著者
高橋 重美
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.6, pp.27-37, 1998-06-10 (Released:2017-08-01)

明治二十年代、習作期の樋口一葉は師である半井桃水から「女装文体」(関礼子)の習得を求められた。それは明確にジェンダーを反映した「虚構のコード」であり、一葉はそのコードによって<読まれる>ことを意識した上で、自らの言語表現を組み立てていかねばならなかった。一方明治末期から大正にかけて、平塚らいてうは『青鞜』誌上で、自身を<読む>主体と位置付け、あらかじめコードを共有する読者のみに語りかける言語表現を展開してゆく。その営みは新たなコードによる共同体を形成したが、同時に異なるコード=他者を不可避的に排除するものでもあった。本論では、この一葉とらいてうを繋ぐ言説変化を仮説として設定し、それを補助線に「煤煙」の朋子の発話及び手紙の言説を分析する。そこには<読まれる>ことに発する戦略と、<読む>主体性との錯綜した関係が凝縮されている。
著者
岩佐 壯四郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.11, pp.47-59, 1996-11-10 (Released:2017-08-01)

いわゆる<雅号>は、志賀直哉・谷崎潤一郎など<本名>を署名する文学者の登場した一九一〇年代以降次第に姿を消していった。<雅号>は、いずれは近代における文学という制度の負の領域に追いやられるべき運命にあったといっていいかもしれない。だがそれを、近代文学史の一つのエピソードとして片付けてしまっていいのだろうか。それは逆に、近代文学という制度の性格を照らしだしていはしないだろうか。
著者
楜沢 健
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.11, pp.62-71, 2003-11-10 (Released:2017-08-01)

一九四〇年代は俳句の時代であった。戦争とともに膨張拡大する日本の植民地・軍占領地には、あらゆる階層の俳人が散らばっていった。しかし俳句にとって「外地」は伝統的な季題・歳時記が通用しない世界であった。「四季」とは、「歳時記」とは、「花鳥諷詠」とは何か。「季」の制度の"空白"から、このような問いが、伝統俳句・新興俳句・プロレタリア俳句それぞれの中から生まれた。本論ではプロレタリア俳人栗林一石路『生活俳句論』『俳句芸術論』を手がかりに、戦争と植民地主義の矛盾を体現していた俳句の一九四〇年代を辿ってみた。
著者
濱中 修
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.7, pp.13-23, 1992-07-10 (Released:2017-08-01)

童子の境界的存在としての姿を室町物語の絵画と文章を通して具体的に見ていきたい。童子にとって笛は近しい楽器であるが、その奏される場が山・峠・鬼国などであるのは童子の境界的性格を考える上で興味深い。更に彼等は境界的世界を漂泊するべく運命づけられている如くであるが、そこで境界的人間、中でも非人などと濃厚な交わりを持っていることの意味は重い。神話的物語より出発して、やがて社会的な視点・意識を明瞭に獲得していったものと思われる。中世後期から近世初期にかけての庶民文学の貴重なる達成であろう。
著者
白戸 満喜子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.10, pp.42-50, 1997-10-10 (Released:2017-08-01)

二代目松林伯円が口演した講談『安政三組盃』に登場する津の国屋お染は、漂流という偶然によってではあるが、日本開国以前の安政六年に女性で初めてハワイの地を踏んだとされ、このことは事実として語られている。しかし、お染が描かれたとされる浮世絵の版行年と伯円講述の『安政三組盃』の粗筋を照合すると、お染漂流の事実には矛盾が生じる。お染という女性は明治の寄席芸が創り上げた架空の存在であると推定されるのである。
著者
相沢 毅彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.25-36, 2016-04-10 (Released:2021-04-30)

「羅生門」は「下人の行方は、誰も知らない」という末尾の一文の〈謎〉を介して、そこから折り返し、私たちの「世界観認識」を問う〈近代小説〉となっている。そこで浮かび上がってくるのは、「私たちが捉えようとしている〈対象〉」とは〈自己によって捉えられた対象〉と《自己によっては捉えられない対象そのもの》という二重化されたものであるということである。その問題は、既に田中実氏が「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」(『小説の力――新しい作品論のために』所収、一九九六年二月、大修館書店)で指摘したように、そこに《捉えられないもの》が含まれるという意味で「認識の闇」が生じるということであり、あるいはまた、私たちはどのように〈対象〉(世界)を捉え、〈対象〉について語るのか、といった事柄が含まれていることを示している。そもそも「羅生門」を含む〈近代小説〉とは「世界観認識」、すなわち私たちにとっての世界の見え方や現れ方、また存在の仕方等が問題とされているのであり、その問題の射程は、〈自己〉の把握の仕方から「神々の闘争」といった事柄にまで及ぶものである。そのため、〈近代小説〉を考えることは、〈現在〉においても極めて差し迫った問題であり、その〈価値〉が問われ続けなければならないと考える。
著者
安田 徳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.7, pp.53-61, 2007-07-10 (Released:2017-08-01)

