著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.137-166, 2011-11-30

死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。葬儀では身体性を帯びた遺骨だけでなく,遺影もまた重要な表象として,現在ではなくてはならないものとなっている。なかでもいわゆる無宗教葬においては,遺影のみの儀礼も多く,そこでは最も重要な死者表象となって亡き人を偲び,死者を礼拝するための存在となっている。ところで遺影として使用された写真は,生前のある時点の一断面でありながら,一方で死者の存在そのものを想起させるものである。しかしこうしたまなざしは,写真が人々の間で使用されるようになった当初からあったのであろうか。本稿では追悼のための葬儀記録として作られた葬儀写真集の肖像写真の取り扱われ方の変化を通して,遺影に対するまなざしの変化を検討した。そこでは写真集が作られ始めた明治期から,巻頭に故人の肖像が用いられるが,撮影時に関するキャプションが入れられている。しかし明治末期から大正期にになると次第に撮影時に関する情報がキャプションに入らなくなり,さらに黒枠等を利用して葬儀写真との連続性が見られなくなっていく。つまり当初,撮影時のキャプションを入れることで,生から死への過程を表現するものとして,肖像は位置付けられていた。これはプロセスを意識する葬列絵巻とも相通じるものであった。しかし後になると,撮影時に関する情報を入れないことで時間性を取り除いたかたちで使用され,肖像は死者を総体的に表象するものとして位置付けられるようになったのである。こうして写真が生の一断面でありながら死者として見なす視線が次第に醸成されていったことがわかる。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.132, pp.287-326, 2006-03-25

本稿の目的は,岩手県中央部における寺院への額の奉納習俗の変遷を取り上げ,死者の絵額や遺影などの表象のあり方について,国民国家形成過程との関連を考慮しつつ近現代における死への意味づけについて考察することである。盛岡市や花巻市など北上川流域と遠野地方にまたがる岩手県中央部では,江戸末期から明治期にかけて,死者の供養のため大型の絵馬状の絵額が盛んに奉納された。絵額は来世の理想の姿を複数の死者とともに描いており,死者を来世に位置づけ安楽を祈るという目的を持ったものであった。しかもその死者は夭折した子供や若者,中年が多く,または一軒の家で連続して死者を出した場合など,不幸な状況ゆえにより供養をし冥福を祈ったものであった。しかし明治後期になると従来の絵額とは異なるモティーフを持つようになり,絵額から肖像画や写真などの遺影に変化していった。こうした変化は特に軍人に関して顕著であり,御真影や元勲の肖像,戦死者の遺影と類似の構図をとるようになる。こうした遺影への変化は,表象のあり方が現世の記憶を基盤にしただけでなく,不幸な死者へのまなざしから顕彰される死者へとその視線は変わることになったのである。一方で,写真それ自体が死者そのものの表象として使われるようになり,人々の遺影への意味づけは多義的になっている。こうして近代の国民国家形成の過程において,とくに戦死者の祭祀との関連から,死者の表象のあり方が大きく変わるととともに,死の意味づけを変えていったことがわかる
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.137-166, 2011-11

