著者
西本 豊弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.1-15, 2003-10

これまで,一般的に縄文時代の家畜はイヌのみであり,ブタなどの家畜はいないと言われてきた。しかし,イノシシ形土製品やイノシシの埋葬,離島でのイノシシ出土例から縄文時代のイノシシ飼育が議論されてきた。イノシシ飼育の主張でもっとも大きな問題点は,縄文時代のイノシシ骨に家畜化現象が見られなかったことである。ところが縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象と疑われる例があることが分かった。また,イノシシがヒトやイヌと共に埋葬されている例が知られるようになり,改めてイノシシについてヒトやイヌとの共通性を議論する必要が出てきた。そこで,本論では千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を紹介するとともに,イノシシ形土製品・イノシシ埋葬・離島のイノシシ・骨格の家畜化現象の4項目について再検討した。その結果,文化的要素からみれば,縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実である。また,離島への持ち込みという文化的項目と骨格の家畜化現象の点から見ると,縄文前期からすでにブタが飼育されていた可能性が大きいことが分かった。しかし,縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測された。ブタの存在がほぼ確実になったことは,縄文時代が単純な狩猟・漁労・採集経済ではなく,イヌとブタを飼育し,ある程度の栽培植物を利用する新石器文化であったことを意味するものである。
著者
相川 陽一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.169-212, 2019-03-29

成田空港の計画・建設・稼働・拡張をめぐって長期にわたって展開されてきた三里塚闘争は,学問分野を問わず,運動が興隆した時期の研究蓄積が薄く,本格的な学術研究は1980年代に開始され,未開拓の領域を多く残している。先行研究を概観すると,歴史学では近年の日本通史において戦後史の巻等に三里塚闘争に関する言及が複数確認でき,高度成長期における諸社会矛盾に異議を申し立てた住民運動の代表例や住民運動と学生運動の合流事例として位置づけられている。近年は,地域住民と支援者の関係に着眼して運動の歴史的推移を論じた研究も発表されている。だが,運動の盛衰と運動展開地域の政治経済構造の変容を関連づけた研究は手薄であり,地域社会の構造的把握と反対運動の歴史的推移の連接関係を明らかにする研究が必要である。そこで,本稿では,三里塚闘争に関する既存研究や既存の調査データの整理と検討を行った後に,空港反対運動の展開による地域社会構造の変容と空港開発の進行による地域社会構造の変容の2視点から,三里塚闘争の歴史的推移を跡づけた。反対運動が実力闘争化する1960年代末には,空港建設をめぐる衝突が繰り返されたが,同時期の運動展開地の議会において反対派が多くの議席を獲得するなど多様な抗議手段が試みられており,空港反対運動の開始以前から農民運動等の経験をもつ住民層が参画した。しかし,1970年代後半からは空港開発の進行とともに交付金や税収増などによる空港城下町化が進行し,地方議会選挙における多数の候補者擁立といった制度的資源を介した抗議が困難化する傾向も認めることができる。地域社会内の政治経済構造の変容をふまえた運動の歴史的推移をまとめた後には,空港建設にかかる利害を直接に共有しないにもかかわらず多数の支援者が参入した経過や支援者の動員構造を明らかにする課題が残されている。
著者
土佐 博文
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.255-274, 2004-02

蘭方医佐藤泰然によって佐倉本町に開かれた蘭医学塾佐倉順天堂には、日本各地から多くの塾生が集まり、その数は数千を数えたという。しかしながら、一部の有名な人物以外の全体像については必ずしも明らかにされていない。これは適塾などのように、全時期にわたってまとまった形で門人帳が残されていないという史料的制約によるものである。また、多くの門人名については村上一郎氏の著書『蘭医佐藤泰然』にも挙げられているが、出身地の記載がなく追跡調査には困難を伴う状況である。そのような状況において、本稿では、一時期の門人の状況を示すものではあるが、門人の出身地が記載されたものとして貴重である、慶応元年閏五月の『佐倉順天塾社中姓名録』をもとにした門人の追跡調査の結果に基づき、詳細が判明した門人について紹介し、その全国的な広がりについて考察する。また、調査によって門人の子孫の所在が確認できた、佐倉藩医で明治以降軍医として活躍する西友輔と、明治期に官界で活躍する茨城県千代川村出身の塚原周造の関係史料について紹介する。最後に、調査の過程において塚原周造関係史料のなかからみつかった、彼が順天堂在塾中に作成したと考えられる『順天塾姓名録』について紹介する。これによって、従来知られている門人帳と比較検討してその分析を試みる。
著者
小島 道裕
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.145, pp.317-347, 2008-11

