著者
本間 愛理
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.37-54, 2014-12-20

本稿では,宗教人類学の立場に立ち,スピリチュアリティ論やアニミズム論の流れの中にエストニアのMaauskを位置づけ,特にそこで見られる自然と人間の関係性に注目して考察を進めている。また,かつては文化進化論の文脈で用いられたアニミズムという古典的な概念を,Maauskを通して再考することの意義と,そこでMaauskがどのような貢献をなし得るのかを検討している。まず,かつては国教の地位にあったルター派キリスト教が,ソビエトによる支配の時代を経て,著しく衰退した現代エストニアで,Maauskという「エストニア人固有の土地」との結びつきを強調する動きが,人々に親しみを湧かせていることを契機として,それまでのエストニアやMaauskの歴史を振り返っている。そして,人間だけではなく,人間を取り巻くあらゆる非人間も「スピリット」を持っており,それらとの調和的な関係を保ち,うまく生きていくことを目指すMaauskの特徴は,自然と文化を決して切り離さない点にあることを論じている。Maauskは,エストニアの自然の中で人々がつないできた自然との関係性だけではなく,その関係性の中で生まれた「伝統文化」を重視する。そこでは,文化を持ち環境に適応する人間とその周囲に外在する自然という,自然と人間を対峙させた世界の捉え方ではなく,自然と文化をひとつながりの連続体とする世界の捉え方がなされていることが明らかになった。Maauskを通して結ばれる,人間と非人間,人間と人間の関係性は,矛盾や葛藤がありながらも,よりうまく生きていくためのポジティヴなつながりとして探求されている。ナショナリズムに陥る危険性や,Maauskに関わることによる人間関係の不具合などの課題は残しつつも,自然と文化の融合の中,すべてのものがひとつの関係性に生きていることを意識し,人間の目には見えない世界,すなわち,スピリットの世界に目を開かせるMaauskは,アニミズム概念や人間中心主義を考え直す大きな手がかりとなるだろう。
著者
高雄 芙美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-141, 2014-12-20

西日本各地で標準語化とともに関西方言化が進んでいるが広島では他地域ほど関西方言化が見られないことが指摘されている。この他地域とは異なる広島方言の特性を捉えるためには広島方言の実態を明らかにする必要がある。本稿では広島方言の「のだ」形式について,標準語,関西方言と比較し記述することで,広島方言の文法的特徴の一面を明らかにする。加藤2003,2006によると「のだ」は,命題内容について判断済みの情報である,ということを表す。また終助詞「よ」は命題内容について,発話者が排他的な知識管理をおこなう準備あること示す。どちらも話者の知識管理に関わる談話マーカーである。広島方言,関西方言では名詞化辞「の」は「ん」となり,「のだ」は広島方言では「んじゃ」,関西方言では「んや」となる。「んじゃ」「んや」の前が否定辞「ん」「へん」など撥音のときは「のじゃ」「のや」のようになる。「んじゃ」「んや」は言い切りの場合,気づき・発見の用法で使われることが多い。自分の情報を披瀝する場合は広島方言では「んよ」,関西方言では「ねん」が使われることが多い。広島方言では「*んじゃよ」とはならず「んよ」と,名詞化辞「ん」に直接「よ」がつく。伝聞の形式「んと〔んだって〕」も名詞化辞「ん」のあとにコピュラ辞が現れない。推量形や従属節などは広島方言では「んじゃろう」「んじゃけど」のように「んじゃ」が現れるが,関西方言では「んやけど」「ねんけど」のように「んや」「ねん」の両方が現れる。また「のなら」「のだったら」のような仮定形は広島方言では「んなら」が一般的で,関西方言では「なら」は使われず「んやったら」が一般的である。広島方言では従属節の「んじゃけー〔んだから〕」,「んと〔んだって〕」で在来の方言形が保たれているが,関西方言では「んやから」「んやって」のように標準語と同じ形式が使用されている。関西方言は「ねん」のような独自の方言形式を持つ一方使用頻度の高い文法形式に標準語化が見られる。広島方言は「ねん」のような独自の形式はないが,「のだ」形に用いられるような使用頻度の高い文法形式で在来の方言形を保持している。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-32, 2016-12-15

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐこと で,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄 中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談とし ても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進 出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったこ とは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」 という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。 榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権 力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政 府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。 しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の 政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政 府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。 本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上 馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制 度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明 治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿に なると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎 本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに 逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認さ れる。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」 という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらん でいる。
著者
宮澤 優樹
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.15, pp.25-38, 2015

世界的な人気を博したシリーズの第一作である『ハリー・ポッターと賢者の石』は、一見して夢に満ちたファンタジー小説だ。だがその表面的な覆いを取り払ってみたとき、一般的に思われている明るい側面とは別の、「怖い」側面を読み取ることもできる。事実『賢者の石』では、「表面的な見かけの下にあるものを推理せよ」と言うかのように、隠蔽とその内実という組み合わせが多用されている。主人公のハリーが迎えられる世界は、普通の人間の目からは隠された世界だし、対峙することになる宿敵は、おどおどとした無難な人物の皮をかぶり、つねに近くにいる。これらはいずれも、なんの変哲もない見た目を隠れ蓑とし、ほんとうの姿を隠している。このようなプロット上の仕掛けが、物語全体についても当てはまっているのではないだろうか。作品の隠された姿へと、登場人物や情景が漏らす細部を順に追うことでたどり着くことができる。その先にあるのは、生死が軸となったハリーと宿敵との関係である。ハリーは、「例のあの人」と呼ばれ、すでに死んだはずの宿敵と共通する性質を持つ。ハリー自身もまた、生死の境におり、直接には名指しえない性質を抱えている。そのことは、ハリーを「生き残った男の子」と呼ぶことが欺瞞であり、同時に、宿敵をはっきりと名指すことが、不誠実な態度であることを示唆する。したがって、『賢者の石』が迎えた結話、「名指しにくい相手を名指す」、「前を向いて生きる」という決意は、表面的な見せかけなのだとも読める。前向きなメッセージが発せられる一方で、それとはちょうど逆の筋書きが描かれている。この物語は、児童文学という「隠蔽」と、それに並行する名状しがたい状態を描く、二重の小説なのである。
著者
髙橋 小百合
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.85-100, 2016

