著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.95-127, 1994-03-31

仏教には,水子を祀るという教義はないし,水子を各家で祀るという祖先祭祀も,前近代の日本にはまったくなかった。にもかかわらず,今日,「水子の霊が崇るので水子供養をしなければならない」と,人々に噂されるのはなにゆえであろうか。いわゆる1970年代におこり,80年代にブームを迎えた水子供養が,すでに20年を経過した今日,これを一つの民俗として研究してみる必要があろう。前近代の日本では生存可能数以上の子供が生まれた場合,これをどのように処理してきたか。一つには,予め拾われることを予期して,捨て子にする風があった。捨て子は,強く育つと信じられ,わざわざ捨吉などの名前をつけたこともあった。しかし,社会が育ててくれる余裕がないと思えるとき,間引きや堕胎がおこなわれた。暮らしていけないがゆえの間引きや堕胎を,人々は「モドス」「カエル」と言って,合理化してきた。実際,当時の新生児の生存率は低く,自然死・人為死に関わらず,その魂が直ちに再生すると信じて,特別簡略な葬法をした。それでも,姙娠した女が子供を亡くすということは,女の心身にとっては痛みであり,悩みがないわけではない。しかも,明治時代以降の近代家族が誕生するにあたって,女は「良妻賢母」「産めよ増やせよ」「子なきは去れ」と,仕事を持たない「産の性」に限定された。そのため,女は身体の痛みの上に,社会的育徳という痛みを積み上げられた。そんな悲痛な叫びが,水子供養の習俗に表れている。ところが,この女の叫びは,宗教活動の方向と経営を見失った寺院のマーケットにされてしまう。寺院や新宗教の販売戦略,心霊学と称するライターによって演出され,読み捨て週刊誌に取り上げられてひろまった。明治時代以降の近代家族は,男の論理による産業システムのためのものであった。その最高潮である60年代の高度経済成長が終わった70年代に入って,水子供養が出てきていることは興味深い。産業社会の幻影が,女を水子供養に走らせた。その女を,寺院は顧客として受け入れた。こうして,女は金に囲いこまれて,水子という不安に追い込まれ,水子供養という安心に追い込まれていったのである。そこで,彼女らの残した絵馬を分析することで,女の追い詰められた心理の一端を,分析してみたいと思う。
著者
鈴木 由利子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.157-209, 2017-03-31

水子供養が、中絶胎児に対する供養として成立し、受容される経緯と現状についての調査と考察を行った。水子供養が一般化する以前の一九五〇年代、中絶胎児の供養は、人工妊娠中絶急増を背景として中絶手術を担った医療関係者によって散発的に行われた。一九六五年代には、中絶に反対する「いのちを大切にする運動」の賛同者により、中絶胎児と不慮死者を供養する目的で「子育ていのちの地蔵尊」が建立され、一般の人びとを対象とした供養を開始した。一九七一年になると、同運動の賛同者により、水子供養専門寺院紫雲寺が創建された。同寺は中絶胎児を「水子」と呼び、その供養を「水子供養」と称し、供養されない水子は家族に不幸を及ぼすとして供養の必要を説いた。参詣者の個別供養に応じ、個人での石地蔵奉納も推奨した。この供養の在り方は、医療の進歩に伴い胎児が可視化される中、胎児を個の命、我が子と認識し始めた人びとの意識とも合致するものだった。また、中絶全盛期の中絶は、その世代の多くの人びとの共通体験でもあり、水子は不幸をもたらす共通項でもあった。胎児生命への視点の芽生えを背景に、中絶・胎児・水子・祟りが結びつき流行を生みだしたと考えられる。水子供養が成立し流行期を迎える時代は、一九七三年のオイルショックから一九八〇年代半ばのバブル期開始までの経済停滞期といわれたおよそ一〇年間であった。一方、水子供養の現状について、仏教寺院各宗派の大本山・総本山を対象に、水子供養専用の場が設置、案内掲示があるか否かを調査した。結果、約半数の寺院境内に供養の場が設置されているか掲示がみられ、明示されない寺も依頼に応じる例が多い。近年の特徴として、中絶胎児のみならず流産・死産・新生児死亡、あるいは不妊治療の中で誕生に至らなかった子どもの供養としても機能し始めている。仏教寺院を対象とした水子供養の指針書の出版もみられ、水子供養のあるべき姿やその意義が論じられている。
著者
柴田 純
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.109-139, 2008-03-31

