著者
王 秀文
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.123-158, 1999-06-30

本稿は、「桃の植物文化誌」につづいて、桃の生命力をめぐる伝承を調べ、分析したものである。桃の生命力に関する伝承は、古く中国の『詩経』「桃夭」などの歌謡に現われ、それは主に桃の花・実・葉をもって年ごろの娘の結婚を祝福したものであるが、季節が冬から春に変わろうとするとき、何よりも早く花が咲き、うっそうとした葉が茂り、木いっぱいに実がなる桃のイメージを受けて生まれた感覚であろう。そのため、桃は強い生命力を持つものとして、農耕を迎える三月三日の祭りと融合され、「桃太郎」の話を生み出し、さらに不老長寿の仙果として仰がれた。このような数多くの伝承において、桃に基本的に陰気に対抗して陽気を復帰させ、生命の蘇生・誕生を象徴し、さらに観念的に女性の生殖力と結びつき、多産・豊饒や生命の不滅への期待が託されているものとみられる。
著者
森田 登代子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.129-158, 2009-11

江戸時代、歌舞伎が庶民の生活に大きく影響を与え、歌舞伎役者着用の衣装、その文様などが流行したことは周知のことである。当時の海外事情や政治的・社会的事件が歌舞伎狂言に影響を与えたこともまたよく知られているが、反面、それらが新しい歌舞伎衣装制作に寄与したことは等閑視されている。馬簾つき四天、小忌衣、蝦夷錦、厚司などの歌舞伎装束はその形成過程において当時の話題性を巧みに取り込んで制作された。たとえば馬簾つき四天は角力のまわしに似せた伊達下がりや江戸で活躍した火消しが担ぐ纏などの意匠が取り入れられ、さらには清から入国した黄檗僧服などをも折衷し、創作された。衣装の各部位にさまざまな意匠や表象を込めた馬簾つき四天は男らしく勇猛な役柄に着用された。小忌衣は中国やオランダから伝播した西洋服装の襞襟、仏具の華鬘紐を応用・受容した衣装と考えられる。江戸時代には大嘗会再興という、天皇家神事に着用される小忌も大きく寄与した。元来は異人や謀反人であることを象徴する装束として成立したが、次第に貴人を表象する衣装へと変貌する。また蝦夷地の開発から、蝦夷錦や厚司を知ることとなり、それらもまた歌舞伎衣装へと受容されていく。これらの事例からも知れるように、歌舞伎役者は、当時の庶民が海外をも含めた様々な社会的事件に関心をもった話題に着目し、それらに関する意匠や衣装の部位に新しい意味づけを加え、あるいは誇張(デフォルメ)し、きらびやかな歌舞伎衣装を創作していったのである。
著者
ヴァラー モリー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.31-43, 2012-09-28

現在「苔寺」という愛称で広く知られている西芳寺は、一三三九年以降、臨済宗僧侶で造園を得意とした夢窓疎石(一二七五―一三五一)によって再興され、浄土宗寺院から禅寺へと改められた。従来の研究では、苔や滝石組が造園史家などに注目されてきたが、中世の文献を詳しく見れば、夢窓による修復と改宗以降の西芳寺庭園の特徴は別のところにあったようである。滝石組は江戸時代の資料で初めて確認できるものであり、高橋桃子が指摘したように、中世の西芳寺では、清冽な池での舟遊び、紅葉狩、花見などの行楽が、天皇家や公家、武家、僧侶の訪問によってなされていたのである。本稿では、「桜」を西芳寺の焦点として取り上げつつ、これまで見落とされてきた桜の意義、そしてその役割を仏教に関する文献をもとに明らかにする。主な資料として『西芳精舎縁起』(一四〇〇)、夢窓の歌集である『正覚国師和歌集』(一六九九)、および『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』(一三五三)を用いて検討する。『縁起』に現れる当寺の伝説を概観した上で、西芳寺で何世紀にもわたって、桜が天皇家と武家、あるいは高僧と深い関わりをもち、現場での遊戯と儀礼に聖なる面を加えていたことを明らかにする。さらに、夢窓の和歌に現れる桜には、幕府を賛美し、天皇の長寿を祈ることで、夢窓入滅以降の未来の西芳寺への希望が込められていることに注目した。また『年譜』には、桜を媒介として、西芳寺が禅宗の所定の目的地として描かれていることを明らかにした。以上の過程で、夢窓の西芳寺においては、禅宗が当寺の寺院の伝説に移植されつつ、当寺が禅宗の歴史伝説において重要な位置を得たことを論じた。
著者
須藤 真志
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.18, pp.117-136, 1998-09

