著者
趙 陽
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.205-223, 2014-12-20

『恐怖分子』(1986年)は「台湾ヌーヴェルヴァーグ」の旗手エドワード・ヤンの初期作品である。この映画は彼の集大成作品『ヤンヤン夏の想い出』(2000年)へいたる軌跡において,きわめて重要な転換点をなしている。本稿は先行研究ではほとんど分析されていない映画におけるフレームの問題に注目する。まずは自由に運動する映画のカメラという側面から出発し,本作で使われた三つのカメラの水平運動に注目する。これらのカメラの水平運動は映画の物語に寄り添いつつ,そこから独立していく。映画のカメラは人為的なコントロールから逸脱する無機的な運動を行い,その果てにある対象を切り取る。本稿はこのような水平運動するカメラのショットを分析するために,写真と関連付ける。なぜならその動きは明らかに写真的な運動だと言っていいからである。しかし『恐怖分子』のカメラは,写真機にただ附随しているに過ぎないというわけではない。本稿は『恐怖分子』の静止した映像としての写真に対する批判を明らかにするために,『欲望』という作品を参照する。『欲望』では写真機の停止=切り取りが重視されており,『恐怖分子』は写真機の運動自体を重視し,さらにその無機的な運動という性質を写真以上に貫いていく。『恐怖分子』において,切り取られた対象はやがて解体されていく。最後に,カメラの水平運動をめぐる分析を踏まえた上で,本稿は一枚の顔写真の頭部を映したショットを取り上げる。それは複数の印画紙によって構成されている登場人物の一人の不良少女の顔である。画面外から入る風によって,写真用紙は吹き飛ばされそうになる。本稿の観点から見れば,画面外から入る風がカメラの水平運動そのものである。このショットにおいて,カメラの画面外に向ける無機的な運動は映像の内部に発生する運動に変わっていく。この映像の内的な運動こそが,映画のフレームのもう一つの側面に当たる。具体的なショットの分析によって,映画特有のカメラの運動と映像の運動の性質が見えてくる。そしてエドワード・ヤンは映画を作りながら,映画というメディアに強い自意識を持っている映像作家であることが明らかになるだろう。
著者
平井 上総
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学文学研究科紀要 (ISSN:13460277)
巻号頁・発行日
vol.144, pp.1-45, 2014-11-25
著者
平野 葵
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.105-116, 2014-12-20

本稿は、村上春樹『ねむり』の主人公「私」と、作中で「私」が読むレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』に登場する女性たちとを、母/娘/妻としての側面を中心に比較・検討することによって、これまで女性表象に関して批判されることの多かった村上作品における、『ねむり』の位置づけ及び評価を行うものである。『ねむり』の語り手であり、息子を持つ専業主婦の「私」が直面する母性愛の揺らぎと沈黙、そして彼女が迎える暗い結末は、社会が敷いた暗黙の規範から逸脱してしまった女性の、その出口のない苦悩と恐怖とを表している。村上春樹の初期作品では、視点人物の男性には見抜けない不透明な沈黙として女性の問題が描かれており、問題そのものよりもその不可視性の深刻さを提示する傾向にあった。しかし近年の作品では、女性視点を導入し、女性に対する家庭内暴力や性暴力や、妊娠・出産などの母性に関わる問題を、可視的に描く方向へと変化している。この小説では、語り手である女性が、自身の母性愛の揺らぎを吐露しており、『ねむり』(当時は「眠り」)が発表された時期やその前後の作品の傾向から、前述の変化の転換点に位置する作品として捉えることができる。しかし手法の変化を経つつも、村上作品は処女作『風の歌を聴け』から近年の長編小説である『1Q84』『色彩を持たない多崎つくるや、彼の巡礼の年』に至るまで、初期から現在まで継続して母娘関係や母性にまつわる物語を描いてきたのであり、そしてこの『ねむり』という小説は、不眠や悪夢という極めて非現実的な設定を用いることによって、母/娘たちが抱える非常に現実的な問題を抉り出した、現代社会のアレゴリーとして機能しているのである。
著者
閻 慧
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.55-70, 2014

