著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.305-329, 2013-03

戦国・織豊期の天皇像について、公家衆が地方に下向するものが多く、天皇は公家 社会に対する統括権を喪失し「太政官も廷臣も必要としない天皇制」になったとする 歴史像が通説になっている。本稿では、明応五年(一四九六)前関白九条政基が家礼唐橋在数を殺害した事件で、 後土御門天皇が九条家に対して勅勘の処分にした裁判事例をとりあげ検討した。その 結果、天皇は被害者の一門菅原氏に勅使を派遣して菅氏輩訴状を出させ、論人の九条 家にも勅使を派遣して准后申状を提出させて、裁判をはじめた。近臣や伝奏経験者に 勅問を発して意見具申をもとめ、二月五日に天皇自ら妻戸間に出御して、伝奏・職事 らと合議を行い、両局輩から勘文を出させて、御前沙汰と呼ぶべき裁判審議を行った。 武家に申して御沙汰するか否かについては、重科の罪ではないとして、九条尚経解官 の処分案について検討することで二月五日の御前定を終えた。この天皇裁判事件は、 天皇が官人と結ぶ官位制(国家官僚制)と、権門が家礼と結ぶ主従制(家産官僚制) という二つの官僚制のうち、どちらを優先させるか、という難問であった。摂籙家や 九条家と姻戚関係にあった三条西実隆や甘露寺親長ら近臣は、家礼在数の罪科は明瞭 であるとして、家長による家礼・臣への処罰権を軽視するものとして摂家解官の処分 案に反対した。閏二月二日の御前定で、天皇は摂家解官の処分案を撤回し、近衛家が 提案した九条家勅勘・出仕停止の処分案を「御治定」として決裁した。このように室 町戦国期の天皇は、公家身分内部の紛争や殺害事件に対して天皇の裁判権・処罰権を 行使しており、勅使の派遣や勅問によって関係者の合意形成に努力し、勅勘・出仕停 止の処分案を天皇による最終決定として判決した。その反面、武家執奏を口実にして、 天皇の意志に反した近衛家から関白職を取り上げた。室町・戦国期にも天皇が公家間 の紛争に対して裁判権を行使し、幕府を後見として利用しつつ家父長制的権力を強化 していたことをあきらかにした。The prevailing view of the historical image of the Emperor during the Sengoku/Shokuho Period says that many Imperial Court nobles left the capital and headed to the provinces, with the Emperor losing his right to unify the Imperial Court society and the "Emperor System requiring neither a Department of State nor courtiers".This paper investigates a trial case in which Emperor Gotsuchimikado censured the Kujo family in relation to the murder of a servant called Arikazu Karahashi perpetrated in 1496 by Kujo Masamoto, former Chief Adviser to the Emperor. As a result of this, a trial commenced after the Emperor dispatch an imperial messenger to the victim's family, the Sugawara clan, who were made to submit a complaint, and an imperial messenger was also dispatched to the defendant's family, the Kujo family, who were made to submit a jugou petition. The opinions of attendants and persons with experience of delivering messages to the Emperor were requested by means of imperial questions, and trial deliberations referred to as gozen sata (direct judgments) were conducted after the Emperor himself arrived at the doors to the pavilion on February 5th and summoned both parties to consult with regards to events relating to work in delivering messages to the Emperor. As for whether or not imperial words were given to buke, the crime was not deemed to be serious, and gozen sata were completed on February 5th by considering punishment by dismissal for Hisatsune Kujo. This Emperor's trial case posed a difficult question in terms of whether to give priority to State bureaucracy connected to government officials, or to patrimonial bureaucracy connected to powerful families and their servants. Attendants Sanetaka Sanjonishi and Kanroji Chikanaga, who were connected to the Setsuroku family and Kujo family as relations by marriage, felt that the crime against Arikazu was clear, and they opposed punishment by dismissal as lightening the family heads' right to punish servants and attendants. With the imperial decision of February 2nd, the Emperor withdrew punishment by dismissal of the adviser and approved as an imperial decree punishment of the Kujo family by censure and suspension of service, as proposed by the Konoe family. In this way, the Emperor of the Muromachi/Sengoku Period exercised his right to judge and punish disputes and murder cases between Imperial Court nobles, dispatching imperial messengers and putting great effort into understanding the related partied by means of imperial questions, with the Emperor making final decisions on punishment by censure or suspension of service. On the other hand, taking the Muromachi shogun (buke shisso) as a pretext, the Emperor reciprocated by appointing a member of the Konoe family as his chief adviser. Even in the Muromachi/Sengoku Period, the Emperor exercised jurisdiction in relation to disputes between Imperial Court nobles, and it was clarified that patriarchal authority was strengthened while utilizing the shogunate as a guardian.
著者
鈴木 三男 能城 修一 田中 孝尚 小林 和貴 王 勇 劉 建全 鄭 雲飛
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.187, pp.49-71, 2014-07-31