本稿は一九四一年の日米交渉の失敗の原因を木村汎教授の「交渉研究所説(その一)」に依拠して、木村氏の論文の枠組を使って分析したものである。木村論文は「交渉の定義」と「交渉と文化」に大きく分けられている。交渉とは何かという分類で日米交渉を見たとき、コミュニケーション・ギャップとパーセプション・ギャップがあったことがはっきりした。また、文化との関係ではアメリカの合理主義と日本の非合理主義の違いが明確となった。また日本は大東亜共栄圏をグランド・デザインとして作る気はなかったのであるが、アメリカ側は日本が東南アジア一帯を支配するための一種のドミノ理論で解釈していた。そのための時間稼ぎとして日米交渉を見ていたのである。日米交渉は交渉学の観点からみてもかなり困難な交渉であったことが良く理解できた。交渉が失敗して戦争となってしまったのは、必ずしも両国の交渉者の力不足であったとばかりとは言えないことを交渉学は教えている。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.13-72, 2010-03-31

本稿において、茶の湯の家元である千家の血脈をめぐる論争を材料として、家元システムの現代的展開について考察する。
著者
木下 千花
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
新領域・次世代の日本研究
巻号頁・発行日
pp.47-65, 2016-11-30

新領域・次世代の日本研究, 京都, 2014年11月11日-13日
著者
三谷 憲正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.91-110, 2003-03

朝鮮王朝末期の王妃「閔妃」は韓国および日本を通じ、これまで多くの資料と作品の中で語られてきた。が、現在一般的に流布している「閔妃」の写真から喚起される<像>をもってしてそれらの資料と作品を読んでいいのだろうか、という疑問がつきまとう。なぜなら、従来「閔妃」の写真、と言われて来たものは、実は別人のものである可能性が高いからである。これまで流布してきた「閔妃の写真」と言われるものは、もともと、「宮中の女官」あるいはそれに準ずる女性を撮ったものだったのではないか、と推測できる。実際不思議なことではあるが、戦前の「閔妃」に言及している日本語文献の資料は「閔妃」の写真は出て来ない。したがって、戦前までの文学作品を含む文献に登場してくる「閔妃」に関しては、現在流布している"閔妃の写真"をもとに<現在の視点>からそのイメージを喚起することはできない、ということが言えるのではなかろうか。
著者
多田 伊織
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.41, pp.373-411, 2010-03-31