柳田国男の〝七つ前は神のうち〟という主張は、後に、幼児の生まれ直り説と結びついて民俗学の通説となり、現在では、さまざまな分野で、古代からそうした観念が存在していたかのように語られている。しかし、右の表現は、近代になってごく一部地域でいわれた俗説にすぎない。本稿では、右のことを実証するため、幼児へのまなざしが古代以降どのように変化したかを、歴史学の立場から社会意識の問題として試論的に考察する。一章では、律令にある、七歳以下の幼児は絶対責任無能力者だとする規定と、幼児の死去時、親は服喪の必要なしという規定が、十世紀前半の明法家による新たな法解釈の提示によって結合され、幼児は親の死去や自身の死去いずれの場合にも「無服」として、服忌の対象から疎外されたこと、それは、神事の挙行という貴族社会にとって最重要な儀礼が円滑に実施できることを期待した措置であったことを明らかにする。二章では、古代・中世では、社会の維持にとって不可欠であった神事の挙行が、近世では、その役割を相対的に低下させることで、幼児に対する意識をも変化させ、「無服」であることがある種の特権視を生じさせたこと、武家の服忌令が本来は武士を対象にしながら、庶民にも受容されていったこと、および、幼児が近世社会でどのようにみられていたかを具体的に検証する。そのうえで、庶民の家が確立し、「子宝」意識が一般化するなかで、幼児保護の観念が地域社会に成立したことを指摘し、そうした保護観念は、一般の幼児だけでなく、捨子に対してもみられたことを、捨子禁令が整備されていく過程を検討することで具体的に明らかにする。右の考察をふまえて、最後に、〝七つ前は神のうち〟の四つの具体例を検討し、そのいずれもが、右の歴史過程をふまえたうえで、近代になってから成立した俗説にすぎないことを明らかにする。
著者
森栗 茂一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.57, pp.p95-127, 1994-03

