著者
平川 南
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.1-37, 1992-12-25

岩手(いわて)県水沢(みずさわ)市の胆沢城跡(いさわじようあと)から出土した一点の木簡は、「内神(うちがみ)」を警護する射手(いて)の食料を請求したものである。その出土地点は胆沢城の中心・政庁(せいちよう)の西北隅(せいほくすみ)であったことから、ここに内神が祀(まつ)られたと理解した。そこで、古代の文献史料をみると、例えば『今昔物語集(こんじやくものがたりしゆう)』には、藤原氏の邸宅・東三条殿(とうさんじようでん)の戌亥隅(いぬいのすみ)(西北隅)に神を祀っており、その神を「内神」と称している。『三代実録(さんだいじつろく)』によれば、都の左京職(さきようしき)や織部司(おりべのつかさ)に戌亥隅神(いぬいのすみのかみ)が祀られている。一方、地方においても、国府内に「中神」「裏神」(うちがみ)が置かれていた。以上の史料はいずれも九世紀以降のものである。郡家については、八世紀の文書に西北隅に神が祀られていたとみえる。こうした役所の施設内の西北隅に神が祀られたのがいつからかは定かでないが、やがて中央の役所や地方の国府などの最も象徴的な施設の西北隅に小さな神殿を形式的に設けたのであろう。この西北隅は、福徳(ふくとく)をもたらす方角として重視されたことが、各地の民俗例において確認できる。〝屋敷神(やしきがみ)〟を西北隅に祀る信仰は、古代以来の役所の一隅に祀った内神を引き継ぐものと理解できる。近年の考古学の発掘調査によれば、例えば陸奥国(むつのくに)の国府が置かれた多賀城(たがじよう)跡では、その中心となる政庁地区において創建期から第Ⅲ期まで、一貫して左右対称に整然と建物が配置されるが、九世紀後半に至り、それまで建物のなかった西北部に建物が新設され、しかも複雑な建物構造をもち、その後数回建て替えられている。この西北部の建物の時期は、さきの文献史料の傾向とも合致する点、注目される。今後の重要な課題の一つは、諸官衙内に祀られた戌亥隅神の成立時期およびその神の性格などについて明らかにすることである。本稿はあくまでも一点の木簡の出現を契機として、広範な資料の検討を通して中央・地方の諸官衙の西北隅に神を祀っている事実を指摘し、古代の官衙構造や日本文化における基層信仰の実態解明の一資料となることを目的としたものである。
著者
田村 省三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.209-234, 2004-02

本稿は、日本の近代化の先駆けであり、薩摩藩の近代科学技術の導入とその実践の場であった「集成館事業」の背景としての視点から、薩摩藩の蘭学受容の実際とその変遷について考察したものである。薩摩藩の蘭学は、近世における博物学への関心と島津重豪の蘭学趣味から出発し、オランダ通詞の招聘や蘭方医の採用をとおして、しだいに領内に普及していった。そして、蘭学が重用され急速に普及していったのは島津斉彬の時代であり、藩が強力に推進した「集成館事業」の周辺に顕著であった。しかし、藩士たちの蘭学の修得については、中央から遠く離れた地域性や経済的な困難もあって、江戸や大阪への遊学は他の地域に比べて少なかった。むしろ、中央の優秀な蘭学者を藩士に採用したり、蘭学者たちとの人脈を活用するという傾向が強かったと思われる。ただし長崎への遊学は、例外であった。薩摩藩の蘭学普及は、藩主導で推進されている。したがって地域蘭学の立場からすれば、同時代の諸藩とはその目的、内容と規模、普及の事情に相違がみられる。一方で、蘭学普及の余慶がまったく領内の諸地域には及んでいなかったのかと言えばそうではない。このたび、地域蘭学の存在を肯定することのできる種痘の事例を確認することができた。それは、長崎でモーニッケから種痘の指導を受けた前田杏斎の種痘術が、領内の高岡や種子島の医師たちに伝えられ実施されたという記録によってである。また薩摩藩は薩英戦争の直後、藩の近代化を加速するため、洋学の修得を目的とした「開成所」を設置する。ここでは当初蘭学の学習が重んじられていたが、しだいに英学の重要性が増していった。さらに明治二年、国の独医学採用に伴い、藩が英医ウィリアム・ウィリスを招聘して病院と医学校を設置してから、英国流の医学が急速に普及する。この地域が本格的に西洋医学の恩恵を受けるのは、以降のことである。This paper examines the situation surrounding the acceptance of Rangaku by the Satsuma feudal domain and the changes it underwent from the perspective of the Shuseikan Project, the site of the introduction of modern science and technology by the Satsuma feudal domain, which stood at the vanguard of modernization in Japan.Rangaku in the Satsuma feudal domain was started by an interest in natural history during the Early Modern Period and the interest in Rangaku by Shimazu Shigehide, and gradually spread within the domain through invitations to Dutch translators and the employment of physicians who practiced Western medicine. Rangaku became important and spread rapidly during the time of Shimazu Nariakira when it became prominent in connection with the Shuseikan Project undertaken with great vigor by the domain. However, the acquisition of Rangaku learning by the domain's retainers was less than that of retainers from other regions who went to Edo or Osaka to study, partly because of the distance between the domain and these centers of activity as well as economic difficulties. Instead, outstanding Rangaku scholars from the huge urban centers of Osaka and Edo were employed by retainers who made effective use of the personal connections they formed with these Rangaku scholars. Still, travel to Nagasaki to study there was the exception.The spread of Rangaku within the Satsuma feudal domain was driven by the domain's leadership. Therefore, viewed from the standpoint of regional Rangaku differences can be seen in the objectives, contents, scale and circumstances of its adoption by the Satsuma domain and other feudal domains during the same period. And it is not true that the benefits of this dissemination of Rangaku did not extend to every region within the domain. During the research undertaken for this paper it was possible to confirm examples of vaccinations, which in itself affirms the existence of regional Rangaku. This confirmation is found in records showing that the vaccination techniques of Maeda Kyosai, who received instruction in vaccination by the Dutch doctor Otto Mohnike in Nagasaki, was passed on to physicians working in Takaoka and Tanegashima, who then carried out vaccinations themselves.Immediately after the Satsuma-Anglo War the Satsuma domain established the Kaiseijo academy for the purpose of acquiring Western studies that would accelerate modernization within the domain. At first, Rangaku was given precedence at the academy, but factors such as world trends and relations between the Satsuma domain and Britain after the Satsuma-Anglo War saw British studies steadily gain more and more importance. Then, the invitation issued by Satsuma to the British doctor William Willis in 1869 to establish a hospital and medical school that accompanied the adoption by the Japanese state of German medicine resulted in the rapid adoption of British medicine. It was only after this that the region began to receive the full benefits of Western medicine.
著者
小山 隆秀
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.211-243, 2017-03