『伊勢物語』は、中世注釈書の理解を基盤に中世芸能に取り込まれ、多数の作品を生み出したが、近世に至ってもその傾向は衰えず、浄瑠璃や歌舞伎でも草創期から多数の『伊勢物語』摂取の作品がある。やはり注釈書の理解を基盤としているが、中世の能が叙情を主眼とするのに対して、歌舞伎・浄瑠璃は叙事を主眼とした。そのため、『伊勢物語』に語られない出来事を付与し、歴史的事件の中に『伊勢物語』を位置づけ、加えて近世的封建社会に相応しい解釈を施し、歴史の複雑な背景として読み解いてみせた。
著者
繁田 信一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.2-11, 2005-01-10 (Released:2017-08-01)

王朝時代の人々にとって、呪詛は他人の生命を奪う手段であり、それゆえ、それは一種の暴力であった。しかも、それが行使されているところを眼で見ることができないという意味で、呪詛は<見えない暴力>であった。その<見えない暴力>=呪謁は、王朝貴族社会で盛んに行われ、その結果、しばしば当時の物語にも登場することになった。そこで、本稿では、王朝時代の物語が呪詛=<見えない暴力>をどのように描くかを概観した。
著者
中村 三春
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.12-22, 2017-04-10 (Released:2022-04-28)

物語世界は物語文の原因として作られ、同時に物語文は物語世界を原因として作られたものと想定される。従って物語文が物語世界の次元に対して第二次の位置づけとなる局面が考えられる。その時、物語文は自己同一的なものではなく、媒介され引用されたものと見なされる。小川洋子の「ハキリアリ」および「トランジット」を例として、語りによる媒介の局面をとらえてみる。語りこそ、言語の〈トランジット〉(乗り継ぎ)にほかならない。
著者
中丸 貴史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.9, pp.31-42, 2007-09-10 (Released:2017-08-01)

藤原師通の『後二条師通記』が漢文日記の生成を考える際に好個の資料であるとして、これまで十分に検討されてこなかった永保三年から応徳二年にいたる三年分の重複記事について中心的に考察をした。日記の本文は確定的なものではなく、常に新しい情報が書き加えられるべきものであり、『師通記』の場合、記主の早世によって偶然にも、漢文日記の生成の途中で日記が残されることとなったのである。
著者
速水 香織
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.1-13, 2007-02-10 (Released:2017-08-01)

享保三年刊『武徳鎌倉旧記』が江戸の万屋との連名板として刊行された背景には、自笑と其碩との確執があった。更に八文字屋の競合店・菊屋七郎兵衛が三都板出版に乗り出したことも影響していると考えられる。また、これら上方浮世草子出版界の動向は、元禄末年頃から活発化していた江戸と上方との取引が、この頃既に本格化していたことを示すとともに、出版規制が厳格化していた当時の江戸出版界の状況を物語るものであると言える。
著者
中村 晋吾
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.9, pp.45-54, 2012-09-10 (Released:2017-11-22)

宮澤賢治の「ビヂテリアン大祭」における、カーライルの『サーター・リサータス』から引用される「衣装」観は、他者に対して自分をどのように提示するかという規範意識だけではなく、後半の「菜食主義」の是非をめぐる論争においても、連続性にたいする分節や、「正しいこと」をなそうとする意識の問題として底流している。この作品の「衣装」観は、「菜食信者」の思想態度そのものと密接にからみあっている。
著者
山口 眞琴
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.37, no.6, pp.72-91, 1988-06-10 (Released:2017-08-01)

『撰集抄』の序にある「過忙しかた四十余年」が天台五時教判に拠るとする解釈をてこに、まず大鏡の語りや源氏物語蛍巻の物語論、中世源語古注釈の享受認識を手懸かりとして、法華経に対する<方便の諸教>に比定される撰集抄の<物語>としての位相を狂言綺語観とからめて考察し、それに連動する語り手の<愚者>の位相を語りの機能面より検討を加えながら、併せて西行仮托にちなむ<往生者>の面影との二重性という観点から作品の機構をとらえ直した。
著者
昆 隆
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.6, pp.23-32, 1985-06-10 (Released:2017-08-01)

「山月記」本文の叙述そのものから、「作品」としての、(辞書的)意義ならぬ(文脈的)意味を、読解しようとする試みである。基本線は、変身後の李徴が亡霊であること、その悲痛な独白自体が彼にとって未到の詩的達成を遂げていたこと、そして、鎮魂のあったこと、に在る。意識家李徴は変身による不幸の完成によって、無意識の裡に、感情の表現を得た-という逆説が、読み取られる。