本稿は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の改稿に関して考察するものである。周知のように、「銀河鉄道の夜」は、数回の改稿を経ることにより、多彩な容貌を持っているテクストである。その多面性を捉えるため、各次稿の間の改稿過程をどのように受け止めるかは、無論重要な問題となる。従来の研究においては、「銀河鉄道の夜」の改稿問題が焦点となっているもののうち、初期形〔三〕と後期形との間に行われる改稿を中心に論じるのが圧倒的多数である。つまり、テクストの初期形〔一〕から初期形〔三〕までに行われる改稿はこれまで看過されたきらいがある。そこで本稿では、新校本全集に収録された「銀河鉄道の夜」のテクストを参照し、まず初期形内部の変容を把握し、ついで初期形から後期形までの改稿について考察する。まず、初期形〔一〕と〔二〕の特徴について考えてみる。両者において、質的な差異は殆どない。ブルカニロ博士の全能性と実験という枠組みに注目すれば、初期形〔一〕と〔二〕をブルカニロ博士の実験記録として見なすことができる。次に、初期形〔二〕から初期形〔三〕まで、作中の現実世界に関する加筆に注目し、ジョバンニを苦しめる現実状況および彼が持っている逃走願望を読み取る。そこで、ジョバンニが焦点化されることによって、初期形〔三〕を彼の逃走物語として読むことができる。続いて、後期形における労働するジョバンニの設定が誘発した鳥捕りとの関係の変化、またジョバンニの父の帰還とカムパネルラの水死についての改稿を中心に、分析を行う。それによって、変容する後期形の姿が明らかになり、ジョバンニの行方の未定着によって、「銀河鉄道の夜」という作品の未決性が見出される。以上のように、「銀河鉄道の夜」が実験記録から未決の物語までの改稿プロセスを考察する。それと同時に、初期形〔一〕から後期形まで貫通している、ジョバンニの切符、金貨、牛乳などのモチーフの役割・意味についても吟味する。「銀河鉄道の夜」の物語に潜在する未決性、また共通するモチーフの多義性の分析によって、新しい読み方を示唆する。
著者
呂 晶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.161-178, 2016-01-15

私たちが暮らす社会には,あらゆる場所に,あらゆる姿をした広告が存在 している。広告を目にせずに,一日が過ぎるということは,まずないと言っ ても過言ではないであろう。そして,私たちは生まれたときから,大量の広 告に囲まれてきており,誰もが広告を水や空気のような「存在して当たり前 のもの」と受け止めていると見ることができるように思われる。また,広告 は多種多様な媒体によって伝達されているが,本稿は,印刷媒体を使った広 告を中心に扱い,それらの広告におけるキャッチコピーを考察の対象にする。 なお,キャッチコピーの形式に注目すると,中には平叙文,疑問文,命令 文などのような文の体裁をなすものもあれば,「羊の数だけ感動があるニュー ジーランド」のような文の体裁をなさない広告表現もある。本稿では,後者 のような広告表現を非述定文と呼び,統語論と語用論の観点からこの種の広 告表現について考察する。考察の結果,広告における非述定文には,名詞か らなるものと感動詞からなるものの二種類があることがわかった。そして, 用例のほとんどは,前者の名詞からなる非述定文であることもわかった。広 告における名詞からなる非述定文は,普通の非述定文と比べて,その構造が 複雑となっており,連体修飾構造を持ったものが多い。また,広告における非述定文の発話機能に間していうと,名詞からなる非述定文は《感情表出》と《情報提示》を表すことができ,感動詞からなる非述定文の発話機能は《感情表出》であると考えられる。
著者
梅木 佳代
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.35-67, 2016-01-15

本稿は,エゾオオカミ(Canis lupus hattai)に関する従来の研究動向を概観し,個々の論点における現状の到達点と問題点を整理することを目的とする。日本国内にかつて生息していたエゾオオカミおよびニホンオオカミ(Canis lupus hodophilaxあるいはCanis hodophilax)は,どちらも明治時代に絶滅した。これら在来のオオカミに対する関心は高く,明治時代以来さまざまな形で情報の発信と蓄積が行われてきた。しかし,その内容や成果の全体が整理されまとめられたことはない。本稿では明治時代から現在までに刊行された日本のオオカミについて記述がある文献を収集し,そのうちエゾオオカミに言及する213件の文献を分析対象としてその研究史を検討した。これらの文献の内容から,従来の知見の多くが限られた事例に基づいて提唱されたものであること,その妥当性の評価が行われていないことが示された。エゾオオカミに関する研究・議論においては,北海道内にオオカミが生息していた期間の記録や情報,そして確実な標本資料の双方が非常に少ないことが常に議論の前提とされてきた。しかし,専門的・学術的な議論の中ではそうした前提をふまえた「仮説」として提示された記述が,繰り返し参照されるうちに定説と化している。また,限られた情報に基づいて提唱された知見が一般化される一方で,エゾオオカミに関する情報や資料を体系的に収集し,情報を質・量ともに拡充しようとする試みはごく一部にとどまっている。今後のエゾオオカミに関する研究では,既存の知見の妥当性の評価が求められると同時に,検討対象とするべき情報や事例の数を増やすことが優先的に目指されるべきである。
著者
王 玉輝
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.173-186, 2016-12-15