死者儀礼においては,人の存在様態の変化により,その身体の状況と取扱い方に大きな変化がおきてくる。身体を超えて死者が表象される一方,身体性を帯びた物質が儀礼などの場でたびたび登場するなど,身体と人格の関係を考える上でも死はさまざまな課題を抱えている。葬儀では身体性を帯びた遺骨だけでなく,遺影もまた重要な表象として,現在ではなくてはならないものとなっている。なかでもいわゆる無宗教葬においては,遺影のみの儀礼も多く,そこでは最も重要な死者表象となって亡き人を偲び,死者を礼拝するための存在となっている。ところで遺影として使用された写真は,生前のある時点の一断面でありながら,一方で死者の存在そのものを想起させるものである。しかしこうしたまなざしは,写真が人々の間で使用されるようになった当初からあったのであろうか。本稿では追悼のための葬儀記録として作られた葬儀写真集の肖像写真の取り扱われ方の変化を通して,遺影に対するまなざしの変化を検討した。そこでは写真集が作られ始めた明治期から,巻頭に故人の肖像が用いられるが,撮影時に関するキャプションが入れられている。しかし明治末期から大正期にになると次第に撮影時に関する情報がキャプションに入らなくなり,さらに黒枠等を利用して葬儀写真との連続性が見られなくなっていく。つまり当初,撮影時のキャプションを入れることで,生から死への過程を表現するものとして,肖像は位置付けられていた。これはプロセスを意識する葬列絵巻とも相通じるものであった。しかし後になると,撮影時に関する情報を入れないことで時間性を取り除いたかたちで使用され,肖像は死者を総体的に表象するものとして位置付けられるようになったのである。こうして写真が生の一断面でありながら死者として見なす視線が次第に醸成されていったことがわかる。In death rites, the circumstances of the body and the way it is handled change dramatically according to changes in mode of human existence. Death poses all sorts of questions with respect to the relationship between body and personality, with the deceased, for example, being represented in non-bodily form, but materials connected with the body making repeated appearances in rites and other situations.Along with the bones of the deceased, which are connected to his or her corporeality, the portrait of the deceased is a very important representation and an indispensable component of death rites in the present day. Funeral rites focused solely on the portrait of the deceased are common in so-called non-religious funerals. In such funerals the portrait becomes the most important representation of the deceased, serving as a means whereby the deceased is remembered and last respects paid. While the photograph used for the portrait of the deceased depicts just one moment in the person's former life, it brings to mind the entire existence of the deceased. However, it is questionable whether such photos of deceased persons performed this role when they were first used as portraits. In this paper, I look at changes in the way portraits of the deceased are viewed by examining changes in the way portrait photos have been used in funeral albums created as records of the funeral for remembrance purposes.Portrait photographs of the deceased have been used on the opening page of funeral albums since they started to be made during the Meiji period, but in the earliest albums, the portrait photos are accompanied by captions related to the time when the photograph was taken. However from the end of the Meiji period and on into the Taisho period, such captions provided increasingly sparse information about when the photo was taken, until photos eventually came to be merely framed in a black border or some other kind of embellishment, losing all continuity with the photos of the funeral. In other words, at the start portrait photos accompanied by captions about when the photo was taken were used to express passage from life to death. They thus showed similarities with funeral procession picture scrolls, which also depicted such passage. However, by removing information on when the photo was taken, portrait photos came to represent the deceased as a whole, stripped of any temporal element. As a result, people came to perceive funeral portrait photos as the deceased themselves rather than just a depiction of a single moment in former life.
著者
山田 慎也 高橋 信補 舩橋 誠壽
出版者
一般社団法人 システム制御情報学会
雑誌
システム制御情報学会 研究発表講演会講演論文集 第50回システム制御情報学会研究発表講演会
巻号頁・発行日
pp.45, 2006 (Released:2006-12-01)

本研究では、実務に耐えうる株式運用の定量的手法を目指し、市場に存在する株式指標を説明変数とする多変量解析や組み合わせ最適化などの分析手法を用いて株式リターンを高精度に予測するための方法論を構築した。またその手法を実データに適用し、実際のパフォーマンスを検証した。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.95-112, 2015-02-27

本稿では,徳島県勝浦郡勝浦町のビッグひな祭りの事例を通して,地域固有の特徴ある民俗文化ではないごく一般的な民俗が,その地域を特徴付けるイベントとして成功し,地域おこしを果たしていく過程とその要因について分析し,現代社会における民俗の利用の様相を照射することを目的としている。徳島県勝浦町は,戦前から県下で最も早くミカン栽培が導入され,昭和40年代までミカン産地としてかなり潤っていたが,その後生産は低迷し,他の地方と同様人口流出が続いていた。こうしたなかで,地域おこしとして1988年,ビッグひな祭りが開催され,途中1年は開催されなかったが,以後現在まで連続して行っている。当初役場の職員を中心に,全国で誇れるイベントを作り出そうとして企画され,その対象はおもに町民であった。しかも雛祭り自体は勝浦町に特徴あるものではなく,また地域に固有の雛人形を前面に出したわけではない。各家庭で収蔵されていた雛人形を,勝浦町周辺地域からあつめて,巨大な雛段に飾ることで,イベントの特性を形成していった。さらに,町民が参加するかたちで,主催は役場職員から民間団体に移行し,開催会場のために土地建物を所有する。こうして民間主催のイベントにすることで,行政では制約が課されていたさまざまな企画を可能とするとともに,創作的な人形の飾り方を導入することで,多様な形態での町民の参加が可能となり,その新奇性からも町内外の観覧者を集めることに成功した。そして徳島県下から,近畿圏など広域の観光イベントとして成長していった。さらに,このノウハウとともに,集まった雛人形自体を贈与し,地域おこしを必要とする全国の市町村に積極的に供与することで,全国での認知も高まっていった。こうした状況を生み出す背景となったのは,実は戦後衣装着の人形飾りを用いた三月節供の行事が全国に浸透し,大量に消費された雛人形が各家庭で役目を終えたままとなっているからであり,それらを再利用する方法がみいだされたことによる。さらに自宅で飾られなくなった雛人形を観光を通して享受していくという,民俗の現在的な展開をも見て取ることができる。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.193, pp.95-112, 2015-02

