著者
吉本 弥生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.331-371, 2010-03

絵画の約束論争(一九一一~一九一二年)は、木下杢太郎・山脇信徳・武者小路実篤によって交わされた、当時の絵画の評価基準に関する論争である。三人の議論が起こった最初のきっかけは、木下杢太郎が、山脇信徳の絵画についておこなった批評にある。本稿は、論争の中心人物となった三人の言説を明確化し、従来、指摘されてきた「主観」と「客観」の二項対立からではなく、「主客合一」の視点で論争をとらえ直した上で、同時代の芸術傾向と、批評を合わせて考察した結果、三人の芸術観には、共通して「印象」ではなく、「象徴」がベースにあることが分かった。
著者
野原 博淳
出版者
国際日本文化研究センター
巻号頁・発行日
pp.1-45, 2010-02-15

会議名: 日文研フォーラム, 開催地: ハートピア京都, 会期: 2009年9月8日, 主催者: 国際日本文化研究センター
著者
梁 青
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.48, pp.167-178, 2013-09-30

『新撰万葉集』(八九三年)はそれぞれの和歌に一首の七言四句の漢詩が配された詩歌集である。本論文では、『新撰万葉集』上巻恋歌に付された漢詩を取り上げ、そこに見られる日本的要素を探り、先行した恋歌との関連を考察することによって、それと中国および勅撰三集の閨怨詩との相違を明らかにし、『古今集』成立前夜における王朝漢詩の展開の一端を浮き彫りにしてみたい。
著者
伊藤 謙 宇都宮 聡 小原 正顕 塚腰 実 渡辺 克典 福田 舞子 廣川 和花 髙橋 京子 上田 貴洋 橋爪 節也 江口 太郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.157-167, 2015-03

日本では江戸時代、「奇石」趣味が、本草学者だけでなく民間にも広く浸透した。これは、特徴的な形態や性質を有する石についての興味の総称といえ、地質・鉱物・古生物学的な側面だけでなく、医薬・芸術の側面をも含む、多岐にわたる分野が融合したものであった。また木内石亭、木村蒹葭堂および平賀源内に代表される民間の蒐集家を中心に、奇石について活発に研究が行われた。しかし、明治期の西洋地質学導入以降、和田維四郎に代表される職業研究者たちによって奇石趣味は前近代的なものとして否定され、石の有する地質・古生物・鉱物学的な側面のみが、研究対象にされるようになった。職業研究者としての古生物学者たちにより、国内で産出する化石の研究が開始されて以降、現在にいたるまで、日本の地質学・古生物学史については、比較的多くの資料が編纂されているが、一般市民への地質学や古生物学的知識の普及度合いや民間研究者の活動についての史学的考察はほぼ皆無であり、検討の余地は大きい。さらに、地質学・古生物学的資料は、耐久性が他の歴史資料と比べてきわめて高く、蒐集当時の標本を現在においても直接再検討することができる貴重な手がかりとなり得る。本研究では、適塾の卒業生をも輩出した医家の家系であり、医業の傍ら、在野の知識人としても活躍した梅谷亨が青年期に蒐集した地質標本に着目した。これらの標本は、化石および岩石で構成されているが、今回は化石について検討を行った。古生物学の専門家による詳細な鑑定の結果、各化石標本が同定され、産地が推定された。その中には古生物学史上重要な産地として知られる地域由来のものが見出された。特に、pravitoceras sigmoidale Yabe, 1902(プラビトセラス)は、矢部長克によって記載された、本邦のみから産出する異常巻きアンモナイトであり、本種である可能性が高い化石標本が梅谷亨標本群に含まれていること、また記録されていた採集年が、本種の記載年の僅か3年後であることは注目に値する。これは、当時の日本の民間人に近代古生物学の知識が普及していた可能性を強く示唆するものといえよう。
著者
園田 英弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p71-87, 1992-09
被引用文献数
1