青森県津軽地方のネブタ(「ねぷた」および「ねぶた」を総称する)とは、毎年8月初旬に、木竹や紙で山車を新造して、毎夜、囃子を付けて集団で練り歩く習俗である。現在では海外でも有名な観光行事となった。そのルーツには七夕や眠り流し、盆行事があるとされてきたが、その一方で近世から近現代まで喧嘩や口論、騒動が発生する行事でもあった。本論ではこれをケンカネプタ(喧嘩ねぷた)として分析する。ケンカネプタは、各町の青少壮年達によるネブタ運行が、他町と遭遇して乱闘へ発展するものであるが、無軌道にみえる行為のなかには、一定の様式や儀礼的要素が伝承されてきたことが判明した。しかし近代以降、都市部ではネブタの統制が強化され、ケンカネプタの習俗は消滅したが、村落ではその一部が、投石や喧嘩囃子等で近年まで伝承されていた。さらに都市部では、近世以来行われてきた子供たちの自主的なネブタ運行が禁止されるとともに、喧嘩防止のため、目抜き通りでの合同運行方式を導入することによって、各ネブタ組は、隊列を整えて大型化した山車を運行し、合同審査での受賞を競うことへ価値観を転換していった。近年は、山車の構造や参加者の習俗形態が急速に多様化しており、それにともなう事故が発生したため、市民からは、ネブタが「伝統」または「本来の姿」へ回帰することを訴える動きがある。しかし本論の分析によれば、現在推奨されている審査基準や「伝統」とされる山車の形態や習俗は、近世以降の違反や騒乱から形成され、後世に定着したものであることがわかる。よって、現在の諸問題を解決するための拠り所、または行事全体の紐帯として現代の人々が希求している「本来の姿」に定型はなく、各時代ごとに変容し続けてきた存在であるといえよう。Nebuta (including both "Neputa" and "Nebuta") is festivals held at the beginning of August every year in different parts of the Tsugaru Region in Aomori Prefecture. In these festivals, bands of participants parade newly constructed floats made of wood, bamboo, and paper at night.Nebuta has become famous even outside of Japan, attracting many tourists. Although it originated in the Tanabata, Nemuri Nagashi, or Bon Festival, Nebuta always entailed quarrels, fights, and brawls from the early modern to the modern times. This folk custom is called "Kenka Neputa" and is analyzed in this paper.Kenka Neputa is a brawl resulted from an encounter between floats paraded by young and adult men from different towns. Although it seemed to have been uncontrolled, it has been revealed that there were some traditional codes and ritual elements in such fights. In modern times, Kenka Neputa died out in urban areas because of stronger control of Nebuta, but some elements, such as stone throwing and fighting music, had survived up to recent years in rural areas.In urban areas, children floats, whose origin dates back to the early modern period, were prohibited, and floats paraded down main streets were brought under joint control in order to prevent fights. As a result, Nebuta teams shifted their focus to how to win a festival-wide float competition, creating larger floats and marching in columns. In recent years, Nebuta has become increasingly diversified in the form of floats and the style of participants. As these changes have caused some accidents, a movement is growing among local people to bring Nebuta back to its "traditional" or "authentic" form.This analysis, however, reveals that the form and style of floats valued in competitions or considered as "traditional" were created from brawls and violations and established as standards after the early modern period. Therefore, the grounds for solving current problems, or the "authentic forms" contemporary people are longing for as common standards, are not definite but subject to changes over time.
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.140, pp.201-211, 2008-03-31

