ロザンヴァロンやI. ホントの古典的研究を,この統治技法 としての政治哲学の伝統のうちにスミスを位置づけた研究として再解釈し,従来の政治哲学が 長きにわたって格闘してきた統治の根本課題を把握しなければ,スミスがその経済学によって 解決しようとした問いがどのようなものであったか理解できないということを指摘する。その 意味で,スミスの経済学とされるものは現代的な意味での「経済学」ではなく,なによりまず 政治哲学として理解されねばならない。そのうえで,スミスの試みが同時にその政治哲学の伝 統を大幅に刷新するものであったことも銘記する必要がある。社会の総体を「市場社会」とし て再描写することによって,社会介入という伝統的な政治の手法に拠らずとも,社会全体の分 業の進展によって全般的富裕が達成されてよく秩序だった社会は自生的に形成されることを, スミスはあきらかにしたのである。また,社会的分業が作為的な介入を受けずに自然な順序に 従って進んでいくならば,国内的には農工商の均衡のとれた安定的な国民経済が実現するとと もに,国際商業も重商主義者が考えるようなゼロサム・ゲームの下での苛烈な国際競争である ことをやめ,国内商業の延長に全般的富裕を可能にするような「穏和な商業」が出現するとス ミスは見通した。政治的境界に規定されない可変的な国民経済は,それぞれが市場を拡大する なかでやがて非政治的に統合された帝国を現出させるというのが,スミスの「ユートピア的資 本主義」のヴィジョンであった。
著者
東島 仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.129-144, 2011-03

近年,心・行動の生物学的な基盤を遺伝子の働きや遺伝情報を手掛かりに探る心・行動の生命科学が,急成長を続けている。その進展には,公共の福祉への大きな貢献と同時に,多くの社会・倫理的な課題が伴うことは人類の歴史から明らかである。本稿では,心・行動の生命科学の研究領域で世界的な注目を集め,今や100名に1人が持つとも言われる自閉症スペクトラム障害に着目し,関連領域の学術的な発展に伴う障害概念の変遷と,社会的影響を論ずる。自閉症スペクトラム障害概念、が形成される道のりは,医学的な症例研究に端を発した心・行動の生命科学研究における自閉症スペクトラム障害領域の発展と展開,そして社会との関わりの歴史である。本論では,まず自閉症スペクトラム障害を取り巻く世界,そして我が国の社会的な状況を概観する。次に,医学や生命科学が科学表象の産出を通じて該当概念、を形作る歴史的な流れを振り返る。そして,生命科学によって自閉症スペクトラム障害の生物学的な基盤が解明され,様々な技術が開発される過程で現代社会にもたらされつつある課題を考察する。
著者
水野 直樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.81-101, 2011-03

本論文は, 2009年に発表した拙稿「植民地期朝鮮における伊藤博文の記憶」(伊藤之雄・李盛煥編『伊藤博文と韓国統治』ミネルヴァ書房)の続編である。1932年日本支配下の京城に, 伊藤博文を祀る仏教寺院博文寺が建てられたが, そこで起こった最大の出来事は, 安重根の息子と伊藤の息子との「和解劇」であった。伊藤の死から30年後の1939年10月, 上海在住の安俊生と東京在住の伊藤文吉が京城で会見をし, ともに博文寺を訪れて合同の法要を行なった。それを報じた新聞記事では, 父の罪を詫びる安俊生とそれを受け入れて「内鮮一体」に努めることを慫慂する伊藤文吉の姿が強調された。この和解劇には, 朝鮮総督府外事部が深く関与し, 長年にわたって朝鮮独立運動を取り締まってきた警察官相場清, 安重根裁判の朝鮮語通訳を務めた園木末喜が安俊生の言動を左右する役割を果たした。その後, 安重根の娘夫妻が博文寺を参拝するという後日談もあった。「和解劇」とその後日談は, 総督府が植民地統治の成果を宣伝するために演出したイベントであったのである。
著者
髙津 茂
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.127-141, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫
著者
鈴木 洋仁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.117-139, 2014-06-30

本論文は、「戦後」において「明治」を見直す動きを、桑原武夫と竹内好の言説を対象に議論している。桑原と竹内が、「もはや戦後ではない」昭和31年 = 1956年を境に行われた「明治の再評価」をめぐる議論の意味を指摘する。「明治の再評価」を最初に唱えた一人・桑原にとっての「元号」は、西暦とは異なる、日本固有の時間の積み重ねだった。それは同時に、昭和20年 = 1945年に始まる「戦後」という時間軸よりも、「昭和」や「明治」という時間の蓄積に親しみを抱く世間の空気でもあった。そして、桑原もまた、「元号」と同様に、世の中の雰囲気を鋭敏に察知するアイコンでもあった。対する竹内は、「昭和」という「元号」を称揚する復古的な動きに嫌悪感をあらわにし、「明治」を否定的に回顧しようとしつつも苦悩する。「明治維新百年祭」を提唱した理由は、その百年の歴史が、自分たちが生きる今の基盤になっていると考えたからこそ、苦悩し、ジャーナリズムでさかんに発言する。このように本研究では、「明治百年」についての複数の言説の中で、日本近代に対峙した代表的な2人の論客が「元号」に依拠して明らかにした歴史意識を対象として、当時の知識人と社会、学問とジャーナリズムの関係性もまた見通している。
著者
森田 真也
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.35-47, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第I部 :帝国日本と民間信仰≫

5 0 0 0 OA 漢學の成立

著者
井上 進
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方學報 (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.223-319, 1989-03-31
著者
瀧本 哲哉
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.193-222, 2020-06-30

戦間期の京都には花街(貸座敷免許地)が16か所あり, 京都府内外から大勢の遊客が花街を訪れていた。全国的にみた京都花街の特異性は, 人口や工業生産額との対比でみて娼妓数が他府県と比べて際立って多いことである。当時の京都は「繊維の街」であったが, 「遊廓の街」でもあったのである。1920年代前半に芸娼妓数が急増し, 遊客数や遊興費も増加して, 花街はおおいに賑わった。その背景としては, 府内の繊維産業の業況回復に伴って遊客の遊興費支出額が増加したこと, 1928年(昭和3年)の昭和の大礼による観光客の増加が遊客数の増大につながったことが挙げられる。戦間期の京都府内の花街は, 芸妓主体の花街と娼妓主体の花街(遊廓)に分化していく過程にあった。芸妓主体の花街は, 1930年代に入ってから芸妓数が減少し, 遊興費も落ち込んで地盤沈下していった。一方, 娼妓主体の花街(遊廓)では, 1930年代前半も郡部を中心に娼妓数や遊客数の増加が続いた。京都花街の経済的な位置付けをみると, 芸娼妓は毎月多額の賦金や雑種税を京都府に納付していた。その金額規模は, 商工業者等に課される京都府税の3割前後にまで達しており, 不況期には芸娼妓の税額が府税落ち込みの下支えの役割を果たした。そして, この恩恵を享受していたのは専ら京都府民である。また, 花街が吸い上げた遊興費は, 1920年代前半には京都府歳入総額にほぼ匹敵する規模にまで達していた。さらに, 花街では数多くの芸娼妓が稼業を営んでおり, 衣装代などの多額の支出を行っていたことから, 呉服商など関連業界は大きな恩恵を受けていた。このように, 花街は消費経済の主要な事業体として京都経済に組み込まれており, 地域経済の循環の一翼を担っていた。芸娼妓は賤業と蔑まれながらも, 納税などを通じて京都経済の発展に寄与していた。京都府民も間接的に芸娼妓から搾取していたのである。