本稿は、中国映画における分身の表象およびその歴史的展開について、欧米の映画理論とその他の諸言説に関わらせながら史的に考察することを課題とする。まず中国映画史を軸に、一九四九年までの民国期、一九四九年から文化大革命が幕を閉じる一九七六年までの共和国期、文革後から今日に至る改革開放期という、中国近現代史の流れに沿った三つの部分に分けつつ、中国映画における分身表象のそれぞれの相貌を捉え、その歴史的展開を描き出す。次に、中国の第四世代の監督黄蜀芹による『舞台女優』(人鬼情、1987)を取り上げる。本稿では、「重層的な鏡像と分身」、「反復と分身」、「フェミニズムと分身」といった諸点に絞りつつ、同作品を具体的に考察するが、このことを通して、中国映画史の研究分野において分身論の視点による映画史の再構築を目指したい。
著者
劉 暁苹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.179-194, 2016-01-15

日本語では,未完結の形を通して表現することによって,様々な伝達の効果を目指すストラテジーの一つである未完結の発話が選好されている。本稿は,形式上は未完結でありながら,意味機能が完結しているような従属節のみで終わる発話を言いさし文と定義し,新たな構文としての言いさし文の形成過程と構文特徴を明確にする。 まず,先行研究に基づき,従属節のみで終わる発話の用語を整理した上で,言いさし文という表現の使用を規定し,その定義づけを行う。そして,構文形成の要因によって,言いさし文を「意味論的な省略による言いさし文」「語用論的な省略による言いさし文」「付加による言いさし文」の三種類に分けた上で,本稿の考察対象を「意味論的な省略による言いさし文」に限定する。 最後に,意味論的な省略による言いさし文は,表現の慣習化や文法化によって生まれたものが多いので,典型的な定型表現の例として,「なければならない/なくてはならない」の省略による「なきゃ/なくちゃ」言いさし文,「ないとならない/いけない/だめだ/困る」の省略による「ないと」言いさし文,「たら/ばどう」・「たらどうしよう」・「たら/ばよかった/いいのに」の省略による「たら/ば」言いさし文,「って言った/聞いた」の省略による「って」言いさし文を詳しく考察する。
著者
榎本 亮子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.15-36, 2014-12-20

本研究は,世界自然遺産小笠原諸島における生態系保全活動に関わる人々と動植物の関係性の変遷を追うことにより,保全の現場における「自然―文化」の協働のプロセスを描き出すことを目指すものである。小笠原諸島をはじめ生態系保全の現場では,しばしば「外来種」や「固有種」,「在来種」といった「種」の分類法に基づいて保全が行われる。本論は生物学的,生態学的にしばしば自明のものとされるこの「種」の概念に着目し,その曖昧さと生物分類上の恣意性を踏まえたうえで,「生態系」および「生態系保全の現場」をどう捉えるかについて論じた。その捉え方として提示したのが,「自然―文化」の協働のプロセスとして現場を捉える視点である。生態系保全の現場では,人間は自らを含む生態系のなかで対話的に認識を得ながら実践を進めていく。そこで生まれる関係性は,保護や駆除の対象とした「種」で境界づけられた動植物との関係性だけではない。人間は,生態系という個々の生物たちのあいだで絡み合う複雑な関係性の網の目に,予期せず埋め込まれていく。個々の人間と動植物が,生態系保全の実践を通して「自然―文化」の直接的な関わり合いの中で出会い,多様な関係性を築くことによって,現場では,ときには「種」の枠組みを越えた認識と関係性が生まれ,ときには自然遺産登録された小笠原諸島の地理的な境界を越えた「生態系」の広がりを見せる。このような生態系保全の現場は,「自然―文化」のハイブリッドであり,多様な「自然―文化」が織りなす協働のプロセスである。また,小笠原諸島は遺産現場でもある。「自然―文化」が協働で現場をつくり変化することを前提とした,「自然―文化」の協働のプロセスという考え方は,自然遺産か文化遺産かの区別なく遺産現場を捉え得る「リビングヘリテージ」の観点に通じるものである。この観点から自然遺産現場である小笠原諸島を捉えると,小笠原諸島もまた,「リビングヘリテージ」の側面を持っているといえよう。
著者
大山 隆子 大山 隆子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.135-155, 2017-11-29