京都とその周辺を描いた「洛中洛外図屏風」の内、室町期の景観を持つ「初期洛中洛外図屏風」四本は、大名上杉家に伝来した上杉本を除いて、制作事情が明らかでなかった。本稿では、屏風の中に「登場人物」と言える個人の像を検出することによって、その主題を明らかにし、初期洛中洛外図屏風全体についても統一的な理解を試みた。最も古い「歴博甲本」は、一五二五年に、室町幕府の実権を握っていた細川高国が、嫡子稙国への家督譲渡と新たな将軍御所の建設を契機として、自らの事績を描かせたものであり、作者は幕府御用絵師の狩野元信である。「東博模本」は、細川晴元の政権を中心主題として描いたものであり、「上杉本」は、細川氏の館を中心とする構図をそのまま用いながら、管領が細川氏から上杉氏に代わるというメッセージを表している。「歴博甲本」に始まる「権力者とその統治する都市」という主題の屏風は、その後も狩野派によって受け継がれていくが、「歴博乙本」にはそのような権力者を顕彰する主題は見いだしがたい。名所絵・風俗画として描かれたと考えられ、近世に量産される洛中洛外図屏風の先駆と位置づけられる。In the versions of "Rakuchu-Rakugai-Zu Byobu" (folding screens depicting scenes in and around Kyoto), except for the Uesugi version handed down in the Uesugi family of daimyo (feudal lords), the production background to the four early versions of "Rakuchu-Rakugai-Zu Byobu", which contain scenes of Muromachi Bakufu, had yet to be clarified. In this article, I clarified the works' themes by detecting within the folding screens the images of individuals that could be called "characters," and I have attempted to obtain a unified understanding of all early versions of Rakuchu-Rakugai-Zu Byobu.The oldest – the "Rekihaku A version" – was produced in 1525, when Hosokawa Takakuni, who was at the helm of the Muromachi Bakufu, had his achievements depicted by the Bakufu painter, Kano Motonobu, on the occasion of the transfer of responsibility for the family to his son Hosokawa Tanekuni, and the building of a new palace for the Shogun. The regime of Hosokawa Harumoto is depicted as the main theme in the "Tohaku replica," and in the "Uesugi version" and although the composition still has the Hosokawa residence at its center, there is an inscription stating that the office of the Kanrei (Shogun's Deputy) was taken over by the Uesugi family from the Hosokawa family.The theme of "the person in authority and the city ruled by him" first appears in the "Rekihaku A version" and was handed down in the Kano School; but themes that praise the authorities cannot be found in the "Rekihaku B version." The piece must therefore have been created as a landmark guide/genre painting, and can be identified as the pioneer of the Rakuchu-Rakugai-Zu Byobu commercially produced in early modern times.
著者
菱沼 一憲
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.147-165, 2014-01

上野国桐生下広沢村の彦部家の足利将軍家旧臣活動の分析を通じて、近世の身分制における由緒の機能を明らかにし、旧臣活動の背景にある社会運動を浮かび上がらせる。彦部家は同村の有力百姓で、村役人に任じられていた。しかし高階姓で、室町・戦国期には、足利将軍家の近習の武士として京都で活動し、戦国末期に同村へ土着したと伝える。戦国期、同地へ土着するに際し、戦国大名由良氏より広沢郷内に千疋を宛行われたという領主としての由緒、関ヶ原の合戦で旗絹・旗竿を献上したという桐生領五四ヶ村の由緒は、それぞれ村支配、絹織物産業を支える理論として機能した。いわゆる「家の由緒」「村の由緒」である。これに対して足利将軍家の旧臣として会津藩士坂本家と交流した活動は、その目的が必ずしも明確ではない。坂本家は足利義昭の曾孫で牢人であった義邵が、神道学・軍学・有職故実に通じて会津藩主保科正容に求められて同藩に仕官した。足利鑁阿寺がこの坂本家と、彦部家を仲介し旧臣関係が構築され、それにより御目見・御見舞・裃や感状の下賜・一字拝領といった恩賞給付がなされた。そもそも彦部家は、京都西陣から高度な織物の技術を導入し、また文芸の面では、江戸の国学者を桐生へ招き、また出府して中央の文化を吸収し、桐生国学を興隆させるなど、中央の文明・文化を積極的に導入・吸収することにより家の繁栄をもたらしてきたのである。坂本家との旧臣活動もまた、同家に蓄積されていた先進的で高度な文化に触れ、それに倣ってゆくことが一つの目的であったと考えられる。幕末期、彦部家は嫡子を幕臣とし、武家へ養子に入れており、同家が身分の上昇に執心していたことは明らかであるが、これを単に、幕藩体制での身分秩序を下支えするものと理解することは正しくない。武家による政治・経済・文化の一元的な独占体制への抵抗であり、独占されていたそれらを獲得してゆくという積極的な面を評価すべきである。こうした動向は、幕府支配体制の相対化という意味で、草莽運動と質的な共通性を見出すことができ、また彦部家のみならず東関東で広く確認される社会的動向といえる。Through an analysis of the activities of a former retainer of the Ashikaga Shogunate, the Hikobe family of Shimo-Hirosawa Village, Kiryu, Kozuke Province, this paper clarifies the importance of a family history in the early-modern class system, and brings to the fore a social movement that lay behind this former retainer family's activities.The Hikobe family were prominent and influential farmers in Shimo-Hirosawa village, and were appointed as village officials. According to legend, however, in the Muromachi and Warring States period, the family under the surname of Takashina served in Kyoto as attendants of the Ashikaga Shogunate family, and at the end of the Warring States period, the family settled in Shimo-Hirosawa village. The family history as feudal lords shows that in the Warring States period, they were granted the Senbiki area within the Hirosawa Village by the Yura warlord clan. In addition, the historical records of 54 villages in the Kiryu domain state that for the Battle of Sekigahara, the family presented flag silks and flagstaffs. These records are a so-called "family history" and "village history," and supported their right to rule the village, and control the silk textile industry. On the other hand, as a former retainer of the Ashikaga Shogunate family, the purpose of their fraternization with the Sakamoto family, who were Aizu domain retainers, is not exactly clear. With regard to the Sakamoto family, Yoshiaki, a wandering samurai and a great-grandchild of Yoshiaki Ashikaga, was finally accepted into government service in the Aizu domain. He was appointed by Masakata Hoshina, the lord of the domain, because of his good knowledge of Shinto studies, military science and tactics, and studies in ancient court and military practices and usage. Ashikaga Bannaji Temple acted as an intermediary between the Sakamoto family and the Hikobe family to establish a former retainer relationship, resulting in the granting of the following rewards: omemie ( privilege of having an audience with the shogun) , omimai ( visiting rights) , grant of kamishimo ( Edo-period ceremonial dress of the warrior class) and a letter of approval, and ichiji hairyo (receiving one character from their lord's personal name to be incorporated in their name) . Originally, the Hikobe family introduced advanced textile techniques and skills from Nishijin in Kyoto, and in the field of literary art, they invited scholars of the Japanese classics from Edo to Kiryu, and visited the capital to absorb its culture and to encourage the flourishing of the Japanese classics in Kiryu; they actively absorbed and introduced the civilization and culture of the capital and thus brought prosperity to the family. It can be considered that as a former retainer, one of the purposes for the Hikobe's activities with the Sakamoto family was to make contact with and follow their go-ahead and advanced culture. In the last days of the Tokugawa Shogunate, the heir of the Hikobe family became a vassal of the shogun, and also the heir of a samurai family. It is apparent that the family was devoted to improving their status in society; however, it is not correct if this is understood as simply providing support for the class system encouraged under the Shogunate administration. In fact, it was actually a form of resistance to the centralized exclusive system of politics, economy, and culture maintained by the samurai families, and it should be acknowledged that it was a positive aspect of this class trying to gain more control of these monopolized areas. For such trends, a qualitative commonness with the commoner movement can be found in the sense of relativization of the ruling system by the Shogunate, and it is also a social trend broadly confirmed in the East Kanto region as well as by the Hikobe family.
著者
松村 和歌子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.142, pp.157-191[含 英語文要旨], 2008-03