ウルシToxicodendron vernicifluum(ウルシ科)は東アジアに固有の落葉高木で,幹からとれる漆液は古くから接着材及び塗料として利用されてきた。日本及び中国の新石器時代遺跡から様々な漆製品が出土しており,新石器時代における植物利用文化を明らかにする上で重要な植物の一つであるとともに日本の縄文文化を特徴づけるものの一つでもある。本研究では現在におけるウルシの分布を明らかにし,ウルシ種内の遺伝的変異を解析した。そして化石証拠に基づいてウルシの最終氷期以降の時空分布について検討した。その結果,ウルシは日本,韓国,中国に分布するが,日本及び韓国のウルシは栽培されているものかあるいはそれが野生化したものであり,中国には野生のものと栽培のものの両方があることが明らかとなった。それらの葉緑体DNAには遺伝的変異があり,中国黄河~揚子江の中流域の湖北型(V),浙江省と山東省に見られる浙江型(VII),日本,韓国,中国遼寧省と山東省に見られる日本型(VI)の3つのハプロタイプ(遺伝子型)が検出された。中国大陸に日本と同じハプロタイプの野生のウルシが存在することは,日本のウルシが中国大陸から渡来したものだとすれば山東省がその由来地として可能性があることを示唆していると考えられた。一方,化石証拠からは日本列島には縄文時代早期末以降,東日本を中心にウルシが生育していたことが明らかとなった。さらに福井県鳥浜貝塚遺跡からは縄文時代草創期(約12600年前)にウルシがあったことが確かめられた。このような日本列島に縄文時代草創期に既にウルシが存在していたことは,ウルシが大陸からの渡来なのか,元々日本列島に自生していたものなのかについての再検討を促していると考えられた。
著者
松尾 恒一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.241-254, 2003-10-31

本稿は、職能者の技術と呪術の考究を目的として、高知県東部の物部村における杣職を主たる事例として論じるものである。杣とは伐木に従事する職能者であるが、その職にともなう民俗的な慣行は木に宿るとされる木魂や、山の神やその眷属に対する信仰に基づくものが多い。伐木の際に木魂を奥山の山の神のもとへ送り返す〝木魂送り〟の法や、神木を切った際に切り株を鎮める”株木鎮め“の法がこれで、これら杣によって実践された呪的な作法は「杣法」と呼ばれた。これらの作法は、職の道具である手釿等を祭具として行われた点に特色を認めることができるが、特に形状・形態に特殊条件を備えた道具が呪術的な力を発揮するものと信仰された。当村は、「いざなぎ流」と呼ばれる民間宗教が伝承される地域としても知られるが、本宗教に取り込まれた杣法があった。本来杣職によって行われていた杣法を核として、さらに呪術的な性格の強い式法として実践された。杣法などの民俗的慣行は、斧と鋸で作業を行っていた昭和三十年代まで行われていたものであるが、チェーンソーや集材機などの機械の導入や、営林署・労働組合の利益追求のための皆伐・密植など林業の大変革の中で急速に衰退していった。なお筆者はすでに、当地域における職能者の木魂の信仰について、大工の建築儀礼を中心に論じた「物部村の職人と建築儀礼」を公にしているが、本稿はこの続考となるものでもある。
著者
安藤 広道
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.185, pp.405-448, 2014-02-28

「水田中心史観批判」は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。それは,文化人類学,日本民俗学の問題提起に始まり日本文献史学,考古学へと拡がった,水田稲作中心の歴史や文化の解釈を批判し,畑作を含む他の生業を視野に入れた多面的な歴史の構築を目指す動きである。その論点は多様であるが,一方で日本文化を複数の文化の複合体とし,水田中心の価値体系の確立を律令期以降の国家権力との関係で理解しようとする傾向が強く認められる。そして考古学の縄文文化,弥生文化の研究成果も,その動向に深く関わってきた。しかし,そこで描かれた複数の文化の対立や複合の歴史は,位相の異なる文化概念の混同のうえに構築されたものであり,その土台としての役割を担ってきた縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果も,必ずしも信頼できる資料に基づくものではなかった。文化概念の整理と,農耕関係資料の徹底した資料批判を進めた結果,「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。「水田中心史観批判」は,批判的姿勢と視点の多様化が,多面的で厚みのある歴史の構築を可能とし,併せて研究対象資料と分析方法の幅の拡充につながることを示してきた。一方で,文化の概念から個々の観察事実に至る理論に対する議論が充分でなく,「水田中心史観」に対する批判の意識が強すぎたこともあって,研究成果を批判的・内省的に見直す姿勢が弱くなってしまっていた。そのため,視点の多様化の有効性が生かされず,複数の学問分野のもたれ合いのなかで,問題ある歴史が構築されることになったのである。今後は,こうした「水田中心史観批判」の功罪を踏まえ,相互批判と内省を徹底し,より多くの事象を説明し得る広い視野に基づく理論の構築と表裏一体となった歴史研究を進めていく必要がある。