本論文は、明治期における木戸孝允と幾松に関する言説を、二人の関係性の描写から分析し、同時代の男女交際論等、男女関係についての思潮をふまえながら、文化史中に占める二人の描写の位置および意義について考察したものである。論者には『日本近代文学会北海道支部会報』一九号掲載予定の別稿「<木戸孝允>像の生成」があり、そこでは木戸孝允が死去から明治末年までのあいだ、どのように語られていったのか、その変容と文脈パターンについて論じた。本論文では、そこで見出した六つの文脈パターンのうち、以後、大正、昭和期とより重要性を濃くするであろう<木戸と幾松> <幾松あっての木戸>について一歩踏み込んだ論を展開したつもりである。本論文の第一章「木戸表象の傾向と類別」は、木戸を語る文脈パターンについてまとめ、右の別稿の内容を引き継いだかたちである。よって、本論文の核は第二章以降にあるといえる。幾松はなぜ、木戸を語る言説のなかで存在感を増し、大衆的歓迎をうけたのか。第二章では、木戸と幾松の関係が、近代的恋愛の文脈に読み替え可能であることを論じ、同時に、幾松の芸妓という出自に着目して、近代と前近代の微妙なあわいに、ふたりの「恋愛」があることを明らかにした。第三章は、一方で二人の関係表象がもつ「復古」性について論じている。「王政復古」「一君万民」のイデオロギーとからめながら、<尊いから尊い>カミの論理で語られる木戸と、太古、国運を占う巫でありえた(元)芸妓幾松との関係が、国生み神話に準ずる「復古」の国づくりを表徴しうると指摘した。幾松あることによって、木戸のイメージは①愛妓とついには恋愛結婚を遂げた②<勤王の志士・桂小五郎>として定型化していく。それは同時に<近代>化と<復古>の二律背反、あるいは混淆を示す営為でもある。これこそ、日本の<近代化>の姿そのままであり、本論文のもっとも強調しておきたいところである。
著者
池田 証壽
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学文学研究科紀要 (ISSN:13460277)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.201-236, 2016-12-15

初唐の宮廷写経25点の漢字字体を検討し,開成石経の顕著な規範性に 比して,相当の揺れがあることを報告し,開成石経の漢字字体と他の時代・ 地域の標準文献の漢字字体とを同列に扱うべきでないことを述べる。唐代字 様は,初唐標準から開成標準への移行を促したと見るべきであり,日本の古 辞書である『新撰字鏡』と『類聚名義抄』における唐代字様の受容状況を観 察し,漢字字体の年代性の相違が両者の字体記述の相違として反映している ことを指摘する。
著者
鈴木 仁
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.1-21, 2016-12-15

本論は、樺太における地名選定と、その後の地名研究の活動から、日本領に再構築される樺太での日本人の領土意識を考 察したものである。 第一節では、幕府や開拓使における樺太の地名の取り扱いをまとめた。アイヌ語地名を漢字表記した行政地名化は北海道 で実施され、開拓使・北海道庁や各支庁による選定がなされており、樺太では明治六年(一八七三)に「樺太州各所地名」 が定められる。だが、各地の表記が整理される前に、明治八年のサンクトペテルブルク条約(樺太千島交換条約)により島 の全域はロシア帝国領となった。 第二節では、日露戦争中に樺太を占領した現地の部隊による地名改称と、これに対する地理・歴史学者たちの反応をまと めた。明治三十八年(一九〇五)七月に占領が進められたロシア領サハリン(樺太)には、勝利を記念して地名が付けられ たが、北海道にもあるアイヌ語地名が樺太で消されていることに反対する意見が出されている。 第三節では、明治四十年(一九〇七)四月に開設された樺太庁による地名選定事業についてまとめた。一部に意訳や日本 語地名の新たな設置もあるが、選定の基本方針はロシア語地名を排除し、原名となるアイヌ語地名を調べ、その語音の漢字 表記としている。大正四年(一九一五)八月に、樺太で郡町村が編制されると、広域地名にも採用されている。 第四節は地名研究史とした。樺太の地名には多様な民族と歴史変遷により、アイヌ語以外の言語も影響しているため、島 内では歴史研究の資料として調査されている。本論では、その調査活動のなかから、昭和期には広まった郷土研究により、 異文化であったアイヌ語が郷土の文化として研究される過程をまとめ、昭和五年(一九三〇)に樺太郷土会から発行された 『樺太の地名』を日本人住民による一つの成果として取り上げた。加えて戦後の出身者によるアイヌ語地名研究の見直しや、 郷土の記憶として資料化されたことも補足した。