筆者は,博物館におけるレプリカの意味について既に考察しているが,本稿では,歴史展示における模型の意味について考察した。歴史を展示する方法には,現存する過去の遺品を展示する方向と,展示テーマに沿って過去の情景を再現しようとする方向の2つがあり,模型は特に後者においてしばしば用いられるが,過去の再現としては不可避的に不完全なものであり,原理的にはそこから直接歴史を学ぶことは出来ない。しかし,実際の歴史,ないし現存する遺跡・遺物などへリンクするための,総合的・立体的な索引ないし入り口として考えれば,資料から歴史像を構成するという展示の本来的役割を促進させる意味で,その正当性を確保しうる。それは現実の歴史に対して歴史展示自体が持つ意味でもある。既存の模型を活用する実例,すなわち,復元模型の意味を,固定されたイメージ=「結論」ではなく,さまざまな情報へと開かれた「入り口」(索引)として読み直す試みとして,当館における「京都の町並み」模型にデジタルコンテンツを付加した事例を紹介した。またそこでは,模型の全体像を認識することの困難さという,作り手と受け手(観客)のギャップの問題についても考察することができた。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.443-460, 1993-02-26

近年つくられた多くの歴史系博物館ではレプリカ資料の使用が盛行しているが,それが博物館において「何」であり,いかなる形で用いることができるのかについては十分な共通理解のないのが現状である。本稿はこれについて主に技術的な面からその性格と限界を明らかにし,それによって,レプリカ資料が研究に,また展示においてどのように用いることが可能かを考察した。レプリカは原品の持つ情報の一部のみを転写したものだが,その転写は,どの様な技法の場合でも製作者の主観にかなりの程度頼る方法で行なわれており,厳密な客観性が保証されているとは言えない。従ってレプリカは研究資料としては写本の一つとして,また展示では特定のシナリオの中においてのみその正当性を主張し得る。またレプリカの製作は,それ自体が資料研究の行為と位置付けることができる。
著者
安里 進
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.179, pp.391-423, 2013-11-15

20世紀後半の考古学は,7・8世紀頃の琉球列島社会を,東アジアの国家形成からとり残された,採取経済段階の停滞的な原始社会としてとらえてきた。文献研究からは,1980年代後半から,南島社会を発達した階層社会とみる議論が提起されてきたが,考古学では,階層社会の形成を模索しながらも考古学的確証が得られない状況がつづいてきた。このような状況が,1990年代末~2000年代初期における,「ヤコウガイ大量出土遺跡」の「発見」,初期琉球王陵・浦添ようどれの発掘調査,喜界島城久遺跡群の発掘調査などを契機に大きく変化してきた。7・8世紀の琉球社会像の見直しや,グスク時代の開始と琉球王国の形成をめぐる議論が沸騰している。本稿では,7~12世紀の琉球列島社会像の見直しをめぐる議論のなかから,①「ヤコウガイ大量出土遺跡」概念,②奄美諸島階層社会論,③城久遺跡群とグスク文化・グスク時代人形成の問題をとりあげて検討する。そして,流動的な状況にあるこの時期をめぐる研究の可能性を広げるために,ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9~12世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11~12世紀に琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
著者
佐伯 真一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.7-28, 2014-01

