著者
瀬崎 圭二
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.11, pp.35-44, 2004

明治三七年一月五日の「大阪朝日新聞」に掲載された第一回目の「天声人語」は、前年一二月の勅語奉答文事件に代表されるような対露強硬論の高まりの中でその名と記述を形成している。当時の「大阪朝日」の紙面では数少ない言文一致体と、それによって記される、書き手の責任を回避するような信憑性の希薄な情報によって、対露強硬論は展開されたのである。「天声人語」はそのような形で連載をスタートしたが、現在のそれは、結末に対する期待を予め孕んだ記述の束ではないという点において、もはや連載ではなく<場>として認識されていると言えよう。
著者
木村 幸雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.28, no.2, pp.85-88, 1979-02-10
著者
高田 衛
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.37, no.8, pp.1-8, 1988-08-10

十八世紀、「江戸戯作」と称される文芸(小説)が成立していった過程で、科学者平賀源内の『根南志具佐』ほど、この文学ジャンルの性格と形成を決定づけた作品はなかった。だが、滑稽と笑いを喚起し、大きな虚構によって都市江戸の生態を活写し、江戸の文学の流れを変えたこの作品について、現在いまだにすぐれた作品論は存在していない。本論文では、『根南志具佐』の作品論へ向けて、その前段階として、大田南畝の『根南志具佐』批評を引用し、分析しつつ、この作品が<江戸>のスキャンダラスな悪場所(バッドシティホリゾン)つまり芝居町=男色者たちの世界の、実際の生態と深くかかおり、そのスキャンダラスな世界(ホリゾン)を逆手にとって、ちょうど遠目鏡で地獄をのぞくように、遠近法を充分に駆使して、コトバで「江戸」をカリカチュアにし、また滑稽なミニチュアにして、読者の前に提供した初めての作品であったことを、豊富なエピソード(悪場所の)を並記して、証明した。そして、「戯作」という文学ジャンルが、じつは文学ジャンルである前に、文学の新しい方法であり、地上的人間世間(シャバ)の全体性を、明快に相対的に描き出す「志」(こころざし)(自立し、他からの妨害を排除し、自由な精神の確立を目的とする作者のつよい意志)に根ざす、笑いを武器とした創造的な文学であることを証明した。従来の学問における固定的な「戯作」観念(余技的な遊び)は、改められなければならない。
著者
吉野 樹紀
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.34, no.3, pp.1-14, 1985-03-10

古今的な和歌は仮名で「書く」ことによって多義的なものを自覚的に方法化したものである。いうまでもなく、書かれたものは前と後が有機的に関連するという特性を持つ。ここに至って、和歌は三十一文字というひとまとまりの言葉の全体の中で、掛詞や縁語といった範列的に構成された喩的な言葉を響きあわせることによって多義的な表現を作り出し、前後をとらえかえしながらイメージを湊合化する方法を確立した。これは、言葉の時間的な流れを破壊して、上と下とを響きあわせるという異化作用に他ならない。いいかえれば、和歌の内部における言葉の対話性が古今的な表現の特質なのである。
著者
砂川 博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.44, no.6, pp.25-35, 1995-06-10

延慶本の文覚発心譚に見える文覚(盛遠)像に中世律僧のイメージが揺曳し、また、渡辺橋や東山の上人の庵室、四天王寺などがそれぞれ物語の展開上重要な意味もち、併せて東山の上人が狂言まわし的な役割をもつのは、作者が大和西大寺系の勧進聖や彼らの活動の場を重ね合わせながら物語を構想・趣向したためではなかろうか。
著者
砂川 博
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.36, no.12, pp.39-48, 1987-12-10

戒律振興・殺生禁断を主張する中世律僧が、旺盛な勧進活動を基礎として、非人救済・作道・架橋・造寺造塔・顕密寺院の再建に当ったことは周知の事実である。彼ら中世律僧は、聖霊回向・追善を事とする僧衆と、遺骸の埋葬に従う三昧聖としての八斎戒衆の二つの階層に分かれていた。一方、八斎戒衆は中世律宗寺院の勧進活動の担い手でもあった。勧進聖でもあった八斎戒衆が、一紙半銭の喜捨を衆庶に仰ぐ際、勧進にまつわる或る種の語りを行ったであろうことは容易く想像される。本稿は、『太平記』の成立基盤の一郭に、大和西大寺流の律僧、具体的には般若寺の八斎戒衆の語りの存したことを摘出するものである
著者
橋本 寛之
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, 1967-01-01