仏教には,水子を祀るという教義はないし,水子を各家で祀るという祖先祭祀も,前近代の日本にはまったくなかった。にもかかわらず,今日,「水子の霊が崇るので水子供養をしなければならない」と,人々に噂されるのはなにゆえであろうか。いわゆる1970年代におこり,80年代にブームを迎えた水子供養が,すでに20年を経過した今日,これを一つの民俗として研究してみる必要があろう。前近代の日本では生存可能数以上の子供が生まれた場合,これをどのように処理してきたか。一つには,予め拾われることを予期して,捨て子にする風があった。捨て子は,強く育つと信じられ,わざわざ捨吉などの名前をつけたこともあった。しかし,社会が育ててくれる余裕がないと思えるとき,間引きや堕胎がおこなわれた。暮らしていけないがゆえの間引きや堕胎を,人々は「モドス」「カエル」と言って,合理化してきた。実際,当時の新生児の生存率は低く,自然死・人為死に関わらず,その魂が直ちに再生すると信じて,特別簡略な葬法をした。それでも,姙娠した女が子供を亡くすということは,女の心身にとっては痛みであり,悩みがないわけではない。しかも,明治時代以降の近代家族が誕生するにあたって,女は「良妻賢母」「産めよ増やせよ」「子なきは去れ」と,仕事を持たない「産の性」に限定された。そのため,女は身体の痛みの上に,社会的育徳という痛みを積み上げられた。そんな悲痛な叫びが,水子供養の習俗に表れている。ところが,この女の叫びは,宗教活動の方向と経営を見失った寺院のマーケットにされてしまう。寺院や新宗教の販売戦略,心霊学と称するライターによって演出され,読み捨て週刊誌に取り上げられてひろまった。明治時代以降の近代家族は,男の論理による産業システムのためのものであった。その最高潮である60年代の高度経済成長が終わった70年代に入って,水子供養が出てきていることは興味深い。産業社会の幻影が,女を水子供養に走らせた。その女を,寺院は顧客として受け入れた。こうして,女は金に囲いこまれて,水子という不安に追い込まれ,水子供養という安心に追い込まれていったのである。そこで,彼女らの残した絵馬を分析することで,女の追い詰められた心理の一端を,分析してみたいと思う。Buddhism does not teach that prayers should be offered for the spirits of miscarried babies, nor did ancestor worship in pre-modern Japan include the practice at the domestic level. This being so, why is it that today it is commonly said in Japanese society that 'Mizugo kuyō must be performed, or the spirit of the dead baby will haunt you'? The practice of mizugo kuyō started in the 1970's, becoming extremely popular in the 1980's; now, twenty years on, the practice needs to be studied as an ethnic custom.What was done in pre-modern Japan when more children were born than could be supported? Abortion or killing at birth of a child that could not be supported, became a rationalized act, commonly referred to as 'returning' the child. The survival rate of new-born infants at that time was in fact low, and a particularly simple funeral service was held in the belief that, regardless of whether the death was natural or induced, the spirit of such a child would be immediately reborn.Even so, for a pregnant woman the loss of her child is both a physical and a spiritual blow, which no woman can undergo without suffering. Added to which, the birth of the modern family from the Meiji Period onward, with such slogans as 'Good wife, wise mother', and 'Revile the barren', defined woman as the 'breeding sex', with no other work to perform. Thus the pain of social immorality was added to the woman's physical pain. The cry of grief that this produced is apparent in the practice of mizugo kuyō.However, this female cry was made into a market for the temples, which had lost sight of the direction of their religious activities, and were in administrative straits. It was played upon by the sales strategies of the temples and the 'New Religions' and writers calling themselves psychists, and spread through the pages of cheap weekly magazines.The modern family after the Meiji Period was something that existed solely for the sake of the industrial system according to male logic. It is interesting to note that the practice of mizugo kuyō appeared in the 1970's, when economic growth had passed the peak it reached in the 1960's. The illusions of the industrial society made women turn to mizugo kuyō; and the temples accepted these women as customers. Thus women found themselves besieged by unrest over their miscarried babies, they were driven toward the relief to be found in mizugo kuyō.Accordingly, I would like to analyze, by means of an analysis of the ema (votive pictures) left by these beleaguered women, some part of their state of mind.
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.113, pp.113-134, 2004-03-01

永禄六〜七年(一五六三〜四)の旅行支出簿である表題の資料は、当時の旅行の実態や、都市的な場、そして物価やサービスの価格についての豊富な情報を含んでいる。これについては既に一度史料紹介を行ったが、地名比定は大幅に改善することができるようになり、また関係史料との比較などから、内容についても分析を進めることが可能になった。醍醐寺の僧侶と思われる記者の目的は、同じ醍醐寺の無量光院院主堯雅の東国での付法と関係があり、帳簿の一部で支出が見られない部分は、堯雅の滞在先とほぼ重なる。すなわち、帳簿に空白部分があるのは、関係する真言宗寺院を用務で訪ねていたため、支出の必要がなかったものと考えられる。それ以外の部分ではほとんど旅籠に宿泊しているが、旅籠代がかなり一定していることをはじめ、他の料金にもサービスの量に応じた相場があったものと思われる。このことは、広汎な旅行の需要と供給の結果としか考えられず、当時既に、経済的関係のみで旅行を行うことが可能なシステムが存在していたと見なせる。また、旅籠代はかなりの部分で一泊二食二四文であるが、これは一五世紀初めの史料とも一致し、その他の料金にも大きな変動がないものがある。本史料は、長期的な価格変動の検討にも道を開いている。旅籠や昼食を提供しているそれぞれの場について見ると、外来者向けのサービスを自立したものとして持っており、近世に引き継がれたものも多い。近世の交通体系は、このような中世段階で自然発生的に成立していた旅行のシステムを前提にしてできたものと言うことができる。
著者
岩本 通弥
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.265-321, 2008-03-31

