著者
趙 熠瑋
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.14, pp.37-53, 2014

「中庸」は本來『禮記』の一篇であったが、南宋の朱熹が『禮記』から「中庸」、「大學」を抽出して、『論語』や『孟子』と竝べて「四書」と指定している。「四書」をめぐって、朱子學的な解釋を施したのは『四書章句集注』である。朱子の『四書章句集注』は宋代以降の四書注釋書の中で最も權威のあるものとされている。江戸儒學の古學派の代表的學者である伊藤仁齋と荻生徂徠にそれぞれ「四書」の注釋書がされている。古學派の仁齋と徂徠は基本的に經書本來の意味を追求する立場から注釋を施し、朱子學を批判しているが、「四書」のうちに、中庸」の解釋、特に「鬼神」に關する解釋にはかなりの相違が見える。本稿では、朱熹「中庸章句」、伊藤仁齋『中庸發揮』、荻生徂徠『中庸解』を比較しながら、古學派の「鬼神論」を中心として、それぞれの異同點を檢證した。
著者
中井 朋美
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.229-245, 2017-11-29

『殺人の追憶』という映画では,規定されたはずのものが混ざり合ってしまうことで,境界線があいまいになる。そのために,事柄がその間に落ちていくこと(本論文ではそれを「中間性」とする)が全体を貫いている。中間性は,予告され,画面の中に配置されており,映画の進行とともに,物語上の中心や二項対立をも融解させ,すべてを引き込んでいく。この進展を表出させるのは,事件を追う二人の刑事と,不在となっている犯人である。事件の捜査を担当し中心となっている二人の刑事は,はじめ物語的にも,画面内的にも中心に位置づけられ,単純な二項対立をなす。しかし,二人は互いの要素が混ざり合ってしまい,画面的にもその中心性が裏切られるために,中間性へと落ちていく。事件の中で一貫して不在であることで,観客の関心を引き,中心となる犯人像は断片だけが描かれ,それが統合できないことにより,にわかに怪物性を帯びた特権化されたものとしておかれていく。しかし,映画のラストにおいて,犯人が予想とは真逆の「普通」であったことが判明するとき,中間性におち,交換可能な位置となる。すべてが中間性に落ち込んでいくことは,映画の映像自体が根源的に孕んでいる中間性に関わっている。映像はそれ自体が,真/偽の中間に位置している。そのために,映っているものが真実かどうかは曖昧であるし,真実ではない存在からも,「真実」らしさをはく奪できないのだ。『殺人の追憶』においては,主として観客が犯人にもつイメージが逆転することによって,この中間性が観客の誤認や独善に結びつくということを告発している。中間性は,韓国という〈場〉が持つイメージにも関わっていると考える。韓国は,地理的,文化的,政治的など,混ざり合ってしまうことがその根底に関わっている。そのことを考慮すれば,本作は,韓国という〈場〉そのものをミニマムな視点で描いた作品ともいえるだろう。
著者
呉 琳
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.99-113, 2016-12-15

本研究の目的は,現代日本語における基幹慣用句を選定することである。「基幹慣用句」とは,林(1971)が提唱した「基幹語彙」にのっとった概念で,調査された言語資料の中で,多方面にわたって高頻度で用いられている慣用句の集合を言う。本研究の調査対象は,佐藤(2007)と橋本・河原により選定された926句(延べ936句)の慣用句である。調査資料は,『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』の書籍サブコーパスである。この書籍データは,図書館で利用される日本十進分類法(NDC)に従い,0.総記,1.哲学,2.歴史, 3.社会科学,4.自然科学,5.技術・工学,6.産業,7.芸術・美術,8.言語,9.文学,n.分類なしの11に下位分類されている。つまりは,書籍データにおけるジャンルごとの各慣用句の使用度数が調査可能である。その結果を基にして,慣用句がいくつのジャンルにわたって出現するかを広さの指標,使用度数の多少を深さの指標として設定し,複数のジャンルにわたって高頻度で使用される慣用句を基幹慣用句として選定する。
著者
時 渝軒
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.135-149, 2016-01-15