近世の京都図の分析を通して、「洛中」と「洛外」の関係や、「洛外」のより詳細な性格などを明らかにすることを目的としている。「洛外」は、性格の異なる緑地とのうちが存在し、近世の京都図の中では農地の部分が極端に縮小されて描かれていた。また神社仏閣・池・野原・丘・川などを中心とする緑地の部分は、京都が近世後期に古都化するのに対応して、しだいに拡大する傾向にある。近世以前から「洛中」と「洛外」は一組のものと考えられてきたが、それは密集した「洛中」の都市生活と、それを補完する不可欠の部分としての緑地のことであった。そして、「洛中」のすぐ外に広がる農地は、あたかも存在しないような空間として地図上には位置付けられていた。このような地図上の歪みこそが、ミヤコ意識の空間構造を表現しているのである。
著者
三谷 憲正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.27, pp.91-110, 2003-03-31

朝鮮王朝末期の王妃「閔妃」は韓国および日本を通じ、これまで多くの資料と作品の中で語られてきた。が、現在一般的に流布している「閔妃」の写真から喚起される<像>をもってしてそれらの資料と作品を読んでいいのだろうか、という疑問がつきまとう。なぜなら、従来「閔妃」の写真、と言われて来たものは、実は別人のものである可能性が高いからである。これまで流布してきた「閔妃の写真」と言われるものは、もともと、「宮中の女官」あるいはそれに準ずる女性を撮ったものだったのではないか、と推測できる。実際不思議なことではあるが、戦前の「閔妃」に言及している日本語文献の資料は「閔妃」の写真は出て来ない。
著者
片桐 圭子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.230-184, 1993-09-30

ペリー提督が、それまで200年間鎖国を続けていた我々の国、日本を訪れ、そのドアを叩いたとき、『ニューヨーク・タイムズ』はすでに日本を見つめるための窓を大きく開いていた。(同紙は、日本国内のあらゆることに関心を持っており、)今、我々はその記事から、史実を知るのみではなく、わが国にたいする同紙の考え方をも読み取ることができる。当時、近代国家・国際国家へと変わろうとしていた日本にたいする認識を、である。 日米両国が外交関係を成立させた当初、『ニューヨーク・タイムズ』は、未知の国民との交渉に際しては、アメリカは彼らの信頼と好意を得るために何らかの努力をするべきだと主張し、武力を行使することを非難した。記事の内容は日本に対して非常に友好的だったが、それは日本側がアメリカの言いなりになっていたためだった。 一八六〇年代前半になると、『ニューヨーク・タイムズ』は日本に対してよい感情を持たなくなる。日本は未だ開国に躊躇しており、その混乱の中で、日本政府はしばしば国際社会のルールを破った。『ニューヨーク・タイムズ』は日本での混乱の理由を理解しようとし、日本固有の制度、とりわけ天皇と大君が並立する二重権力構造と封建制について考察しようとするのである。 一八六〇年代後半になると、日本はついに開国を決意、各国と友好関係を築くための基盤を整えていった。そして戊申戦争後、『ニューヨーク・タイムズ』は、日本が二重の権力構造と、封建制を完全に捨て去り、文明国家の一員にまで成長したことを認めるのである。
著者
依岡 隆児
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.265-279, 2008-09-30

ドイツ語圏における「ハイク」生成と日本におけるその影響を、近代と伝統の相互関連も加味して、双方向的に論じた。ドイツ・ハイクは一九世紀末からのドイツ人日本学者による俳句紹介と一九一〇年代からのドイツにおけるフランス・ハイカイの受容に始まり、やがてドイツにおける短詩形式の抒情詩と融合、独自の「ハイク」となり、近代詩の表現形式にも刺激を与えていった。一方、日本の俳句に触発されたドイツの「ハイク」という「モダン」な詩が、今度は日本に逆輸入され、「情調」や「象徴」という概念との関連で日本の伝統的な概念を顕在化させ、日本の文学に受容され、影響を及ぼしていった。こうした交流から、新たに「ハイク」の文芸ジャンルとしての可能性も生まれたのである。
著者
魯 成煥
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.117-146, 2014-03-31