6 0 0 0 IR 熊祭りの起源

著者
春成 秀爾
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.57-106, 1995-03-31

熊祭りは,20世紀にはヨーロッパからアジア,アメリカの極北から亜極北の森林地帯の狩猟民族の間に分布していた。それは,「森の主」,「森の王」としての熊を歓待して殺し,その霊を神の国に送り返すことによって,自然の恵みが豊かにもたらされるというモチーフをもち,広く分布しているにもかかわらず,その形式は著しい類似を示す。そこで人類学の研究者は,熊祭りは世界のどこかで一元的に発生し,そこから世界各地に伝播したという仮説を提出している。しかし,熊祭りの起源については,それぞれの地域の熊儀礼の痕跡を歴史的にたどることによって,はじめて追究可能となる。熊儀礼の考古学的証拠は,熊をかたどった製品と,特別扱いした熊の骨である。熊を,石,粘土,骨でかたどった製品は,新石器時代から存在する。現在知られている資料は,シベリア西部のオビ川・イェニセイ川中流域,沿海州のアムール川下流域,日本の北海道・東北地方の3地域に集中している。それぞれの地域の造形品の年代は,西シベリアでは4,5千年前,沿海州でも4,5千年前,北日本では7,8千年前までさかのぼる。その形状は,3地域間では類似よりも差異が目につく。熊に対する信仰・儀礼が多元的に始まったことを示唆しているのであろう。その一方,北海道のオホーツク海沿岸部で展開したオホーツク文化(4~9世紀)には,住居の奥に熊を主に,鹿,狸,アザラシ,オットセイなどの頭骨を積み上げて呪物とする習俗があった。それらの動物のうち熊については,仔熊を飼育し,熊儀礼をしたあと,その骨を保存したことがわかっている。これは,中国の遼寧,黄河中流域で始まり,北はアムール川流域からサハリン,南は東南アジア,オセアニアまで広まった豚を飼い,その頭骨や下顎骨を住居の内外に保存する習俗が,北海道のオホーツク文化において熊などの頭骨におきかわったものである。豚の頭骨や下顎骨を保存するのは,中国の古文献によると,生者を死霊から護るためである。オホーツク文化ではまた,サメの骨や鹿の角を用いて熊の小像を作っている。熊の飼育,熊の骨の保存,熊の小像は,後世のアイヌ族の熊送り(イヨマンテ)の構成要素と共通する。熊の造形品は,オホーツク文化に先行する北海道の続縄文文化(前2~7世紀)で盛んに作っていた。続縄文文化につづく擦文文化(7~11世紀)の担い手がアイヌ族の直系祖先である。彼らは,飼った熊を送るというオホーツク文化の特徴ある熊祭りの形式を採り入れ,自らの発展により,サハリンそしてアムール川下流域まで普及させたことになろう。それに対して,西シベリアでは,狩った熊を送るという熊祭りの形式を発展させていた。そして,長期にわたる諸民族間の交流の間に,熊祭りはその分布範囲を広げる一方,そのモチーフは類似度を次第に増すにいたったのであろう。The bear festival had spread among the hunting peoples in the forest zones of the extreme north and sub-extreme north in Europe, Asia and North America by the 20th century. The motif of the festival is that the beauty of nature would be recompensed by killing bears, which were "the masters of the forest" or "the kings of the forest", and, after they had feasted their spirits, they would go back to the world of the Gods. Although it spread over a wide area, the styles of the festivals in different places show a surprising resemblance. Ethnologists have hypothesized that the bear festival might have originated in one place in the world and then spread widely from there. However, the origin of the bear festival can be traced only by evaluating the evidences of ritualistic treatment of bears in each district.The archaeological evidence for the ritualistic treatment of bears consist of artifacts shaped like bear and bear bones given special treatment. The artifacts shaped like bears made of stones and clay along with bones occur in the Neolithic period. The well-known historical remaining objects were excavated mainly in three places; the central basins of the Ob, the Jenisei rivers in Western Siberia; the lower basin of the Amur river in the Maritime Province of Siberia; as well as the Hokkaidō and Tōhoku districts in Japan. The production dates of these products in each area, in Western Siberia and the Maritime Province of Siberia, can be traced to 4000 or 5000 years ago, and in Northern Japan, amazingly, to 7000 to 8000 years ago. The differences in the form or shapes of the products in these three areas are more recognizable than the resemblances. This suggests that the worship and rituals of the bears may have started in many places.The Okhotsuk culture (the 4th-9th century), developed along the coast of the sea of Okhotsuk in Hokkaidō. It was their custom to pile skulls, mainly of bears but also of deer, raccoon dogs, seals and fur seals, at the back of the house, as fetishes. For the bears among these animals, we know for certain that they fostered baby bears, killed them after ritualistic treatment and preserved their bones. This is determined from their custom of keeping pigs, preserving their skulls and mandibles in and out of their houses. This started in the Liaoning district and the middle basin of the Huang river in China and spread to the basin of the Amur river and Sakhalin as the northern limit and to Middle East Asia and to Oceania as the southern limit. This custom was changed in the Okhotsuk culture, there they used the skulls of bears instead of pigs. According to the old historical materials from China, the purpose of preserving the skulls and the mandibles of pigs was to protect the people from evil spirits.In Okhotsuk culture, they also produced small statues shaped like bears made of shark bones and horns of deer. Fostering bears, preserving the bones of bears and producing the small statues of bears are common features of the "Iyomante" event (sending-off the bears) known as "Iyomante" by the Ainu people. In the Epi-Jōmon culture (the 2nd century B.C. to the 7th century A.D.) proceeding the Okhotsuk culture in Hokkaidō, bear-shaped artifacts were plentiful. The direct ancestor of the Ainu ethnic group precede Satsumon culture (the 7th to 11th century) which follows the EpiJōmon culture. They introduced the style characteristic of the "Iyomante". They send off the bears to the world of Gods after they killed the bears. This custom spread to Sakhalin and the lower basin of the Amur river during the expansion of their occupation in that area.In Western Siberia, a different style of the bear festival developed. They killed the bears after they had hunted them. During the cultural exchange between various people over a long period, there was a gradual increase of resemblance between practices, during which the bear festival spread widely.
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.325-348, 2003-03