大江健三郎の『取り替え子』に対して、これまでの先行研究は主にテクストの中核を据える「アレ」に解釈を加え、分析してきた。だが、事実との関連性であれ、超国家主義の暴力であれ、いずれの解釈も作中で言及された過去の作品と本作とのつながり、つまりセクシュアリティの問題を見逃している。共同了解を前提とする「アレ」はテクストにおいて、「嘘」の仕掛けにほかならない。焦点人物である古義人は「友情」というイデオロギーで自分の吾良に対する同性愛指向を隠蔽している。その隠蔽を暴くために、もう一人の焦点人物千樫の視点が導入されたわけである。一方、ホモソーシャルな機構である錬成道場のホモフォビアによって、古義人と吾良の摸擬同性愛関係が暴力の形で排除された。テクストで不分明である「アレ」は要するに、吾良のセクシュアリティと古義人のホモセクシュアリティを起点とし、ホモソーシャルな社会の暴力をクライマックスとする出来事の全体である。このように、過去の自作における身体的な同性愛表象から脱皮し、身体への欲望を媒介とする想像上の同性愛表象こそは、『取り替え子』というテクストの達成と言えよう。この過程において、同性愛表象 を扱った過去の作品が招喚されたり、改訂されたりすることで、読者が先行作品を通じて積み重ねた「アレ」=「大江文学における同性愛表象」が書き直されたのである。
著者
趙 恵真
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.195-211, 2016-01-15

本稿では,前期現代語における日韓漢語動詞の形態的特徴を明らかにした上で,現代の日韓漢語動詞とはどのような相違点がみられるかについて対照考察を行う。日韓両言語には,漢語の後部にスルとhadaがそれぞれ結合して使われる場合が多く,この場合,「漢語+スル」と「漢語+hada」には比較的整然とした対応関係が見られる。このような「漢語+スル」と「漢語+hada」の形態を本稿では「漢語動詞」と呼び,日韓両言語それぞれをスル形,hada形と称する。しかし,語彙によってはスル形とhada形が対応しない場合がある。例えば,日本語ではスル形でしか現れないものが,韓国語においてはhada形の他に「doeda(なる)」,「sikida(させる)」,「chida(打つ)」,「danghada(負う)」,「gada(行く)」などの動詞が漢語と結合して現れる場合がある。このような事実をふまえつつ,前期現代語における日韓両言語の漢語動詞の形態的特徴について考察を行った結果,現代語とは異なる形態的特徴及び対応関係がみられることが明らかになった。また,対応関係からA,B,C,D,Eの5パターンに分類できた。Aパターンは現代語と前期現代語においてスル形とhada形が対応する場合である。日韓両言語においてもっとも生産的な形態であるといえる。Bパターンは日本語の現代語と前期現代語ではスル形で現れるが,韓国語の現代語ではhada形以外の形態を取る場合である。Bパターンは韓国語の前期現代語においてhada形以外にどのような形態を取るかにより,さらに4つに下位分類できる。Cパターンは前期現代語では日韓両言語とも漢語動詞として現れない場合である。Dパターンは日韓両言語とも前期現代語では漢語動詞で現れたものが,現代語では漢語動詞として現れない場合であり,Eパターンは韓国語の前期現代語でのみ漢語動詞で現れる場合である。
著者
稲吉 真子
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.147-159, 2016-01-15

「も」の基本的な用法である「累加」とは,「同じカテゴリーに属するとい う判断(同一範疇判断)を示すこと」である。しかしながら,その用例を見 てみると,同一範疇の判断がつきにくい,もしくは同一範疇のものが文脈上 に存在しない場合も多くある。「も」の同一範疇を判断する基準としては,統 語的同一範疇判断と語用的同一範疇判断があり,その内どちらかが必要とな るが,語用的同一範疇判断についてはある種の推論を必要とすることが多い ため,統語的同一範疇判断と比較し,同一範疇判断がつきにくいと言える。 同一範疇判断がつきにくいか否かについては,類命題の有無が大きく関与し ており,それぞれの用例を類命題との関わりから考察する必要がある。 なお,類命題がないものに関しては,類命題以外にどのような同一性に基 づき「も」を使用しているのかについて,新たなる観点を導入して検討する 必要があるが,それについては,「世界知識」という観点を導入し,話し手の もつ「世界知識」に基づき発話がなされているタイプとして分類することが できる。 また,数量をとりたてる「も」についても,類命題がないタイプとして位 置づけることができるが,これについては,「まで」,「しか(ない)」,「は」, などの,他のとりたて詞との対応関係から,「も」の特徴を明らかにしていく。 以上のように,本稿では,「も」の基本的な用法とそれ以外の用法について, 統語論的観点から整理した上で,新たなる観点を取り入れつつ,語用論的観 点からの考察を試みる。