著者
高橋 三郎
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.28, no.4, pp.68-79, 1978-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
38
著者
池本 淳一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.21-39, 2007-06-30
被引用文献数
1

本論は日本におけるボクシング・サブカルチャーの考察を通じて,社会変動期に生きる若者のアイデンティティ構築のための実践や戦略を描き出すものである.本論は3つのボクシングジムへの2年半にわたる参与観察と,そのメンバー38名へのインタビューに基づいている.<br>本論は以下の章から成り立つ.<br>1) 入会.この章では,初めにステレオタイプ化された「ハングリー・ファイター」のイメージを否定し,続いてジムとメディア,コミュニティ,そして他のプロフェッショナル・スポーツとの関係を明らかにする.<br>2) ジム通い.この章では,初めにジム会員に共通する性格,生活,そして生活上の問題を明らかにする.続いて,会員たちの規律的で勤勉なエートスに適合するジムのサブカルチャーを描く.<br>3) ジムでの日々.この章では,会員たちのプロボクサーとしての社会化,職業的アイデンティティ,そして肉体的および精神的成長を描いていく.<br>4) ジムを去る日.この章では,納得のいく引退条件を探ることを通して,ボクシングへの十分な「打ち込み」がメンバーに肯定的なアイデンティティを与えることを明らかにする.<br>最後に,日常生活以外の場を選択し,そこでの肯定的アイデンティティの構築を果した会員たちのサブカルチャー実践から,社会変動期における労働観・人生観の再考のためのヒントをさぐる.
著者
中河 伸俊
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.244-259, 2004-12-31
被引用文献数
1 1

社会的構築のメタファーが流布するとともに, その意味するところは多義化し, 探究の方法上の指針としてだけでなく, 批判のための一種の「イズム」として使われるようにもなっている.そうした「構築」系の "バベルの塔" 状況を整理するために, 本稿では, エンピリカル・リサーチャビリティ (経験的調査可能性) という補助線を引く.ただし, 近年では, 社会的いとなみを "エンピリカルに調べることができる" ということの意味自体が, 方法論的に問い返されている.そして従来のポジティヴィストと解釈学派の双方が批判の対象になっているが, その批判者の問にも, 調査研究の営為について, 認識論的 (そしてときには存在論的) に「折り返して」理解するアプローチと, (語用論的転回を経由した) 「折り返さないで」理解するアプローチの種差がみられる.2つの理解のコントラストは, 価値と事実の二分法の棄却問題への対応や, リフレクシヴィティという概念についての理解をみるとき鮮明になる.後者の, エスノメソドロジーに代表される「折り返さない」タイプの理解は, さまざまな領域で, エンピリカルな構築主義的探究のプログラムを組み立てるにあたって, 有効な指針を提供すると考えられる.応用や批判といった, 研究のアウトプットを「役に立てる」方途について考えるにあたっても, 思想的であるよりエンピリカルであることが重要である.そして, 活動と活動の接続として社会的いとなみを見る後者のタイプの理解は, 従来のものとは異なる, ローカルな秩序に即応した応用の試みを可能にするだろう.
著者
樽本 英樹
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.382-397, 2001-03-31

21世紀の国際社会学は, どのような課題を背負わなければならないのか.20世紀末に生じた国際移民をめぐる「諸事件」を概観してわかることは, それら「諸事件」の核心が「国民国家への挑戦」だということである.そこで, 「国民国家への挑戦」を解消すること, すなわち国民国家に代わる市民権の新たなモデルを提示することが, 国際社会学の最重要課題のひとつとなる.「国民国家への挑戦」は, 「国際移民の増加・多様化」「普遍的人権の台頭」によって引き起こされ, 国民国家は「社会統合への不安」によって擁護されていた.国民国家モデルに代わりうるものとして現在提唱されている市民権のモデルは, それぞれ国民国家モデルと抵触する点を持っている.21世紀に存立しうる市民権の新たなモデルは, 出生や血縁によって仮定された「文化」に代わる要因から, 新たな正統性を供給されなくてはならない.現在優位な要因である「居住」が正統性を供給できるか否かを考察するためには, 国際社会学的想像力の獲得が必要とされるであろう.
著者
富永 茂樹
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.282-297,362, 1993-12-30