1 0 0 0 OA 『蘆刈』余影

著者
塩崎 文雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.12, pp.48-61, 1992-12-10

『蘆刈』は谷崎潤一郎と根津松子の恋のゆくたてとその昂りを契機とする<女性崇拝>の物語として読まれてきた。あるいは『吉野葛』『少将滋幹の母』『夢の浮橋』等に貫く<母性憧憬>の水脈の一つとして位置づけられてもきた。さらには大和物語・増鏡・遊女記・江口・撰集抄等の借用された古典の吟味を経て、夢幻能的な世界に収斂されてゆく技法が評価されてきた。それに対して本稿は、<くにざかひ>からのまなざし、仮設された<十五夜>、作品の年立て、淀川河川改修史、巨椋池干拓史、京摂間諸川通航史、橋本遊廓沿革史の諸視角から、『蘆刈』に補注を施してみた。その際、作者の意図に添ったことがらも、必ずしもそうでないことがらもひとしなみに取り上げた。作品が書かれた<一九三二年現在>の京・大阪間の境界領域に『蘆刈』を浮べ、『蘆刈』の読みの可能性を励起してみようとの意図による。
著者
鈴木 健一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.39, no.10, pp.20-28, 1990-10-10

従来の和歌研究史の上で比較的閑却に付されていたかに見える近世の天皇や公家ら堂上歌人たちも、伝統的な歌道を尊しとしてはいたが、彼らなりの新しさへの創造への努力と熱意を持っていた。後水尾院の和歌添削方法を検討すると、詞続きの良さと道理の通じ易さに力を注ぎ、三十一字を一体化させながら、言葉に対する様々な工夫もなされている事がみてとれる。近世堂上歌壇の中心的存在であった後水尾院の力量に我々はもっと目を向けるべきではないだろうか。
著者
佐藤 嗣男
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.39, no.12, pp.47-55, 1990-12-10

習作時代の井伏鱒二の作品の中に隠岐の島を舞台とした『幻のさゝやき』がある。『幻のさゝやき』は一途に生きる田舎の少女と都会から来た少女との間に交わされる<人間の愛の言葉>と<人間愛>の美しさが讃歌されている。この作品は<愛の言葉>を謳ったAnton TchehovのA JOKEを下敷としている。絶望と紙一重のところで人生を正しく生きようとする井伏文学の底流にTchehovの摂取があったことを物語る一つの証左である。
著者
古守 やす子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.2-11, 2014

<p>本作品は、「現在」北京で文筆活動を行う「私」(=〈語り手〉)が、清朝末期に日本に留学した時のことを語る形をとる。〈語り手〉は「現在」、「正人君子」と戦っており、〈語り手〉が語る相手、すなわち〈聴き手〉の位置には「正人君子」がいるわけであるが、この作品は、その〈語り―聴く〉という空間と、さらにその外側の〈語り手を超えるもの〉と「鉄の部屋」の空間が提示される構造になっており、読者はその〈聴き手〉となる。</p><p>作品を読む際、ストーリーのみを読むのではなく、ストーリーがどう語られているかという構造を意識することによって、作品が新たな形で読者の前に現れ、迫ってくる。</p>
著者
榊原 美文
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.25, no.6, pp.66-70, 1976-06-10
著者
佐々木 亨
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.22-31, 2004-01-10

「かなよみ」新聞紙上における西南戦争以前の連載はその点数が少なく、既に完成していた原稿を数回に分けて掲載したものである。従って分載という名称の方が相応しい。戦時中は戦争に取材した連載と巷の情痴事件に取材した連載とが競うように紙面を飾り、前者が少ないとき後者が点数を増すという補完の関係にあった。全てが分載ではあるがその点数は前年を大きく凌駕し、戦報に代わる新商品として長期連載が用意されつつあった。
著者
上宇都 ゆりほ
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.48, no.3, pp.46-55, 1999-03-10

『拾玉集』に収載される建久二年閏十二月二十八日の慈円・良経贈答歌は後白河院崩御直前に交わされた。和歌の明るさは院と疎遠であった九条家の展望に加えて、病悩に伏していた任子が内裏に還啓するという慶事による。慈円はこの頃院御悩の修法を行っているが、慈円の両義的立場は暗喩という表現法をもたらし、和歌の解析を困難とする。その晦渋さは遊戯性によるものではなく、「達磨」も「新風和歌」を示す歌語ではないと考える。