- 著者
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相沢 毅彦
- 出版者
- 日本文学協会
- 雑誌
- 日本文学 (ISSN:03869903)
- 巻号頁・発行日
- vol.65, no.4, pp.25-36, 2016-04-10 (Released:2021-04-30)
「羅生門」は「下人の行方は、誰も知らない」という末尾の一文の〈謎〉を介して、そこから折り返し、私たちの「世界観認識」を問う〈近代小説〉となっている。そこで浮かび上がってくるのは、「私たちが捉えようとしている〈対象〉」とは〈自己によって捉えられた対象〉と《自己によっては捉えられない対象そのもの》という二重化されたものであるということである。その問題は、既に田中実氏が「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」(『小説の力――新しい作品論のために』所収、一九九六年二月、大修館書店)で指摘したように、そこに《捉えられないもの》が含まれるという意味で「認識の闇」が生じるということであり、あるいはまた、私たちはどのように〈対象〉(世界)を捉え、〈対象〉について語るのか、といった事柄が含まれていることを示している。そもそも「羅生門」を含む〈近代小説〉とは「世界観認識」、すなわち私たちにとっての世界の見え方や現れ方、また存在の仕方等が問題とされているのであり、その問題の射程は、〈自己〉の把握の仕方から「神々の闘争」といった事柄にまで及ぶものである。そのため、〈近代小説〉を考えることは、〈現在〉においても極めて差し迫った問題であり、その〈価値〉が問われ続けなければならないと考える。