本論文では、都市民俗学の立場から、喫茶店、とりわけそこで行なわれるモーニング(朝食を、自宅ではなく、喫茶店のモーニングセット〈モーニングサービス〉でとる習慣)という事象に注目し、記述と問題点の整理を行なった。本論中で行ないえた指摘は、およそ次のとおりである。(1)モーニングが行なわれる理由は、①労力の軽減、②単身者の便宜、③コミュニケーション、のうちのどれか、あるいはそれらの複合に求められる。(2)日本におけるモーニングは、豊橋以西の、中京圏、阪神圏、中四国のそれぞれ都市部、とりわけ工業地帯の下町的な地域に分布しているものと見ることができる。(3)モーニングは、一九六〇年代後半から行なわれるようになっていると見られる。その場合、喫茶店経営者側は、出勤前のサラリーマンへのサービスを意図してモーニングセット/サービスを開始したのであったが、これが地域で受容される際には、地の生活者、とりわけ女性たちの井戸端会議の場としての機能を果たすようになっている。(4)アジア的視野で眺めた場合、都市社会においては、朝食を外食するほうが一般的だといってよいくらいの状況が展開されており、日本のモーニングには、アジア都市社会に共通する生活文化としての性格が存在するといっても過言ではない。(5)モーニングの場は、他者と他者とが場を共有しながら、そこでさまざまな言葉を交わす公共圏であるが、そこで語られるのは、決して論理的に整理された明晰な言葉ではない。むしろ、モーニングの場は、そうした論理的な言葉で形成される「市民的公共圏」からは排除される言説あるいは人々が交流する場として存在するのであり、この空間は市民的公共圏に対する「もう一つの公共圏」として位置づけることができる。In the study of folklore, i.e., in the study of urban folklore, there is a growing accumulation of studies on various types of living space that exist in the city. However, there have not yet been any folklore studies made on the subject of the coffee house. The coffee house is, needless to say, a place to eat and drink, but from the point of view of folklore studies, it can be pointed out that there is more to the coffee house than its role in providing a place for eating and drinking.This paper focuses on the coffee house, especially on the phenomenon of the "morning set" (the habit of eating the "morning set" at a coffee house instead of having breakfast at home), defining the phenomenon and arranging the issues. The comments made in the paper are as follows.1) The reasons that people have a "morning set" are one or more of the following: a) to save effort, b) because it is convenient for single people, and c) for communication.2) The "morning set" in Japan can be seen in urban areas west of Toyohashi, i.e., in cities in the Chukyo (Nagoya), Hanshin (Osaka and Kobe), or Chushikoku (Chugoku and Shikoku) regions, particularly in the old downtown areas of industrial zones.3) The "morning set" is thought to have come into existence in the late 1960s. At that time, the coffee house owners had begun providing the "morning set" or "morning service" for salaried workers who stopped by on their way to work; however, as the idea was accepted into the community it began to serve as a meeting place for the people, especially women, of the community to get together and talk.4) If we look at the whole of Asia, in urban society it is almost more widespread to take breakfast outside the home, and it can be said that the Japanese "morning set" contains an aspect of life and culture that is universal all across Asian urban communities.5) The venue of the "morning set" is a communal space where strangers share the same space and exchange words with each other, but the words that are exchanged there are never theoretically sound, clearly defined logical arguments. Rather, in the case of the "morning", the coffee house exists as a place to meet people and exchange opinions that are excluded from the "citizens' communal space" which is made up of logical arguments. Therefore, one might regard the "morning set" venue as "another communal space" as compared to the "citizen's space".
著者
福田 アジオ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p41-81, 1983-03

This chronological table was compiled to indicate the development of Japanese Folklore Studies since the Meiji era. Important literature related to Japanese Folklore, significant events and activities in the Japanese Folklore Society are arranged in chronological order and divided into two columns: (1) Matters related to Yanagita Kunio, and (2) Others.Principal events and related items were included in the table to illustrate the interrelation between events, e.g.: criticism and refutation passed upon articles, publication of monographs and research papers based on field work.