「軍神」という概念について考える。「軍神」という言葉の用例としては、『梁塵秘抄』に見えるものが古く、次いで『平家物語』などの軍記物語に若干の例がある。中世後期には、兵法書の類に多くの例が見られる。そこで、従来、軍記物語に見える「軍神」と、『梁塵秘抄』に見える「軍神」、兵法書の類に見える「軍神」を、基本的に同じ範疇の中で捉えようとしてきたように思われるが、この三者は内容的に重なり合うことが少なく、一旦切り離して、別のものとして扱うところから考察を始める方がよさそうに見える。まず、軍記物語の「軍神」について。『平家物語』では数例見られ、諸本に異同があるが、概ね、合戦で敵の首を取ることを「軍神にまつる」という表現を中心としたものである。また、『保元物語』金刀比羅本や『太平記』、慈光寺本『承久記』などにも類似の例が見られる。首を取ることを「軍神にまつる」と表現するのは、武士たちがかつて実際に首を生贄に供えていたことに由来すると指摘されており、実際、そうした実感に即したものである可能性は強いが、首を祀る儀礼の実態は不明であり、「軍神」として特定の神格を祀る様子は窺えない。また、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮…」などと歌われる「軍神」は、軍事的・武的性格を帯びた神々を列挙したものだろうが、各々の神がなぜ「軍神」とされるのかは、不明な点も多い。ともあれ、それらの神々が、近在以外の武士一般に、戦場で「軍神」として祀られたかどうかは疑わしい。こうした「軍神」は、軍記物語に描かれるような、合戦現場で首を取って祀る対象となる「軍神」とは異なるものと考えられる。次に、鎌倉時代成立と見られる『兵法秘術一巻書』をはじめ、いわゆる兵法書には、「軍神」がしばしば登場する。その「軍神」記述の最も中心となるのは軍神勧請の記述だが、それは『出陣次第』などに共通すると同時に、兵法書に限らず、たとえば『鴉鷺物語』などにも引用されている。だが、そこには軍記物語に見られたような、敵の首を「軍神」に祀るという記述はあまり見られない(皆無ではないことは後述)。また、兵法書などで祈願対象とされる神名は、空想的なものも含めて非常に雑多で、摩利支天などをはじめ、さまざまな神仏が挙げられる。そこには「九万八千の軍神」といった表現もしばしば登場するのだが、にもかかわらず、その中に、『梁塵秘抄』に歌われたような、鹿島・香取・諏訪といった日本古来の在地の「軍神」はほとんど登場しない。伊勢貞丈『軍神問答』は、兵法書的な世界に登場する「九万八千軍神」といった説や、摩利支天などの神仏を「軍神」として祀ることを否定して、「日本の軍神」としては「大己貴命、武甕槌命、経津主命」を挙げる。『梁塵秘抄』の挙げる鹿島・香取といった「軍神」認識に近い。貞丈の記述から逆説的に明らかになることは、中世の武士たちの「軍神」信仰が、『梁塵秘抄』と伊勢貞丈を結ぶような日本在来の正統的な神祇信仰ではなく、荒神信仰などを含む雑多な信仰だったことである。それは、おそらく、密教ないし修験の信仰や陰陽道などが複雑な習合を遂げ、合戦における勝利という武士の切実な要求に応じて、民間の宗教者が種々の呪術的信仰を生み出したものであると捉えられよう。さて、軍記物語に見える「軍神」と、兵法書の類に見えるそれとは別のものであると述べてきたが、仮名本『曽我物語』に見える「九万八千の軍神の血まつり」という言葉は、両者をつなぐものとして注目される。兵法書においても、『訓閲集』には巻十「首祭りの法」があり、そこでは「軍神へ首を祭る」儀礼が記されている。これらは数少ないながら、軍記物語に描かれた「軍神」の後継者ともいえようか。こうした「血祭り」の実態は未詳だが、そこで、中国古典との関連を考える必要に逢着する。言葉の上では、とりあえず漢語「血祭」(ケッサイ)との関連を考える必要があり、これはおそらく日本の「血祭り」とは関連の薄いものと思われるものの、『後漢書』などに見られる、人を殺してその血を鼓に塗るという、「釁鼓」(キンコ)には、日本の「血祭り」との類似性を考える事も可能だろう。軍記物語に見える、首をまつる「軍神」が、神に生贄を供える感覚に基づく言葉であるかどうかといった問題は、そうした言葉の広がりや兵法書の類の精査、さらには東アジア全体における同様の事例の検討などをふまえて、今後考察されねばならないのではないか。This paper examines the term ikusagami, meaning god of war. An early example of the use of ikusagami is found in the collection of folk songs, Songs to Make the Dust Dance, later followed by examples in a number of war chronicles such as the Tale of the Heike. In the later medieval period, the term can often be found in books on military tactics. Previously, it appears that these three ikusagami found in the various war chronicles, in the Songs to Make the Dust Dance, and in the books on military tactics have all been basically classified in the same category. These three different expressions of ikusagami, however, rarely overlap each other in terms of their meaning, and a good approach would be to first consider them as independent entities, and then to explore and consider their differences.Firstly, the ikusagami of the war chronicles is examined. In the Tale of the Heike several examples are found, and although there are differences among the various versions of the tale, in general an expression "offer to ikusagami" is mainly used; in this context this means to take the head of an enemy in battle. Similar examples can be seen in the Kotohira texts of the Tale of Hogen, the Record of Great Peace, and the Jikoji texts of the Jokyu-ki (Chronicle of Jokyu) . It is indicated that this expression meaning to take a head is derived from a custom where warriors would make an offering of a head as a sacrifice, and in fact, it is highly likely that the expression is based on this practice; however, the actual ritual of offering heads is unclear, and the possibility of worshipping a specific god as an individual ikusagami cannot be inferred.In the Songs to Make the Dust Dance, we find the lines "ikusagami ( these gods of war) live east of the barrier, Kashima-jingu Shrine, Katori-jingu Shrine, Suwa no Miya Shrine…," which is probably a list of gods with military or martial characteristics; however, there are many unclear points as to why each god is referred to as an ikusagami. In any case, it is doubtful whether these gods were worshiped as ikusagami by the common warrior on the battlefield in other rural areas. It can be considered that these kinds of ikusagami are different from the ikusagami depicted in the war chronicles with their offerings of heads taken in battle.Next, ikusagami are often found in the so-called books of military tactics including the Heiho Hijyutsu Ikkansho (Secret Art of Tactics) , thought to have been compiled in the Kamakura period. They are mainly mentioned in the context of invoking protection and success in battle, which is also commonly found in the treatise Shutsujin Shidai (Procedures for Going into Battle) . The term is also quoted in the Aro Monogatari (the Tale of the Crow and Heron) and not just in the books of military tactics; however, in these books descriptions of offering an enemy's head to ikusagami as seen in the war chronicles is rarely found ( although there are a few exceptions, which will be explained later) .In addition, the books of military tactics offer a vast range of gods both traditional and other than traditional to receive the prayers of warriors; Marishiten (a tutelary deity of samurais) and other various Shintoist and Buddhist deities can also be listed. In these books, an expression "ninety eight thousand ikusagami" often appears; despite this, the ikusagami of Japanese ancient times in rural areas such as Kashima, Katori or Suwa as found in the Songs to Make the Dust Dance hardly appear. The Edo period book Ikusagami: Questions and Answers written by Sadatake Ise refuted the concept of the "ninety eight thousand ikusagami" that appears in the world of the books on military tactics, and he also refuted the worship of Marishiten and other Shintoist and Buddhist deities as ikusagami. He went on to list Onamuchi no Mikoto, Takemikazuchi no Mikoto, and Futsunushi no Mikoto as Japanese ikusagami. His view is close to perceptions of the ikusagami in the rural Kashima or Katori mentioned in the Songs to Make the Dust Dance. Paradoxically what is revealed from Sadatake's description is that belief in the ikusagami of medieval warriors was not an orthodox belief in the gods of heaven and earth, which is traditionally found in Japan and actually connects the Songs to Make the Dust Dance with Sadatake Ise; medieval warriors actually incorporated various deities and beliefs including belief in a vigorous, powerful and sometimes impetuous deity. It is probable that esoteric Buddhism, ascetic practices in the mountains, and the Way of Yin and Yang resulted in a complicated syncretic fusion, and in response to the warriors' earnest demands for victory in battle, civilian religious figures created various kinds of magical belief.As described above, the ikusagami found in the war chronicles and those in the books of military tactics are different in nature; however, the phrase "a blood sacrifice to ninety eight thousand ikusagami" mentioned in the Tale of Soga, a book written entirely in kana syllabary, draws attention as a means to connect both concepts. Among the books on military tactics, Kinetsushu Volume 10 describes "how to make an offering of a head to a deity" in which a ritual offering a head to ikusagami is mentioned. Although these are just a few examples, they can be regarded as a successor of the ikusagami depicted in the war chronicles. The true state of such "blood sacrifice" is not exactly known, which leads to the need to examine the relation with China. In terms of words, a relation with an originally Chinese word 血祭 (kessai in Japanese pronunciation) needs to be considered; probably this word has a weak relation with the Japanese word 血祭り (chimatsuri, meaning blood sacrifice) , but with regard to the term 釁鼓 (kinko) found in the History of the Later Han, and meaning killing a person and smearing their blood on a hand drum, it is possible to think about the similarity to the Japanese 血祭り (blood sacrifice) .To answer the question whether the ikusagami to which a head is offered, as found in the war chronicles, is a term based on a sense of offering a sacrifice to a god, perhaps it is necessary to consider after careful examination of the expansion of such terms, classification of books of military tactics, and similar examples in the whole of East Asia.
著者
若狭 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.211, pp.307-350, 2018-03-30