本稿では,徳島県勝浦郡勝浦町のビッグひな祭りの事例を通して,地域固有の特徴ある民俗文化ではないごく一般的な民俗が,その地域を特徴付けるイベントとして成功し,地域おこしを果たしていく過程とその要因について分析し,現代社会における民俗の利用の様相を照射することを目的としている。徳島県勝浦町は,戦前から県下で最も早くミカン栽培が導入され,昭和40年代までミカン産地としてかなり潤っていたが,その後生産は低迷し,他の地方と同様人口流出が続いていた。こうしたなかで,地域おこしとして1988年,ビッグひな祭りが開催され,途中1年は開催されなかったが,以後現在まで連続して行っている。当初役場の職員を中心に,全国で誇れるイベントを作り出そうとして企画され,その対象はおもに町民であった。しかも雛祭り自体は勝浦町に特徴あるものではなく,また地域に固有の雛人形を前面に出したわけではない。各家庭で収蔵されていた雛人形を,勝浦町周辺地域からあつめて,巨大な雛段に飾ることで,イベントの特性を形成していった。さらに,町民が参加するかたちで,主催は役場職員から民間団体に移行し,開催会場のために土地建物を所有する。こうして民間主催のイベントにすることで,行政では制約が課されていたさまざまな企画を可能とするとともに,創作的な人形の飾り方を導入することで,多様な形態での町民の参加が可能となり,その新奇性からも町内外の観覧者を集めることに成功した。そして徳島県下から,近畿圏など広域の観光イベントとして成長していった。さらに,このノウハウとともに,集まった雛人形自体を贈与し,地域おこしを必要とする全国の市町村に積極的に供与することで,全国での認知も高まっていった。こうした状況を生み出す背景となったのは,実は戦後衣装着の人形飾りを用いた三月節供の行事が全国に浸透し,大量に消費された雛人形が各家庭で役目を終えたままとなっているからであり,それらを再利用する方法がみいだされたことによる。さらに自宅で飾られなくなった雛人形を観光を通して享受していくという,民俗の現在的な展開をも見て取ることができる。This article aims to reveal how folk customs manifest themselves in the modern society. To this end, the Big Hina-doll Festival in Katsuura Town, Katsuura District, Tokushima Prefecture, is used as a case study to analyze how and why a folk custom has developed to an event that represents and revitalizes a community even though it is not original or indigenous to the community.Katsuura Town, Tokushima Prefecture, was the first town in the prefecture to start orange cultivation before World War II and prospered as an orange-growing town until around the late 1960s to the early 1970s. Then, with the decline of orange cultivation, the town, like so many others, suffered depopulation. Against this backdrop, the Big Hina-doll Festival was held to revitalize the town in 1988, since when it has been held annually up to the present time except for one year. This was originally designed for town people and led by the town office staff who aimed to make it a nationally recognized festival. Although neither hina-doll festival nor hina dolls were unique to the town, the event distinguished itself by displaying a great number of hina dolls collected from households in and around the town on a huge red-carpeted staircase.Then, with more town people joining the management, the festival was transferred from public to private hands, and a private association possessed premises as a venue for the festival. Thus, by privatizing the festival, a variety of limitations due to being a public event were removed. Moreover, the adoption of new creative ways of displaying hina dolls enhanced the flexibility for town people to participate in the festival. This novelty drew a large audience from in and around the town, and the festival gradually grew to an event that attracted tourists from all over the prefecture and the Kinki Region. Furthermore, the town increased the national recognition of the festival by providing its knowhow, as well as collected hina dolls, for municipalities requiring revitalization programs all over Japan.The reason behind this success was because the festival was recognized as a new opportunity to reuse hina dolls which had spread throughout the country since the end of World War II along with the custom of the Girls' Festival in March and then been packed away at households as their daughters grew up. This also reflects the contemporary development of folk customs that hina dolls are shared through tourism after they were no longer used at home.
著者
山田 慎也 金 セッピョル 朽木 量 土居 浩 谷川 章雄 村上 興匡 瓜生 大輔 鈴木 岩弓 小谷 みどり 森 謙二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