春日社の宗教的分野での研究は、祭礼に集中しがちだが、祈祷や祓といった日常的な宗教活動こそ、宗教者と社会との関わりを考える上でむしろ重要だと考えられる。近年、春日社の下級祀官である神人が中世後期から灯籠奉納や祈祷などを通じ、日常から御師として崇敬者と深い関係を築いたことが明らかにされているが、こういった師壇関係の形成は、上級祀官である社司を嚆矢とし、その開始は、少なくとも平安時代末に遡る。本論考は、社司を中心に中世の春日社祀官の私的な祈祷への関わりなど、日常的な宗教者としての営みを出来るだけ具体的に論述しようとしたものである。❶章社司における御師活動の萌芽、❷章社司の御師活動の展開では、平安末から貴族の参拝・奉幣の際、社司が中執持ちとして祝詞奏上を行うようになり、日常から師檀関係を結ぶこと、同時期に宗教者として個性的な役割を果たす社司が現れ、その活躍は霊験譚にも描かれることを示した。また霊験譚自体が社司によって創り出され、記録や社記の注進等を通じて広められた場合があったことを述べた。鎌倉時代以降には、貴族の御師として重要度が更に増し、社司の任官を左右する場合もあったこと、貴族の邸内社の祭祀等その活動は、社外にも及んだことを示した。またこの動向は、他の有力神社にも共通する傾向であることにも触れた。❸章御師活動と奉幣の近世への展開では、社司の御師としての活動が近世に継続される一方、神人の御師としての活躍が中世初期に遡るであろうことを示した。さらに奉幣が、御幣またおはけ戴きとして、近世にもつながる信仰のあり方であった可能性を述べた。❹章宮廻と度数詣、❺章南円堂勤仕から南円堂講へでは、中世末に春日社で度数祓が祈祷として定着する以前、春日社諸社を廻る宮廻と本社・若宮を往還する度数詣がポピュラーかつ重要な信仰のあり方で、代勤という形で祈祷ともなり、近世にも継続したことを示した。また、春日社祀官により行なわれた南円堂勤仕は、南円堂・春日社を往還する度数詣、興福寺境内を含む宮廻、奉幣祝詞などを内容とするもので、春日講に先行する春日祀官の講的結縁として重要であること、また願主を得て行なわれ、祈祷ともなったことなどを紹介した。Religious studies research on Kasuga Shrine has tended to focus on ceremonies and rites. However, everyday religious activities such as prayer and purification rituals are important when considering relations between priests and society.It has recently come to light that from the latter part of the Middle Ages, lower ranking priests of Kasuga Shrine called "jinin" established strong relationships through the offering of lanterns and prayers with worshippers who served as "oshi". The formation of this relationship between priests and lay people began with higherranking priests called shashi and dates back at least to the end of the Heian period. This paper describes in as much detail as possible the activities of everyday worshippers through their relationship with the personal prayers of Kasuga Shrine priests, primarily shashi, in the Middle Ages.The first two chapters discuss the emergence and development of oshi activities in connection with shashi. From the end of the Heian period, a shashi would recite prayers as an intermediary when members of the nobility worshipped or made offerings. This established a relationship between priests and lay people and at the same time there emerged shashi who began to fulfill distinctive roles as priests. Their activities are also described in "Reikentan" (miraculous tales). "Reikentan" were also produced by shashi and in some cases they became widely known through reports in written records and shrine chronicles.From the time of the Kamakura period onward, the importance of nobles as oshi increased and there were even cases where they had an influence on the appointment of shashi. Their activities extended beyond the shrine, as they sometimes officiated in small shrines situated in the compounds of noble persons. A similar trend also existed in other major shrines.The third chapter examines the development of activities and offerings by oshi in the Early Modern period. While the involvement of shashi in oshi activities continued during the Early Modern period, the involvement of jinin in oshi activities most probably went back as far as the early part of the Middle Ages. The chapter also discusses the possibility that offerings made in the form of "gohei" or "ohake" were part of a religious practice that can be linked to the Early Modern period as well.The fourth chapter looks at visits to other shrines and frequent visits to Kasuga shrine and the fifth chapter discusses officiating in Nanendo through to giving recitations in Nanendo. Before frequent purification rituals became established as prayers at Kasuga Shrine at the end of the Middle Ages, it was popular to make frequent visits to shrines belonging to Kasuga Shrine and to make return trips between the main shrine and minor shrines. Moreover, this became an important religious practice and also became a form of prayer which continued into the Early Modern period.When Kasuga Shrine priests officiated at Nanendo, they made frequent return journeys between Nanendo and Kasuga Shrine. They also visited the grounds of Kofuku-ji Temple and recited prayers. This was an important part of the acceptance of Buddhism by Kasuga Shrine priests, which preceded that of pilgrams to Kasuga Shrine, and also led to an increase in people offering prayers.
著者
樋口 雄彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.161-293, 2016-12