本稿は、九州のある篤志家が自分の私有地に朝鮮の義妓である論介を祀ることによって惹起した韓日間の葛藤について考察したものである。論介は、晋州の妓女というだけでなく、全国民に尊敬される愛国的英雄で民間信仰においても神的な人物である。韓国の国民的な英雄である論介の霊魂を祀った宝寿院の建立と廃亡は、韓日間の独特な霊魂観の対立を象徴するものであった。和解と寛容、平和という純粋な理念に基づいて行われたとしても、当初から様々な問題点を抱えていた。論介にまつわる伝説を歴史的な事件として理解し、命を失った論介と六助に対する同情から彼らの墓碑が造成され、韓日軍官民合同慰霊祭が行われた。これを日本人は、怨親平等思想に基づいた博愛精神の発露だと表現するかもしれない。しかし韓国人はそれとはまったく違う感覚で見る。つまり、それは敵と一緒に葬られることであり、霊魂の分離であり、祭祀権と所有権の侵害というだけでなく、夫のある婦人を強制的に連行し、無理やり敵将と死後結婚させる行為だと考え、想像を超える民族的な侮辱であると感じるのである。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.89-130, 2007-03-31

仏教では、女性は不浄な穢れた生き物と考えられてきた。そして、僧は女性と交接を行うことを「女犯」として戒律で禁じられ、そのため「女犯」の罪を避けるため、僧は男性、とりわけ稚児を交接の対象としてきたといわれている。
著者
唐 権
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.23, pp.77-103, 2001-03-31

十七世紀以来、幕府の長崎貿易体制のもとに、長崎を訪問する中国人と丸山遊郭の遊女の間に大規模で、かつ多様な交流が存在したことは周知の事実である。この交流は日中貿易の繁栄がもたらした副産物だけではなく、日中間交通の発達とともに発生した独自の現象でもある。多くの中国人は、単に「快楽」を求めるため、長崎を訪問した。この現象が生じた最大の理由は、明清の王朝交代がもたらした中国国内の娯楽業の長い不況であると考えられる。また、幕府は、貿易に対していろいろ制限の政策を設けながら、中国人の遊興に対しては寛大であり、それを助長する傾向さえ見られる。ゆえに中国人にとって近世の長崎は貿易都市であると同時に、行楽の地としての側面も有している。中国人と遊女の交流は江戸時代を通じて存在し、一八三〇年代前後、一つのピークに達した。この交流は、明治維新以後大勢の日本人女性が「からゆきさん」として海外へ進出することと深く関わっている。
著者
成 恵卿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.4, pp.p167-196, 1991-03

十九世紀末から始められた英訳の歴史において、注目すべき一冊は、フェノロサ=パウンドによる『能―日本古典演劇の研究』 'Noh' or Accomplishment, a Study of the Classical Stage of Japanである。これは、パウンドがフェノロサの能の遺稿を編集・完成した本であるが、この一冊を世に出すまで彼が注いだ情熱や努力は並々ならぬものであった。その周辺には、伊藤道郎、久米民十郎、郡虎彦などの若い日本人芸術家たちがおり、パウンドの能理解、とりわけ舞台面での理解を助けた。一九一六年に出版されたこの一冊は、西洋の読者に、能の劇世界の美と深さを広く伝えるとともに、同時代の芸術家たちにも新鮮な衝撃を与えたのである。この時期におけるパウンドの能への関心は甚だ高く、自らも能をモデルとした幾つかの劇作品を書いた。 能訳集の出版の仕事を終えた後も、パウンドの能への関心は消えることなく、特に一九三〇年代からは能への関心が再び高まり、以降能は、パウンドにとって、自分と日本とを結ぶ重要な媒介物となった。 後年のパウンドの生涯には、能にまつわる興味深いエピソードが多い。それらのエピソード、そして書き残された様々な文章からは、彼の能への愛着さらには執着が鮮やかに浮かび上がる。 パウンドの能理解には、確かに限界があり、断片的なものにすぎないところがあった。また時には、懐かしい過去の思い出として、かなり理想化された節も窺える。しかし、能の文芸的価値がまだ日本でも十分に認められていなかった時期に、能に前述のような強い関心を示したことは注目に価する。なお、彼のそうした能への情熱が、周辺の人々にまで少なからぬ影響を及ぼした点を考えるとき、西洋世界への能の伝達史において、彼が果たした役割は大きく、かつ意義深いものであったと言える。
著者
ヴォヴィン アレキサンダー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11-27, 2009-03-31