東国の上毛野地域を軸に据えて,古墳時代の地域開発と社会変容の諸段階について考察した。前期前半は東海西部からの大規模な集団移動によって,東国の低湿地開発が大規模に推し進められるとともに,畿内から関東内陸部まで連続する水上交通ネットワークが構築された。在来弥生集団は再編され,農業生産力の向上を達成した首長層が,大型前方後方墳・前方後円墳を築造した。前期後半から中期初頭は,最大首長墓にヤマトの佐紀古墳群の規格が採用され,佐紀王権との連携が考えられる。一河川水利を超えた広域水利網の構築,広域交通拠点の掌握という2点の理由によって,上毛野半分程度の範囲で首長の共立が推し進められた。また,集団合意形成のための象徴施設である大規模な首長居館が成立している。中期前半には東国最大の前方後円墳の太田天神山古墳が成立したが,河内の古市古墳群を造営した王権との連合の所産とみられる。この頃から東国に朝鮮半島文物が移入されることから,倭王権に呼応して対外進出・対外交流を行うために外交・軍事指揮者を選任したことが巨大前方後円墳の成立背景と考えた。中期後半には渡来人や外来技術が獲得されたため,共立の必要性は解消し,各水系の首長がそれぞれ渡来人を編成して地域経済を活性化させている。後期の継体期には,東国最大の七輿山古墳が成立したが,その成立母体が解消すると,複数の中型前方後円墳が多数併存するようになる。こうした考古学的な遺跡動態や,古代碑・『日本書紀』『万葉集』などの文献の検討を合わせて,屯倉の成立と地域開発の在り方を考えた。武蔵国造の乱にも触れ,緑野屯倉・佐野屯倉の実態ならびに上毛野国造との関係性についても論及した。
著者
熊木 俊朗 福田 正宏 國木田 大
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.202, pp.101-135, 2017-03-31

柳田國男が一九〇六年の樺太紀行にて足跡を残した「ソロイヨフカ」の遺跡とは、南貝塚(別名、ソロイヨフカ遺跡)であり、この遺跡はその近隣にある鈴谷貝塚と共に、サハリンの考古学研究史上最も著名な遺跡の一つになっている。これらの遺跡の出土資料を標式として設定された「南貝塚式土器」と「鈴谷式土器」のうち、本論では後者の鈴谷式土器を対象として年代に関する再検討をおこなった。鈴谷式土器は、時代的には続縄文文化とオホーツク文化の、分布や系統の上では北海道とアムール河口域の狭間にあって、これら両者の関係性を解明する上で重要な資料であると考えられてきたが、特にその上限年代が不明確なこともあって年代や系統上の位置づけが定まっていなかった。本論でおこなった放射性炭素年代の測定と既存の測定年代値の再検討の結果、鈴谷式土器の年代はサハリンでは紀元前四世紀〜紀元六世紀頃、北海道では紀元一世紀〜紀元六世紀頃と判断された。この年代に従って解釈すると、鈴谷式土器はサハリンにおいて先に成立し、しばらく継続した後に北海道に影響を及ぼしたことになる。この結論を従来の型式編年案と対比させるならば、以下の点が検討課題として浮上してこよう。すなわち、サハリン北部での最近の調査成果に基づいて提唱されたカシカレバグシ文化、ピリトゥン文化、ナビリ文化といったサハリン北部の諸文化や、アムール河口域と関連の強いバリシャヤブフタ式系統の土器は、古い段階の鈴谷式土器と年代的に近接することになるため、これら北方の諸型式と鈴谷式土器の型式交渉を具体的に検討することが必要となる。また従来の型式編年案では、古い段階の鈴谷式土器は北海道にも分布すると考えられているため、その点の見直しも必要となる。鈴谷式土器を含む続縄文土器や、サハリンの古金属器時代の土器の編年研究においては、今後、これらの問題の解明が急務となろう。
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.203-225, 2003-10