現代の葬儀の変遷については、整理を進めている国立歴史民俗博物館蔵の表現文化社旧蔵の葬儀写真を順調にデジタル化を進め、約35000のポジフィルムをデジタル化をおこなった。昨年度、さらに追加の資料が発見寄贈されたので、デジタル化を進めるための情報整理を行っている。また近親者のいない人の生前契約制度等の調査は、それを実施している横須賀市の具体的な調査を行った。一定の所得水準以下の人だけを対象としていたが、それ以上の人々も希望があり、死としては対応を迫られていることがわかった。また相模原市や千葉市などでも行政による対応がなされ、千葉市の場合は民間業者との連携が行われていることがわかった。また京都や大阪での葬送儀礼や墓の変容については、その歴史的展開の相違から東京という政治的中心とは異なる対応をとってきていることが調査によって判明した。そこでその研究成果について、民間の文化団体と協力して「上方で考える葬儀と墓~近現代を中心に」というテーマで、大阪天王寺区の應典院を会場にでシンポジウムを開催した。当日は人々の関心も高く、約150名ほどが集まり会場は立ち見が出るほど盛況であった。また3月には、葬儀の近代化によって湯灌などの葬儀技術や情報が東アジアに影響をおよぼし、生者と死者の共同性に影響を与えていることを踏まえ、東南アジアの多民族国家における葬儀と日本の影響を把握するため、マレーシアの葬祭業者や墓園業者などの調査を行い、またマレーシア死生学協会と共催で国際研究集会「葬送文化の変容に関する国際比較―日本とマレーシアを中心に―」を開催し、両国のおける死の概念や葬儀産業の役割、専門家教育などについて検討を行った。
著者
山田 慎也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2003

今年度は最終年度であり、現在までの調査の総括と補足調査を行った。まず、2005年9月に開催された日本宗教学会学術大会において、パネル「死者の祭祀と供養-集団性と個人性の葛藤と共存」のなかで「死者に対する慰撫と顕彰」というタイトルで発表した。当該科研費の研究成果をふまえ、岩手県中部においては当初、哀れむべき慰撫される死者たちが来世の幸福な姿として絵額にされたが、不幸な慰撫される存在の延長上にあった戦死者が、御真影等の肖像形式となり、顕彰として写真を使用するようになった。それ以降、不幸な死者だけでなく、天寿を全うした老人などの遺影も奉納されるようになり、死者が顕彰される存在として捉えられるようになったことを報告した。さらに今までの成果のうち、岩手県宮守村長泉寺の絵額・遺影調査の資料を整理し、「近代における遺影の成立と死者表象」という論考をまとめ、『国立歴史民俗博物館研究報告』132号に掲載された。ここでは絵額の成立と特徴を詳細に検討し、絵額が供養を目的としていること、夭折の死者や連続して死亡した使者など特に慰撫すべき存在であること、ある程度のパターンができていることなどが明らかになった。そうした絵額から遺影への変化は、戦死者において顕著であり、そこには顕彰のまなざしがあり、それ以降になると不幸な死者にも遺影を用いることがわかってきた。こうした遺影への変化は、表象のあり方が現世の記憶を基盤にしただけでなく、写真それ自体が死者そのものの表象として使われるようになり、人々の遺影への意味づけは多義的になっていた。こうして近代の国民国家形成の過程において、とくに戦死者の祭祀との関連から、死者の表象のあり方が大きく変わるとともに、死の意味づけを変えていったこと明らかになった。
著者
中牧 弘允 村上 興匡 石井 研士 安達 義弘 山田 慎也
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

平成11年度は、入社式、新入社員研修と社葬に焦点を置いて調査をおこなった。入社式と新入社員研修については大阪のダスキンで、一燈園とのつながりを明らかにした。社葬については、ソニーの社葬を調査し、国際色豊かな演出の中にソニーの企業としての特色と盛田会長のカリスマ的創業者としての性格を明らかにした。また、大成祭典、一柳葬具総本店といった葬儀社においても調査をおこない、社葬と社員特約の歴史的変遷を跡づけた。平成12年度は、前年度に引き続いて入社式、新入社員研修、社葬を追跡調査したほか、社内結婚についての調査もおこない、公と私の場が入り交じった日本独特の会社文化を明かにした。社葬と会社特約については、大阪の大手葬儀社である公益社を新たに調査した。平成11・12年度を通じて、九州の酒造関係の地場産業における儀礼調査、京都の伏見稲荷神社における会社儀礼の調査をおこない、伝統産業と宗教の関わり、会社ならびにサラリーマンの強化儀礼について研究をおこなった。それぞれの調査を総合して、報告書として「サラリーマンの通過儀礼に関する宗教学的研究」を作成した。