6 0 0 0 OA 火車の誕生

著者
勝田 至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.7-30, 2012-03-30

近代の民俗資料に登場する火車は妖怪の一種で、野辺送りの空に現れて死体をさらう怪物である。正体が猫とされることも多く、貧乏寺を繁昌させるため寺の飼い猫が和尚と組んで一芝居打つ「猫檀家」の昔話も各地に伝わっている。火車はもともと仏教で悪人を地獄に連れて行くとされる車であったが、妖怪としての火車(カシャ)には仏教色が薄く、また奪われる死体は必ずしも悪人とされない。本稿の前半では仏教の火車と妖怪の火車との繋がりを中世史料を用いて明らかにした。室町時代に臨終の火車が「外部化」して雷雨が堕地獄の表象とされるようになり、十六世紀後半には雷が死体をさらうという話が出現する。それとともに戦国末には禅宗の僧が火車を退治する話も流布し始めた。葬列の際の雷雨を人々が気にするのは、中世後期に上層の華美な葬列が多くの見物人を集めるようになったことと関係がある。猫が火車とされるようになるのは十七世紀末のころと見られる。近世には猫だけではなく、狸や天狗、魍魎などが火車の正体とされる話もあり、仏教から離れて独自の妖怪として歩み始める。悪人の臨終に現れる伝統的な火車の説話も近世まで続いているが、死体をさらう妖怪の火車の話では、死者は悪人とされないことが多くなった。人を地獄に連れて行く火車の性格が残っている場合、火車に取られたという噂がその死者の評判にかかわるという問題などから、次第に獄卒的な性格を薄めていったと考えられる。
著者
海原 亮
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.91-108, 2004-02

本稿は、文政二・三年(一八一九・二〇)に刊行された医師名鑑『江戸今世医家人名録』を素材として、巨大都市=江戸に達成された「医療」環境の実態を、蘭方医学普及の動向に即しつつ明らかにしたものである。❶では、『江戸今世医家人名録』の構成と特徴、刊行の目的について考察した。近世期における医師名鑑とは、第一に、都市民衆が医師を選択する最も簡便な手法であった。同書はまた、医師が販売する家伝薬の宣伝・広告機能をも有した。一七七〇年代頃より学問的な体系の面では蘭方医学の興隆がみられたが、臨床の場にそれが流布するまでにはなお時間が必要であった。蘭方医学を由緒とする売薬・治療方法も掲載されたが、その数はわずかなものに止まっている。続いて❷では、『江戸今世医家人名録』に所載された二〇〇〇名におよぶ医師データをもとに、各種の著名蘭学者の門人帳と対照し、その傾向を考察した。今回は、時期も区々な五つの門人帳(土生玄碩・華岡青洲・大槻玄沢・伊東玄朴・坪井信道)に限定し、その結果を網羅的に紹介した。照合作業に際しては名鑑類の史料的性格を考慮し、複数の材料を用いて慎重に判断した。本稿に紹介したデータは、江戸における「医療」環境の実態を解明する基礎的な作業と言えるものである。すなわち、文政期頃の江戸では、蘭方医学の素養を有する医師が活動の場を持ち得る社会的基盤が醸成されはじめていた。本稿の最大の論点は、当時の江戸が抱えていた特殊な社会事情=「医療」環境の独自性の指摘である。それはまず、藩医層の圧倒的存在であった。彼ら藩医の少なくない部分は、実際には藩邸の外に居所を得て、町内で診療活動を展開した。したがって、巨大都市に独特な社会構造や医師たちの存在形態を精確に踏まえてこそ、「医療」環境の特質・蘭方医学受容の背景は、より鮮明に性格規定される。
著者
奈倉 哲三
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.249-276[含 英語文要旨], 2010-03