明治維新後、禄を失い生計の道を絶たれ窮乏化を余儀なくされた士族によって各地で入植・開墾が行われた。わずか七十万石に圧縮された静岡藩では、膨大な数の旧旗本・御家人を無禄移住という形で受け入れたため、立藩当初から家臣団の土着が進められ、荒蕪地の開墾が奨励された。廃藩後は県による支援も行われ、士族授産事業が推進された。しかし、同時期、藩や県からの経済的援助を受けることなく、独力で茶園の開拓に取り組んだ少数の旧幕臣グループがいた。赤松則良・林洞海・渡部温・藤沢次謙・矢田堀鴻らである。矢田堀・赤松は長崎海軍伝習所出身の幕府海軍幹部・エリート士官、林は佐倉順天堂ゆかりの蘭方医、渡部は開成所で教鞭をとった英学者、藤沢は蘭学一家桂川家に生まれた幕府陸軍の幹部であったが、いずれも静岡藩では沼津兵学校や沼津病院に職を奉じていた。藩の公職に就いた彼らには、無禄移住者とは違い、「食うため」には困らないだけの十分な俸給が与えられたのであるが、明治二年(一八六九)以降遠州での開拓・茶園経営に、あえて自らの資産を投入した。洋学知識や洋行経験を有していた彼らは、土質や害虫を研究し、先進地の製茶法を導入したり、アメリカへの直輸出を図ったりと、科学や情報によって地場産業を改良する役割を果たした。しかし、その行動は、苦しい藩財政を助けたり、国益を目指したりといった「公」を意識した動機のみによるものではなく、むしろ個人の営利・蓄財を目的とした私的経済活動としての側面が大きかった。廃藩に前後して上京、優れた能力を買われ一旦は明治政府に出仕した彼らであるが、遠州の茶園はそのまま維持された。海軍中将・男爵となった赤松は退役後には遠州に隠棲し、明治初年以来の念願だった田園生活を楽しむ。茶園開拓をめぐる赤松らの言動からは、官にあるか野にあるかを問わず、「一身独立」を率先実行した近代的人間像が見えてくる。Sliding towards poverty from the loss of stipends and livelihood following the Meiji Resoration, shizoku (former samurai) became involved in land settlement and reclamation projects around the countury. Shizuoka Domain, which had been reduced to a mere 70,000 koku, absorbed vast numbers of former hatamoto and gokenin relocated to the area without remuneration. From the domain's inception in 1868 (Meiji 1), the indigenization of retainer bands moved quickly as shizoku were encouraged to cultivate unopened lands. Following the domain's replacement by Shizuoka Prefecture, the prefecture continued to lend support to programs that encouraged shizoku businesses.At the same time that the domain, then prefecture, were lending support to shizoku, a small group of former Bakufu retainers began to cultivate tea independently without economic support from either government. Its members included Akamatsu Noriyoshi, Hayashi Dokai, Watanabe On, Fujisawa Tsuguyoshi, and Yatabori Ko. Yatabori and Akamatsu were both elite officers, products of the Nagasaki naval training center who had held executive positions in the Bakufu navy. Hayashi was a Dutch-medicine doctor with ties to the Juntendo in Sakura, while Watanabe was an England Studies scholar who taught at the Kaiseisho. Fujisawa was born to the Katsuragawa family of Dutch Studies scholars and had held an executive post in the Bakufu army. Each held positions in Shizuoka at either the domain's military academy or its hospital in Numazu. With official posts in the domain government, they differed from the unremunerated relocates and had incomes sufficient to "feed themselves." Still, beginning in 1869 (Meiji 2) they began to cultivate tea as a business in the Totomi region using only their own funds.With their knowledge and experience of the West, they studied soil and vermin, implemented the latest techniques of tea cultivation, and attempted direct export to America. With the science and information they brought to their business, they contributed significantly to the improvement of local industry. Yet, while their actions did aid the finances of a troubled domain and contributed to the benefit of the,nation, they were not exclusively motivated by "public" consciousness. Indeed, their activities were in large part private economic activities aimed at individual gain and wealth.Following the domain's dissolution they relocated to the capital where their outstanding talents were put to use in the service of the Meiji government. They continued to operate their tea plantation in Totomi, however. Following his retirement to the area, vice-admiral and baron Akamatsu pursued his early Meiji hope of enjoying life in the country. Whether in office or the countryside, the actions taken by Akamatsu and the others in the cultivation of tea cast an image of modern individuals at the forefront of "self-reliance".
著者
岩淵 令治
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.197, pp.49-104, 2016-02