江戸幕府において天領の治水行政を所轄したのは勘定奉行をトップとする勘定所であり、その配下として実地で防災・復興などの土木工事を担当したのが普請役という下級官吏であった。普請役には純粋に技術者だった者がいた半面、工事に従事する農民を管理・監督するだけの行政官だった者も混在していたと考えられる。維新後、明治政府は治河使・土木司・土木寮・土木局といった担当部門を会計官・民部省・工部省・大蔵省・内務省などの下に位置づけ、治水を遂行するとともに、西洋からの新たな技術導入をはかった。新政府の直轄県で治水を担当した下級官吏の中には幕府時代に普請役だった者がおり、政権交代を経た後も現場レベルでは人的継続性が見られた。七〇万石の一大名として存続した、江戸幕府の後身たる静岡藩では、領内に富士川・安倍川・大井川・天竜川という大河があったことから、藩政機構の中に水利路程掛(後に水利郡政掛・水利郡方掛と改称)を置き、治水に意を注いだ。ただし、実際に領内各地で展開された治水技術は、蛇籠・大聖牛・牛枠といった竹木石を材料とした伝統的な工法にとどまり、近世との大きな違いは見られなかった。その一方、同掛には幕府時代に勘定所に属した者や普請役など、古くからの民政部門の経験者が身を置いた一方、海軍士官として西洋の科学技術を学んだ人物が幹部に就任するなど、近代化への志向が見られた。廃藩置県に前後して静岡藩の人材は明治政府に吸収されていったが、水利路程掛の出身者には中央省庁や府県において土木・治水行政を任された者もいた。また、同じ旧幕臣・静岡藩出身者としては、同藩の藩校沼津兵学校で身に付けた洋算・測量などを武器に土木寮の技師となり、お雇い外国人とともに仕事をしたような、より若い世代の一群の存在が生まれた。さらに、同校から工部大学校に進学し高等教育を受けた者の中からは、本格的な土木技術の専門家が輩出した。伝統工法にもとづき幕府の治水行政を担当した者たちと幕末に西洋近代科学を学び取った幕府海軍士官たちは静岡藩で合流し、水利路程掛や沼津兵学校を経由して明治政府へと引き継がれ、世代交代や新陳代謝を繰り返しつつ、真に近代的な意味での治水行政の担当者たる土木官僚・土木技術者へとつながっていったのである。In the Edo Shogunate Government, the Kanjō-sho (Treasury Department), led by the Kanjō-bugyō (Chief Treasurer), was responsible for flood control administration in the shogunal demesnes. Under the control of the Department, the low-ranking government officials called Fushin-yaku were in charge of construction works for disaster prevention and rehabilitation. They seem to have consisted not only of engineers but also of administrative officials who only supervised farmers engaged in construction works.After the Meiji Restoration, the Government of Japan set up departments in charge of civil engineering and construction, such as Chika-shi, Doboku-shi, Doboku-ryō, and Doboku-kyoku, under the supervision of the Kaikei-kan (Ministry of Accountant), Minbu-shō (Ministry of Public Affairs), Kōbu-shō (Ministry of Public Works), Ōkura-shō (Ministry of Finance), and Naimu-shō (Ministry of Home Affairs) to enhance flood control. Moreover, the Meiji Government strived to adopt new technologies from the West. In the meantime, some of the low-ranking government officials who had worked as Fushin-yaku in the Edo period continued to engage in flood control projects in prefectures under the direct control of the new Meiji Government, which indicates the retention of human resources at the field level even after the regime change.The Shizuoka Domain, established for the ex-shogun who was demoted to a daimyo with revenues of 700,000 koku, set up the department of water resources management (originally named as Suiri-rotei-kakari, later renamed as Suiri-gunsei-kakari, and then renamed again as Suiri-koorikata-kakari) under the local government to enhance flood control since there were large rivers within the territory, such as the Fuji, Abe, Ōi, and Tenryū Rivers. Though in the domain, technocrats only built simple wood, bamboo and/or stone structures for flood prevention, such as those called jakago, daiseigyū, and ushiwaku, by using traditional techniques similar to those used in early modern times, and seem to have strived for modernization. This is also illustrated by the fact that the department of water resources management not only consisted of government officials who had engaged in public affairs for years under the Edo Shogunate Government, such as Fushin-yaku and other officials of the Kanjō-sho, but also hired as senior officials those who had learned Western scientific knowledge and skills to become naval officers.Around at the time of haihan-chiken (the abolition of feudal domains and the establishment of prefectures), most officials of the Shizuoka Domain were assimilated into the Meiji Government. Some of those who had worked for the department of water resources management were appointed as civil engineering/flood control administrators at the central and prefectural governments. Meanwhile, among the ex-shogunate officials and the Shizuoka Government who had learned Western arithmetic knowledge and measurement skills in the Numazu Military Academy established by the Shizuoka Domain, some young officials served as engineers at the Doboku-ryō (Department of Civil Engineering), working with foreign specialists employed by the Government of Japan. Moreover, some of the students graduating from the academy and going on to the Imperial College of Engineering to further their education became professional civil engineers.Thus, the shogunate flood control administrators equipped with traditional engineering techniques and the shogunate naval officers armed with modern Western scientific knowledge were merged together in the Shizuoka Domain. After working for the department of water resources management or studying in the Numazu Military Academy, they were assimilated into the Meiji Government. Then, despite the change of generations and the turnover of personnel, their knowledge and skills were transferred to civil engineering bureaucrats and engineers in charge of truly modern flood control.一部非公開情報あり
著者
鈴木 三男 能城 修一 田中 孝尚 小林 和貴 王 勇 劉 建全 鄭 雲飛
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.187, pp.49-71, 2014-07