本稿は日本近代の産育儀礼の通史的展開として、その一大転機と位置付けられるであろう民力涵養運動期における「国民儀礼」の創出について、民俗学的観点から分析する。第一次大戦の戦後経営ともいえる民力涵養運動は、日露戦後の地方改良運動の延長と見做されたためか、近代史でも地方改良運動や後続の郷土教育運動・翼賛文化運動に比べ、研究蓄積はさほど厚くないが、民俗学的にみると、その史料には矯正すべき弊習として従前の暮らしぶりも描写されるなど、実に興味深い記述が多い。この運動は形式上、内務省の示した「五大要綱」に応じた、各県・各郡・各町村の自己変革であるため、その対応は地方毎であるが、列島周縁部では、例えば岩手県では敬神崇祖の強調で伊勢大麻を奉祭する「神棚」設置が推進され、鹿児島県では大島郡に対し、「神社ナキ地方ハ我カ皇国ノ不基ヲ定メ賜ヒタル…先賢偉人ノ神霊ヲ奉祀スヘキ神社ヲ建立スルコト」と命じるなど、一九四〇年代の神祇院体制への土台として地域的平準化が図られており、従前の竈神や納戸神・便所神などへの素朴で個別的な民間信仰は、天照の下に統合され、家内安全も豊作・安産祈願も「天照のお蔭」と思わせるような換骨奪胎過程が見てとれる。そのほか各地の記事を通覧すると、門松や注連縄、初詣や七五三、神前結婚式の普及を推奨したり、礼服規定で喪服を黒に統一するなど、今日日本で「伝統」と見做される「国民儀礼」の多くは、この期の運動によって成立するが、それまで地方毎に多様だった民俗文化を平準化し、「文化的ならし」を図る一方、自治奉告祭や出征兵士の送迎、三大節など、地域共同体に何かしらの出来事があれば、「氏神」に参集させ、新たな形式の「集団参拝」を強要するなど、私的で人的であった習俗を、公的で外部からも見える可視的な社会的儀礼へと変換させた。それは地域内階層差や初生児優遇の儀礼を平等化する一方、忠君愛国へ向けた儀礼の全国的画一化の端緒ともなった。
著者
鵜澤 由美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.225-263, 2008-03-31

これまで、近代以前の日本には誕生日の習慣はなかったと考えられ、誕生日に関する研究もほとんどされてこなかった。しかし、日本でも天皇や将軍などの誕生日は祝われ、古くは奈良時代に誕生日の行事が行われていたのである。そこで本稿では、近世における誕生日の実態を明らかにするべく、誕生日の祝われ方、位置付けなどを考察していく。将軍の誕生日には、将軍の御前で祝が行われるとともに、殿中に祗候している者たちに餅や酒が下賜されるという行事が行われた。将軍の誕生日は、将軍と、殿中で祗候する詰衆や旗本、御家人との主従関係を意識させる儀礼の一つであったのである。この祝の構造は大名家の一部でも見られ、藩主の誕生日に家臣が集められて祝儀が行われた。公家にとっての誕生日は節句のようなものであり、当主が自らの誕生日を最も盛大に祝っていた。家族や友人と祝宴を開くのが一般的であった。産土神である御霊社への参詣も行われた。また、天皇の誕生日は、近世に入っても毎月行われ、女官が心経を読誦した。下級武士や庶民は、子供や孫の誕生日を中心に祝った。赤飯を炊き神に上げ、親類や隣人と会食をするなど、家族的な行事だった。誕生日には餅や酒が出され、また厄除けの力があるという小豆も食べられた。神仏の信仰も重視されている。日頃の無事を喜び、今後も息災であることを願ったと推測される。年を取るのはみな一斉に正月であったけれども、前近代の人々も、自分や家族などの生まれた日を特別な日として意識していた。一年に一度めぐってくる誕生日を記念し、祝うという概念があったのである。明治以降、西洋文化が輸入され、戦後に満年齢が制度化されて誕生日に加齢の要素が加わり、生活の欧米化も加速していく中で、今日のような祝い方になったと考えられる。
著者
常光 徹
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.255-270, 2003-10-31

