著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.73-84, 2016-12-15

ホラー作家として知られるStephen King(1947-)のThe Body(1982)は,作家がホラー小説を書くことについて自己言及的に表現している。この作品は小説家を語り手として,行方不明の同級生の死体を発見しようとした幼い頃の経験を描いている。その冒頭で,これから始まる物語は「言葉では言い尽くせない大切な経験」だと語り手は宣言する。対象を言語化するのが困難であることを認めることは,そのこと自体が自身の作家としての存在意義に疑義を提示するように見える。だが語り手は,言葉にしづらいことがらを,誰もが見聞きしたことのあるホラー小説のクリシェを用いて表現することによって,その対象が恐怖の形をとって体験可能なものに置き換えている。こうして,言葉に言い尽くせぬものは体験される。このことを小説家志望の幼い語り手を通して表現した上で,King はさらに,小説家として大成したのちの語り手の目線で物語を回想させることにより,物語にメタ的な視点を導入している。冒頭で「言葉では語り尽くせないものだ」と述べられた体験は,事実プロット上で幼い語り手たちにとって決して口にしてはならない秘密となった。だが作家は,成長した語り手がそうするように,その秘密を語らなければ小説を執筆することができない。ホラー小説のクリシェの形にして語り尽くせぬ対象を暴露することが,King にとっての創作なのである。Stephen King 作品における倫理性や文学史との連続性はすでに研究されつつあることだが,ジャンル作家としての位置づけからか,やはりいまだKing 作品が積極的に評価されているとは言いがたい。本論は,作品論の視点から,これまで言及されることのなかったKing の作家としての自己意識を指摘する。
著者
風間 伸次郎
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北方言語研究 (ISSN:21857121)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.35-68, 2017-02-15

In the present paper I examined some converbial forms of Turkic, Khalkha Mongolian, Korean and Japanese by elicitation in order to reveal their range of function and the criteria to make proper use of them. From the crosslinguistic viewpoint, a typical conditional form tends not to be used for an event such as mado=o aketara tumetai kaze=ga haitte kita (When I opened the window, a cold wind came in). However, the Altaic-type languages such as Japanese often have so-called pseudo-conditional forms which are multi-functional and realize a wide meaning not only of conditional but also temporal, causal and concessive. On the one hand these pseudo-conditional forms exhibit the functional continuity to the proper conditional, and on the other hand they exhibit the functional continuity to the sequential. The results of the research are summarized in Table 1.
著者
呂 晶
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.161-171, 2014-12-20

広告表現の解釈プロセスを考察する際,それを形式と意味という二つのレベルに分けて考えなければならないと思われる。本稿では,前者を「形式処理」,後者を「意味解釈」とそれぞれ呼ぶことにする。広告表現の形式処理は,その下位分類として,表意復元と逸脱修正が挙げられる。表意復元は,形式的不完全な広告表現を詳細化によって完全な文形式に復元する作業である。逸脱修正は,統語規則に違反するもの(逸脱)を正しい表現に修正することである。なお,広告の意味解釈に際して,受信者は,まず,広告表現の文意味を理解する。そして,文脈から得られたいろいろな情報を用い,発話レベルで意味解釈を行う。広告の解釈では,既存の文脈情報が極めて少ないので,文脈創成というプロセスが行われている。文脈創成によって架空の文脈を作り出し,それを既存の文脈と合わせて,広告解釈に充足な文脈を揃える。その後,文脈情報を用いて,幾つかの段階を経て得られた推論は推意である。この推意は,結局,受信者の知識記憶に収蔵されると考えられ,必要な時に知識文脈として働き,受信者の行動に影響を与えると考える。
著者
侯 乃禎
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1-10, 2018-12-26

『善の研究』と『場所的論理と宗教的世界観』は,西田幾多郎の最初期と最後期の論文である。この二つの論文の刊行時期は三十年以上離れているが,「宗教を説明する」という一貫した主題を持っている。本稿はこのことを手がかりにして,その二つの論文を比較し,それらの内在的な関係を明らかにしたい。まず,『善の研究』の第四編において,「純粋経験」という原理にしたがって宗教を説明する方法には,哲学と宗教を混同する危険があることを示す。次に,『善の研究』を『場所的論理と宗教的世界観』と比較し,この二つの論文の異同を明らかにする。最後に,『場所的論理と宗教的世界観』において西田は,宗教の独自性を保ちながらそれを説明するために,「逆対応」という概念を用いて,宗教自身の論理に主眼をおいていることを示す。
著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.209-228, 2017-11-29