戊辰戦争期に江戸で生活していた多くの市民・民衆は、東征軍による江戸駐留に対して拒否的な反応を示していた。「新政府」は江戸民衆のそうした政治意識を圧殺・再編せざるを得ず、両者の間で激しい抗争が展開される。この抗争は、新旧両権力間で展開している戊辰戦争とは異なる、もう一つの戊辰戦争である。本稿は、このもう一つの戊辰戦争を、民衆思想史の視点から解明したものである。ただし、本稿は正月十二日慶喜東帰から四月二十一日大総督宮入城までに限定し、その間に江戸民衆の眼前で生起した事象を分析し、江戸民衆の意識・思想をめぐる抗争の特質を解明した。旧幕府諸勢力の動きは多様であったが、小諸藩主牧野康済(やすまさ)の歎願書は際だっていた。ひたすら、臣子として徳川家に仕えることで朝廷に仕えるのだ、との論理一つを主張、朝命だからとて慶喜追討の兵は出せないと突っ張り、出兵拒否で「朝廷の闕失を補う」とまで直言した。この論理が大総督宮入城当日に、江戸市民の眼前に示されていた。一方、東征軍の江戸入り総過程を通じ、江戸市民の負担は急激に膨張する。それにより「万民塗炭之苦」を朝廷が救うとの論理は破綻し、「天子之御民」は空語となる。江戸町民は、東征軍入城によって下層民にまで負担が及ぶ状況の改善を町奉行所に提出、入用が嵩んだ四月五日には町人惣代九十余名が歎願書を先鋒隊宿所に提出した。他方、柳河春三(しゅんさん)は二月下旬以来、「新政府」嫌悪を根底に据えつつも軍事的抵抗は無益とし、外国交際と言論を重視する市民派新聞『中外新聞』を発行し続けていた。この市民派新聞が背景の力となって、四月二日、江戸町奉行佐久間鐇五郎(ばんごろう)は市中困窮人への御救米支給を決定した。統治権の委譲を目前にして、新権力へのギリギリの抵抗として、市民・民衆の側に寄り添う政策を打ち出したのであった。以上が、この時期江戸市民・民衆の意識をめぐる抗争の特質である。Most citizens and common people who lived in Edo during the Boshin War showed a rejective response to the Tosei Army stationed in Edo. "The new government" had no choice but to suppress and rebuild the political awareness of the Edo citizens, and a fierce feud between the two parties developed. This feud, different from the Boshin War fought between the old and new powers, is another Boshin War. This article sheds light on the other Boshin War from the viewpoint of historical public thought. However, this article is limited to the period between January 12th when Yoshinobu returned to Edo and April 21st when the governor general entered the castle, and analyzes the events that happened in front of the eyes of the Edo citizens during that period, and reveals the characteristics of the feud over the awareness and thought of the Edo citizens.While moves by assorted influences of the old feudal government varied, the petition by Makino Yasumasa, the lord of Komoro domain, stood out. He insisted on one theory alone that he would serve the Imperial court by serving the Tokugawa family as vassal, and stuck to the idea that he could not send his army to subjugate Yoshinobu even though it was the order of the Imperial court. He even petition fearlessly to "compensate the delinquency of the Imperial court" by rejecting the dispatch of troops. This theory was displayed before the nose of the Edo citizens on the day when the Governor General entered the castle.On the one hand, through the whole process of the Tosei Army entering Edo, the burden of the Edo citizens suddenly expanded. Owing to this, the principle whereby the Imperial court would rescue "the nation's terrible suffering" collapsed, and "emperor's nation" became a null word.Town people in Edo requested the magistrate's office improve the situation whereby even the lower class people had to share the burden of the entrance of the Tosei Army to the castle. On April 5th when the needful cost mounted, approximately ninety town officials submitted a petition to spearhead force lodging.On the other hand, although having an aversion to "the new government" from the bottom of his heart, Yanagawa Shunsan assumed that military counteraction would have no benefit, and since the end of February continued to issue the "Chugai shimbun," a civil newspaper emphasizing relationships with foreign countries and speech.Supported by the civil newspaper, Sakuma Bangoro, the Edo magistrate's officer, decided to supply impoverished people in the city with rice on April 2nd. Just before turning over sovereignty, as a last-minute resistance against the new power, he adopted policies siding with the citizens and common people.Described above are the characteristics of the feud over the Edo citizens and common people's awareness during this period.
著者
樋口 雄彦 宮地 正人 熊澤 恵里子 遠藤 潤 樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

1.平田篤胤関係資料の整理・目録作成これまで総合的な調査がなされたことがない平田篤胤関係資料(東京都渋谷区代々木・平田神社に伝来し、本研究期間中に一部を除き国立歴史民俗博物館に譲渡された)について、すべてを調査・整理し、目録を完成させた。2.重要史料の翻刻・刊行平田篤胤関係資料のうち、今後の研究において基礎的史料として位置づけられる日記(文化13年〜明治4年)や明治初年の両親宛延胤書簡などについて翻刻作業を行い、それを『国立歴史民俗博物館研究報告』第122集、第128集に掲載した。また、日記に次ぐ重要度を持つ金銭出納簿についても翻刻・刊行準備を進めた。3.国立歴史民俗博物館での資料公開国立歴史民俗博物館では、特別企画「明治維新と平田国学」(平成16年)やフォーラムを開催し、展示・図録・講演会といった形で一般への普及・啓蒙をはかるとともに、同館所蔵に帰した資料のマイクロ撮影を進め、研究者に対する閲覧利用に供することとした。4.周辺資料の調査長野県・岐阜県・秋田県・千葉県など、主要な平田門人が存在した地域を調査し、門人側に残された関係資料の所在情報について収集を行った。また、国立歴史民俗博物館に寄託された幕臣出身の国学者・神道家秋山光條関係資料の調査・整理も実施した。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-181, 2014-01