国民国家としての「日本」成立以降,今日に到るまで,さまざまな立場で共有する物語を形成する際に「参照」され,「発見」される「伝統」の多くは,「基層文化」としての原始・古代と,都市江戸を主な舞台とした「江戸」である。明治20年代から関東大震災前までの時期は,「江戸」が「発見」された嚆矢であり,時間差を生じながら,政治的位相と商品化の位相で進行した。前者は,欧化政策への反撥,国粋保存主義として明治20年代に表出してくるもので,「日本」固有の伝統の創造という日本型国民国家論の中で,「江戸」の国民国家への接合として,注目されてきた。しかし後者の商品化の位相についてはいまだ検討が不十分である。そこで本稿では,明治末より大正期において三越がすすめた「江戸」の商品化,具体的には,日露戦後の元禄模様,および大正期の生活・文化の位相での「江戸趣味」の流行をとりあげ,「江戸」の商品化のしくみと影響を検討した。明らかになったのは以下の点である。①元禄模様,元禄ブームは三越が起こしたもので,これに関係したのが,茶話会と実物の展示という文人的世界を引き継いだ元禄会である。同会では対象を元禄期に限定して,さまざまな事象や,時代の評価をめぐる議論,そして模様の転用の是非が問われた。ただし,元禄会は旧幕臣戸川残花の私的なネットワークで成立したもので,三越が創出したわけではなかった。残花の白木屋顧問就任や,三越直営の流行会が機能したこともあって,残花との関係は疎遠になる。元禄会自体は,最後は文芸協会との聯合研究会で終焉する。また,元禄ブーム自体も凋落した。②大正期の「江戸」の商品化に際しては,三越の諮問会である流行会からの発案で分科会たる江戸趣味研究会が誕生する。彼らは対象を天明期に絞り,資料編纂の上で研究をすすめ,「天明振」の提案を目指した。しかし,研究成果は生かされず,元禄を併存した形で時期・階層の無限定な江戸趣味の展覧会が行われる。そして,イメージとしての「江戸趣味」が江戸を生きたことの無い人々の中に定位することを助長した。「江戸」は商品化の中で,関東大震災を迎える前に,現実逃避の永井荷風の「江戸」ともまた異なった,漠然としたイメージになったのである。その後,「江戸趣味研究会」の研究の方向性は,国文学や,三田村鳶魚の江戸研究へと引き継がれていくことになった。Many of the "traditions" that have been "referred to" or "recognized" to form a national identity of members of different social groups since the establishment of Japan as a nation state up until now are based on the fundamental culture shaped in the primitive/ancient times and the culture developed in the City of Edo. An "Edo style" was first "recognized" during the period from the Meiji 20s (1887-1896) to the Great Kantō Earthquake of 1923. It was developed politically and commercially in different time spans. The political development of the style manifested itself in forms of resistance against Europeanization policies and desire for preservation of national characteristics in the Meiji 20s. These phenomena have been analyzed in the studies of Japanese-type nation-state building, which indicate that Edo culture created "Japanese traditions" and thus integrated the country as a nation state. On the other hand, the commercialization has not been fully analyzed. Therefore, this article examines the commercialization of the Edo style promoted by Mitsukoshi from the end of the Meiji period to the Taishō period (at the beginning of the 20th century). More specifically, this paper focuses on the great boom of Genroku patterns after the Russo-Japanese War of 1904-1905 and the Edo taste widely adopted in daily life and culture during the Taishō period (1912-1926) to analyze the mechanism and impact of the commercialization of the Edo style. The results of the analysis indicate the following two points.i. The boom of Genroku patterns was created by Mitsukoshi with support from Genroku-kai, a society spun off from a literary circle to organize tea parties and exhibitions of Genroku culture. The society's discussions focused on matters relating to the Genroku years from 1688 to 1704, including various phenomena and criticisms of the era and the appropriateness of reinterpretation of Genroku patterns. Genroku-kai was founded, not by Mitsukoshi, but by Zanka Togawa, a former retainer of the Tokugawa Shogunate, by using his private network. Eventually, Zanka and Mitsukoshi were estranged, in part because he was appointed to Senior Advisor of Shirokiya and in part because the Ryūkō-kai, an advisory group of Mitsukoshi, functioned to fulfill its intended purpose. Genroku-kai ended up in merging with Bungei Kyōkai to become Rengō Kenkyū-kai, and the Genroku boom lost its momentum.ii. The "Edo style" of the Taishō period was commercialized by Edo Shumi Kenkyū-kai established by Ryūkō-kai as its subcommittee to study Edo taste. They focused their theme on the Tenmei years from 1781 to 1789, compiling various data to create a "Tenmei style." Their study results, however, were given little attention. When an exhibition of Edo taste was held, various Edo styles, including the Genroku style, were combined, irrespective of class or time period. This helped an image of "Edo taste" establish itself among people who had never experienced the Edo period. Thus, a vague but new image of Edo taste was shaped in the process of commercialization before the Great Kantō Earthquake. It was also different from the one depicted by Kafū Nagai as escapism. Later, the research of Edo Shumi Kenkyū-kai was taken over by the studies of Edo culture by Engyo Mitamura and other Japanese literature scholars.一部非公開情報あり
著者
浅野 晴樹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.55-126, 1991-03-30

A great number of locally-produced pieces of pottery have been found through research excavations of the remains from the middle ages in the eastern part of Japan, but no serious studies have been made on them until recently.In this report, four kinds of local pottery are described to show the characteristics of pottery in the middle ages in the east: Haji ware dishes for serving food, vases found in the northern part of Kanto for storing food, Katakuchi-bachi and Suribachi (bowls with pouring lips and earthenware bowls with inner textured surface used as mortars) for preparing food, and inside-handled pans for boiling food.The first point is that Haji ware dishes that are classified into wheel-made ones and non-wheel-made ones started to spread in the east to signify the medieval society in the east. Incidentally, Haji ware in the east was produced in a different style from one in Kinai in the west.The Second one is that Ga ware (tile-clay) vases that are found widely in the northern part of Kanto signified increased production of original earthen ware in the east.The Third one is that Katakuchi-bachi bowls represented greatly increased production of local earthen ware in the latter half of the middle ages while Suri-bachi represented diversified centers of production and the appearance of locally domineering lords in the latter half of the middle ages.The Fourth one is that Inside-handled pans, like Katakuchi-bachi and Suribachi. represented the increase of locally produced goods, and they also represented the germinating division of labor in production of Ga ware products such as flat pans and braziers that were popularly used in the pre-modern days.Earthen ware products such as briefly mentioned above are only part of the pottery in the east in the middle ages. The complete variety of them are still to be investigated.
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.137-166, 2011-11-30