ウルシToxicodendron vernicifluum(ウルシ科)は東アジアに固有の落葉高木で,幹からとれる漆液は古くから接着材及び塗料として利用されてきた。日本及び中国の新石器時代遺跡から様々な漆製品が出土しており,新石器時代における植物利用文化を明らかにする上で重要な植物の一つであるとともに日本の縄文文化を特徴づけるものの一つでもある。本研究では現在におけるウルシの分布を明らかにし,ウルシ種内の遺伝的変異を解析した。そして化石証拠に基づいてウルシの最終氷期以降の時空分布について検討した。その結果,ウルシは日本,韓国,中国に分布するが,日本及び韓国のウルシは栽培されているものかあるいはそれが野生化したものであり,中国には野生のものと栽培のものの両方があることが明らかとなった。それらの葉緑体DNAには遺伝的変異があり,中国黄河~揚子江の中流域の湖北型(V),浙江省と山東省に見られる浙江型(VII),日本,韓国,中国遼寧省と山東省に見られる日本型(VI)の3つのハプロタイプ(遺伝子型)が検出された。中国大陸に日本と同じハプロタイプの野生のウルシが存在することは,日本のウルシが中国大陸から渡来したものだとすれば山東省がその由来地として可能性があることを示唆していると考えられた。一方,化石証拠からは日本列島には縄文時代早期末以降,東日本を中心にウルシが生育していたことが明らかとなった。さらに福井県鳥浜貝塚遺跡からは縄文時代草創期(約12600年前)にウルシがあったことが確かめられた。このような日本列島に縄文時代草創期に既にウルシが存在していたことは,ウルシが大陸からの渡来なのか,元々日本列島に自生していたものなのかについての再検討を促していると考えられた。The lacquer tree, Toxicodendron vernicifluum (Anacaradiaceae) is an endemic tree in East Asia and is called urushi in Japanese. The urushi lacquer is collected from the tree trunk of this species and has been utilized as an adhesive and/or a painting material from very ancient ages. Many kinds of lacquer ware have been recovered from Neolithic archeological sites in Japan and China, and the urushi lacquer ware especially characterizes the Jomon culture in Japan. To elucidate the origin of the Japanese urushi culture, we examined the distribution of urushi trees in East Asia, analyzed their chloroplast DNA, and re-examined the fossil record of the urushi plant.Although the urushi plant is now distributed in China, Korea, and Japan, all of the trees in Korea and Japan are not native, but are cultivated. Thus the urushi trees in Japan is considered as an introduction from somewhere in China. We detected three haplotypes in the chloroplast DNA (trnL intron and trnL-F intergenic spacer regions) in of the urushi plant. The first one haplotype (haplotype V) is widely distributed in central China between Hwang Ho and Yangtze Jiang of China. The second haplotype (haplotype VI) is found in Japan, Korea, and Liaoning and Shandong provinces of China. The last one haplotype (haplotype VII) is found only in Shandong and Zhejiang provinces of China. The presence of wild urushi plant with the haplotype VI in certain areas of China may suggest the possibility that the urushi trees in Japan seem to have originated and introduced from those areas, if it was introduced. Fossil records of pollen, fruits, and wood of the urushi plant have been recovered from the early Jomon period in Japan, especially in eastern and northeastern Japan. One exception is the oldest record of the incipient Jomon period of ca. 12600 cal BP of a urushi fossil wood from the Torihama shell midden of Fukui prefecture. This fact is pressing us to re-consider whether what the urushi plant was brought over from China, or it is native to Japan originally.
著者
村井 章介
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.201, pp.81-96, 2016-03-30

本誌第一九〇集に掲載された宇田川武久氏の論文「ふたたび鉄炮伝来論―村井章介氏の批判に応える―」に対する反論を目的に、「鉄砲は倭寇が西日本各地に分散波状的に伝えた」とする宇田川説の論拠を史料に即して検証して、つぎの三点を確認した。①「村井が鉄砲伝来をヨーロッパ世界との直接のであいだと述べている」と反復する宇田川氏の言明は事実誤認である。②〈一五四二年(または四三年)・種子島〉を唯一の鉄砲伝来シーンと考える必要はなく、倭寇がそれ以外のシーンでも鉄砲伝来に関わった可能性はあるが、宇田川氏はそのオールタナティブを実証的に示していない。③一五四〇~五〇年代の朝鮮・明史料に見える「火砲(炮)」の語を鉄砲と解する宇田川説は誤りであり、それゆえこれらを根拠に鉄砲伝来を論ずることはできない。以上をふまえて、一六世紀なかば以降倭寇勢力が保有していた鉄砲と、一六世紀末の東アジア世界戦争(壬辰倭乱)において日本軍が駆使した鉄砲ないし鉄砲戦術との関係を、どのように捉えるべきかを考察した。壬辰倭乱直前まで、朝鮮は倭寇勢力が保有する鉄砲を見かけていたかもしれないが、軍事的脅威と感じられるほどのインパクトはなかったので、それに焦点をあわせた用語も生まれなかった。朝鮮が危惧していたのは、中国起源の従来型火器である火砲が、明や朝鮮の国家による占有を破って、倭寇勢力や日本へ流出することであった。しかしその間、戦国動乱さなかの日本列島に伝来した新兵器鉄砲が、軍事に特化した社会のなかで、技術改良が重ねられ、また組織的利用法が鍛えあげられ、やがて壬辰倭乱において明や朝鮮にとって恐るべき軍事的脅威となった。両国は鉄砲を「鳥銃」と呼び、鹵獲した鳥銃や日本軍の捕虜から、鉄砲を駆使した軍事技術をけんめいに摂取しようとした。
著者
関沢 まゆみ
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.191, pp.91-136, 2015-02-27

