著者
山元 隆春
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.8, pp.53-62, 2007-08-10 (Released:2017-08-01)

なぜか。「テクストと読者との相互作用過程」において読者のうちに「作品」がどのように生み出されるかということが文学教育においては重要である。それらの半分は書き手の差し出したものに、そして半分は読者の抱いているものに左右される。わたくしたちは書き手の残した記述をもとにして、そこに描かれている<表徴>を捉え、自らの読みをつくりあげる。読者であるわたくしたちが、幾たびも読み返すことによって、その捉え方は変わっていく。それはある意味でテクストの送り手を「裏切る」過程なのかもしれない。そうやってテクストの送り手を「裏切る」ことが、わたくしたちの「作品」を生み出し、読みをつくっていく営みでもある。「テクスト」はわたくしの「失いつづけたすべてのもの」を指示対象とする。そして、わたくしがわたくしのなかに構成したそれを読むということが、わたくしたちの「行くべきところ」を探る営みとなるのである。それが、須貝千里の言う、「あらゆる言葉」が「対象そのもの」との「隔絶に晒されている」事態を生き延びる道であり、一筋の「希望」であると考える。
著者
中川 成美
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.4, pp.2-15, 2011

<p>真に文学的な想像力とはどのようなものなのだろうか。文学は言語を媒介とする表現様式と認知されているが、読書行為の推移のなかで見出される非言語的なイマージュの躍動に対して、文学研究においてはこれまで「表象」化という概念に貼りつかせて、言語的行為と捉えてきた。しかし、G・ドゥルーズが指摘するように、言語を超えてイマージュそのものを身体的に感知する「精神的自動機械(automate spirituel)によって見出す「外の思考」をここで考えていくならば、非言語としての図象的想像力とは、あらゆる思考の生産のなかに発動の契機を持つであろう。そしてその中で文学によってしか存立しない想像力、「文学的想像力」としか名付け得ない領域が開かれているのではないかと考えている。</p><p>本発表ではその立場から、想像力が言語、非言語に関わらず喚起されていく経緯を現代文学作品から考察し、特に視覚性(Visuality)という身体の経験との往還によって見出される想像力が、文学のなかに基層的に封じ込められていることに言及したい。</p>
著者
久富木原 玲
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.40, no.12, pp.1-15, 1991

神功、応神神話が八十島祭という即位儀礼をモデルとして成立したことは、すでに阪下圭八、倉塚曄子によって論じられた。阪下は神功皇后像が八十島祭における巫女と乳母の姿を複合したものだと説いたが、皇后と二人三脚の形で活躍する武内大臣もまた、この祭で重要な役割を演ずる宮主を投影する。八十島祭を平安期以降の創始とする説もあるが、神功皇后、武内大臣というこの神話の主人公達の造型という視点からすれば受容し難い。
著者
藏中 しのぶ
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.31-39, 2011

<p>唐代口語語彙は、律令・仏教・文学という学問の講説の場で、最新の唐代の学問を継承し、中国語話者をふくむ講師によって口頭で講じられ、講義録として私記類に記録され、さらにそれらが類聚編纂されて古辞書・古注釈類をはじめとする後世の文献に定着した。</p><p>講説の場として、律令学の大安寺における「僧尼令」講説、仏教学の唐僧思託による漢語を用いた戒律経典の講説、文学の『遊仙窟』講説という三分野の学問の場をとりあげ、その担い手が律令官人・在俗仏教徒・文人という性格を兼ね備え、彼らが学問としての講説の場で唐代口語という異言語を共有していた状況をあきらかにした。</p><p>講説の場では、養老年間以前に成立した会話辞書・口語辞書『楊氏漢語抄』『弁色立成』等が工具書として共通して使用されていた可能性を指摘し、律令学・仏教学・文学の諸分野が交錯する多言語・多言語状況を論じた。</p>
著者
鳥居 明雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.38, no.6, pp.30-40, 1989

流離と場所愛(トポフィリア)のトポスである河原院の造営と伝領に関して、源融と宇多院との間に交わされる葛藤は、王権イデオロギーをめぐる怪異譚として説話化されている。この王朝期の融伝説を中世期において受容し、あらだな展開相を拓いたのが世阿弥作の「融」であった。「融」は、河原院を媒介として美的規範を占有しようとする足利義満の要請を底流にして、義満に奉仕する世阿弥の猿楽芸能者としての立場を明らかにするものである。
著者
藤原 和好
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.8, pp.11-19, 2007

感動は教育できない、教えられないということは、まったく当然のこととして、圧倒的多数の教師・研究者に信じられている。そういう信念の背後には、教育とは計画的な営みで、その結果は評価可能なものでなければならないという教育観・学力観がある。そして、さらに、感情は不可知のもので、科学的分析の対象にならないという認識がある。それが文学教育否定の根拠となっている。しかし、はたしてそういう前提は正しいのか。揺るぎないものなのか。
著者
城殿 智行
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.11, pp.48-56, 2006-11-10 (Released:2017-08-01)