本稿は、ある対象に向けて意識的に息を吹くしぐさと、何らかの意図のもとに息を吸うしぐさについて論じたものである。しぐさの伝承に関する資料にはまとまったものが無く、部分的な事例が各種の報告書に混在しているケースが多い。これまでの研究においでも、特定のテーマ以外には話題になる機会が少なかった。本稿では「吹く」と「吸う」にまつわる資料を分類し、その呪術的な内容を明らかにする。第一章では、息を「吹く」しぐさを取り上げる。火傷や怪我、あるいは毒虫に刺されたときなどに、呪い歌を唱えて負傷した箇所をフーフーと吹くしぐさは広く行われてきた。呪い歌の力で痛みを取り去り治癒の効果を期待するものだが、その際、息を吹きかけるのは、邪悪なモノや不浄なものを祓い浄化するためだといってよい。また、息を吹いて妖怪を追い払う場合もあるが、反対に、妖怪から人が吹かれるのは危険な状態だと考えられている。民間説話の怪談のなかには、妖怪が息を吹きかけて人を殺すモティーフが成立している。口をすぼめて息を強く吹いたり口笛を吹くことをウソブキという。ウソブキをすると、風が起きるとか、蜂が逃げていくという俗信についても考察する。第二章では、息を「吸う」しぐさを取り上げる。チュウチュウと音をたてて息を吸うしぐさをねず鳴きといい、漁師が魚を釣るときや海女が海に潜る際に行う。これは豊かな海の幸を期待する呪術的な行為である。かつては、遊女が客を呼び込もうとするときにもねず鳴きを行ったことはよく知られている。また、動物を呼ぶときにもこのしぐさがみられる。吹くしぐさに、邪悪なモノを払いのけ遠ざけるはたらきが強調されるのに対して、吸うしぐさには、外部のものを招き寄せるはたらきが認められる。この違いは「吹く」と「吸う」という息遣いのあり方と重なっており、「吹く」か「吸う」かの違いは、それぞれの伝承群の意味や機能の方向性を基本的に規定している。
著者
菱沼 一憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.147-164, 2014-01-31

上野国桐生下広沢村の彦部家の足利将軍家旧臣活動の分析を通じて、近世の身分制における由緒の機能を明らかにし、旧臣活動の背景にある社会運動を浮かび上がらせる。彦部家は同村の有力百姓で、村役人に任じられていた。しかし高階姓で、室町・戦国期には、足利将軍家の近習の武士として京都で活動し、戦国末期に同村へ土着したと伝える。戦国期、同地へ土着するに際し、戦国大名由良氏より広沢郷内に千疋を宛行われたという領主としての由緒、関ヶ原の合戦で旗絹・旗竿を献上したという桐生領五四ヶ村の由緒は、それぞれ村支配、絹織物産業を支える理論として機能した。いわゆる「家の由緒」「村の由緒」である。これに対して足利将軍家の旧臣として会津藩士坂本家と交流した活動は、その目的が必ずしも明確ではない。坂本家は足利義昭の曾孫で牢人であった義邵が、神道学・軍学・有職故実に通じて会津藩主保科正容に求められて同藩に仕官した。足利鑁阿寺がこの坂本家と、彦部家を仲介し旧臣関係が構築され、それにより御目見・御見舞・裃や感状の下賜・一字拝領といった恩賞給付がなされた。そもそも彦部家は、京都西陣から高度な織物の技術を導入し、また文芸の面では、江戸の国学者を桐生へ招き、また出府して中央の文化を吸収し、桐生国学を興隆させるなど、中央の文明・文化を積極的に導入・吸収することにより家の繁栄をもたらしてきたのである。坂本家との旧臣活動もまた、同家に蓄積されていた先進的で高度な文化に触れ、それに倣ってゆくことが一つの目的であったと考えられる。幕末期、彦部家は嫡子を幕臣とし、武家へ養子に入れており、同家が身分の上昇に執心していたことは明らかであるが、これを単に、幕藩体制での身分秩序を下支えするものと理解することは正しくない。武家による政治・経済・文化の一元的な独占体制への抵抗であり、独占されていたそれらを獲得してゆくという積極的な面を評価すべきである。こうした動向は、幕府支配体制の相対化という意味で、草莽運動と質的な共通性を見出すことができ、また彦部家のみならず東関東で広く確認される社会的動向といえる。
著者
小池 淳一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.205, pp.459-472, 2017-03-31