1960年代以降,高度経済成長期(1955-1973)をへて,列島各地では土葬から火葬へと葬法が変化した。その後も1990年代までは旧来の葬儀を伝承し,比較的長く土葬が行われてきていた地域もあったが,それらも2000年以降,急速に火葬へと変化した。本論ではそれらの地域における火葬の普及とそれに伴う葬送墓制の変化について現地確認と分析とを試みるものである。論点は以下の通りである。第1,火葬化が民俗学にもたらしたのは「遺骨葬」と「遺骸葬」という2つの概念設定である。火葬化が全国規模で進んだ近年の葬送の儀式次第の中での火葬の位置には,A「通夜→葬儀・告別式→火葬」タイプと,B「通夜→火葬→葬儀・告別式」タイプの2つがみられる。Aは「遺骸葬」,Bは「遺骨葬」と呼ぶべき方式である。比較的長く土葬が行われてきていた地域,たとえば近畿地方の滋賀県や関東地方の栃木県などでは,葬儀で引導を渡して殻にしてから火葬をするというAタイプが多く,東北地方の秋田県や九州地方の熊本県などでは先に火葬をしてから葬儀を行うというBタイプが多い。第2,Bタイプの「遺骨葬」の受容は昭和30年代の東北地方や昭和50年代の九州地方等の事例があるが,注目されるのはいずれも土葬の頃と同じように墓地への野辺送りや霊魂送りの習俗が継承されていたという点である。しかし,2000年代以降のもう一つの大変化,「自宅葬」から「ホール葬」へという葬儀の場所の変化とともにそれらは消滅していった。第3,両墓制は民俗学が長年研究対象としてきた習俗であるが,土葬から火葬へと変化する中で消滅していきつつある。そして死穢忌避観念の希薄化が進み,集落近くや寺や従来の埋葬墓地などへ新たな石塔墓地を造成する動きが活発になっている。これまで無石塔墓制であった集落にも初めて石塔墓地造成がなされている。火葬が石塔その他の納骨施設を必須としたのである。第4,近代以降,旧来の極端な死穢忌避観念が希薄化し喪失へと向かっている動向が注目されているが,それを一気に加速させているのがこの土葬から火葬への変化といえる。旧来の土葬や野辺送りがなくなり,死穢忌避観念が希薄化もしくは喪失してきているのが2010年代の葬送の特徴である。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.1-42, 2005-03-25

本稿は、あらたに発見された長野市の守田神社所蔵の新史料『鉄炮之大事』とセットで伝来した『南蛮流秘伝一流』の史料を翻刻・紹介するとともに、中世における技術と呪術の相関関係を考察したものである。第一に、『鉄炮之大事』は、天正十九年から、文禄三年、文禄五年、慶長十年、元和元年までの合計十五点の文書群である。これまで最古とされる永禄・天正期の火薬調合次第とほぼ同時代のものから、文禄・慶長・元和という江戸初期への移行期までの変遷を示す史料としては、稀有な史料群である。しかも、これまで知られている大名家と契約をとりかわした炮術師の炮術秘伝書よりも古い史料群であり、民間の地方寺社に相伝された修験者の鉄炮技術書としては、最古ではじめての文書群である。第二に、『南蛮流秘伝一流』は『鉄炮之大事』とセットで相伝されたもので、その内容は南蛮流炮術の伝書ではなく、戦傷者などの治療技術を記載した医書である。鉄炮の技術と医術とがセットで相伝・普及されたことが判明した。傷の治療法として縫合術や外科手術法が相伝されており、内容的にポルトガル医学だけではなく、室町期に日本で独自に発達した金瘡医学の要素が強く、両者の混在を指摘した。第三に、『鉄炮之大事』『南蛮流秘伝一流』には、火薬調合や膏薬製造など技術的薬学的知識が、呪法や作法によって神秘化・儀礼化され、呪術的性格をあわせもっていた。実践的戦闘法として活用された戦国期に近い天正・文禄年間ほど、技術的要素が濃厚であり、慶長・元和年間の近世社会になるほど、呪術的性格を強化しているという逆転現象を指摘した。
著者
島村 恭則
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.325-348, 2003-03-31

本論文では、都市民俗学の立場から、喫茶店、とりわけそこで行なわれるモーニング(朝食を、自宅ではなく、喫茶店のモーニングセット〈モーニングサービス〉でとる習慣)という事象に注目し、記述と問題点の整理を行なった。本論中で行ないえた指摘は、およそ次のとおりである。(1)モーニングが行なわれる理由は、①労力の軽減、②単身者の便宜、③コミュニケーション、のうちのどれか、あるいはそれらの複合に求められる。(2)日本におけるモーニングは、豊橋以西の、中京圏、阪神圏、中四国のそれぞれ都市部、とりわけ工業地帯の下町的な地域に分布しているものと見ることができる。(3)モーニングは、一九六〇年代後半から行なわれるようになっていると見られる。その場合、喫茶店経営者側は、出勤前のサラリーマンへのサービスを意図してモーニングセット/サービスを開始したのであったが、これが地域で受容される際には、地の生活者、とりわけ女性たちの井戸端会議の場としての機能を果たすようになっている。(4)アジア的視野で眺めた場合、都市社会においては、朝食を外食するほうが一般的だといってよいくらいの状況が展開されており、日本のモーニングには、アジア都市社会に共通する生活文化としての性格が存在するといっても過言ではない。(5)モーニングの場は、他者と他者とが場を共有しながら、そこでさまざまな言葉を交わす公共圏であるが、そこで語られるのは、決して論理的に整理された明晰な言葉ではない。むしろ、モーニングの場は、そうした論理的な言葉で形成される「市民的公共圏」からは排除される言説あるいは人々が交流する場として存在するのであり、この空間は市民的公共圏に対する「もう一つの公共圏」として位置づけることができる。
著者
山下 裕作
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.39-69, 2014-03-31