丹波康頼が永観二(九八四)年に撰進した『医心方』三十巻は、当時日本に伝わっていた中国・朝鮮やインド起源の医書や日本の処方を集大成した、現存する日本最古の医学全書である。最善本は院政期の写本が中心となっている国宝半井家本であるが、幕末に幕府の医学館が翻刻するまで、ほとんど世に出なかった。その後も文化庁が買い上げる昭和五七(一九八二)年まで秘蔵されていた。『医心方』所引の先行医学書を、馬継興「『医心方』中的古医学文献初探(『撰進一千年記念 医心方』医心方一千年記念会 一九八六)は二百四種、一万八八一条と数える。その内、仏教関係の典籍は計十五もしくは十六種あるが、南朝の劉宋・南斉間の僧侶釈僧深の撰述した散逸医書『僧深方』は、『医心方』に多く引用されるだけでなく、『医心方』も引用する唐・王燾(六七〇?~七五五)『外台秘要方』に相当数採録されるなど唐代に重視されていた。『医心方』では直接引用二百・間接引用十九の計二一九条、『外台秘要方』では直接引用三二五・間接引用一三二の計四五八条を認め、重複を除いても、『僧深方』のまとまった輯佚が可能である。『僧深方』は、『隋書』経籍誌以降、書目に著録され、藤原佐世(八四七~八九七)『日本国見在書目録』医方家には「方集廿九巻 釈僧深撰」とあり、日本にも伝来していた。『僧深方』の構成は出典の巻次を明記する『外台秘要方』から一部復元できる。髄唐までに成立したおもな中国医書は、北宋において校正医書局の手で再編集され(宋改)ており、遣唐使などが将来した古鈔本に基づく『医心方』所引の文献は、宋改以前の本来の体裁を保つ点で貴重である。本稿では、『僧深方』輯佚の第一段階として『医心方』から『僧深方』を輯佚し、失われた『僧深方』がいかなる医学書であり、仏教東漸において、仏教医学がどのような役割を担ったかの一端を明らかにする。
著者
倉本 一宏
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2021-04-01

平安時代の漢文日記である古記録の中で、宇多・醍醐・村上という三人の天皇によって記録された、三代御記(三代天皇御記)について、他書に引用されて残された逸文の史料的価値を検討する。そして三代御記の逸文である可能性があるものについて、精確な本文を確定し、その訓読文を作成して、テキスト・データベースとしてアーカイブス化することによって、内外の研究者・国民の利用における便宜をはかる。後世、「延喜天暦の治」と賞讃されたこの時期において、三代御記は政事・儀式の慣例典故を徴すべきものとして特に尊重された。本研究は、その価値を甦らせ、正しい平安時代認識を導こうとするものである。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。
著者
田代 慶一郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.227-259, 2006-03

『弱法師』は能の五流で現行の曲であって上演も稀ではなく、演者に人を得れば、素晴らしい舞台として輝くこともある。『弱法師』は世阿弥の伝書『五音』によって観世元雅の作であることが知られている。ところが、一九四一年元雅原作の形を伝える「世阿弥自筆本」が発見されたが、それによると、現行のものと元雅の原作とは可成りの違いがあることが分かった。こうして『弱法師』と名乗る能が二つ併存することになった。弱法師はもと高安通俊の嫡男俊徳丸であったが、継母の讒言によって、家を追放された。彼は悲しみのあまり盲目となり、今は乞食となって天王寺の傍らで、芸人として暮らしている。悲惨とも言える境遇にありながら、この青年に不思議な明るさがあるのは、盲目となることによって得た詩的想像力が彼にはあるからである。この盲目の詩人による詩的飛翔こそが『弱法師』という曲の魅力であって、このことは元雅原作においてもまた現行曲においても変わるところはない。現行曲は類型的な親子再会の能という構成を持ち、登場人物もその親と子の二人だけである。曲全体が単純化された結果、清澄な悟りの境地にいる孤独な青年の姿を浮き彫りにすることになった。それだけ詩的に純化されたということもできる。これに対して、「世阿弥自筆本」には俊徳丸の妻や天王寺の僧侶が登場し、それとともに天王寺の彼岸会に寄り集う群衆のにぎわいも漂っている。それだけに、この参詣人を相手に芸人として活躍する弱法師の姿もより明確な輪郭を持つ。妻の存在や芸人としての職業のような、弱法師の生活を支える現実的な背景が書き込まれているところに原作の第一の特色がある。第二の違いは劇構造に関するもので、「世阿弥自筆本」でも最後は親子の再会によって終るのだが、この場面に至るまでは高安通俊は正体不明の人物であり、俊徳丸の方もただ弱法師と名乗る乞食であって、再会の場において初めて俊徳丸であることが明らかになる、という構造になっている。元雅の原作は、最後の場面において主人公弱法師を万人周知の「俊徳丸伝説」に引き渡すことによって観客を驚かせる、そういう意外性の劇作法によって作られている。しかし、このサプライズのドラマトゥルギーは、所詮一回限りのものであって、仮に初演で成功を収めたにしても、再演は難しい。そこに元雅原作の『弱法師』が創演後、三年後のただ一回の上演記録を残しただけで、消息を絶ってしまった理由があるように思われる。それから百五十年から二百年にわたる沈黙を経て、「室町末期筆無章句本」と呼ばれる写本が現れるが、ここには既に妻の存在は無く、高安通俊の名ノリが天王寺僧侶の名ノリの前に来るダブル名ノリの形で曲は始まっている。『弱法師』が公式の場で上演されるようになったのは徳川中期、綱吉の頃とされるが、その時には天王寺の僧侶も抹殺され、既に親子二人の形になっていた。現行五流の『弱法師』はこの時上演された形を源流としている。この論文の主旨は、今や歴史の霞の彼方に隠れてあまり興味を持たれることのない元雅原作『弱法師』を、「世阿弥自筆本」というテキストを通じて、読解し解明せんとしたところにある。
著者
井上 章一 森岡 正博
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.p97-106, 1990-03