最近日本祖語、琉球祖語と日琉祖語の再構が非常に進んだとは言え、まだ不明な箇所が少なからず残っている。特に、日本語にない琉球語の特別な語彙と文法要素、また、琉球語にない日本語の特別な語彙と文法要素が目立つ。それ以外にも、同源の様でも、実際に説明に問題がある語彙と文法要素も少なくない。この論文では、そうしたいくつかの語彙を取り上げる。結論として次の二つの点を強調したい。先ず、琉球諸言語の資料を使わなければ、日琉祖語の再構は不可能である。第二に、上代日本語と現代日本語の本土方言には存在しない韓国語の要素が琉球諸言語に現れていることを示そうとした。私の説明が正しければ、ある上代韓国語の方言と琉球祖語の間に接点があったことを明示する事になるであろう。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.45, pp.185-236, 2012-03-30

明治維新によって日本の伝統的芸能が大きな打撃を受け、茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば指摘される。しかし、上層階級を中心とする「貴紳の茶の湯」の世界では、ひとあし早く茶の湯が復興し始めていた。この茶の湯の復興を先導したのは、旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、財閥関係者らの、「近代数寄者」とよばれる人々である。
著者
源 了圓
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.9, pp.13-25, 1993-09-30

魏源(一七九四―一八五七)の『海国図志』(Hai-kuo t'u-chin)は、明治維新の前夜、中国から輸入された多くの書籍のうちで、当時の日本人に最も多く読まれ、かつ最大の影響を与えた。その本が一八五四年に輸入されてから僅か三年間のうちに、二十三種もの和刻本が『海国図志』というタイトルで翻刻された。この中には十六種の日本語訳(書下し文)版が含まれている。この事実は、『海国図志』が漢文の読めない庶民にも読まれたことを物語る。この本に対する日本人の熱狂的態度は、一八五六年アロー号事件において敗北を喫する以前の中国知識人の、この本に対する無関心な態度とは対照的であった。 当時の日本における『海国図志』の受容の仕方は三つのタイプに分けられる。第一のタイプは、「夷の長技を師として夷を制する」こと、すなわち西洋の科学技術を採用することによって日本の独立を全うしようとするものである。第二は、この本から戦法、戦略を学ぶことによって攘夷をしようとするものである。そして第三は、西欧諸国の政治、法律、経済、ならびに社会組織における諸々の卓越した点を学び、このことを通じて日本を開化しようとするものである。 これらのうち、第一と第三のタイプが重要である。この論文においては第一の点のみに限って考察した。第一のタイプの社会的特性は、アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)によって、「ヘロデ主義者」(Herodians)と称された。そして私は、当時の日本におけるヘロデ主義者の代表者として佐久間象山(一八一一―一八六四)を選びたいと思う。 魏源と佐久間象山とは、お互いに何の交渉関係もないけれども、西欧の科学技術を採用するということにおいて共通の基盤をもっていた。象山は魏源を海外における「同志」とみなしている。 両者の差異は次の如くである。魏源は諸外国から戦艦や大砲を買うことで満足している。象山はこれに満足せず、みずから西欧のスタイルで大砲をつくることを試みた。この試練に成功するために、彼はオランダ語を学び、それをマスターした。そしてオランダ語で書かれた砲術の本を読むことによって、砲の製造に成功した。 象山は魏源を尊敬していたけれども、「海国図志」における砲製造法の記述を採用しなかった。なぜならそれは魏源の実験・実試二基づかず、象山にすれば「児戯」に類するものだったからである。ここでわれわれはこれら二人の対比のうちに、技術を軽蔑した中国読書人の知的文化と、技能一般の重要性を認めていた日本の武士文化との相違を想定しても、誤りではないであろう。そして更に象山は、徳川時代の科学者たちの「親試実験」の伝統をその背後にもっていたのである。
著者
小川 佳世子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.25, pp.51-62, 2002-04-30

世阿弥(一三六三?~一四四三?)作の能や能楽論に連歌の影響が強いことについては、二条良基(一三二〇~八八)との関係を中心に多くの研究がなされている。しかし、世阿弥と連歌との関係は二条良基との間のみで完結しているとは思えない。