筑波研究学園都市は昭和55年に概成した計画都市である。43の国立試験・研究・教育機関とその勤務者,及び家族が移転・移住した。これほど大規模な計画都市は,筑波以前には無く,現在まで類を見ない。近年はつくばエキスプレスの開通に伴う民間ベースの都市開発により,洗練された郊外型都市に変貌しつつある。本報告はこの計画都市が最も計画都市らしかった時代(概成期)における自然と生活について検討する。筑波研究学園都市の「自然」は,周辺農村の二次的自然とは異なり,人工の緑地である。生産活動に利用されることは無く,当時植栽されたばかりの「自然」も人とのつきあいの経験が無い。それでも,学園都市の住民たちは,そうした「自然」を活用し,深い愛着を抱いてきた。特に移住者の子弟達にはそうした傾向が見られる。この移住者達は「新住民」と呼ばれていたが,その中身は一様ではない。移住時期によってタイプに分かたれ,それぞれ性格づけられていた。しかし,子供達は懸命に新たな同級生や環境に折り合いを付けつつ一様に筑波を故郷ととして開発しようとしていた。また,元々周辺農村に暮らしてきた住民達は,この新住民達,また学園都市そのものと対立することもあったが,徐々に気むずかしく見える新住民達や,人工的な自然にも慣れ親しむようになる。そして学園都市中心部で開催される「まつりつくば」は,これら旧農村部の住民達によって担われる。その一方で現在「新住民」たちの姿は見えない。彼等は「つくばスタイル」という都市開発のスローガンのもと,「知的環境」を担う要素となりつつある。また,概成後30年が経過し,人工緑地は著しく伸長した。もはやかつての子供達が遊びほうけてきた「故郷の自然」では無くなってきている。開発者の「ふるさと」は消滅しつつある。同様なことは,大規模団地で生活した多くの子供たちにも言えることであろう。ひとり筑波研究学園都市だけの問題ではない。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.113-160, 2016-12-15

2011年3月に発生した福島第一原発事故は,東日本大震災を引き金にして起きたものであったが,その原発事故により広大な国土が放射能に汚染され,国土の一部は長く人が住むこともできない大地となり,また今後長期にわたり多くの人々への健康被害が懸念されるなど,大災害となった。その大災害に至った1つの大きな要因として,メディアによる原発の必要性や安全性などを訴える広告などの情報が,原発の問題を指摘する情報よりもはるかに多大であったこともあるが,その一方で,本来伝えられるべきであったと思われる原発関係の情報が十分伝えられてこなかったということがあると思われる。そうした情報の中で,本稿では,福島での原発事故が起きるまでは最悪の原発事故であった旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故後による食品汚染についての情報について検討した。1986年に起きたその原発事故により,タイやフィリピンなどでは大きな放射能汚染食品騒ぎがあったが,少なくとも関西地方ではほとんど伝えられなかった。それらのニュースの内容をタイなどの地元紙の記事などから確認し,それらが実際にあまり報道されるべき価値のないものであったのかどうか検討した。また,それらのニュースが日本国内で実際にどの程度報道されたのかについて,国内の強力な新聞記事等のデータベースである「日経テレコン」により確認した。一方,福島第一原発事故から5年以上を経て,放射能汚染食品や放射線による健康被害など,また原発関連の報道が十分になされない部分が出てきている。その近年の状況についても,データベース利用などにより確認し考えてみた。メディアの編集者が放射能汚染食品や人々の健康被害に関する情報を制限する背景として,社会的不安などが生じることへの配慮もあると思われるが,正しい情報が伝えられないことにより,福島での原発事故の忘却が早められ,しっかりと原発について考えようとする流れが弱められている。
著者
勝田 至
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.174, pp.7-30, 2012-03