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。It is commonly considered that after distinguished war service or performing acts of valor, their recording and the acquiring of rewards in recognition are the most fundamental and important practice of a bushi ( warrior) , and many studies have been conducted on gunchujo ( requests for recognition of military success and heroic deeds) made during the period of the Northern and Southern Dynasties (1336–1392) . However, it has not been completely clarified how gunchujo changed, disappeared, and reappeared during the period of the Warring States (1493–1590) and later were used in early-modern times during which internally Japan was at peace. To explore both the differences and common points found in documents from the archives of samurai families of the medieval period and early-modern times, this paper focuses on historical materials that record meritorious service in war and examines changes to their content, style and the system of application.In 1869, just before the return of the han ( domain) registers to the Meiji Emperor, a survey on military exploits in the Boshin War and other wars was systematically conducted among samurai families in the Hagi han. In compliance with the directions given by the han, the chief retainers submitted records with phrasing typical of medieval period gunchujo. The han then returned these records to the samurai with a seal of proof similar to those used in the medieval period. When these records are compared with other records of military exploits submitted by volunteer corps including peasant soldiers, war casualties and war dead are commonly described, but a significant distinction is whether they were written in the typical format and style of gunchujo or not. In other words, it can be considered that han and retainers in the closing days of the Tokugawa Shogunate positioned gunchujo as a symbol of their rank as bushi.Now the question arises: What is the historical meaning of this gunchujo? According to the historical sources, in early times the reporting and acknowledgement of martial exploits to receive rewards was made verbally in the presence of a commander. However, during the battles of the Mongol Invasions (1274 and 1281) , the Shogunate government who were the arbitrators of rewards resided in Kamakura, far from the battle area. The battles were on a large scale and the number of bushi wishing acknowledgement of military exploits numerous; therefore, for the first time bureaucratic work to confirm acknowledgement of military exploits by means of documents was carried out. Afterward, documents related to military affairs were standardized, and procedures concerning acknowledgement of military exploits were systematized, consequently becoming those documents on military affairs used during the period of the Northern and Southern Dynasties, in which battles were fought in many regions over a prolonged period.In the late 15th century, however, most documents on military affairs changed to a simple citation to praise military exploits, and throughout Japan the remaining examples of gunchujo and other documents to record and report military exploits significantly decreased. Later, however, daimyo (feudal lords) and bushi in the western part, who wanted to display their strong connection with the Shogunate, started to use gunchujo and kubichumon again, reviving the old customs and manners of samurai families of the Muromachi Shogunate, and in the high season of the Warring States period, they were increasingly drawn up in the domains of the Otomo and Mori clan warlords.Moreover, after the establishment of the Hideyoshi administration, a system to acknowledge military exploits was further refined in the form of a military exploit report and a document confirming its acceptance, as symbolized by hana uketorijo (the nose receipt documents) issued during the attempted conquest of Korea. After the Battle of Sekigahara (1600) , and the two Sieges of Osaka (1614 and 1615) , a massive amount of military exploit record documents were created; the Shimabara Uprising (1637–1638) , which is regarded as the last battle in the beginning of earlymodern times, also gave rise to numerous gunchujo created by "outside" daimyo families and their retainer families in Kyushu. Gunchujo at this period specifically described details of a bushi's military action and deeds, and formal elements are minimal. In addition, these documents were kept, managed, and stored in the residence of a daimyo as a basic material to report military exploits to the Tokugawa family, as well as to provide evidence for the allocation of rewards to retainers. In due course, even after the formal completion of the actual acknowledgement procedure, many samurai families came to collect their military exploit records and incorporated them into their family tradition and history as very important evidence confirming their relation with the Tokugawa family. The Shogunate as well came to compile such records of military exploits.As described above, by following the genealogy of military exploit records, it has been found that gunchujo, which first appeared for the very practical purpose of acclaiming military exploits and receiving rewards, subsequently developed in two directions. In one direction their function as a document for administrative procedure was further refined, and they came to be kept as a record of an application by the side granting acknowledgement, not by the side making the application; and in the other direction they were absorbed into the family tradition as a "memory of the family," becoming a kind of physical verification to be handed down through the generations, in other words, a reliable source for honoring and commemorating the memory of a family's ancestors.The gunchujo of the Hagi han in the last days of the Tokugawa Shogunate can also be positioned in a genealogical record where the record of military exploits changed from the Warring States period through to early-modern times, and reached the end with the Shimabara Uprising. One can safely state that this also suggests an aspect whereby the military soldier of modern times tenaciously carried on the mores of medieval and early-modern bushi.
著者
筒井 早苗
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.188, pp.99-113, 2017-03