「売春はなぜいけないんですか?」「身体を売るのはよくないんです。」「でも、我々は頭を売って生活していますよ。頭なら売っていいんですか?」「臓器移植って知ってますか。臓器移植は、無償の提供を原則として運営されます。臓器売買は、決して許されません。従って、売春も許されないのです。」「むちゃくちゃな話やなあ。」「いや、これは、現代社会における身体の交換と贈与に関する、重大な問題系なのです。売春と臓器移植というポレミックな問題を、こんなふうに結合させて論じたのは、我々が世界ではじめてでしょう。」「当たり前や。こんなアホな話、学問的に突き詰めるなんて、ふつうやりませんって。」
著者
池田 菜採子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.101-135, 2016-03

アメリカの構造主義言語学者バーナード・ブロック(Bernard Bloch)作成のSpoken Japanese(以下、SJと略す)は、日本語教育関係者のごく一部に知られているに過ぎず、太平洋戦争後の日本語教育に、どのような影響を与えてきたかということは評価がなされないまま今日に至っている。 SJは、アメリカの対日戦略の一つとして作成された。話し言葉の習得を目的とした教科書で、軍人教育に使われた。最初に出版されたのは、1945年のArmed Edition版であるが、同じ年にPublic Edition版、1972年に復刻版が出版されている。Armed Edition版、Public Edition版にはレコードが付いており、復刻版にはカセットテープが付いていた。2015年10月現在、そのテープが全巻揃っているのは、国内では国際日本文化研究センター(以下、日文研と略す)だけである。 今回、調査の結果、SJの復刻版に付いているカセットテープに収録されている音声は、1945年に最初に出版されたArmed Edition版に付いていた12インチのSPレコード24枚に収録されている音声と全く同一のものである可能性が高まった。日文研所蔵のカセットテープは、日本語教育史を考える上で、また当時の日本語の音声を知る上でも、極めて貴重な音声データである。 本稿ではこの音声データをもとに、SJのレコードがどのような目的で、どう使用されることを意図して作成されたのか考察した。また、レコード収録を行った日系人インフォーマントの話す日本語の特徴を検討した。その過程で、ブロックのインフォーマントの一人として、SJ作成に尽力した日系人、羽根幹三(Mikizo Hane)の経歴について新たな知見を得ることができた。さらに、レコードの収録内容について、昭和初期に日本で作成された日本語教育レコードとの比較検討を行った。 以上の考察を通じて、SJと、そのレコードを作成した言語学者バーナード・ブロックの日本語教育上の業績を明らかにすることに本稿の意義は認められると考える。
著者
イノウエ チャールズ シロー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.34, pp.13-49, 2007-03-31