一七九四年夏のいわゆるテルミドールの政変において、それまで絶大な権力を保持していたロベスピエールは、きわめてたやすく政敵の術中に陥り没落していったかにみえるが、このときジャコバン派の指導者は、青年期にルソーやプルタルコスの読書をとおして知り、かつ革命がはじまってからのさまざまな言説のなかで語りつづけた古代の立法者、社会に法と規範をもたらすさいに、あるいはもたらすがゆえにほとんど必然的に集団からの迫害や暴力を蒙った立法者の姿に自らを重ねて考えていた可能性が大きい.逆にこうしたリュクルゴスにはじまりルネッサンスの時代のサヴォナローラをへてロベルピエールにいたるまでの、社会のなかで広範な支持を獲得していながら突然の没落と死を迎える人間の系譜を辿ってゆくと、社会的なものの根底には暴力がひそんでいるというルネ・ジラールの命題を検証できると同時に、ウェーバーのいう「カリスマ」型の権力が指導者自身の資質や能力よりも、むしろ秩序の実現を期待する社会の危機的な状況に由来していること、さらにデュルケームが指摘するとおり革命期には「集合的沸騰」が生じるとすれば、それは暴力的な状況をとおして聖なるものを産出し社会の生命を更新する過程にほかならないことを確認できるだろう.以上のような点においてフランス革命は、とりわけテルミドールの政変という事件は、政治の宗教社会学ないし宗教の政治社会学を構築するうえで、重要な手がかりを提供してくれることになるのである.
著者
北島 義和
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.395-411, 2015 (Released:2017-03-08)
参考文献数
29

農村アクセス問題とは, レクリエーション活動のため農村地域の土地を利用する人々と, その土地の法的所有者 (おもに農民) の間の対立である. この問題をめぐって生じる, アクセスの地点ごとに対話やシステムが成立したりしなかったりする一方, 問題における不正義を明白に指摘することも難しいという事態は, 複数の主体による自然資源管理をめぐる先行研究の枠内には必ずしも収まりきらない. 本稿は, 農村アクセス問題の深刻化したアイルランドにおける山歩きを事例として, そのような状況下でのレクリエーション利用者の対処のありようを, その活動の多地点性を踏まえたかたちで分析する.現在アイルランドの2つのウォーカーの全国団体は, それぞれ正義と対話の観点から農村アクセス問題を捉え, 互いに対立している. 他方で, 実際にアクセスに問題を抱えた現場で活動する登山クラブへの調査からは, 彼らが「農民との良好な関係」という論理を用いつつ, あるべき姿の山歩きという理想を重視する観点からアクセスに対処していることが判明した. そのような実践は, 農民とできるだけ共存しつつこれまでどおりのレクリエーションをおこなっていくための作法として現場で機能しており, レクリエーションの論理それ自体に他者との共存を可能にするような志向性が内在していることを示している. また, この結論は人々の日常的実践がもつ深みに注視することの重要性を我々に教えている.
著者
右田 裕規
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.379-394, 2015 (Released:2017-03-08)
参考文献数
61

近代君主制国家の人びとは, 産業資本制と結びつきスペクタクル化した君主の祝祭をどのように眺め欲望していたか. またその視的経験は, かれらのナショナル・アイデンティティ形成とどのようにかかわりあっていたか. 本稿では, 20世紀初期の日本社会を事例にしつつ, この問いについて社会学的に応答することが目指される. つまり君主の祝祭のスペクタクル化という史的事態がネイション編成とどう関連しあっていたのかが, 同時代人たちの視覚経験から再考される.あきらかにされるのは次の2点である. 第1に, 君主のスペクタクルの見物者たちを特徴づけたのは, 祝祭の景観を刹那的かつ量的に眺め欲望する知覚様式であったこと. 第2に, 資本制に照応したこの知覚様式の拡がりから, 君主のスペクタクルを構成する表象群の ‹国民的› な意味作用が失効する事態が生成されていたことである. 本稿では, この2点をつまびらかにすることで, 君主の祝祭をスペクタクル化する経済主体の運動が君主制ナショナリズム編成に対して含んだ反作用的な契機と機制が呈示される.
著者
安達 智史
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.346-363, 2015 (Released:2017-03-08)
参考文献数
21