高松院姝子は二条天皇の后となるものの、天皇との婚姻生活はわずか四年ほどで破綻してしまう。その後は出家を遂げ、女院に列せられて高松院と称し、静かな仏道生活を営んでいると思われたが、唱導の名手として名高い澄憲との間に、密かに海恵、八条院高倉という二人の子を儲けていたことや、さらに女院の早世の原因が澄憲の子を出産したことに伴う疾患であったことなどが、角田文衛氏や田中貴子氏により明らかにされている。これらの研究により、高松院と澄憲との密通関係は明白であるが、日記や寺院文書などに見られる断片的な記事の分析が中心であったため、これまで二人の具体的な関わりはほとんど見えてこなかった。本稿では、国立歴史民俗博物館蔵旧田中家本『転法輪鈔』や金沢文庫蔵の澄憲草の表白を中心に、高松院との関わりが見られる表白の内容を検討し、二人の関係性を捉え直した。澄憲は、高松院の病を癒すための祈祷をしたり、美福門院のための追善供養の導師を勤めたりして、出家後の高松院の人生を導いてきた。二人の関係は、導師と施主という信仰を媒介とした積み重ねをとおして深まっていったといえる。高松院は後半生の導き手として、十五歳年上の優れた唱導僧である澄憲を尊敬、信頼し、彼を重用した。澄憲もまた、聖天供表白に見られるように、高松院に対して導師という立場以上の感情を抱いて接し、女院の死後も懇ろな追善供養を営んで、女院とのつながりを保ち続けていたのである。澄憲の表白は公や他者のために作成したものが大半を占め、それらからは澄憲の教養や巧みな表現力、教説や信仰などを読み取ることができるが、澄憲の心情や内面を示すものは数少ない。そういった意味でも、高松院との関係性の中で自身の率直な心情を述べて祈願した天供の表白は大変貴重であり、今後の澄憲研究にとって有用な資料となり得ることを指摘した。Takamatsu'in Shushi was the empress of Emperor Nijō, but their married life together lasted a mere four years. Thereafter, she took the tonsure and was elevated to the ranks of the nyoin (retired empresses) and came to be called Takamatsu'in. She was thought to have spent a serene life in Buddhist practice, but, as Tsunoda Bun'ei and Tanaka Takako have made clear, she secretly had two children (one, Kaie was to become an important monk at Ninnaji and the other Takakura became a lady-in-waiting for Hachijō'in) with the famed Buddhist preacher Chōken, and her early death was the result of giving birth to Chōken's child.Based on these studies, the sexual relationship between Takamatsu'in and Chōken has been made clear, but because this scholarship was based chiefly on analyses of fragmentary records in diaries and temple documents, the specifics of the relationship have not been clarified. In this article I chiefly examine the contents of the hyōbyaku (pronouncements read out at Buddhist services) found in the manuscript of the Tenpōrinshō in the Kyū-Tanaka-ke collection at the National Museum of Japanese History and also those composed by Chōken at Kanazawa Bunko as they reveal the relationship with Takamatsu'in and then re-evaluate relationship between the two.Chōken offered prayers to cure the illness of Takamatsu'in and led memorial services for Bifukumon'in, her mother, thus playing a leading role in the life of Takamatsu'in. One can rightly say that the relationship between the two grew deeper through the repeated experience of being sponsor and officiating monk in these religious contexts.In the latter part of her life, Takamatsu'in came to respect and rely on the 15-year-older Chōken, who excelled as a preacher, for guidance. Chōken, too, as can be seen in his "Shōten-gu hyōbyaku," (Pronouncement for the offering service to Shōten), felt more for Takamatsu'in than would be expected of an officiating monk. After her death, he attentively led memorial services and thus maintained his bonds with the nyoin.The majority of Chōken's hyōbyaku were composed for the court or others, and while one can discern Chōken's cultivation, the eloquence of his preaching, and faith in these efforts, those that reveal his true feelings and inner thoughts are few in number. In this sense also, the hyōbyaku for the Shōten offering service in which he states forthrightly his own feelings regarding his relationship with Takamatsu'in is extremely valuable, and is indicative of the potential of hyōbyaku as useful sources in future studies of Chōken.
著者
関沢 まゆみ 新谷 尚紀 関沢 まゆみ 新谷 尚紀 トーマス Pギル
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

フランスではA. V.ジェネップの『フランス民俗学』(1949)に記述のある「五月の木」や「五月の女王」等の伝統行事の現在の伝承実態を追跡する調査を継続し、伝承が途絶えた例と維持されている例とが確認された。伝承維持の事例がプロヴァンス地方をはじめ計4カ所で確認され、その存否の背景に一定のリーダー的人物の関与が考察された。また伝承維持の力学の中に民俗信仰と聖人信仰との習合が認められた。一方、イギリス南西部においては現在も盛んに五月の木馬祭が行われており、観光化の促進という聖俗混淆の動態が英仏間で対比的にとらえられた。