死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。葬儀では身体性を帯びた遺骨だけでなく,遺影もまた重要な表象として,現在ではなくてはならないものとなっている。なかでもいわゆる無宗教葬においては,遺影のみの儀礼も多く,そこでは最も重要な死者表象となって亡き人を偲び,死者を礼拝するための存在となっている。ところで遺影として使用された写真は,生前のある時点の一断面でありながら,一方で死者の存在そのものを想起させるものである。しかしこうしたまなざしは,写真が人々の間で使用されるようになった当初からあったのであろうか。本稿では追悼のための葬儀記録として作られた葬儀写真集の肖像写真の取り扱われ方の変化を通して,遺影に対するまなざしの変化を検討した。そこでは写真集が作られ始めた明治期から,巻頭に故人の肖像が用いられるが,撮影時に関するキャプションが入れられている。しかし明治末期から大正期にになると次第に撮影時に関する情報がキャプションに入らなくなり,さらに黒枠等を利用して葬儀写真との連続性が見られなくなっていく。つまり当初,撮影時のキャプションを入れることで,生から死への過程を表現するものとして,肖像は位置付けられていた。これはプロセスを意識する葬列絵巻とも相通じるものであった。しかし後になると,撮影時に関する情報を入れないことで時間性を取り除いたかたちで使用され,肖像は死者を総体的に表象するものとして位置付けられるようになったのである。こうして写真が生の一断面でありながら死者として見なす視線が次第に醸成されていったことがわかる。
著者
田口 勇
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.355-372, 1991-11-11

人類の鉄使用のスタートは隕鉄から造った鉄器に始まったと現在考えられているが,これまでこの隕鉄製鉄器について自然科学的見地からの総括的な研究調査は行われていなかった。これらの隕鉄製鉄器を総括的に調査し,鉄の歴史のスタート時点を明らかにすることを目的として本研究を実施した。すなわち,隕鉄について隕鉄起源説,隕鉄の成因,隕鉄の分類,南極隕鉄,隕鉄の特徴などを詳細に調査した。さらにこれまでに発見された隕鉄製鉄器を国外と国内に分けて調査した。国外では古代エジプトの鉄環首飾り,古代トルコの黄金装鉄剣,古代中国の鉄刃戈と鉄刃鉞などを,国内では榎本武揚が造った流星刀などを調べた。さらに代表的な隕鉄であるギボン隕鉄(ナミビア出土)から古代でも可能な条件下でナイフを試作した。以上から,人類が鉄鉱石を還元して鉄を得た時期より,はるかに古くから人類は隕鉄から装飾品,武器などを造っていたことがわかった。隕鉄は不純物が少ない場合,低温度(1,100℃以下)でも加熱鍛造性はよいが,不純物が多い場合,加熱鍛造性はわるい。隕鉄の加熱鍛造性を支配している,主な元素としては,硫黄とりんが挙げられる。なお,造ったナイフは隕鉄固有の表面文様(変形したウィドマンステッテン組織による)を有したが,もともとの孔が黒い‘すじ’として残った。
著者
宇田川 武久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.190, pp.1-28, 2015-01-30

すでに天文十二年(一五四三)八月の種子島の鉄炮伝来は歴史の常識になっている。しかし、この根拠は伝来から半世紀以上もたった慶長十一年(一六〇三)に南浦文之の書いた『鉄炮記』にある。こんにちの鉄炮の隆盛は、ひとえに時堯が鉄炮を入手した功績によるものと顕彰し、とても天文十二年ごろのできごとは思えない、津田監物や根来寺の杉坊、堺の商人橘屋又三郎、松下五郎三郎なる人物を登場させて、鉄炮が種子島から和泉の堺、紀州の根来、畿内近邦から関東まで広まったと書いている。それなのにいまも『鉄炮記』の語る種子島の鉄炮伝来と伝播を唯一とする見方は少なくない。そもそも種子島の鉄炮伝来は漂着という偶発的出来事であり、一大船は倭寇の巨魁王直の唐船であり、かれらは明の海禁政策に違犯して東アジアの海を舞台に密貿易に奔走し、九州や西国の大名や商人と深く結びついた存在であった。私はこの事実に着目して倭寇が東南アジアの鉄炮を種子島と九州および西国地方に分散波状的に伝えたと主張してきた。鉄炮伝来の研究は明治以来、こんにちまで百年以上の蓄積があるものの、最近、中世対外関係史の分野において議論が再燃し、なかでも村井章介氏の発言がきわだっている。同氏は私の倭寇鉄炮伝来説には、①「朝鮮・明史料の火炮の解釈」、②「日本に伝来した鉄炮の源流」、③「様々な鉄炮の仕様が分散波状的伝来を意味するのか」の三点の疑問があるにもかかわらず、宇田川は十分な反論もおこなわないまま、倭寇鉄炮伝来説を独走するとつよく批判した。そして村井氏は鉄炮の伝来は、あくまでヨーロッパ世界との直接の出会いとして理解すべきと力説する。まさにこれは見解の相違であるが、本稿の目的は銃砲史・砲術史の視点から村井氏の三点の批判に応えることにある。