今村昌平は「テーマ監督」である。すなわち今村の作品群はその時期々々において特定のトピックや主題を軸に構成されていることを示す。主題におけるそういった反復は,監督自身によって「ねばり」と呼ばれた。その表現を借りれば,最初の「重喜劇」とみなされる『果しなき欲望』(1958年)以降, 今村は売春・強姦・近親相姦という3つのテーマにねばっていた。作品ごとに重点の置き方は異なるが,1968年までの全ての娯楽映画(『にあんちゃん』を除き)において,いずれもその主題は3つのテーマのなかから少なくとも2つ以上は選び取られているといえる。 1964年制作の『赤い殺意』は藤原審爾の東京を舞台に可愛い印象の女性が強姦されるという小説を原作にテーマのみを借りた,今村昌平ならではの映画作品である。強姦を主題に近親相姦的な要素も加えて物語の舞台を監督の憧れた地方,東北へもっていった。主人公の貞子は,仙台の郊外において農地を所有する高橋家の若妻である。強盗に犯されてしまったあと強くなってゆき,彼女をまるで女中のように扱いしていた姑との上下関係を逆転させ家の権力者に上昇する。 本論文では社会学と作家の志向から離れて,いくつかの新しい観点を導入する上で作品そのものに絞って分析を行なう。変化する立場において彼女自身が如何に変貌し,どのような行動をとるかという二点をめぐって『赤い殺意』を考察する上で今村昌平が「重喜劇」と呼んだ60年代の作品群と関連付けて結論を述べる。
著者
堅田 諒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.141-155, 2018

本稿ではジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(Faces,1968)の作品分析をおこなった。従来の研究では,作家の伝記的事実ばかりが強調され,個々の画面に基づいた「ショット」や「カメラの運動性」の分析はなおざりにされてきた。したがって本稿では画面から出発し,作品のもつ豊饒さに接近したい。第1章では,本作の最も支配的なショット形態である「顔のクロースアップ」の機能と効果を分析した。カサヴェテスの顔=クロースアップは,物質性や触覚性,カメラの機械的な運動性が発露する場であり,とりわけ観客の能動的な見る意志を刺激する。第2章では,身体に目をむけた。『フェイシズ』における顔は,雄弁に何かを語ろうとするものの(たとえば人物の感情),結局何も語らないものであり,一方,身体はその寡黙さゆえに,図らずも主題があらわれる地点となる。「中年と若者」「中年の欲望」などの主題と身体はかかわる。第3章では,空間とコミュニケーションの観点から,顔/身体それぞれを考察した。一階と二階はそれぞれ異なる性質をもち,とくに一階では身体が後景においやられ,反対に顔が前景化することを明確にした。第4章では,映画ラストシーンの階段という中間的な狭間の空間と身体の関係を分析した。この特異な空間に座るリチャードとマリアを分析することにより,映画のいくつかの諸相,空間や時間性の混淆が生じることを明らかにした。階段というカサヴェテス的トポスでは,両極性が混在し,とりわけ身体において過去と未来の時制が呼びよせられ,同時的共存を果たしている,というのが本稿の論旨である。
著者
余 迅
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.159-171, 2016-12-15

『王先生』は、1928年から1937年にかけての10年間に、著名漫画家の葉浅予(1907-1995)が創作した連環漫画作品である。中国漫画史においては、連載期間が最も長い連環漫画と考えられてきた。『上海漫画』の第一号にはじめて姿を現し、徐々に漫画界の注目を浴び、広範な大衆の間で熱狂的な人気を博した。先行研究ではしばしば、『王先生』が「官僚の世界の腐敗を暴露し、下層社会の人民に対する同情を表現した」と指摘されたが、本来の主旨、及び表現論のアプローチからの分析などはまだ十分とは言えない。本論は、二つの部分から構成されている。論文の前半では、まず、『王先生』がジョージ・マクマナスの漫画『親爺教育』からどのような影響を受けたかについて考察した。当時の上海において、英字新聞『大陸報』(China Press)に掲載された『親爺教育』(Bringing up Father)は非常に人気があった。葉浅予は読者を引きつけるため、この漫画を模倣し、中国初の長編漫画を創作した。しかし、この『王先生』は単純な模倣作品ではなく、新たな「上海漫画」として生成されたことを本稿では明らかにした。また葉浅予が『親爺教育』における「妻の尻に敷かれる夫」の話から出発し、テクストの空間を広げ、私的空間から公共空間への流動性を示していたことも発見できた。後半では、王先生を例として取り上げ、表現論のアプローチにより、草創期の中国連環漫画と映画の相関について考察した。また、「逃走-復帰」の主題をめぐり、『王先生』から感じられる人物の「動き」についても検討した。 その結果、草創期の中国連環漫画では、映画からの影響が顕著に見られる。「映画の撮影」や「映画の鑑賞」に関する取材が行われただけではなく、映像文法がコマの間に投入されるため、そこに緊密な繫がりが感じられる。また、漫画家たちは、多くの視点から、ある事件が発生した過程を表すため、連続のコマを読むとき、読者に「運動」の意味を感じさせる。
著者
石川 まりあ
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.69-80, 2016-01-15