社会学において「知識」は, 人びとに特有のリアリティを与える社会的フレームを意味し, 宗教はその1つとして考えられている. 従来, 社会の中心的な「知識」は, 宗教的/政治的エリートにより生産され, 人びとの認識や社会関係に大きな影響を与えてきた. だが, 「情報化」のもと, 宗教的知識をめぐる環境は大きな変化の中にある. 情報化の進展は, 人びとが既存の権威から自由に宗教的知識を獲得し, また解釈することを可能にしている. 本稿の目的は, こうした環境変化の中で, 現代イギリスの若者ムスリムがどのようにイスラームの‹知識›と関わり, 社会への統合を果たしているのかを描くことにある. データは, コベントリー市における若者ムスリムへのインタビューを通じて収集され, 主題分析により検討された. 調査の中で, イスラームの‹知識›の探求を促す(親の世代と異なる)3つの環境が指摘された. 第1に, イスラームの‹知識›をめぐるインフラの充実, 第2に, 非イスラーム社会においてムスリムとして生活すること, 第3に, ムスリムをとりまく社会的プレッシャーである. このような環境の中で若者ムスリムは, より広い社会への参加のために, ‹知識›との積極的な関わりを通じて, イスラームの再解釈/再呈示をおこなっている. このことは, 若者が自身の生きる社会的文脈への適応を容易にするために, 宗教的インフラや情報のさらなる充実が求められていることを示している.
著者
戸江 哲理
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.319-337, 2016

<p>家族社会学では, 家族を構造 (であるもの) としてではなく, 実践 (するもの・見せるもの) として捉える研究の道筋が切り開かれつつある. 他方で, 家族とは何かという問いを研究者にとっての問題である以前に, 市井の人々自身にとっての問題と捉える研究も登場している. 両者が合流するところに, 人々の立場からその日々のふるまいを検討するという研究課題が生まれる. 会話分析はこの研究課題に取り組む術を提供する. そこで本稿では, 親をすることや親だということを見せることが可能になるしくみのひとつを解明する. そのために本稿は, 母親が同じ場所にいる自分の幼い子どもを「この人」と呼ぶ発言とそれをふくむやりとりを検討する. この呼びかたは, 母親が子どもを子どもとして捉えていないように思えるだろう. だが, 分析の結果, そうではないことが明らかになった. 「この人」は, 近くにいる (「この」) 人物 (「人」) であること以外に, そう呼ばれた人物についていっさいの特徴づけを行わない. それによって, 「この人」はそう呼ばれた人物をめぐる隔たりを刻印する. 母親は, 自分の子どもを「この人」と呼ぶことによって, 普通の子どもとの隔たりを刻印する. あるいはその例外性を際立たせる. 子どもを例外扱いできる人物は, その子どもをよく知っている人物である. 母親は子どもを「この人」と呼ぶことによって, 自分がそんな人物であることを打ち出せる. 子どもを「この人」と呼ぶことは母親としての特権なのである.</p>
著者
廣本 由香
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.267-284, 2016
被引用文献数
4

<p>本稿の目的は, 福島原発事故を起因とした自主避難をめぐる「不条理な選択」の問題が, 自主避難者の生活を脅かす「広義の被害」 (舩橋1999) になりうることを明らかにすることである. 本稿では, 佐賀県鳥栖市の自主避難者を事例に, 避難の選択過程における経験世界の諸相を‹ゆらぎ›という概念で記述する. ‹ゆらぎ›は, 選択過程の動揺, 葛藤, 不安, 戸惑い, ためらい, わからなさなどが混在する心理的状況や自己認識であり, その変化をさす.</p><p>政策・法制度的な「加害―被害関係」では把握できない領域を‹ゆらぎ›という概念を用いて記述することで, 原発事故による生活の被害が, 損害賠償制度で認められる領域よりも広範で深刻であるとともに, 長期にわたり生活世界に潜在化・重層化することを示す. すなわち, 生活者の生活の視座から被害を考えたとき, 自主避難の‹ゆらぎ›は生活やそれを下支えする社会関係を揺るがす「広義の被害」となりうることを実証する.</p><p>今後, 政府の避難指示解除による「『強制避難者』の『自主避難者』化」 (除本2013) が加速する. 社会的制約を受けながら行われた自主避難も, 個人的選択の結果であるとみなす社会規範のもとで自己責任の問題として受け止められてしまう. こうした被害の個人化に陥らないためにも, 「広義の被害」の視座が自主避難者当人の「被害非認識」や「被害の潜在化」による被害の矮小化, 加害者側の「被害放置」を防ぐ手立てとなる.</p>
著者
中 久郎
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.20, no.1, pp.52-72, 1969-07-30 (Released:2010-02-19)
参考文献数
12
著者
木下 半治
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.29-43, 1951-05-20 (Released:2009-11-11)