著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.302(21)-279(44), 2003

江戸時代には、『徒然草』の著者である兼好が、晩年を伊賀国種生で過ごし、そこで没したとする説が流布していた。この説を反映して、種生という地名を題名にした『種生伝』という兼好の伝記が書かれた。また、伊賀国地誌には、兼好の墓のことが記載され、そこには種々の兼好伝の記事も載せられている。江戸時代には、伊賀国にある兼好の墳墓とされる塚が文学的な名所となっていたのである。芭蕉の弟子の服部土芳もここを訪れている。さらに近代になってからも、伊賀種生の兼好の旧跡を訪ねる人々は「種生探訪」とも言うべき、訪問記を書いているし、地元でも兼好の旧跡が顕彰された。本稿では、種生の兼好旧跡を実地に調査し、地元資料も踏まえて、近世から現代にいたるまでの、種生における兼好終焉伝説とその展開を概観し、次の四点から考察した。第一に、種生常楽寺に現存する『兼好上人略伝』の紹介と、近世兼好伝におけるこの作品の位置づけについて。第二に、『標柱伊賀名所記』に書かれた兼好関係資料について。第三に、服部土芳における兼好と『徒然草』への関心について。第四に、種生を訪れた人々の探訪記と地元での兼好顕彰について。以上の考察を通して、文学作品としての『徒然草』だけでなく、著者である兼好への関心も近世から現代にいたるまで、一貫してかなりたかかったことが明らかになるであろう