本稿は、民俗儀礼を起源とする俳句の季語を文芸資源と捉え、その形成の過程を論じようとするものである。七五三という儀礼は実は新しく、都市的な環境のなかで成立したものである。そして特に現代では古い状況から新しい状況へと変化することを示す儀礼というよりも、人生の階梯を晴れ着などで示す表層的な儀式という性格が顕著である。そうした七五三が文芸資源として俳句作品に用いられる際には、子どもの成長や晴れ着の着こなし、儀式のなかでの動きを切り取るものとして機能している。社会的な儀礼よりも一時的な儀式としての意味合いが強調される。一方、岡見は「堀川百首」の源俊頼の和歌における「をかみ」の語釈として胚胎し、近世の季寄せや歳時記の類にこの語に関する関心が引き継がれてきた。記録上は、多少のバリエーションがあり、担い手や方法に差異があるが、実際の民俗儀礼として明確に確認はできない。この語は俳句作品のなかでは年の暮の情景を示すものとして、さらには時間感覚を表出させるものとして働く場合が多い。それは幻想的であり、年中行事というよりも特殊な境界の時空をとらえるものとなっている。
著者
一ノ瀬 俊也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.131, pp.51-84, 2006-03-25

戦場における佐倉歩兵第五七連隊の行動は、いくつかの連隊史や回想録で比較的よく知られている。しかし、兵士たちの平時の日常生活、意識については不明な点も多いように思われる。本稿は一九三四(昭和九)年に連隊のある上等兵がほぼ毎日書いていた日記帳の内容を分析して、連隊の兵士が毎日どのような訓練・生活を送っていたのかを再構成することを目的とする。日記の筆者は(おそらく)三三年一月現役入営し、翌三四年七月一九日除隊している。日記帳にはこのうち三四年一月一日から除隊後の同年八月一八日までの記述がある。具体的に千葉での演習・勤務、富士山麓での演習、対抗競技と連隊への帰属意識、日常の衣食住、私的制裁、連隊と地域社会との関わり、といった諸テーマを設定して、兵士たちの〈日常〉の再構成に努めるとともに、彼らが自己の所属する軍隊をどうみていたのか、それは帝国軍隊の支持基盤たりえたのか、といった問題にも展望を示したい。なお、参考資料として、本日記の全文を連隊生活とは直接関係のない除隊後のものを除き、翻刻した。
著者
鵜澤 由美
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.141, pp.225-263, 2008-03

これまで、近代以前の日本には誕生日の習慣はなかったと考えられ、誕生日に関する研究もほとんどされてこなかった。しかし、日本でも天皇や将軍などの誕生日は祝われ、古くは奈良時代に誕生日の行事が行われていたのである。そこで本稿では、近世における誕生日の実態を明らかにするべく、誕生日の祝われ方、位置付けなどを考察していく。将軍の誕生日には、将軍の御前で祝が行われるとともに、殿中に祗候している者たちに餅や酒が下賜されるという行事が行われた。将軍の誕生日は、将軍と、殿中で祗候する詰衆や旗本、御家人との主従関係を意識させる儀礼の一つであったのである。この祝の構造は大名家の一部でも見られ、藩主の誕生日に家臣が集められて祝儀が行われた。公家にとっての誕生日は節句のようなものであり、当主が自らの誕生日を最も盛大に祝っていた。家族や友人と祝宴を開くのが一般的であった。産土神である御霊社への参詣も行われた。また、天皇の誕生日は、近世に入っても毎月行われ、女官が心経を読誦した。下級武士や庶民は、子供や孫の誕生日を中心に祝った。赤飯を炊き神に上げ、親類や隣人と会食をするなど、家族的な行事だった。誕生日には餅や酒が出され、また厄除けの力があるという小豆も食べられた。神仏の信仰も重視されている。日頃の無事を喜び、今後も息災であることを願ったと推測される。年を取るのはみな一斉に正月であったけれども、前近代の人々も、自分や家族などの生まれた日を特別な日として意識していた。一年に一度めぐってくる誕生日を記念し、祝うという概念があったのである。明治以降、西洋文化が輸入され、戦後に満年齢が制度化されて誕生日に加齢の要素が加わり、生活の欧米化も加速していく中で、今日のような祝い方になったと考えられる。