カレン・ラッセルの短篇〝Reeling for the Empire"(2013)は,歴史的事実 とファンタジーの混じりあう,一種怪奇的な作品である。舞台は,殖産興業 によって近代化を推し進める明治日本。官制の製糸工場に集められた貧しい 少女たちは,帝国の斡旋人に騙されて奇妙なお茶を飲まされ,みずからの腹 で絹糸を生産する蚕と人間の「あいのこ」に変身させられてしまう。設定の 奇想性をおけば,その筋立て上は,工場に拘束され搾取されるヒロインが抵 抗の道をみいだし,自由の獲得をめざすという,古典的な主題が目を惹くか もしれない。ただし,伝統的なフェミニズムの枠組みを援用しつつも,ラッ セルは,「過去の選択」をめぐるより普遍的な問題を描きだしているのではな いだろうか。自らの悲惨な境遇を決定づけてしまった労働契約の瞬間を悔み, 自責に苦しむ主人公キツネの姿からは,取り返しのつかない過去といかに向 きあって生きていくか,という根本的な主題が浮かび上がる。それを考える 手がかりとなるのは,物語の中核をなす「糸繰り」(reeling)のモチーフに織 りこまれた,過去-現在-未来の関係性である。女工たちが日々を費やす糸 繰り作業の一方方向の回転運動は,時間の不可逆性とリンクし,二度と過去 には戻れないという絶望を生む。しかし,この力学を通常の糸繰り作業なら ば故障とみなされる「逆回転」へと反転させたとき,「間違った方向」である はずのその現象こそが,過去との関係においては有効な生存戦略となる。キ ツネと仲間の女工たちは,糸繰りをつうじて,三つの過去との向きあいかた を試行する―
著者
齊田 春菜
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.51-66, 2018

本稿は,円地文子の「老女もの」の初期作品にあたる「蛇の声」を少女表象から検討を試みるものである。これまで研究史において「蛇の声」を含む一連の円地の「老女もの」は,老女のセクシュアリティに注目した読解が中心であった。しかし,一方で見落とされがちであるのは,これらの円地の作品で描かれる老女たちが少女と関係があったり,重なったりしていることである。また、円地の伝記的な事実が,少女イメージを検討する上で重要であると考える。円地は,主に戦終直後から一九五〇年代前後に「少女小説」を数多く執筆していた。この「少女小説」は,管見の限りにおいてあまり重要視されていないように思われる。そのため円地の作品において少女は,老女と同様に重要な表象であるにもかかわらず,円地の「少女小説」や少女はいまだに十分に論じられているとは言い難いのである。そこで,これまでは十分な検討と意義付けをされてこなかった「蛇の声」におけるもうひとつの重要な表象である少女についての表現を掘り起こし,それによって「蛇の声」の新たな側面を明らかにしたい。 少女表象から検討することにより「蛇の声」は,少女の中に「老い」を,老女の中に「若さ」をみるというイメージの喚起によって,いわゆる「老女もの」に少女という要素が組み込まれて行く萌芽的な作品と位置づけることができるのである。したがって,少女は円地の一連の「老女もの」において見逃すことのできない重要な表象であると結論づけた。
著者
武 倩 劉 冠偉
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.18, pp.49-61, 2018