特集タイトルには<戦後>空間とあるが、本論ではそれをまず、思考の様式を示す<戦後>という抽象と、日本がたどった歴史的・政治的な経緯を含意する「空間」という隠喩に分節する。次いで、近年では支配的な思考様式となった「言説分析」のあり方を、ミシェル・フーコーの思考と対比させることによって、批判的に再検討する。以上の分析を経た上で、三島由紀夫や中上健次といった<戦後>作家が、何をどのように考えて創作したのかが論じられる。
著者
内海 紀子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.6, pp.54-65, 2004

「私の象徴詩論」は、大手祐次の詩法を解き明かす重要なテクストである。祐次はAdolphe van Bever et Paul Leautaud; Poetes d'Aujourd'huiからマラルメやメーテルリンクの詩論を引用し、言葉を意味作用から解放する独自の詩法をつくりあげた。<象徴とは何か>という問題を言語の機能において捉えた祐次は、象徴主義からヴァレリーの純粋詩へ継承された<言語の音楽化>にも通底する、先駆的で卓越したレベルの象徴詩観を持っていた。
著者
東 典幸
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.43-50, 1997-02-10

口語自由詩の形成に決定的な役割を演じた人魚詩社の詩人の作品には共通して宗教的な主題が扱われている。そのうち、山村暮鳥と萩原朔太郎、特に前者は聖公会の伝道師であっただけに作品の宗教性をキリスト教の文脈で解釈されることが多かった。だが、二人の詩には仏教的な発想の影響が見られることを見逃すべきでない。このことを「魚」「罪」「懺悔」等のイメージを聖書や仏典と比較し分析することによって検証した。
著者
飯田 祐子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.45, no.1, pp.27-37, 1996-01

『煤煙』(森田草平)と『峠』(平塚らいてう)の二作品をとりあげ、誤読という行為の遂行されるされ方について考察する。前者における「誤読」は同時代の文学の地位の再編および読者共同体の均質化にからむ「読む」ことの前景化と繋がっている。同時に読まれることが無視されており、解釈ゲームから最も遠い「誤読」となっている。一方、その共同体に同一化しない態度をみせる後者における「誤読」は解釈ゲームとして現れている。誤読行為が遂行される際の二つの形態について述べ、その歴史的意味を問うた。
著者
原水 民樹
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.7, pp.2-12, 2009

最初に、従来の作者伝を振り返り、ついで、物語が採り込んだ説話・伝承の生成・管理圏に関する研究史を展望し、その後、為朝英雄化・崇徳院鎮魂の視点から検討した。結果として、生成の場としては、半井本の場合、怨霊に戦いた記憶が比較的純粋に保たれている環境、金刀本の場合、崇徳院の悲境を詠嘆的に捉える立場、及び足利氏為朝後裔説と通底する土壌が想定されることを述べた。さらに、異本普及の度合いが、時代の要請の反映度と係わるのではないかということを考えた。
著者
土方 洋一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.30-37, 2007

伊勢の斎宮寮において在原業平と斎宮とが密通したという伝承は、もともと創作された話であり、フィクションであることを前提として記憶されていたと考えられるが、時代が下ると、一部においてこの出来事が事実として取りなされ、二人の間に産まれた男子が高階氏の嗣子となったという伝承を派生させることになる。高階氏の血筋に関わるこの伝承は、従来藤原行成の日記『権記』に初出すると考えられていたが、『権記』の問題の記事は後時に加筆されたものであり、この風聞自体はおそらく白河院政期頃に発生したものではないかと考える。この高階氏にまつわる伝承は、一つの伝承から新たな風聞が派生することの例として、また成立の事情と年代が異なる伝承が、文献の上では平準化され、その地層の違いが見えにくくなる例として、風聞の発生とその伝承の過程を考える上で興味深い問題を提示している。
著者
榊原 千鶴
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.3, pp.52-56, 2000-03-10
著者
竹盛 天雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.142-156, 1957-02-01
著者
相馬 庸郎
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.1, pp.46-55, 1992-01-10

戦後日本の演劇史上に独自の位置を占める秋元松代の戯曲「常陸坊海尊」は、秋元が柳田国男の民俗学とめぐりあうことによって、その創作が可能になったものである。秋元は、柳田によって知らされた海尊伝説という民間伝承の持つ意味と、戦中戦後の学童疎開や人間における「性」の呪縛という現代的な問題とを縦横にからませ、独自で深い演劇空間を作りあげた。それは、当時の秋元のとらえられていた深い苦悩にカタルシスをもたらすと共に、その後の秋元の歩みを決定づけるものとなった。
著者
伊豆 利彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.52, no.11, pp.1-10, 2003-11-10

「得能五郎の生活と意見」は、ドイツがフランスに侵入し、やがてパリが陥落する激動の時代に、現実におびえ、未来に不安を感じ、小市民的幸福にしがみつく小心な一知識人の〈現在〉を記録した。この現実の前に、これまでの思想と文学はまったく無力で空虚なものに思われた。今ではまったく自明に思われる歴史的な展望がないままに、ひたすら自己を見うしなって歴史の大波に押し流されていく知識人が、いかにして自己を回復し、文学の可能性を見出すか。この作品はいま、発表当時、また戦争直後とはちがった意味をもってよみがえってくる。