接続助詞「し」の規範的用法は「並列」を表し「この町は自然が多いし,きれいだし,便利だ。」のような使用である。しかし,最近,若者を中心に「きれいだし。」のように「従属節し。」のみで終わる使用が観察される。このような従属節のみで終わる現象は白川(2009)では,「言いさし」の現象と呼ん でいる。これらの「し」は,先行研究で述べられている「し」の用法の中の「婉曲的用法」とは異なり,話し手の強い伝達態度を表す機能を持つものと考えられる。本稿では,先ず「し」の統語的特徴について述べ,次に「し」の語用論的機能について考察する。また「し」と出現位置が似ている終助詞の「よ」と接続助詞の「から」が談話の中でどのような語用論的機能を持つのか比較分析する。 考察の結果としては,「し」は「理由」となるものが複数存在する時は「~し~し~。」と「並列」を表し,また「~し,(~,~)」のように「非並列」の場合は,複数の理由の存在を暗示できる。また「理由」を(実は)一つしか持たない場合は,「~し。」の形で打ち止め,あたかも理由が複数あるかの ように示す談話効果を持つと考えられる。 また「し」,「よ」,「から」は談話標識として「発話する情報についての話者自身の伝達上の態度を示す」機能を持つと考えられる。「し」は「発話内容については判断済みの態度であり,「聞き手への受容要求」については,考慮しないが,効果を示せる。聞き手あるいは,周りと同一認識状況では使用しにくい。反論に使用できる。」などの特徴があると考えられる。 また比較対象とした終助詞「よ」の機能を分析すると,その違いは大きいと言える。「よ」はもともと終助詞であり,「聞き手との関係において」用いられるが,「し」は「変更の可能性がない結論を聞き手に表明する態度である」と言える。「よ」はまた,談話管理は話し手が行い,相手と話す態度を残している。「聞き手への受容要求」があり,聞き手あるいは,周りとの同一認識状況でも使用できる。 次に接続助詞「から」との比較であるが,二つは同じ接続助詞の種類であるが,「から」は「論理関係標示接続」であり,「し」は「事実関係認識標示接続」である。この違いから,「から」は前件で確実な根拠・理由となり得るものを挙げ,後件での行動を促す機能を持つ。一方「し」は論理関係ではなく,話し手が認識した事実をつなぐものである。「言いさし」になっても,これらは二つの違いとなって表れているものと考える。
著者
王 玉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.83-104, 2014

大正七年(一九一八年八月)、鈴木三重吉は「世俗的な下卑た子供の読みものを排除して、子供の純粋を保全開発するため」の話及び歌を創作し、世に広める一大運動を宣言し、『赤い鳥』を発刊した。しかし、創作童話、童謡以外にも、鈴木三重吉の手による作品をはじめとする、多くの再話作品が『赤い鳥』において重要な位置を占めている。特に、第一次世界大戦中にヨーロッパの思想、文化がこれまで以上に流入するようになったことにともない、欧米の昔話の再話が『赤い鳥』に数多く掲載された。「私は、これまで世の中に出ている、多くのお伽話に対して、いつも少なからぬ不平を感じていた。ただ話が話されているというのみで、いろいろの意味の下品なもの少なくない」と当時の児童文学を手厳しく批判した三重吉は、積極的に芸術性の高い海外の作品を日本の子どもたちに紹介しようとした。しかし、外国昔話の再話作品が、どういう基準で選ばれたかはまだ明らかになっていない。ところで、昔話は残酷な場面が多く、子どもに向いていないという説があるが、大正時代の代表的な児童雑誌として、『赤い鳥』における昔話の再話作品に「殺す」「殺される」など「殺害」もそのまま残っていることが多い。「殺害」が残された理由として、昔話における「殺す」「殺される」というモチーフが単に残酷性を表わすものではなく、独自の意味を持っていることが挙げられる。本論は『赤い鳥』の欧米昔話の再話作品群を中心に、作品中の「食べる」「食べられる」「殺す」「殺される」などの場面を取り上げながらその特徴を明らかにし、そこに現れた三重吉を代表とする『赤い鳥』の編集方針とその意図を検討したい。