近代の民俗資料に登場する火車は妖怪の一種で、野辺送りの空に現れて死体をさらう怪物である。正体が猫とされることも多く、貧乏寺を繁昌させるため寺の飼い猫が和尚と組んで一芝居打つ「猫檀家」の昔話も各地に伝わっている。火車はもともと仏教で悪人を地獄に連れて行くとされる車であったが、妖怪としての火車(カシャ)には仏教色が薄く、また奪われる死体は必ずしも悪人とされない。本稿の前半では仏教の火車と妖怪の火車との繋がりを中世史料を用いて明らかにした。室町時代に臨終の火車が「外部化」して雷雨が堕地獄の表象とされるようになり、十六世紀後半には雷が死体をさらうという話が出現する。それとともに戦国末には禅宗の僧が火車を退治する話も流布し始めた。葬列の際の雷雨を人々が気にするのは、中世後期に上層の華美な葬列が多くの見物人を集めるようになったことと関係がある。猫が火車とされるようになるのは十七世紀末のころと見られる。近世には猫だけではなく、狸や天狗、魍魎などが火車の正体とされる話もあり、仏教から離れて独自の妖怪として歩み始める。悪人の臨終に現れる伝統的な火車の説話も近世まで続いているが、死体をさらう妖怪の火車の話では、死者は悪人とされないことが多くなった。人を地獄に連れて行く火車の性格が残っている場合、火車に取られたという噂がその死者の評判にかかわるという問題などから、次第に獄卒的な性格を薄めていったと考えられる。Kasha, which emerges in modern folklore, is a kind of monster which appears in the sky over funeral processions and carries away the dead. The monster is often identified as a cat, and "nekodanka," which is an old tale of a cat playing tricks together with the priest of a poor temple to make the temple prosper, is also known in various places.Kasha was originally a Buddhist carrier that allegedly took villains to hell. However, when kasha is portrayed as a monster, its Buddhist character is weakened, and the dead taken by kasha are not necessarily villains. The first half of this article clarifies the connection between kasha in Buddhism and kasha as a monster, using medieval materials. During the Muromachi period, kasha for the death was "externalized," and thunderstorms were considered to represent going to hell, while in the last half of the 16th century, the story of thunder carrying away the dead appeared. At the same time, at the end of the Sengoku period, the story of a Zen Buddhist monk defeating kasha gained ground. People's concerns about thunderstorms at funeral processions are connected with the fact that in the last half of the Middle Ages, gorgeous funeral processions of the upper classes attracted many spectators.It seems that kasha were first identified as cats in the late 17th century. In early modern times, kasha were also identified as raccoon dogs, tengu, moryo, etc., leaving Buddhism and beginning to walk alone as unique monsters. The traditional story of kasha, which appears at the death of a villain, was continued until early modern times, but in the story of kasha as a monster carrying away the dead, the dead was often not villains. If kasha still had the character of a monster which carries away people to hell, the rumor that kasha took the dead might have tarnished the reputation of the latter. For this reason, the character of kasha as a tormenting devil in hell would have gradually been weakened.
著者
藤尾 慎一郎
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.183, pp.113-143, 2014-03-31

本稿は,「弥生時代の実年代」(雄山閣)[藤尾2009b]の発表後に行った,いわゆる2400年問題の時期に相当する弥生前期中頃~後半(板付Ⅱa式~板付Ⅱb式)期の炭素14年代測定の結果と,過去に行った当該期の測定値をあわせて,西日本各地における灌漑式水田稲作(以下,弥生稲作)の開始年代と派生する問題について考察したものである。対象とした遺跡は,新たに測定した福岡県大保横枕遺跡,徳島県庄・蔵本遺跡,鳥取県本高弓ノ木遺跡と,過去に行った福岡県福重稲木遺跡,同雀居遺跡,熊本県山王遺跡,大分県玉沢条里跡遺跡,愛媛県阿方遺跡,広島県黄幡1号遺跡である。測定・解析の結果,板付Ⅰ式新段階の年代が前8世紀末葉の20年間ほどであることを初めて確認するとともに,板付Ⅱa式は前700~前550年頃,板付Ⅱb式は前550年~前380年頃,という2009年段階の結論を追認した。さらに鳥取平野の弥生稲作が,近畿よりも早い前7世紀前葉には始まっていた可能性のあること,徳島平野では奈良盆地や伊勢湾沿岸地域と同じ前6世紀中頃になって弥生稲作が始まっていたことを再確認した。九州北部を出発点とする,山陰ルート,瀬戸内ルート,高知ルートという3つの弥生稲作の東進ルートのうち,山陰ルートも他の2ルートとほぼ同時に拡散したことを意味する。伊勢湾沿岸地域で弥生稲作が始まるまでの約400年のうちの約250年間,九州北部玄界灘沿岸地域にとどまっていた弥生稲作は,玄界灘沿岸地域を出ると,一気に鳥取平野~岡山平野~香川平野~高知平野を結ぶ線まで広がり,その後も5~60年で神戸,さらに70年で徳島,奈良盆地,伊勢湾沿岸まで急速に広がっていった。このことは,玄界灘沿岸地域と西日本では,縄文人の弥生稲作の受け入れ方になんらかの違いがあった可能性を示唆している。
著者
荒川 章二
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.147, pp.35-63, 2008-12-25

本研究は、日清戦争期・日露戦争期を通じて、地域ぐるみの戦死者公葬がいかに形成されていくのかを主題としている。地域ぐるみの戦死者葬儀の性格をどうとらえるかは、まだ通説が形成されておらず、「公葬」の定義に関しても論者毎に区々である。この様な研究の現状に対し、本研究では、両戦争期の個別の葬儀事例をいくつか検討し、葬儀執行に関わる地方団体の規程の成立、葬儀の主要な参加者(知事、郡長、市町村長、議員、学校長など)、葬儀費用の徴収法、弔慰料贈与規程の設定、葬儀執行の会場(小学校校庭など)などに注目し、戦死者葬儀が、両戦争期にどのように公的な性格を獲得していくかを跡づけた。後の日中戦争期と異なり、この時期の戦死者に対する地域ぐるみの葬儀に対しては、公費支出は許可されなかったが、葬儀費用も準公費として徴収されており、執行の内実も公葬として位置づけられるという点が、本稿の主張である。さらに何よりも、主催者、あるいは葬儀の記録者自身が、「村葬」などと称し、公葬として自己認識していた。本研究では同時に、葬儀執行の前提となる、戦死者の遺体の処理、遺骨・遺髪の受領とその際の駅頭などでの出迎え、遺族に対する戦死の通報のパターンと通報文の内容、葬儀の際の弔辞の文面などにも注目した。両戦争期のこの時期に、「名誉の戦死」「英霊」「軍人の本分」などの国家的・軍人的価値意識が、どのような経路と舞台装置を介して地域に浸透していったのか、メディアとしての戦死者公葬の意義を明らかにするためである。葬儀は何れも数百人から二〇〇〇人にも及ぶ地域未曾有の葬儀参加者を集めて執行され、特に次代を担う小学校児童の参加が重視された。国民の戦争・軍事認識形成に果たした戦死者葬儀の役割を、より多面的に解明していく必要があると思われる。