近代意識は、figuralityの制御によって発展してきた。Figuralityというのは、書記素の表現力である。そして、書記素は、記号の持つ目に見える物質的記号の要素だ。したがって、近代意識は物質的な目に見えるものの表現力を抑えること、つまり、目に見えない非物質的な音素の表現力を生かすことによって展開してきた。本稿は、およそ一七世紀の初めから一九七〇年までの間に起こった三つの記号上の傾向をまず指摘する。それは、(1)音声中心主義、(2)写実主義、(3)象徴的な枠を造る傾向である。この三つが、近代において支配的だった「近代小説」という形で合流してきた。近代小説に口語的、描写的、心理的な要素があるのは、このような傾向があったからである。あの時代になぜ小説がそれほど人気を集めたのか、また一九世紀の終わりごろになぜ挿絵とテキストが分裂したのかがこれで説明できるであろう。この三つの傾向の共通点は、書記素の制御である。物質的で、目に見える物の表現力を抑える必要があったのは、書記素には、近代人の各々の理解の相違を明らかにしてしまうところがあったからである。近代という時代に、理解の相違を明白にすることは甚だ好ましくなかった。なぜなら、近代社会は、「国家」や「帝国」のような(ものを正しく見るための視点や枠を与える)象徴の共通の理解の上に成り立っていたからだ。むろん、それは錯覚であったには違いないが、虚構というものがあったので、真実でないものが真実のようになることができた。つまり、その嘘を信じられる形にして、広く納得させることを可能にした。近代的技術の発展が多くのものを作り出した。例えば、写真、映画、写真印刷、テレビ等があるが、それらの出現によって、書記素が抑え切れなくなってきた。その結果として、近代意識がだんだん弱くなってきた。おそらく、そのようなものを発明する必然性は、人間が記号の持つ可能性に応じることにあろう。新しい記号が持つ可能性に気づき、それを今までの記号的形成に取り入れようと努力する。つまり、記号の変身は、文化を発展させる基本的なエネルギーであろう。ポスト近代である今の時代は、figuralityがもう一度支配的になってきている。今は、歪みは歪みとして現れてもよくなってきた。歪みはもはや仮面を付けて出る必要がないし、我々の理解の相違が、一致して出る必要もなくなったのである。
著者
マッケルウェイ マシュー P.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.27, pp.57-70, 2003-03-31

「三条本洛中洛外図」は、現存する最古の洛中洛外図屏風であるために、日本美術史上、重要な位置を占めている。記録上では、洛中洛外図が初見されるおよそ二、三十年後の一五三〇年代から四〇年代までに制作されたと思われる。しかし、制作年代と作者の問題も含めて、三条本に関する多くの問題は未だ解明されていないのが現状である。小論は、本図の制作年代と発注者を断定するよりも、そこに描かれた公家や武家などの邸宅を分析し、それらの特殊な組み合わせ方が伝えてくれる手がかりを探し出すことによって、見えてくる人脈の有り様を通して本屏風の意図するものを解釈し、秘められたメッセージに光を当てようとする試みである。三条本の作者が、ある程度、足利家や細川家とその家臣について、絵の構図の中で強調していることは、以前から注目されていたことである。ただ、本図が制作された可能性が強い数十年間が、足利幕府とそれを支える細川管領家が深刻な危機に陥っていた時期でもあったこと、また、その事実が本図の制作にどのような意味をもたらしているかについては、従来からほとんど言及されていない。そもそもなぜ本図は、当時の政治的現実を否定するかのように、理想化された平和なイメージで都を描こうとしたのか。作者は、この図を通して当時の人々に、足利家を支える(サポートする)イメージを与えるための重要な方法として、建物のネットワークを描き出すことにより、足利将軍と結ぶ政治的あるいは家族的な絆を強調しようとしたのではないか。幕府の有力な官吏であった畠山家や伊勢家などの屋敷はこの絵には描かれていないものの、近衛、二条、三条西といった公家の邸宅の存在が、将軍家の地位と朝廷との関係を示唆する。同様に、宝鏡寺と曇華院といった尼僧寺院は、これら比丘尼御所と足利家との親戚関係をも見る者に訴えるのである。最後に小論は、三条西家と三条家に焦点を合わせ、本屏風の制作が、左大臣三条実香の娘と足利義晴との婚姻に何らかの関係があったと推理する。