『本草和名』(918年頃)は日本現存最古の本草薬名辞典である。唐の勅撰本草『新修本草』を範にとり,『食経』等によって増補され,千種以上の薬用動植鉱物を収録している。漢名を見出し語に,下に別名,万葉仮名和訓,産地を注記する体裁をとっている。漢名に和名を対照させたことが本書の大きな特徴で,国語国文学や博物学など幅広い分野の研究に貢献できる。本稿は,『本草和名』データベースに基づき,本書に記載されている薬用動植鉱物の漢名と和名について,考察を行った。考察に当たって,「松本書屋本」を底本に用いたが,「万延元年影写本」との間にある異文も合わせて提示した。『本草和名』は本草書にある薬の性味・効能・採取時節などに関する記述を省略するものの,薬の名称をなるべく多く蒐集しようとする特色がある。この点について、先行研究では断片的に指摘されているものの,詳しい検討はこれまでになされていなかった。そこで本研究では,本書所載の漢名を見出し項目の漢名と項目内の漢名に分けて検討を行った。まず,見出し項目を『新修本草』の編次に対照し,項目数を再計算した。そこから項目内の漢名を,データベースの活用によって,形式上分類・計量することが出来た。更に漢名列記の形式として「一名~」と「無標記」が最も多く,その他の形式には「並列式」「定義式」「部位別式」「地域別式」の四種類があると指摘した。これらの成果は,本書における漢名列記の形式を分析した初めての研究として注目に値する。本書に記載されている和名は,平安時代の語彙と音韻を反映する重要な語学資料である。関連する文献との比較調査によって,これからの国語学の研究に貢献することが期待される。本研究では,手始めとして,本書の和名に対しては,その注記率や万葉仮名使用状況を統計した。今後は,本データベースの改良に励むと共に,他文献データベースとの連携を図り,調査を進展させたい。
著者
馬 穎瑞
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.129-148, 2016-12-15

日常会話では,われわれは疑問文を用いて,聞き手に自分の知らない情報を求めたり,何らかの依頼を表したりしている。情報要求は疑問文発話によって生じる言語的要求で,依頼などによって生じる行動要求は非言語的要求である。そして,情報と依頼は,いずれも疑問文による発話の内容を指している。発話内容とは違うレベルから考えてみると,話し手が疑問文を用いて発話することは,一種の言語行動である。その言語行動自体によって生じる聞き手への言語的要求は,話者交替の要求である。話し手が疑問文を用いて聞き手に回答を求めるという言語行動は,従来の談話分析では発話権の委譲として捉えられ,聞き手が話し手から委譲される発話権を受けとることになる場合,話者交替が起こる。しかし,従来の先行研究では,発話文の形式を話者交替の形成に関連づけて詳細に論じるものがほとんど見当たらない。そこ で,本稿は,話者交替の形成に関わる理論知識と先行研究を踏まえながら,話者交替における聞き手の捉え方を提示する。そして,本稿の考察対象を限定し,話者交替の要求を有している疑問文発話の言語形式の分析を通じて,それらにおける話者交替の要求性の強弱を考察する。考察資料は,比較的に文脈がわかりやすく,かつ文末イントネーションの上昇・非上昇を聞き取れるテレビドラマのセリフを文字化して用いる。考察の結果,話者交替の要求の有無は聞き手の捉え方に関わるため,従来の先行研究と異なる本研究の聞き手の捉え方を規定する必要があることがわかった。そして,疑問文発話における話者交替の要求性の強弱は「疑問詞」「文末形式」「文末イントネーション」という疑問文の3つの言語形式要素によって決められることもわかった。
著者
劉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.109-124, 2016-01-15

『日本書紀』は日本最古の編年体史書,六国史の第一として古くから尊重さ れてきた。日本の正史にふさわしいものとするために,『日本書紀』全書三十 巻は歌謡部分を除き,当時日本周辺の朝鮮半島諸国や中国で共通して使用さ れた正式な漢文によって記述された。『日本書紀』に関する解釈・研究には, 長い伝統がある。この書が完成された翌年(721年)から早く当時の宮廷にお いて「日本書紀講筵」と呼ばれる『日本書紀』の本文を読み解く講義が行わ れた。そして,『日本書紀』に関する研究の蓄積として,『日本書紀』の諸古 写本に存する訓点・日本書紀私記類・日本書紀の注釈書など,長く伝えられ ている。このように,『日本書紀』の本文を読み下す長い伝統から生まれてき たもの,即ち『日本書紀』の諸古写本に存する訓点のことを日本書紀古訓と 言う。日本書紀古訓は『日本書紀』の本文を解釈する重要な典拠である。そ して,古い日本語の実態を知る上で重要な手懸かりの一つであるため,従来 重要視されてきた。 『日本書紀』の現存する諸伝本の中,巻二二と巻二四を有する伝本は比較的 多い。本稿では日本書紀古訓形容詞の実態,特に各伝本における異同を考察 するために,巻二二と巻二四を有する平安時代,室町時代及び江戸時代の代 表的な『日本書紀』の古写本,版本を用いる。考察内容は,各伝本から収集 した古訓形容詞のデータに基づいて付訓状況・語数・使用語彙などを統計し, 各伝本における同一漢文に当てられた古訓を比較し,その共通面と相違面を 検討することである。考察を通して日本書紀古訓の形容詞は,どのような性 格を有するものか,明らかにしたいと思う。また,日本書紀古訓形容詞の様 相,異なる伝本において古訓形容詞語彙使用の実態及びその相違などを解明 することも本稿の目的である。